“ 泉 城 ” 済 南 の 旅
――劉鶚及《老残遊記》国際学術討論会に参加して

森川(麦生)登美江



 1993年10月8-12日、上記学会が山東省済南市の全面的なバックアップのもとに済南市の南苑賓館で開かれた。主催は済南社会科学院、山東大学、山東近代文学学会など6つであった。「老残遊記」は「済南の名ガイドブック」と称されるほど済南の名所や魅力を生き生きと描いているため、済南市としてもここで学会を開き、もっと観光地として売り出したい意向があったようだ。開幕式には長時間テレビカメラが入り、夜のニュースでも流され、翌朝の新聞にもかなり大きな紹介記事が載っていた。閉会式では副市長の女性があいさつされた。
 しかし残念だったのは「国際」と銘打ったにもかかわらず、テーマが狭かったせいか、日本から樽本照雄先生、東洋史専攻のK先生、それに私の3人だけ、台湾中央大学から李瑞騰先生、あとは山東に留学中の方たちがチラホラといった状況で、せっかく準備してくださった方々にお気の毒な気がした。それだけに日本からわざわざ参加した私たちに対する扱いは至れり尽くせりで、恐縮するほどだった。
 参加者は全国から集まった研究者に私たちを含め70名余、2日間、熱心な討議が繰り広げられた。とくに、劉鶚のお孫さんで『老残遊記補篇』の著者、福建師範大学の劉闡キ先生はじめ、劉家の一族の方が数人参加しておられ、お近づきになれたのは幸運だった。K先生など「劉闡キ先生は本当に中国の大人ですね。劉先生にお会いできただけでも参加した甲斐がありました」と感慨を漏らされていたほどだ。
 一族の方々と参加者の皆さんの闡キ先生に対する気遣いは大変なもので、歩かれるときは両側から支えるなど本当に闡キ先生を大事にしておられることがよくわかった。今年84歳で目が悪く、ステッキが手放せないようだったし、耳も遠いらしくずっと補聴器をつけておられたが、お顔の色も良く、かくしゃくとしておられ、発表時間も延長に継ぐ延長で、話しぶりには少しも老いを感じさせられなかった。
 驚いたことに幼少のころと青少年時代、併せて5年間日本に居られたそうで、「日本語は使わないから忘れました」とおっしゃりながらも流暢な日本語を操っておられ、おかげであまり中国語は堪能でないらしいK先生もお話しできて喜んでおられた。「長崎高商にいたので長崎が懐かしい」とおっしゃるので「私は長崎県佐世保市の出身です」とお話ししたら「そうでしたか」と感慨深そうだった。ご一緒に記念写真をたくさん撮らせていただいたり、御一族の真似をして私も先生と腕を組んで歩いたりした。私たちが日本からわざわざ参加したのが先生も嬉しかったようで、温かく応対してくださった。

10月8日――大会発言
 開幕式の司会は済南社会科学院の鄭酔c先生だった。牛洪恩氏、習永綜=A劉闡キ先生の挨拶の後、早速研究発表が始まった。トップバッターは我が日本のホープ、樽本先生の「『老残遊記』和『文明小史』的関係」だった。樽本先生らしい綿密な考証に基づいた御発表で、参加者たちも感心しておられたようだった。
 今回は相手のメンツを考えてか誰も質問しないので、発表だけが次々に行われたのはちょっと意外だった。一昨年、復旦大学で開かれた「中国近代文学国際学術研討会」ではかなり活発な質問が出ていたような記憶があったので。
 樽本先生の後、河南大学・関愛和先生の「論老残」、青島大学・徐鵬緒先生の「論《老残遊記》対伝統長編小説芸術形式的革新」の発表があり、会場のレストランで昼食になった。初日だから歓迎の意味なのか昼間からビールが出た。2時半まで休憩。皆さん、早々に部屋に引き取って休んでおられるようだった。
 午後は2時半からということだったが、時間厳守している方は少なく会場はまだ閑散としていたため、15分遅れて始まった。司会は山東師範大学の李茂粛先生、発表者は以下の通り。
上海市楊浦教育学院・劉徳隆「劉鶚的夢説」
済南社会科学院・董正春「略論厳薇青先生対劉鶚和《老残遊記》研究的貢献」
山東大学・滕咸恵「老残眼中的済南風物」
山東徳州師専・季桂起「論《老残遊記》的叙事方法及其変革意義」
長春師範学院・郭長海「劉鉄雲詩文拾遺――晩清四大小説家詩文拾遺之一」
江蘇省社会科学院・王学鈞「劉鶚的自辯状――《老残遊記》」
山東師範大学・徐文君「試論《老残遊記》中的男女観――兼及古代文人的男女観」
 ただし、これは3人ほど抜けている。というのは今回も前もって発表者や題目がかいもくわからなかったため、司会者が紹介される発表者の氏名や題目を聞き漏らすと、最後までどなたなのかわからなかったためだ。話の内容から見当がつく場合もあるが、似たようなテーマが並んでいると迷ってしまう。せめて発表者の名前とテーマくらいはきちんとわかった上で発表が聴けたらと思う。だから発表者が最初に自分で氏名とテーマをはっきり言ってくれると判り易くてありがたかった。
 翌日の事務連絡の後、5時半に散会になったので、バスで町に出て快餐庁に入ってみた。驚いたことに済南のような地方都市にもファーストフード店がかなり目につく。一般の食堂に比べ、若干割高のようだがけっこう若い人が入っている。こんな店で恋人と食事するのがおしゃれなのだろう。ちょっと散歩した後、帰りは15元で交渉してタクシーにした。

10月9日午前――分科会
   午後――大会
 午前は2組に分かれて分科会があった。昨日の大会では質問も全く出なかったが、今日はテーブルの配置も変わり、少人数で発言しやすい雰囲気だったせいか活発な議論がかわされた。とくに長春師範学院の郭長海先生がよく発言されていた。ただ私のヒアリング能力では皆さんの発言の細かい部分まではじゅうぶん聞き取れず残念だった。もっとヒアリング力を高めて参加しなければとつくづく思った。
 おもしろいと思ったのは午後の大会で発言する方を分科会毎に推薦したことだった。学会のずっと前から発表者の氏名も題目も分かっている日本と比べ、その場で決定するこの制度をどう評価したらいいのか、私はまだよく分からずにいるのだが、樽本先生がおっしゃるように柔軟であることは確かだ。話し合いを聞きながら、私は「剛構造の日本」と「柔構造の中国」といったことをぼんやり考えていた。
 昼食時間に劉家の一族と外賓、港台同胞に接待側のスタッフが加わってレセプションを催してくださって、おいしい料理を堪能させていただいた。
 午後はまた全体大会に戻り、司会は劉徳隆氏が務められた。発表者は以下の通り。
台湾中央大学・李瑞騰「《老残遊記》的哭泣意象」
福建師範大学・劉闡キ「劉鶚治理黄河理想的初歩探討――老残為黄大戸治病的医案」
山東師範大学・厳薇青 不明
済南社会科学院・劉瑜「従《風潮論》看《老残遊記》」
山東大学・武潤女亭「論《老残遊記》対理学蒙昧主義的批判」
 この他3名ほど。しかし例によってどなたなのかよく分からなかった。
 残念だったのは、劉闡キ先生のご発表のテーマは私も手を着けていながら6月18日の連れ合いの輪禍による急逝後のゴタゴタなどのため準備が間にあわず、せっかく指名していただいたのに発表できなかったことで、ほんとうに口惜しくもあり、申し訳なくもあった。でも参加させていただいたことでまた新たな研究意欲が湧いてきたので、私にとっては非常に有意義な会ではあったのだけど。
 司会者が「できるだけたくさんの方に発言していただくため、20分の発表時間を厳守してください」とおっしゃっていたのに、合図を無視して延長される方が多いため、途中から15分に短縮された。お気の毒だったのはその後の発表者が慌てて一所懸命に原稿を縮めておられたことだった。
 3日目は済南市内観光、4日目は泰山登山、5日目は曲阜観光と、充実した楽しい旅だった。
 上海では乞食にしつこくまつわりつかれたり、鎮江旅行社で不愉快な目に逢ったりした。鎮江では旅行社まで切符を取りに来るようにとのことだったので、駅前にあるのかと思っていたら大違い。人力車に揺られてやっと探し当てたのに誰もいない。昼休みだろうと思い、近所で時間をつぶして再訪したがやはり無人。2時半からと教えられてまた待ってやっと切符を手に入れたが「お金を払え」と言う。「日本ですでに払っている」と言ったら変な顔をしていろいろ調べてやっと納得してくれた。タクシーを頼んでもらったがなかなか来ない。訊ねると遠くから呼んだという。乗る汽車の時刻も分っているはずなのにこの有様。お陰で5時間観光の予定が1時間半になってしまい、有名な三山のうち二つだけを駆け上がり、駆け降りて写真をとっただけという散々な観光になってしまい「もう二度と鎮江なんかに来るもんか」と思った。「向銭看」の中国人が多くなって情けない思いがしたりして、こちらもだんだん「友好第一」の気持ちが薄れかけていたけれど、済南に来て温かな歓迎を受け、今の中国では経済的には不遇であろうに真摯に研究を続けておられる多くの方々とお知りあいになれて、心が洗われるような思いがしていただけに、小旅行を通じてやっと親しくなりかけていた先生方との別れがより切なく感じられた。また
どこかで元気に再会できることを心から祈っている。