中村忠行先生の思い出


樽 本 照 雄



 今から約20年前のことだ。澤田瑞穂氏次男の結婚式が梅田新阪急ホテルで行なわれた。仲人をつとめた中村忠行先生にお会いしたのが初対面であった。何をやっているのか、との問いに、「老残遊記」について修士論文を書きましたと答える。ほう、それはいい!と声に力が入ったように聞こえた。このときから中村先生とのおつきあいが始まったのだった。

1 『繍像小説』のこと
 大和郡山の御宅を訪問したのは、私が『繍像小説』の総目録を作成し抜き刷りをお送りしたあとのことだったろう。
 1973年6月24日付来信には、つぎのようにある。

 玉稿「繍像小説総目録」抽印一部御贈り下さいまして有難く厚く御礼申上げます。殊に索引を付けて下さったのが、大変役にたちます。/実は小生も竹内好氏から借り全巻をマイクロ・フィルムに収めて手許に蔵して居ります。撮影の時、全巻の組織をくづし、活地獄なら活地獄で通して撮り、目録は括めて撮ったのですが、使ってみると便利な反面不便な箇所も出て来て、この種の目録を更めて作る必要に駆られて居ました。それ故、この目録は小生最も有効に利用する一人となることと存じます。返々有難く御礼申上げます。/ただ一、二御参考迄に申上げますと、第三年の刊行は或いは若干遅刊があったものと見て居ります。/それから、折角翻訳小説の原作者名を記されたのですから、ついでに作品名も突止めて下さったら、後学を裨益するところ少からぬものがあると信じます。もっとも、これは大変な仕事で、阿英は完全に逃げて居りますし、小生も全部は、突きとめてゐません。或いは、既に御存知のことかとも思ひますが、御参考までに別記しておきます。/この種の仕事、地道な仕事ですし、中国文学の専攻家も余りやって呉れないのは残念です。大兄などの若い方々の力に大いに期待します。

 いちど家に来るように書き添えてあったお言葉に甘えたのである。今、手紙を読み返すと、『繍像小説』の刊行について遅延のあったことに言及されていることに驚かずにはいられない。当時は、そんなことなどいわれても私には理解できなかった。『繍像小説』刊行遅延に私が興味を感じるのは、これより10年も後のことなのだ。
 玄関右手のグランドピアノが置いてある部屋で、原書をあれこれと出されて説明してくださる。以後、私が先生のお宅を訪れたのは数回であったが、変わらぬもてなしだった。
 その時の話では、『繍像小説』は、東京の竹内好所蔵のものを自分で撮影した。ただし、作品ごとにバラして写真にとったのが、今でも悔やまれる。その時は、バラしたほうが都合がよかろうとしたことだ。しかし、そうなると掲載号がわからなくなった。澤田(瑞穂)君が天理大学に来たので聞いてみると、彼は原本を持っていたのだなぁ、という感想をもらされた。

2 手紙によるご教示
 私が論文、資料の抜き刷りをお送りするといつも先生から丁寧なお返事をもらった。便箋に数枚の長さにおよぶ時もあった。手紙には、どうやら構想中の論文の骨組みを披露されている模様である。
 たとえば、1974年12月8日付来信には、こうある。

……聶格マ脱を何と訓むか、御存知ですか。先般来天理大学の中国語の先生に質問してみましたが、誰も(中国人の先生すらも)訓めませんでした。これはNICK CARTERと訓むのです。BERTHA CLAYの場合と同様に何人かの作家が、同じペン・ネームで書き継いだので、3人まで訣ってゐますが、作品の数が1000点ほどあるのですから、原作の追究も大変です。この間、上野図書館本で探したのですが、一冊も見付かりませんでした。今時のたとへで言ふと、テレビ・ドラマの作家の様なものですから、伝記も原作名もわからなくって閉口しますね。/以上のこと、大兄を励ます意味で付記します。不明なものを、不明と記すことに負け目を感じてはいけません。長い年月をかけ、同志の共同作業で解決して行くより他に方法はないのです。一人では、何もかも出来るわけはありません。御健闘を祈ります。

 ニック・カーターは、この手紙から4年後の『清末小説研究』第2号より連載がはじまる「清末探偵小説史稿」の題材であった。言葉をかえれば論文執筆準備にそれだけの時間をかけていらしたのだ。

3 「説部叢書」「林訳小説」
 中国文芸研究会の機関誌『野草』に原稿をいただいたのは、「忘れられた清末の翻訳文学二三」『野草』22号(1978.9.1)が最初だった。書影を掲げて、資料にもとづいた論考である。清末の翻訳文学という重要な分野でありながら、日本での研究が現在にいたるまで遅々として進まないのは、本そのものが図書館に所蔵されない、個人が持っていないのが原因である(実藤文庫に数冊所蔵される)。これまで書かれた文学史などに翻訳の全集ともいうべき「説部叢書」あるいは林琴南訳を叢書とした「林訳小説」に触れるものがあっても、名称を掲げるだけで詳しい説明はない。これも、原物がないことに起因する。資料の所蔵については、例外が中村先生であった。
 清末の翻訳文学に対する先生の関心は、ずいぶんと早くからのものだったようだ。戦前の台湾で説部叢書などを入手したいきさつを話してくださったことがある。薬屋の奥に林訳小説がならんでいる。薬の拡張販売の材料に林訳小説が使われたらしい。最初は、1冊2冊と安い値段で入手していたが、そのうちに足元を見られてだいぶふっかけられてしまった、という。当時の様子を先生自身は次のように書かれている。

……私は清末の翻訳小説を蒐めてゐた。清末の啓蒙的な思想家であった厳復や翻訳王と謳はれた林琴南は、共に福建省の人である。殊に、林琴南は、親戚が台湾に居住してもゐたし、生涯に三度台湾に遊んだと自記してゐる位であるから、彼等の訳書は、まだかなりあった。それも、当局の皇民化運動に圧迫されて顧みる人もなく、永楽町と呼ばれた辺りの漢方薬店の奥深く、紙に包まれて、棚の上方にひっそり置かれてゐた。……一冊二冊と買ひ集めて楽んでゐた。最初は十銭位であったが、次第に吊り上げられて、厚目のものになると五十銭位も取られたことがある。/かなり後になって知ったことであるが、この様な店にこの様な資料が尚商品として売られてゐたことは、呉守礼・黄得時君あたりも全く知らなかったらしい。さしづめ、穴場といった様な訣で、二三年ならずして、『説部叢書』・『林訳小説』といった類のものが、九十冊余り集った。ただ、残念なことに、その頃から私の求めてゐた華訳された日本の小説は殆んどなく(実は、あったかも知れないが、重訳である為に気付かず)、遂に北京に在住する先輩に伝を求めて、資料を購ふ算段までした。結局は、お互の引揚げで、凡ては御破算となってしまったが、それだけに、先年インディアナ大学の書庫で『説部叢書』のほぼ完揃を見出し(同本に欠けたものは、スタンフォード大学本で補ふことが出来た)、ミシガン大学で『林訳小説』四十冊余りを見出した時は、驚喜乱舞したものである。これらは、引揚げ後卅年近く、日本の各地の図書館を捜して、遂に求め得なかった資料である。フィルムに或いはゼロックスによって、複写し持ち帰ったことは贅する迄もない。(中村「書かでもの記」『山辺道』第20号中村忠行教授華甲紀念1976.3.25。21-22頁。)

 「引揚げ後卅年近く、日本の各地の図書館を捜して、遂に求め得なかった資料である」との言葉通り、現在でも日本の図書館にその所蔵をほとんど聞かない。原本のないところで研究が進まないのも当然であろう。
 この時の材料で書かれたのが、「商務版『説部叢書』について――書誌学的なアプローチ」(『野草』27号1981.4.20)である。書影を多数掲載したこの論文は、「説部叢書」を詳しく説明した日本で唯一の文章だといってよい。「説部叢書の原物があるはずだと天理図書館を訪れた人がいるらしい。ワッハッハ」というのが、先生の後日談である。
 資料収集は、その後も継続されたようだ。私が、商務印書館と山本条太郎の関係を調査し文章を書いた時、説部叢書の数冊を資料に使った。香港経由で日本に入ってきたものを入手したのだが、早速、先生より貸せというお手紙をいただいたことがある。
 1993年10月、山東省済南市において「劉鶚及“老残遊記”国際学術研討会」が開催されることになった。これに参加するため、上海からの夜行列車に乗る。同行の中国人研究者がいうには、これから中国近代文学のなかの翻訳文学研究に力を注ぐ予定だとのことだ。詳しくたずねる。上海、北京の大学、図書館を調査したところ、比較的多くの翻訳文学書が所蔵されていることが判明した。まずは、資料の収集とその復刻をやりたい。大規模な叢書となるため出版社を探しているが、採算が合わないという理由で引き受けるところがない、と。この人は、すでに中国近代小説大系を編集しており、それから推測すれば、中国近代翻訳小説大系となるもののようだ。私は、おおきくうなずいた。欧米の文学作品の多くが日本語経由で中国語に翻訳された事実を見れば、翻訳文学研究は必ず必要となる。この分野の開拓者こそ中村先生をおいていない。先生がこれをお聞きになったなら喜ばれたに違いない。しかし、もう遅い。

4 商務印書館と金港堂の合弁問題
 1977年『清末小説研究』(8号より『清末小説』に改題)を創刊した。中村先生は我が事のようによろこばれた。該誌には、前述「清末探偵小説史稿」(2−4号)3回連載、「秋瑾自筆『滬上有感』のことども」(4号)、「《游戯報》抄」(9号)、「検証:商務印書館・金港堂の合弁」(12、13、16号)3回連載をそれぞれ掲載することができた。250冊しか印刷していない極小規模の個人雑誌に原稿をいただけることは、編集者としての喜びであり、誇りでもあった。
 『清末民初小説目録』の作成は、中村先生の発案である。1985年5月、先生のお宅で、数人が会合をもち、おおまかな編集方針、カード採取基準を決める。先生には、説部叢書を中心に原典などの注記をお願いした。清末だけではなく、空白部分の民国初期を対象に含めることにし、とりあえずカードをとることにする。その夏一杯から翌年にかけてを作業に当てただろうか。カードの整理は、人手ではできないことがわかり、個人電脳を導入しすべてのデータをひとりで入力することとなる。作業に約3年かかり、1988年に目録を中国文芸研究会より出版した。残念だったのは、中村先生の担当であった翻訳小説の注記は、先生の体調がすぐれず結局作業が完成しなかったことだ。先生の論文などを参考にしながら、私の方でおぎなったが、今でも心残りである。
 中村先生がここ数年力を入れてこられたのは、商務印書館と金港堂の合弁問題だった。そもそも私が『繍像小説』の発行もとである商務印書館と金港堂の合弁に興味をもったのも、先生の文章がきっかけである。

 商務印書館は、これ迄、単なる印刷専門の商社であるに過ぎなかつたが、この年(注:1903年)以来、出版にも手を染めることとなり、多年小学校教科書の出版を以て、我が出版界に雄飛してゐた金港堂と提携して合弁組織に改め、新に編輯部を設けると共に、折柄教科書疑獄事件に失脚して悲運を歎つてゐた元高等師範学校教授長尾槙太郎(雨山)を招き、……(中村「清末の文壇と明治の少年文学」1『山辺道』第9号1962.12.25)

 「教科書疑獄事件」に言及しているのは、当時、先生の文章のこの箇所しかなかった。のち、章錫s「漫談商務印書館」(『文史資料選輯』第43輯1964.3/1980.12第2次印刷<日本影印>)が教科書事件にふれているのに気がついたが、この文章が日本で読めるようになったのは、私が論文を書いたあとである。てがかりは中村論文のみであったことに変わりはない。さりげなく重要なことが書かれているのも中村論文の特徴である。
 商務印書館と金港堂の合弁問題は、劉鉄雲と李伯元の盗用問題へ、さらに『繍像小説』発行遅延問題、『繍像小説』編者問題へと複雑な様相を呈しながら発展していく。
 劉鉄雲と李伯元の盗用問題では、中村先生は、李伯元の劉鉄雲に対する意趣返し説を提出されたことがある。それに関して、私が異議をとなえると、先生は、仮説だからいいんだ、と少し不快そうであった。これがただ一度のことである。

5 1993年の日記から

8月24-26日
 木曽妻篭・近江屋で野草の夏期合宿。車で行く。帰宅してみると中村忠行先生の原稿が到着していた。『清末小説』連載中断から3年ぶりである。タンノウ結石の手術などで入退院を繰り返していたとのこと。早速、中村論文をワープロに入力しはじめる。
8月27日
 中村論文入力継続。外字作成。入力を終わり、著者校正のため原稿とゲラを宅急便で御自宅へ送る。沢本論文に手を入れて、図を挿入する空白をつくる。これだけで50頁になった。
9月1日
 8時、車で天理へ。南郷→田辺→奈良公園→天理図書館。『東方雑誌』の広告で『繍像小説』の発行情況を調査。李伯元の死亡記事は、やはり発見できず。11:00→国道24号線から帰宅。『中国文芸研究会会報』第143号の版下が到着。やや少なく、10頁。西武百貨店の書店へ散策。中村論文ゲラが返却されてくる。誤植を手直しして、中村、樽本、郭長海、王学鈞論文を一気に印刷する。残すは劉徳隆ゲラの返却を待つのみ。印刷費用の支払いの問題もあり、10月ころに印刷所に出すか。

 ゲラを受け取った後、先生からハガキをいただいた。それには、金港堂と商務印書館の合弁問題は、これで打ち止めにする。つぎは、中国のユートピア小説について書く予定。ただし、遅筆ゆえいつになるかわからぬ、と書かれてあった。『清末小説』第16号の版下は、9月15日に印刷所へ送り、あとはできあがるのを待つばかりの状態であったのだ。雑誌は、10月中旬に仕上ったものの、先生の突然の逝去で、とうとうお目にかけることができなかった。

 私は、教室で中村先生の講義を直接聞くということは経験しなかった。しかし、論文、手紙、お話などでどれだけ多くのことを教わったかわからない。その意味で、私は、中村忠行先生の学生だったのだ。