清 末 小 説 家 の 落 魄 伝 説
その2 李伯元の場合


樽 本 照 雄



 李伯元の場合は、見方によれば呉熕lよりもさらにひどい扱われかたがなされている。ありもしない借金を背負わされるわ、品行が悪いと批難されるわ、小説家として侮辱を受けるわ、それも年を経るにしたがってその程度がひどくなっているのだ。
 まず呉熕lの追悼文からはじめよう。


T 呉熕lの追悼文(1906年)
 李伯元は、光緒三十二年三月十四日(1906.4.7)、上海で死去した。享年数えで四十。死因は、肺病という*1。

 李伯元の死去から九ヵ月後、『月月小説』第1年第3号(光緒三十二年十一月望日<1906.12.30>)には、「中国近代小説家李君伯元」と書かれた肖像写真が掲げられ、その裏面には呉熕lの手になる追悼文が発表された*2。李伯元が死去したのが三月で、呉熕lの追悼文が十一月というのは時間がかかりすぎていると思う。当時の新聞などに李伯元死去の報道がなされているのではないかと想像するが、発見されていない。現在のところ、この『月月小説』掲載の文章がいちばん早いということになっている。
 呉熕lがのべる李伯元についての評価は、こうだ。

 世の中のすべてに憤慨し、ゆえに年わずかに四十にして鬱鬱として死亡した。ああ、君の才能は必ずしも小説によって伝わらなくてもいいものを、結局のところ小説で伝わった。君にとっては不幸だろうが、小説界にとっては大いなる幸せである。

 小説家李伯元にたいする呉熕lの絶賛である。前述部分とあわせてここには、李伯元の暮らし向き、経済情況などについての言及はない。


U 落魄する李伯元1

 役者であった孫菊仙の逸聞が、『春声』第2集(丙辰二月一日<1916.3.4>)に載った。呉熕lが公表した李伯元追悼の文章より約10年後のことである。該文には李伯元に言及する部分がある。

U-A 孫菊仙援助説(1916年)
 李伯元が、『(世界)繁華報』を主宰していた時、孫菊仙ともっとも親しかった。李伯元が危篤であることを聞くと、孫菊仙は食事をしてもおいしく感ぜず、落ち着いて寝ていられなかった。日に三、四度ベッドの前を訪ね、臨終の際は手をとり見つめあうと涙は泉のように湧きでるのだ。ようやく苦痛を忍び「ご安心ください。あとのことは私が案配いたします」というと、言葉が終らぬうちに慟哭するも声がでない。泣きながら紙入れより銀兌換紙幣三千元をとりだして置き、涙をこらえて震え声でいった。「千元であなたの葬儀と埋葬を行ないます。二千元はあなたの家族の扶養費に当てます」言いおわると泣きやまない。死後、自ら葬儀を代行し、そのひつぎと家族を故郷に返し、すべて決まり通りであった。李伯元の親族は、弔い、食事をしたにすぎなかった*3。

 李伯元の親友孫菊仙が葬儀をとりしきった、というのはいわば「美談」であろう。その「美談」がなぜ呉熕lの追悼文に書かれなかったのか不思議だ。李伯元の死後約10年たって公表された孫菊仙の「美談」は、その存在自体があやしい。伝聞というのが、もっとあやしい。
 孫菊仙の援助は、実際のところ存在しなかった、という証拠がないので、一応あったものとしておく。
 この文章は、孫菊仙の人となりを賞賛するものであることを忘れてはならない。親友のために私財を投げだし、その葬儀まで代行したというわけである。友人を大切にする孫菊仙が賛美されるように書かれているのだ。孫菊仙の友情と李伯元の遺族の経済情況は、本来、無関係のはずである。千元の葬儀費用と二千元の扶養費は、孫菊仙の李伯元を思う気持ちの具体的表現であり、そこから李伯元の窮乏には直接結びつかない。普通に読めば、うえの文章には、李伯元の経済状態についての言及はないことに気がつくはずだ。
 そもそも逸話には、誇張がつきものである。孫菊仙を持ち上げるためには、落としめられる存在がなければ際立たない。この場合、落としめられたのは、不幸なことに李伯元のほうだった。
 呉熕lの葬儀も彼の友人がとり行なった。呉熕l、李伯元両者ともに遺族に葬儀を行なう経済的能力がなかったように読める。孫菊仙と李伯元の友情を強調するための葬儀代行が、李伯元の経済情況の悪さに読み間違えられる可能性をはらんでいた。李伯元の落魄伝説が生まれる土壌がひそかに形成されたといえるだろう。
 1910年代より胡適は、洪都百錬生(劉鉄雲)、南亭亭長(李伯元)らについて調査をはじめている。胡適は、筆名でしか知られていない小説家の身元割りだしから着手するなど、清末の小説家研究に大いに貢献した。上海・亜東図書館発行『老残遊記』(1925)、『官場現形記』(1927)がその成果である。
 胡適が採用した方法は、各方面に関係者の証言を求めることだったらしい。胡適の依頼により顧頡剛が李伯元の事跡を調査したものが「官場現形記之作者」である。

U-B 顧頡剛説(1924年)――李伯元落   魄説の源流
 宝嘉(李伯元)の死後、家ははなはだ貧しく生計の道なく、「官場現形記」の版権を譲ることにより数千元の金を得て、ようやく持ちこたえることができた*4。

 李伯元の親戚からの証言で注目されるのは、李伯元の死後、18年目にしてはじめて家が貧しいという表現が出現することだ。死後のことだが、これも李伯元の落魄説のうちに数えておこう。
 孫菊仙援助説それ自身がはらんでいた李伯元落魄説の出現の可能性が、親族によって現実のものとされてしまったといえよう。
 しかし、上の証言で理解しにくいのは、「官場現形記」の版権が数千元になったとのみ述べてあるだけで、その他の作品の原稿料について言及がない点である。「官場現形記」のほかに南亭亭長名義の作品は多い。「庚子国変弾詞」「文明小史」「活地獄」「中国現在記」などなど、長編小説がならんでいる。これらの作品でも原稿料は相当なものになったはずだ。李伯元のまわりからは、もともと落魄、貧困の雰囲気はただよってこない。李伯元死後18年にして始めて家の貧しさをのべる顧頡剛説は、大いにあやしい。
 親戚の話が出たついでに、時代は下るが李伯元の同族という李錫奇の証言を見ておこう。

U-C 李錫奇説(1957年)
 李錫奇は、李伯元が死去した時17歳だったという。李伯元の生前と死後のことについて詳しいと自らがいっている。その証言を冷静に読めば、李伯元が経済的に窮乏していたとは書いていないことに気がつく。
 新しい事実として李錫奇が明らかにしたのは、『世界繁華報』の経営をめぐるイザコザと「官場現形記」の版権問題である。
 独立経営されていた『世界繁華報』の存続をめぐり、李伯元の同族と欧陽鉅源とが対立したことがあった。その調停を依頼された孫菊仙は、新聞の経営権を売り渡し、欧陽鉅源に編集事務を委託することにし、一方の「官場現形記」問題は、原本と版権を三千元で書館に買収してもらうことで解決した*5。
 『世界繁華報』に関してイザコザが発生したということは、とりもなおさず『世界繁華報』が利益を生みだしていたことを証明しているにほかならない。もし赤字経営であったなら、遺族と欧陽鉅源が該紙の奪いあいを演ずるはずがないからだ。李錫奇の説明からも李伯元落魄説は出てきようがない。顧頡剛説では「数千元」であった「官場現形記」の版権は、李錫奇によるといつのまにか「三千元」になっている。
 1920年代の証言にもどる。

U-D 孫玉声説(1925年)
 まもなく李伯元は病気で億里の寓居でなくなった。時にまだ四十にみたず、才能あふれて命短し、はなはだ悲しむべきことである*6。

 李伯元の友人である孫玉声の記述にも、経済的に落魄したとは書かれていないことに注目してほしい。
 つぎは顧頡剛に調査を依頼していた胡適自身の文章を見てみよう。

U-E 胡適説(1927年)
 李宝嘉が死去した時、わずかに四十歳であった。息子はおらず、死後、その家は窮迫した(原文:身後也很蕭條)。当時、南方戯劇界で有名であった役者・孫菊仙は、李伯元と懇意でお金を出して葬儀を切り盛りした*7。

 胡適がこう書くのも無理もない。顧頡剛説で見たように親族からの証言があったのを根拠としているからだ。それに加えて孫菊仙の美談が、李伯元落魄説に拍車をかけたと思われる。
 その一方で、まったく無責任な文章も出てくる。


V 小説家をめぐる意識

V-A 小説を書いた報い

 無責任な文章とは、憶測で書かれたという意味だ。

 ……君には息子がいなかった。半生の間志を得ずに過し、死後、子孫がいないのは小説を書いた報いであるという*8。

 これがまったくのデタラメであることをいうのは簡単である。こどもがいなかったことと小説を書いたことは、なんの関係もない。デタラメだからこそ書いた人物の意識がむきだしになっていることがわかる。こどもがいない原因を小説に求めたところにこそ、小説家を見る当時の読者の意識が表出しているといえるのだ。読者側の小説家に対する落魄願望についてすでに述べたが、上の文章など、その典型的な例である。言葉をかえれば、小説家を侮辱しているのである。

V-B 道徳的「堕落」
 李伯元と同時代を生きた人々のなかには、彼のことをよくいわない人がいたのは事実であるらしい。欧陽鉅源から李伯元を紹介してもらった包天笑が証言している。

 当時、私がつきあっていた友人たちのうち、年齢、知識ともに私より高い人はみな李伯元のことをバカにしており、文筆が巧みでも(道徳的な)品行が悪い(原文:文人無行)、といって多くの事例をあげて証拠とした*9。

 「(道徳的な)品行が悪い」の具体的な説明はない。想像するに花柳界に入り浸っていることを言うのであろう。いかにも俗耳に入りやすい。中華人民共和国成立以降、その種の行為が、研究界においても嫌悪されたであろうことは容易に理解できる。しかし、李伯元は、小新聞『游戯報』のち『世界繁華報』をそれぞれ創刊経営する人であることを忘れてはならない。花柳界を取材源にしている人物が、当の花柳界に入り浸っているのは当然のことだ。あえて言うほどのことでもない。李伯元の行為は、非難されるものでないことは明らかだろう。

V-C 自己意識
 現在だからこそ、日本だからこそ、李伯元を弁護できるのだが、しかし、当時は、小説家自身にも小説を書いていることについて自ら卑下するところがなかったわけではない。たとえば、包天笑は次のように述べている。

 以上の四人は、小説を発表する時、本当の姓名を使おうとはしなかった。李伯元は南亭亭長、呉熕lは我仏山人、劉鉄雲は洪都百錬生、曾孟樸は東亜病夫である。当時の気風では、小説はつまらないもので上品な場所に出せるものではないと考えられていたから、本当の姓名を使う必要はなかったのだ*10。

 筆名を使用するのも意識の表われであろう。
 小説家と読者のそれぞれの見方を短文で簡潔に書いているのは、呉熕lである。本文冒頭に掲げた追悼文だ。「ああ、君の才能は必ずしも小説によって伝わらなくてもいいものを、結局のところ小説で伝わった。君にとっては不幸だろうが、小説界にとっては大いなる幸せである」という部分が該当する。李伯元の才能が小説に花咲いたことを「君にとっては不幸だろう」と表現しているところに、当時の社会の小説に対する意識(この場合は侮蔑)を表出させている。同時に「小説界にとっては大いなる幸せである」と述べて、小説界に身を置いた呉熕l自身の意識(この場合は誇り)を凝縮して込めているのだ。
 小説家が軽視される時代にあっては、資料のこじつけも簡単に行なわれる。驚いたことに、呉熕lの例のあやしい「美談」である借用書焼却事件の当事者が、李伯元だと特定するものが出てくるのだ。

V-D 借用書焼却「美談」の強引な適用

 呉熕lが友人に二百元を貸していたが、友人が臨終の席で返還できないことを涙ながらに訴えると、呉熕lは借用書をベッドの前で焼き捨てた、という例の「美談」である。この怪しげな「美談」に登場する呉熕lの友人こそ李伯元であるとする文章があるという。
 陳子展『小朋友文壇逸話』(上海・北新書局1931.9未見。『資料』7-8頁による)の下冊に「呉熕l焚借券」と題する部分がある。そのなかで「彼(注:呉熕l)に友人がひとりおり(『官場現形記』を書いた李伯元という)、呉熕lに銀貨二百元を借りていた……」と書かれている。
 呉熕lから二百元を借金した友人が李伯元であるとは、どこから出てきたものなのか。呉熕lの落魄した友人→葬式も友人が主宰するほど窮迫していた李伯元→呉熕lの友人・李伯元→呉熕lから借金をした李伯元、という安易な想像、こじつけでしかない。重ねていうが、呉熕lの借用書焼却事件の友人を李伯元とするのは、まったくのデタラメでしかない。
 考えるに、その憶測が出現するのは、李伯元は落魄していたという誤解があったからだ。誤解の流布に、顧頡剛と胡適のはたした役割は小さくない。


W 落魄する李伯元2

 事実ではないのに、李伯元の落魄伝説は、くりかえし引用され伝えられて現在にいたっている。以下にいくつかを紹介するが、すべて大同小異であることに気がつくだろう。

W-A 王俊年説(1980年)
 李伯元は生前にこどもがいなかった。死去した時、家には一文の金もなく、妻、妾の両寡婦と年老いて病気がちな母親が残されただけだった。彼の友人・孫菊仙の援助によりようやく葬儀をとりおこなうと、彼の棺を常州に運び清涼寺の附近に埋葬をした*11。

 孫菊仙の葬儀代行が、「家には一文の金もなく」に拡大解釈されている。

W-B 黄鈞説(1987年)
 (李伯元は)光緒三十二年三月十四日(1906年4月7日)、上海で病死した。享年四十。死後、その家は窮迫し、葬儀を行なう人がいない。生前の親友であった京劇の著名な役者・孫菊仙が金を出し葬儀を切り盛りした*12。

 孫菊仙援助説が、きまりのように引用される。

W-C 裴效維説(1989年)
 特別に指摘しなければならないのは、李伯元は後半生、貧困にして零落し、彼の死後の葬儀費用すら役者・孫菊仙が贈ったものである*13。

 裴效維がなにをもって「李伯元は後半生、貧困にして零落し」というのか説明はない。「(李伯元の)死後、家は窮迫し」ていたにすぎない(これも憶測)ところから一歩ふみだして、「後半生」までも「貧困にして零落し」ていたことにしてしまった。根拠のない憶測である。

W-D 崔美明説(1989年)
 李伯元が逝去した時、生活は苦しく、家は窮迫した。死後のことは彼の親友である京劇の名役者・孫菊仙が主宰するのに頼ったのだ。孫菊仙は、代表となり『(世界)繁華報』館の事務を調停し、『官場現形記』の版権と原本に三千元の値をつけ売りだし、李伯元の家族と棺を落ち着けたのである*14。

 逸話の多くを盛り込み、研究のあとがうかがわれる。しかし、李伯元落魄説に関しては、裴效維説を踏襲しているにすぎない。

W-E 陶継明説(1991年)
 彼は著名な作家ではあったが、経済的にはしばしばひどく苦しい情況にあった。ある年の大晦日、借金取りがぞくぞくとおしかけ、彼はある茶館に「避難」せざるをえなかった。仕事が重なったことと生活の困窮により彼は重い肺病をわずらい、病を抱えて創作をつづけたのだった。光緒三十二年(1906年)、肺病が悪化し、上海にて逝去、歳はわずかに40歳である*15。

 借金取りを避けて茶館に避難した、という佚聞の出処は、鄭逸梅「南亭亭長之与安髄諱v(1932年)*16である。鄭逸梅は、あいにくと典拠資料を明示していないので確認のしようがない。当時、そういう伝聞があったのであろう。鄭逸梅は、「ある年、(李)伯元は大いに困窮し、大晦日に……」と述べるだけで、それが恒常的なものであるとはひとことも書いていない。それはそうだろう。偶発的なものだったからこそ逸話となるのだ。ところが、陶継明の手にかかると「経済的にはしばしばひどく苦しい情況にあった」と拡大解釈されるのである。


X 李伯元落魄説の拡大再生産

 李伯元落魄説の発生とその展開をさぐっていくと、結局のところ孫菊仙が李伯元の葬儀を代行したという逸話に端を発するものであることが判明する。はじめのころは、わずかに李伯元死後の貧乏であったものが、生前も窮乏していたことになり、いつのまにやら呉熕lから二百元を借金したことにされてしまう。
 資料そのものの信憑性を検証することなく、李伯元に言及する文章があればほとんど手あたり次第に採用し、それらのつじつまあわせをしてきた。憶測にもとづいて落魄した李伯元という幻想を構築してきたのがこれまでの研究の実態である。
 呉熕lの場合と同様に、李伯元についても、根拠のない落魄説の拡大再生産が、現在まで80年近くもつづけられてきたと指摘せざるをえない。私は、これを清末小説家の落魄伝説と名付ける。



【注】
1)魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。7頁の「注17」による。以下、『資料』と略す。なお、李伯元の死去月日を『資料』の注3(4頁)では、「光緒三十二年丙午三月十四日、即公元1906年4月9日」とするが、4月7日の誤り。過去、私は、この事実を指摘したことがある。
2)呉熕lの文章には、もともと題名はない。『資料』10頁に収められた時、編者により「李伯元伝」と題される。
3)『春声』第2集丙辰二月一日(1916.3.4)秋帆「菊部軼聞」の「孫菊仙」の項目。『資料』8頁に収める。
4)顧頡剛「官場現形記之作者」『小説月報』第15巻第6号1924.6.10。
『資料』16-17頁所収。
5)李錫奇「李伯元生平事蹟大略」『雨花』第4期1957.4.1初出未見。『資料』29-38頁。
【関連文献】
麦生登美江「李伯元と欧陽鉅源」『中国文芸研究会会報』第33号1982.4.1。
樽本「『官場現形記』裁判」『中国文芸研究会会報』第33号1982.4.1。樽本『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20所収。
6)孫玉声『退醒廬筆記』上海図書館1925.11初出未見。『資料』18頁。
7)胡適「官場現形記序」『官場現形記』上海・亜東図書館1927.11初版未見。1932.7三版。3頁。『資料』21頁所収。
8)周公旦「官場現形記之作者」『南金(雑誌)』第1期1927.11.10再版
9)釧影(包天笑)「補述茂苑惜秋生事」香港『大公報』1962.8.1。『資料』496頁。
10)釧影(包天笑)「清晩四小説家」『小説月報』第2巻第7期(総19期)1942.4.1。35頁。『資料』27-28頁。
11)王俊年「李伯元」『中国文学家的故事』二 北京・中国少年児童出版社1980.12。187頁。
12)黄鈞「李宝嘉」林増平、李文海主編『清代人物伝稿』下編第3巻 瀋陽・遼寧人民出版社1987.7。369-370頁。
13)裴效維「李伯元及其《官場現形記》」中国社会科学院文学研究所《中国近代文学百題》編写組『中国近代文学百題』北京・中国国際広播出版社1989.4。238頁。
14)崔美明「小説界鼻祖李伯元」楊浩・葉覧主編『旧上海風雲人物』上海人民出版社1989.11。115頁。
15)陶継明「李伯元、呉熕l、曾樸」張志高編『海上名人録』上海画報出版社1991.8。111頁。
16)鄭逸梅「南亭亭長之与安髄諱v『阿芳集』益新書局1932.8未見。上海・新書社1934.3。88頁。『資料』22-23頁。