清 末 小 説 家 の 落 魄 伝 説
その1 呉熕lの場合


樽 本 照 雄



 落魄は、零落、凋落などと言い換えても同じだ。その言葉が持つ「落ちぶれる」という意味とそれから連想される貧困、貧窮が、晩年の清末小説家にあてはめられる例がある。生前は華やかな生活を送っていながら、死亡する時には落ちぶれはてていた、というのである。呉熕lの場合、現在、落魄説は定着しているといえるだろう。


T 落魄する呉熕l1

 呉熕lが上海で死亡したのは、宣統二年九月十九日(1910年10月21日)のことであった。死去前後の模様を、研究者はどのように描いているのか。最近の文章から摘出してみよう。

T-A 陶継明説(1991年)
 彼(呉熕l)は、文筆の所得で生活していたが、生活は苦しく、いつも手元不如意であった。生活は貧しく仕事の過労により宣統二年(1910)呉熕lは上海で逝去した。年はわずかに45歳、亡くなった時、ふところには小銀貨(小洋)がわずかに4角あっただけで、友人により葬儀が行なわれた*1。

 45歳というのは数え年で、満年齢でいえば44歳である。「小銀貨4角」というこまかい数字がまるで見てきたように書かれている。
 別の文章では、次のように述べられる。

T-B 崔美明説(1989年)
 呉熕lの晩年は、窮乏と零落のなかにすごされた。彼は性格が豪快でさわやか、義侠心を重んじ財物を軽んじた。著作ははなはだ多く、原稿報酬がすこぶる豊富とはいえ、「引き受けたことには責任を持ち、人の危難を救うことができる」ため、「売文の収入は、入手するとただちになくなった」。呉熕lの友人の間では次のような話が伝わっている。呉熕lにはある友人がおり、銀貨200元を呉熕lから借りていた。臨終のまえ、呉熕lを病床にまねき、あの大金を返却しようがないと涙ながらに訴え、許しをこうのだ。呉熕lはそれを聞くと、借用書をベッドのまえで焼き捨て、さらになけなしの20元を友人の薬代として援助した。帰宅後、彼の妻は家に食糧がないことを告げたが、呉熕lはニッコリしただけであった。このことは美談(原文も同じ)としてしばらく伝えられた*2。

 原稿料が多いといいながら、呉熕lの家に食糧がないほど窮乏していた原因が、呉熕lの「人の危難を救う」「義侠心を重んじ」る性格だというのだ。


U 借用書焼却「美談」の謎

 「美談」という言葉が使われている。家族を犠牲にしてまで友人を重んじる、借用書を焼き捨てる、というのがいかにも「美談」らしい。
 一見、ありそうな話である。家庭の犠牲のうえに成り立つ義侠心など、インチキである、と私が言えるのは、現代日本に住んでいるためであり参考にはならない。しかし、この「美談」は、よく考えてみると矛盾だらけだ。
 まず200元である。友人に貸した200元というのは、当時としては大金であった。1909年上海における3世帯の家計が公表されている。ある店員夫婦の収入は15元、ある教員一家は40元、ある役人一家は140元の収入だ。平均月収は、60-65元と考えられる*3。これに比較すると200元がいかに大金であるかが想像できるだろう。その大金を何の理由で友人に貸したのか、説明はない。
 また、不思議なのが借用書だ。私から見れば、友人に金を貸して借用書を取るのは不自然に感じる。呉熕lが借用書を要求したとしたら、「義侠心を重んじ」る人間が取る行為ではなさそうな気がする。それとも友人が無理矢理借用書を書いて置いていったのか。借用書の存在は、その「友人」が本当の友人ではなかったことを証明しているのではないかと思ったりもする。
 この矛盾には目をつむり、借用書があったとして、では、呉熕lは友人の臨終の場にその借用書を持参してなにをするつもりだったのだろう。死際の友人に借用書をつきつけ返却をもとめる考えだったのか。それでは「義侠心を重んじ」た呉熕lらしくない。借金を帳消しにするため、呉熕lは友人の臨終の床に行ったとしよう。それならば、病人が借金返済不能を訴える前に、帳消しをなぜ宣言しないのか。友人が涙ながらに許しをこうまで知らん顔をしていたことになる。これでは友人の立場がないではないか。
 豊富な原稿報酬がなくなるほど多くの人の危機を救ったとしよう。呉熕lの義侠心は讃えられるとして、危機を救われた多くの友人は、生前の呉熕lにおかえしをしなかったのか。友達がいのない人たちだ。
 借用書焼却の「美談」は、このように矛盾に満ちている。とすれば、呉熕lを美化するために「美談」を捏造したのではないかという想像にたどりつくのが自然であろう。
 呉熕lの窮乏を説明する根拠となった「美談」があやしくなってくると、必然的に、落魄説が揺らぎはじめる。
 落魄の模様を描いた文章をもうすこし紹介したい。


V 落魄する呉熕l2

V-A 黄鈞説(1987年)
 宣統二年九月十九日(1910年10月21日)、彼(呉熕l)は、喘息により上海で死去した。享年44歳。平素、引き受けたことには責任を持ち、人の危難を救うことができるため、売文の収入は、入手するとただちになくなった。ゆえに死亡した時ポケットにはわずかに小銀貨4角があるだけで、暮らし向きは寂しく、納棺をすることもかなわず、友人が金を出しあい代わりに葬式を行なった*4。

 カッコは使用していないが崔美明説と語句が一致するところがあるのに気がつく。同じ資料に拠っていることを示している。典拠については後述することにしたい。ここでも小銀貨4角しか所持していないことが言われる。家が貧乏で葬式を出す金さえない、といいたいのだ。
 もうひとつにたような文章をあげておこう。

V-B 王俊年説(1980年)
 呉熕lが死去したその日、身辺にはふたつの銀貨があるだけで、納棺をすることもかなわず、杜という友人に全面的に頼り、葬式を切り盛りしてもらった*5。

 王俊年説では、「ふたつの銀貨」と書かれている。小銀貨4角とは異なるように思われるかもしれないが、実は同じである。当時、20セントの銀貨が多く流通していた*6から、20セント銀貨ふたつならば、4角とかわらない。
 小銀貨4角が、決まりのように出ているところに注目されたい。


W 小銀貨4角の謎

 小銀貨4角が落魄、極貧の象徴となっている。小銭しかないのに、ましてや大金があるはずがない、といわんばかりだ。さらに不可思議なのは、ふところあるいはポケットに小銀貨4角しかなかったという書き方である。これでは、呉熕lがまるで極貧にして、しかも行き倒れになったかのような印象を受けるではないか。ああ、小説家の末路は悲惨なものだ、と連想するように書かれている。
 しかし、事実はこうなのだ。
 宣統二年九月十九日(1910.10.21)、呉熕lは、「乍浦路多寿里より海寧路鴻安里の新居に移転した。午前中に移ったあと、親戚友人が祝いにあいついで集まり、呉熕lは、席上、酒を飲み談笑しおおいに楽しんだ。しかし、この移転でとても疲れたのである。夜の宴会がお開きになったあと、はやく休むよう妻が勧めたが、思いもよらず床につくと喘息の発作をおこし、医者をよんで急いで治療してもらったが、すでにききめがなくなっていた」*7。
 呉熕lは、新居で急死している。小銀貨4角が暗示するような行き倒れなどでは決してない。新居に移転する金銭的余裕があったことがわかるし、親戚友人との宴会も、呉熕lが落魄していたり、貧窮していたことを否定するに十分である。
 小銀貨4角の矛盾にさすがに気がついたか、前述の崔美明は、借用書焼却「美談」は紹介するが、呉熕lが小銀貨4角しか所持していなかったという箇所は引用していない。
 呉熕lの性格にしても、小銀貨4角にしても、多くの文章が似かよった表現で埋められていることに気がつくだろう。かさねていうが、典拠となる文章が限定されていることを示している。
 上では、現在から1980年へと文章を逆に溯ったが、次は、呉熕lの死去から順に書かれた記述を追ってみよう。


X 呉熕lの死亡ニュース(1910年)

 呉熕lの死去より一週間後の宣統二年九月二十六日(1910年10月28日)付『民立報』に「小説家逝世」と題した呉熕l死亡の報道がなされた。めずらしい資料だから、関係部分を引用翻訳する。

 上海にいること二十余年、各新聞の記者を勤める。重々しい論調、きたんのない正論は、滑稽な言葉の受け入れやすいのに及ばないと思いいたり、小説に力を注ぎ、知恵をしぼり想を練り、心血をそそいで数十種の本を書いた。また、広志学校を創設、上海在住の同郷の子弟を養成しようと、人知れぬ苦労をし、困難に耐え、これを維持した。数年来、人材は多く育ったが、氏の精神力体力ともに極度に疲労した。ぜんそくをわずらい、長らく治療したが効なく、ついに九月十九日真夜中に逝去。年はわずかに四十八。君の交遊は天下に遍き、ふ報を聞いて涙を流し、哀悼しないものはいなかった*8。

 学校経営のために精神体力とも消耗した、とは報じられている。しかし、呉熕lが経済的に逼迫した状態にあったとはどこにも書かれていない。ましてや借用書焼却、小銀貨4角など出てきていない点にも注目してほしい。なお、文中にいう享年「四十八」は、「四十五」の誤りであろう。


Y 李葭栄「我仏山人伝」(1910年)

 呉熕lの死後すぐに書かれたもうひと
つが、李葭栄(懐霜)「我仏山人伝」*9である。友人の筆になるこの追悼文には、呉熕lの死亡当時の模様が、

 亡くなった時、家には余っている財産(餘財)はなかった。杜君が葬儀をおこない、旧友がそれぞれ香典をもってやってきた。

とあっさりと書かれているだけだ。ここにも、借用書焼却の「美談」もなければ小銀貨4角にも触れられていない。かろうじて「家には余っている財産(餘財)はなかった」という箇所に目がいくが、これとて落ちぶれはてるという情況をいっているのではない。追悼文であるからあまりひどいことは書かれないはずだ、という見方もあるかもしれないが、落魄、零落、貧困、貧窮などを暗示する部分は存在しない。
 また、呉熕lが酒を好み、「酒を食糧とし、ある時は一ヵ月以上も食さないことがあった。君が命を落とすことになったのは、これが原因でなかったとはいえない*10」、と李葭栄は書いている。ここからは、呉熕lが酒を愛していたことがわかるだけだ。志を得ず鬱鬱としていたから酒に溺れ、身上をつぶした、というわけではない。賭博、アヘン中毒ならばいざしらず、自宅で酒を飲むくらいで困窮するとは考えられないではないか。。
 呉熕lは、原稿料をもらうと宴会をひらくなどして浪費をしていたのではないか、という人がいるかもしれない。よくご存知ですね。呉熕lの友人・周桂笙が記録している薬屋の宣伝文である。


Z 「還我魂霊記」をめぐって

 上海中法大薬房が発売した「イェール精神興奮剤(艾羅補脳汁)」の宣伝文「還我魂霊記」779字に対して、呉熕lは、300元を受け取ったという*11。当時の原稿料は、最高の等級でも千字につき6元だ*12。千字に満たぬ原稿に、当時の相場の50倍もの原稿料を得るなど、尋常ではない。特別なことだからこそ、呉熕lはそれで老母の長寿を祝い、宴会を開いて酒盃をあげ、名士はことごとく集まったのだ。周桂笙が、『新蝠M記』にそのことを書きとどめたのは、よほどめずらしい事柄であったためだと考えられる。原稿料が入ったらいつも宴会をもよおしていた、というわけではあるまい。
 呉熕lの友人・李葭栄、周桂笙の文章には、どこにも呉熕lが落ちぶれはてていた、すなわち落魄、窮乏を暗示するものなどは書かれていないのだ。呉熕lが書いた多くの作品の印税について同時代の誰も何も言ってはいない。しかし、印税の存在を考えるだけで、落魄説が不自然であることに気がつくはずである。
 では、いつから、また、どこから呉熕l落魄説が出てくるようになったのか。元となった資料は特定できるのか。
 いよいよ事の核心である。


[ 呉熕l落魄説の源流

 呉熕lの死去から数えて6年後、雑誌『中華小説界』第3巻第6期(1916.6.1)の余白に埋草として「呉熕l事略」*13が書かれた。無署名である。
 「呉熕l氏は、南海の名門の子弟である」とはじまるこの短文は、「恨海」などの著作が人気を博したことを紹介したあとで、呉熕lの性格を「引き受けたことには責任を持ち、人の危難を救うことができる。売文の収入は、入手するとただちになくなった」とつづる。多くの研究者が引用しているのが、この語句にほかならない。この部分は、次につづく借用書焼却「美談」の導入部となっている。つまり、200元もの借金を許すほど呉熕lは友人思いの性格だという前提が必要であったのだ。
 李葭栄が「我仏山人伝」のなかで触れる呉熕lの性格は、「人柄は温和で親しみやすい」「生まれつき活力にあふれ、感激するとおうおうにして奮い立った」「友情を重んじ、世におもねることができ」ないというものだ。「呉熕l事略」の筆者は、李葭栄のいう「友情を重んじ」をもとにして、想像力の羽根をのばした。友人には簡単に借金を許し、その結果、収入も右から左へ素通りして貧乏暮し、それでも借金を棒引きにする呉熕lの「美談」になるのである。
 そればかりではない。羽根はますますはばたく。李葭栄が書いた呉熕lの酒好きをふまえて、「呉熕l事略」の筆者は、
「鬱鬱として志を得ず、酒に溺れた」ことにし、最後は、酔ったあげくに自宅の寝台で死亡、「ポケットを調べると、わずかに小銀貨4角があっただけ」で、落ちぶれはてたことを暗示する。見てきたようなこの「小銀貨4角」の出所は、まさにこの「呉熕l事略」なのである。
 借用書焼却「美談」が矛盾に満ちていることはすでに明らかにした。小銀貨4角にしても、矛盾だらけでとても事実とは思えない。
 結局のところ、「呉熕l事略」の筆者は、呉熕lが友情に厚いところを強調したいがために借用書焼却「美談」を捏造し、その延長上に、呉熕lが貧乏で酒浸りの極貧という落魄説を根拠もなく提出した、といわざるをえない。


\ 呉熕l落魄説の流布

 『中華小説界』第3巻第6期に掲載された無署名「呉熕l事略」は、『小説月報』第8巻第1号(1917.1.25)に「書呉熕l」と改題され、「談屑」欄に再掲載された。該号目次に杜階平著と見え、作者が明らかにされている。
 わずかな語句の違いはあるが、『中華小説界』の「呉熕l事略」とほぼ同文である。
 呉熕lの晩年について記述する文章は、ほとんど李葭栄「我仏山人伝」か無署名「呉熕l事略」(杜階平「書呉熕l」)の文章を根拠とする。一方だけの引用であったり、両者からの引き写しだったりするのだ。私に言わせれば、李葭栄「我仏山人伝」によるならばまだ信頼性は高い。しかし、無署名「呉熕l事略」(杜階平「書呉熕l」)は信頼することはできない。ゆえに無批判に引用してはならない。
 落魄する呉熕lを描写するふたつの例を掲げて締めくくることにする。


] 落魄する呉熕l3

]-A 徐枕亜説(1922年)
 呉熕l氏は、上海において文名にすぐれ、さっぱりとして小事にこだわらず束縛されず、おもしろおかしく世間をもてあそび、アヘンを非常に好み、売文で金が手に入ればそのつど空になり、ゆえに懐具合は常に寂しかった。友人数人が、いつも出資援助したが、呉は礼をのべることを知らず、また返済するとも言わない。その人となりは類がなく、「儒林外史」を著わした呉敬梓と「二十年目睹之怪現状」は、文章がそれほど負けているというわけではない。両人ともに困窮のうちに死去し、あげくのはても同じであった*14。

 呉熕lがアヘンを好んだことはないということ*15を知れば、この文章そのものが成立しがたいことがわかる。さらに、呉熕lが、友人に借金したおしていたというのは、無署名「呉熕l事略」(杜階平「書呉熕l」)の借用書焼却「美談」と正反対であり、同じく信用できない。
 最後の引用である。

]-B 許嘯天説(1926年)
 この「恨海」を読んで、私はただちに私の古い友人・呉熕l氏を思いだした。彼は、道徳が完全で交情の親密な正義の人であった。しかし、彼の死後、寝台には銀貨4枚が残っているだけで、本当に「死後、その家が窮迫した」ということができる。このように上品な人物には、あのような結末があってはならないようだが、しかし、人間の欲望があふれて流れ、あらゆる悪が存在する社会にあって、正直な君子は社会に容れられず、失意の末路に終るのは当たり前である*16。

 以上につづけて、許嘯天は、例の借用書焼却「美談」を披露する。銀貨4枚(4角のことだろう)とともに、それらの出典が無署名「呉熕l事略」(杜階平「書呉熕l」)であることは、いまさら指摘するまでもない。呉熕lを古い友人とする人物にしてこのありさまである。呉熕l落魄説は根強いと言わざるをえない。


]T 落魄願望

 呉熕l落魄説が語り継がれてきたその背景を考えると、当時から現在までの読者(作家、研究者)が小説家を見る心理の底に、小説家は、落魄するものである、いや、落ちぶれはてて当然である、いっそのこと極貧のなかでみじめに死んでほしい、名声と富を得たまま死んでしまっては気がすまぬ、といった意識が渦巻いていたのではないかと想像する。仮に読者の落魄願望としておく。
 私が、なぜそう考えるかというと、ほとんどでたらめな「呉熕l事略」(杜階平「書呉熕l」)の記述が、くりかえしくりかえし多くの読者に引用されてきているからだ。その結果、読者自身が呉熕l落魄説の伝説化に加担してしまったということができるだろう。
 落魄願望が読者の意識になければ、落魄説そのものに対して疑問を提出する人が出てきてもいい*17。ところが、無署名「呉熕l事略」(杜階平「書呉熕l」)が発表されて80年近くが経過しているにもかかわらず、これを疑う人物がひとりとしていなかった。この事実は、私の推測が当っていることを証明する。


【注】
1)陶継明「李伯元、呉熕l、曾樸」 張志高主編『海上名人録』上海画報出版社1991.8。112頁。
2)崔美明「滑稽才子呉熕l」楊浩・葉覧主編『旧上海風雲人物』上海人民出版社1989.11。122-123頁。
3)樽本「清末民初作家の原稿料」『清末小説から』第15号1989.10.1。樽本『清末小説論集』法律文化社1992.2.20。
4)黄鈞「呉沃尭」 林増平、李文海主編『清代人物伝稿』下編第3巻 瀋陽・遼寧人民出版社1987.7。363頁。
5)王俊年「呉熕l」徐公恃等編写『中国文学家的故事』(二)北京・中国少年児童出版社1980.12。177頁。
6)外務省通商局編纂『清国事情』第1輯1907.9.5
7)魏紹昌編『呉熕l研究資料』上海古籍出版社1980.4。7頁。
8)顔廷亮著・沢本香子訳「新しく発見された呉熕lの作品」『清末小説から』第7号1987.10.1
9)李葭栄「我仏山人伝」『天鐸報』宣統二年(1910)十月初出未見。胡寄塵編『虞初近志』上海・広益書局1913.8。巻六30-36頁。魏紹昌編『呉熕l研究資料』10-15頁所収。
【参考資料】
中島利郎「李葭栄「我仏山人伝」訳注――附 呉熕l年譜稿・呉熕l世系表――」大谷大学『文芸論叢』第20号1983.3.30。37-53頁。
10)本文の「酒を食糧とし(以酒為糧)」という関係部分は、徐珂『清稗類鈔』(上海・商務印書館1917.11初版未見。1918.4三版)の第26冊「容止」に「呉熕l短視」と題して収録されている。
11)周桂笙『新蝠M記』上海・古今図書局1914.8(奥付は、新菴筆記)。【参考資料】
樽本「呉熕l『還我魂霊記』の発見」『大阪経大論集』第133号1980.1.18。樽本『清末小説閑談』(法律文化社1983.9.20)所収。
魏紹昌「“芋香印譜”和《還我魂霊記》」『斉魯学刊』1980年第1期(総34期)1980.1.25。『浦江漫筆』(江蘇人民出版社1982.5)所収。
『呉熕l研究資料』330-332頁。
魏紹昌「魚雁情」『清末小説』第14号1991.12.1。
12)注3に同じ。
13)「呉熕l事略」の記事が、徐珂『清稗類鈔』(上海・商務印書館1917.11初版未見。1918.4三版)に分割収録されている。
第21冊義侠(下)に「呉熕l焚巻」と題して収録。
第47冊飲食(上)に「呉熕l縦酒自放」と題して収録。ただし、「死時年四十有四。検其衣嚢。僅余小洋四角云」部分は、省略してある。
【メモ】
謝菊曽「涵芬楼往事」に「徐珂与雑簒部」がある(『随筆』第8集1930.6。119-120頁)。謝菊曽が商務印書館に入館したころ、徐珂は編訳所で雑簒部の部長をしていた。雑簒部の道具は、ノリとハサミで、新聞、雑誌および『政府広報』などから切り抜きをつくることだ。それらはすべて「清稗類鈔」の材料なのである、という意味のことを述べている。
14)徐枕亜『枕亜浪墨』3集1922.10初出未見。『呉熕l研究資料』24頁。
15)『呉熕l研究資料』24-25頁
16)許嘯天「読恨海」『嘯天読書記』上海・大仁書店1926.7。『呉熕l研究資料』28頁は、《評<恨海>》に誤る。許嘯天(1886-1948)については、橋川時雄『中国文化界人物総艦』(北京・中華法令編印館1940.10.25初版。名著普及会復刻1982.3.20。527頁)の許家恩の項目に紹介がある。【参照】
藤田正典『現代中国人物別称総覧』
汲古書店1986.3。56頁。
17)葉易が「譴責小説的大家呉熕l」(『文史知識』総第16期 1982.10.13。99頁)において、呉熕lにまつわる数々の伝説について不信の態度を表明している。ただし、死去前後の落魄説について否定しているわけではない。