「 清 末 」 研 究 の 国 文 学 者
――回憶・中村忠行教授――

澤 田 瑞 穂



 平成五年九月二十五日の朝刊(朝日・読売)に、天理大学中村忠行氏の訃報を見る。享年七十九歳。心不全のためのよし。
 後日になって寓目するを得た同氏の略歴によると、初めて台湾から出て天理語学専門学校の講師となったのが終戦後の昭和二十二年(一九四七)、翌二十三年四月に教授。二十四年(一九四九)学制改革により名称が改まって天理大学教授となる。昭和五十一年(一九七六)に定年退職とある。
 これに対して、筆者(澤田)が東京の跡見学園女子高校より転じて天理大学に助教授として西下したのが昭和三十二年(一九五七)四月。三十七年に教授。在職十七年にして昭和四十八年(一九七三)三月で定年(当時の天理大学は国立なみの六十歳定年制)となり、その後の一年間は嘱託で在職したが、ついで早稲田大
学文学部中国文学専攻の教授として上京赴任した。だから、筆者が天理に在住した約十八年間は中村教授とも職場を同じくし、教授会などでも顔を合せたはずである。しかし同教授は昭和四十八年(一九七三)八月に、アメリカのインディアナ大学に客員教授として渡米し、翌四十九年六月に帰国したはずで、その渡米直前に筆者は同教授を大和郡山市城北町の新居に訪ねて雑談し、小図書館かと疑われるほどの書庫を案内されて驚嘆したことを覚えている。
 ここまで書き至って、翻然として気づいたことは、あの時以来、今日に至るまで同教授とは、ついに一度も再会することなく生と死とを隔ててしまったことで、考えてみれば「なるほど、人生別離足るか」と悵然たる想いもする。早大退職後、送別会が終るなり東京を辞して奈良に帰隠し、のち別の会合で人を天理図書館や参考館に案内したことはあるが、往日の友人を相訪うことも稀で、まして郡山市の中村邸を再訪することもなかった。ただ、それ以前から関西大学の大学院に出講しておられた中村教授が、健康上から同大学のある千里山の急な坂路を登るのがシンドイからとて、代りの出講を依嘱され、筆者も奈良(後に大津に転居)から通って関西大学の急坂を上下すること七年か八年、これまた衰脚急坂に耐えず、ついに退任を請うて許された。関西大学出講については、前後して中村教授と同じ軌跡をたどったわけである。
 天理大学では十数年間も同僚であったとはいっても、先方は文学部国文学科所属、当方は外国学部中国学科所属で、専攻も研究分野も別だったから、本来は無縁に近く、まして同教授は後に『宇津保物語』の研究で大阪大学から学位を得たほどだから、交渉も接触もなかったはずである。もし両者に因縁があったとすれば、それは「清末文学」という共通の研究テーマしかない。ただし、筆者の清末研究は中国研究のほんの一小部分に過ぎないが、すでに終戦直後の昭和二十三年(一九四八)九月に学徒援護会から刊行した『中国の文学』に第四章として「清末の小説」を収め、阿英の『晩清小説史』を紹介しながら、この時期を別の視点から大観しておいた。本邦における清末小説紹介の早期のものに属する。このことを中村教授も記憶しておられたとみえて、何かの会談の機会に、「オッ、好敵手あらわる、と思ったね」と漏らされた。筆者が天理に赴任した昭和三十二年(一九五七)三月には、同教授は「春柳社逸史稿2」(天理大学学報23輯)を発表し、次いで「重慶日報の創始者竹川藤太郎」1・2(天理大学学報40・41輯)、「弁髪の俳人羅蘇山人」1・2(天理大学学報45・46)、また学報の「澤田還暦記念号」(85輯)には「晩清に於ける虚無党小説」など、学報その他の刊行物には、ほとんど毎回のように清末文学関係の論考が発表されており、知らない人は同教授の専攻は中国文学だろうと思ったに違いない。
 当時、わたしは同教授の出身経歴については詳しくは知らないままだったので、同教授の清末小説に寄せる異常な熱意についても、わりに簡単に考えていた――以前に台北大学に深い関係があったと聞くから、国文学研究の余技として比較文学の対象として清末小説にも興味を持ったのだろう――というくらいに……。だが教授の歿後に見ることを得たその出身・経歴および著作目録によれば、台湾の新竹街の出生で、台北高校や台北大学を卒業し、天理赴任直前まで台北大学およびその関係者との因縁が深かったことを考えると、清末小説に関係ある清末民初の中国人士の行動は、単に北京や上海でのことばかりでなく、台北の現地にもその足跡が遺されていたのだ。台湾を出身地または縁故地とする日本学者にとって、清末の人士や文学は、通常の国文学者による「杜甫と芭蕉」や「江戸文学と李笠翁」式の単なる「比較文学」の対象ではなかったので、時には、もっと親密な「郷土の文学」に近いものであったかも知れない。
 終りに、書かでものことを記す。わたしも北京に赴く前に、大阪の市岡中学(今の市岡高校)時代の恩師で、当時、台北高校の教授をしておられた常松始郎先生より、台北に来ないかと、わざわざ東京まで来られて、膝づめで勧誘されたことがある。しかし中国といえば、文化の故都北京しか念頭になかったわたしは、ついに台北に渡る気にはならず、ひたすらに北京をめざして宿志を果たした。中国文学研究が自分の専攻で、「清末小説」もその一項目だったに相違ないが、わたしの方こそ「比較文学」的な功名心がなかったとは言えない。せいぜい北京の書店で李伯元主編「繍像小説」七十二期全揃いを入手し、終戦近くになって幾種類かの清末小説の現物を入手した程度の因縁だったから……。