済 南 再 会
――厳薇青氏と老残遊記研究

樽 本 照 雄



1.1993年10月――劉鶚及《老残遊記》国際学術討論会
 南苑賓館の3階ベランダから外を見れば、照明に建物が夜の闇から浮き出ている。10月初旬とはいえ、済南の乾燥した空気は暑く、しかも強風にあおられて渦巻いているようだ。オレンジ色の街灯に照らされた街路樹が大きくうねっているところからそうと理解できるし、なによりも身体全体が空気の動きを感じている。まるで夏である。湿度が低いのか、不快ではない。
 93年老残遊記学会開幕日の夜、山東師範大学・厳薇青教授のお宅に招待された。劉闡キ、劉徳威、劉徳康、劉徳隆、劉徳D、朱禧の劉氏一族、荘月江氏および私が同道する。厳薇青氏はご高齢のため体調がすぐれない、と聞いていた。しかし、お会いしてみると劉闡キ氏と同様にとてもお元気そうな様子だ。2台の車に分乗
して到着した大学宿舎の一室は、厳薇青氏の書斎であるらしく壁には多数の掛け軸がかかげられている。専業作家である娘の厳民夫妻がお茶をすすめてくださり、その子供たちの姿も見かけた。天井は高く、部屋は広い。何年か前だったか、住所が変わったと連絡があった。ここに移られたのはその時だったのだろう。厳氏と劉闡キ氏とは、同じ頃すれちがって北京大学を卒業したことが最近わかったとかで、当時のあれこれに話がはずんでいる。果物と菓子のもてなしを受け、楽しいひとときを過ごした。

2.厳薇青氏のこと
 厳薇青氏とのおつきあいは、文通からはじまった。氏が注釈をほどこした『老残遊記』(済南・斉魯書社1981.2)を読んでお手紙をさしあげたのが最初だったか。ここらあたりは、記憶が定かではない。
 『野草』で清末小説特集2を編集したおり、厳氏に原稿執筆を依頼し快諾をいただいたことがある。中島利郎氏に翻訳してもらって雑誌に掲載した(「曾樸の『゙海花』と張鴻の『続゙海花』」『野草』第33号 1984.2.10)。中国語原文(「簡論曾樸《゙海花》和張鴻《続゙海花》両書的第三十一回至三十五回」)は、『清末小説研究』第7号(中文版1983.12.1)にのせてもらってもいる。
 1987年11月、劉鉄雲学会が淮安で開催された。清末の特定の人物の、さらに全国規模の大会としてはおそらく最初のものだったのではなかろうか。「招かれざる客」として淮安におもむいた私は、そこで厳薇青氏にはじめてお目にかかった*1。刈り上げた白髪の物静かな態度が、いかにも研究一筋といった感じだ。控え目で知的な雰囲気が、学者の風格をにじませている。その印象は、再会できた今回も変わりがない。
 考えてみれば、ずっと以前から厳薇青氏のお名前を私は知っていた。

3.「老残遊記」論争
 大学院で学んでいたころ、時に京都へ本探しに出向いたことがあった。1970年秋のことだ。たまたま彙文堂で中国語文学社編『明清小説研究論文集続編』(香港・中国語文学社1970.1)という本を見つけた。1950、60年代に大陸の雑誌、紀要に発表された論文を影印して集めた本で、「老残遊記」を論じる文章が4本も収められている。学生の身にとっては、決して安い価格ではなかった。しかし、「学園紛争」の時代でもあり図書館は機能していなかったし、「文革」当時の中国からは研究書などの専門書籍は日本に入ってきていない。その時、持ち合せのお金では不足し、日をあらためたことをおぼえている。無理をして購入してみると、これに厳薇青「関於《老残遊記》的作者劉鶚」(『文史哲』双月刊1962年第1期 1962.2.1)が収録されていたのだ。
 1950年代、「紅楼夢」研究批判から胡適批判が派生した。張畢来氏は胡適批判に便乗して「老残遊記」批判を行なう。これに異議をとなえたのが、前出の厳薇青論文だった*2。
 今、該書を取りだしてみると、厳薇青論文のいくつもの場所に鉛筆で書き込みをしている。「客観的、全面的にさらに具体的に劉鶚の生涯の主要な事跡について検討を加え分析しなければならない」と厳氏は書く。まさに正統で当然な主張である。
 ところが、ついこのあいだの中国大陸においては、この当たり前の研究方法が批判されるばかりか、驚いたことに研究をする厳薇青氏自身も批判の対象にされてしまった。「反動」作品、あるいは「反動」人物を研究すると、その研究者も「反動」とみなされたのだ。これではまともな研究などできるはずがない、と考えるのは私だけだろうか。厳薇青批判は、「文革」以前の1964年より始まっている。まことに理解しがたいのは、過去の中国においてたしかに存在した、研究対象と研究主体を区別しないこの思考法である。
 劉闡キ氏は、以下のように述べている。

 文化大革命の時、『老残遊記』研究の専門家である山東師範大学中文系主任・厳薇青教授は、いわゆる「革命大衆」によって拉致され頭の半分だけを剃られて批判闘争にかけられた。一部の有識者は心ではその是非を知ってはいた。しかし、一時のムードにおされて発言する勇気はなく、当然のことながらわれら家族も発言する勇気はさらになかった*3。

 劉闡キ氏の言葉には、劉鉄雲の子孫が味わった苦しみが込められていることが理解できるだろう。
 それにしても、資料にもとづいて検討分析をする、という正統な研究方法が、当時、なぜ攻撃にさらされねばならなかったのか、日本にいる私にはいまだに納得することができない。
 93年老残遊記学会では、厳薇青氏の著作『厳薇青文稿』(済南・斉魯書社1993.5)をいただいた。清末小説、とくに劉鉄雲と「老残遊記」についての論文がまとめて収録されているのがうれしい(厳薇青氏清末小説関係論文目録を参照のこと)。
 董正春氏の文章によると、厳薇青氏は新たな研究成果を発表する準備をなさっているという。すこしでもはやく論文が読める日が来るように心待ちにしている。

【注】
1)「樽本は学会そのものには参加が許されなかったが、劉鉄雲の墳墓に案内されるという厚遇を受けている。劉一族すら墓参りが許可されなかったのだ。あの時の学会では、樽本が得るところが一番多かった」と劉徳隆氏は、今でも私にいわれる。そうかもしれない。この学会について次の文章を書いた。樽本「劉鉄雲故居訪問日記」『清末小説から』第8号 1988.1.1
2)樽本「『老残遊記』批判とは何か」 『野草』第47号 1991.2.1
董正春「略論厳薇青先生対劉鶚和 《老残遊記》研究的貢献」劉鶚 及《老残遊記》国際学術討論会 (1993.10)提出論文
 「紅楼夢」研究批判、胡適批判らは、中央からの批判運動だった。しかし、老残遊記批判は自発的なもので全国的に一致した運動ではない。これが根本的な違いだった。厳薇青氏より以上のようにお教えいただいた。
3)「《老残遊記》出版九十周年」劉鶚及《老残遊記》国際学術討論会(1993.10)提出論文。15頁。

【付記】
 荘月江著、沢本香子訳「勇敢にも危険をおかした評論家――厳薇青教授のこと」(『中国文芸研究会会報』第150期記念号1994.3.30)を参照されたい。