清末小説から 第34号 1994.7.1


『繍像小説』の刊行時期みたび
――張純氏に答える

樽 本 照 雄



T.はじめに
 『繍像小説』の刊行時期、その中の特に終刊について張純氏より異論が提出されている(張純「再談<繍像小説>的終刊時間――向樽本照雄先生請教」『晩清小説快訊』第3期 1994.2.5)。
 私は、「『繍像小説』の刊行時期ふたたび」(『野草』第52号1993.8.1)において、新しい資料を提出するとともに『繍像小説』の終刊時期を1906年年末と推定した。張純氏の論文は、私のこの文章に対する反論である。私が考えている終刊時期よりももっと遅くに終刊した、というのが張純説だ。張純氏は、自説をのべるにあたり、私を名指しで批判しているので、これに答えたい。

U.問題の所在
 張純説を検討する前に、『繍像小説』の刊行時期のどこを私たちが問題にしているのか、全体を概観しておく。
 『繍像小説』の刊行問題は、以下の3部分に分けられる。
1.創刊はいつか
2.途中の刊行情況はどうなってい  るのか
3.終刊はいつか
 それぞれについて説明する。

1.創刊はいつか
 『繍像小説』創刊号には、「癸卯(光緒二十九<1903>年)五月初一日」という日付が見える。実際に創刊されたのも、ほぼこの日付であろうと考える理由は、同じ上海で発行されていた『同文滬報』光緒二十九(1903)年五月初七日付けに『繍像小説』創刊号受領の記事があるからだ。私の見つけた『同文滬報』の記事について、張純氏は何もいっていない。ここには異論はないのだろう。

2.途中の刊行情況はどうなっているの  か
 『繍像小説』第13期より発行日付が記載されなくなる。第15期に掲載された「時調唱歌」に日露開戦をよみこんだ部分を張純氏は見つけた。日露開戦は光緒二十九年十二月二十三日(1904.2.8)である。期日通り半月刊が守られたとしたら、第15期は十一月初一日発行のはずだ。約一ヵ月半の発行遅延がある。張純氏の発見は、従来の通説を打ち破るものだ。私は、この発見を高く評価する。
 発行が遅れていた事実があることはわかった。では、それぞれの号でどれくらい遅れていたのか、が次の問題となる。私は、天津『大公報』、『東方雑誌』などの外部の資料から探った。その結果、以下のような推論を得た。

第一年分第1-24期 光緒三十(1904)  年年末十二月頃までには発行さ  れた。
第二年分第25-48期 光緒三十一(19  05)年年末前後までには発行さ  れた。
第三年分第49-72期 光緒三十二(19  06)年年末までには完結した。

 第一年分24冊が光緒三十年末までに発行されていた、という推測を補強するため、私は原本『繍像小説』第22期、第23期に綴じこまれた「商務印書館徴文広告」を呈示した。この広告は、上海書店が影印した『繍像小説』には未収録である。
 張純氏は、発行遅延情況をより細かくさぐることについては興味を示していない。まとまった言及がないところを見ると、私の推測に賛成しているのだろうか。張純氏が明言していないのだから、どう考えているのか私は知らない。

3.終刊はいつか
 『繍像小説』終刊について、私は、『東方雑誌』の広告と汪家熔選注「蒋維喬日記選」(『出版史料』1992年第2期 1992.6)から、光緒三十二(1906)年年末までと考える。
 残念ながら、終刊時期について張純氏と私の意見が一致していない。張純氏は、『繍像小説』所載の小説の記述にもとづき、光緒三十三丁未(1907)年九月以降に発行したとする。

 以上みてきたように、張純氏は、『繍像小説』掲載の作品に遅延の手掛かりを捜す方法を採用している。雑誌内部からの探索方法だ。私は、『繍像小説』の発行情況に言及した記事をさがしている。いわば、雑誌外部からの探求方法である。『繍像小説』発行遅延について、雑誌内部からも外部からもほぼ一致して遅延事実を認めることができた。ただ、いつ終刊したかについて私たちふたりの見方がそろっていない。ゆえにこの論争がある。
 以下、張純氏が提出した問題について見ていこう。

V.張純説の問題点
 張純氏のあげる証拠の順番に検討していく。

1.『繍像小説』第47期掲載の呉蒙「学  究新談」
 張純氏は、呉蒙「学究新談」に書き込まれた時間が、「丙年(1906)年六月之後」であるから、この小説を掲載した『繍像小説』第47号の発行はそれ以降だとする。
 鍵語は、「八股」である。呉蒙「学究新談」の文中には、八股の廃止について書かれている。張純氏もいうように、八股の最初の廃止は1898年であった。また文中に「北方的乱事」とあるのは、いうまでもなく1900年の義和団事件である。ここまではよろしい。そのあとまた八股の廃止がでてくるのだが、これを張純氏は乙巳(1905年)七月のことだと考える。なぜか。八股の廃止はすなわち科挙制度の廃止のことだ、と張純氏は信じているらしいからだ。丙午(1906)年からすべての郷会試を停止し、科挙制度はついになくなった、とも張純氏は述べる。文中に出てくる丙午(1906)年新春の試験を書いたのは、少なくとも同年夏、つまり丙午(1906)年六月のことだという。張純説にしたがうと、『繍像小説』の発行は同年七八月となるらしい。
 張純説には、明らかに矛盾がある。文中の新春試験が数えて丙午(1906)年ならば、この年から科挙がなくなったと書いていることと矛盾するではないか。科挙がなくなったはずなのに、科挙の試験が行なわれたとはどういうことなのか。このようなつじつまの合わないことを書いて、張純氏はなぜ平気なのか。「学究新談」に科挙の試験が見えるからには、時間設定は科挙廃止(袁世凱による科挙廃止の奏請は、光緒三十一年八月四日<1905.9.2>)より以前のことだと考えるのが普通であろう。
 つまり、八股の廃止は、すなわち科挙制度の廃止であるのか、これが問題だとすぐ気づく。八股の廃止について少し調べてみれば、容易に判明する。1900年義和団事件後に出現する八股の廃止とは、二度目のもので、1905年の科挙廃止に先立つ光緒二十七年(1901)の七月のことなのだ。
 光緒二十七(1901)年七月己卯(十六日)に、翌年より科挙の試験に八股文の使用を禁止することが決定されている(朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』全5冊、北京・中華書局1958.12/1984.9第2次印刷。総4697頁)。
 八股の廃止決定から、「来春」「明年」とあり、続いて「新春」の試験といえば、当然、光緒二十八年(1902)が「学究新談」の描く時間となる。
 『繍像小説』第二年分第25-48期は、光緒三十一(1905)年年末前後までに発行されたと私は予想している。光緒二十八(1902)年のことを描いた呉蒙「学究新談」が、光緒三十一(1905)年年末前後までの『繍像小説』に掲載されているのは、なんの矛盾もない。
 張純氏が、八股の廃止(1901年)を科挙の廃止(1905年)と同じことだとなぜ考えてしまったのか、私には理解できない。張純氏の誤解であろう。

2.『繍像小説』第51期掲載の「痴人説  夢記」
 旅生「痴人説夢記」第27回には、中国による「アメリカ商品ボイコット(抵制美貨)」のあらましが語られている。「アメリカ商品ボイコット運動」は、1905年に始まり1907年に終わる。作品中でいっているのは、少なくとも1907年以後のことであり、樽本が言うような丙午(1906)年八月であるわけがない、と張純氏は述べる。
 私がいう丙午(1906)年八月というのは、その時期に『繍像小説』第57期が発行されたと告知する広告が天津『大公報』に見え、また、『東方雑誌』の広告によると『繍像小説』第50期が発行されたことがわかる、という部分を指している。
 旅生「痴人説夢記」には、「禁止華工」という文字があり、その記述は、張純氏のいうように「アメリカ商品ボイコット運動」を内容とする。注目するのは、小説で説明されている運動が、ボイコットにより商品が輸出できず、商人は損をし、政府もあせり、大統領は解禁を宣言し、新たに条約を結び直して、商人と一般人の怒りを静めた、となっている点だ。
 「アメリカの中国人移民排斥法に反対する運動(反美華工禁約運動)」を知っているならば、実際の運動が小説のようにめでたしメデタシで終わっていないことはわかっているはずだ。さらに、張純氏は、運動が1907年に終了したと書いているが、何によってこう断定しているのか。張純氏は、その典拠を明らかにしておらず、確認することができない。
 1894年に定めた「中国人移民排斥法」が1904年12月に期限がくるため中国側は廃約を求めた。しかしアメリカ政府はそれを拒絶する。光緒三十一年四月初七日(1905.5.10)、上海商務総会が二ヵ月後のアメリカ商品ボイコットを決議した。各地に反米愛国団体が成立し、留学生、華僑もそれに呼応したが、アメリカ政府の圧力で清朝政府は反米集会を禁止する。「反美華工禁約運動」は、結果的に敗北した。これが、運動の大筋である。
 運動の終息期については、諸説がある。 1906年始めに次第に終息したとするものがある(『中国近代歴史辞典』南昌・江西人民出版社1986.4。198頁)。張存武『光緒卅一年中美工約風潮』(台湾・中国学術著作奨助委員会1965.8)によると、光緒三十二(1906)年年末である。そうある一方で、郭廷以編著『近代中国史事日誌』(北京・中華書局1987.5影印。1239頁)には1905年9月27日(八月二十九日)の項目に、アメリカ商品ボイコット運動は終結した、と明記してある。
 上海を中心に見れば、1905年8月に反対運動の中心人物・曽鋳が運動から脱落し、運動そのものが衰退していった(唐振常主編『上海史』上海人民出版社1989.10/1991.9第2次印刷。409-416頁)。
 『近代上海大事記』(上海辞書出版社1989.5)には、光緒三十年十二月初二日(1905.1.7。589頁)から、光緒三十一年十月初十日(1905.11.6。607頁)までに関連記事が記載されていることがわかる。
 上記の文献に加えて、劉恵吾編著『上海近代史』(上海・華東師範大学出版社1985.1/1987.11第二次印刷。310-318頁)を見ても、「反美華工禁約運動」は、光緒三十一(1905)年年内にその最盛期をむかえ、しりすぼみに終結している。張純氏は、根拠も示さず運動の終結を1907年だと断定しているが、私は疑問に思う。
なによりも、史実と小説の結末が異なっているからには、氏の反論それ自体が成立しないといわざるをえない。
3.『繍像小説』第67期掲載の「世界進  化史」
 惺菴「世界進化史」第14回にも、同じようにアメリカ商品ボイコット運動の史実が書かれている。それは、「就是前年抵制美貨的事、要没学界中人出頭、万万不得成功」というもので、これを掲載した『繍像小説』第67期は、明らかに1907年以後の発行になる、と張純氏は述べる。
 まず、張純氏が引用した該当部分に誤りがあることを指摘しておく。原文は、「抵制美約的事」であって、「抵制美貨的事」ではない。些細な部分のように見えるかもしれないが、重要な意味がある。アメリカ商品ボイコット運動の宣言と実行は、光緒三十一年四月初七日(1905.5.10)、上海商務総会の呼びかけによるものであることは前述した。しかし、運動が突然始まったわけではない。それ以前から言論界では、華工禁約に反対する主張がなされている。たとえば、『新民叢報』第38、39合併号(光緒二十九年八月十四日1903.10.4)には、「美国禁約問題」が掲載され、アメリカの中国人移民排斥法を撤回させるために、アメリカ商品のボイコットを提起する記事を紹介している。「美国禁約問題」という論文名から、小説「世界進化史」のなかの「抵制美約的事」が導きだされた可能性を見るほうが自然であろう。
 引用文「もし学界の人が先頭に立たなかったなら、決して成功していなかった(原文:要没学界中人出頭、万万不得成功)」という箇所の「成功」とはなにを指しているのか。ボイコット運動の結果、中国人移民排斥法が撤回されたなら「成功」といえる。しかし、その事実はない。ボイコット運動の提唱とその盛り上がりそのものを「成功」したととらえ、その原因をいっていると考えるほかないではないか。
 「美国禁約問題」掲載時から二年後(小説のなかに「前年」という表現があるところから逆算した。上記引用文参照)といえば、光緒三十一(1905)年である。『繍像小説』第67期が1906年中に発行されたとする私の考えの範囲内におさまっている。
 以上、私の論に反対する根拠として、八股の廃止とアメリカ商品ボイコット運動を張純氏は提出した。しかし、上述のごとく張純氏の批判は、根拠のない前提と正確さを欠く引用、不徹底な調査、および精密とはいえない読みによって組み立てられている。私にいわせれば、反論になっていないのだ。残念に思う。
 私が「商務印書館徴文広告」などの資料を呈示して発言しているにもかかわらず、それらに言及することを避けて、張純氏は、『東方雑誌』広告を問題にする。

4.『東方雑誌』の出版広告
 『東方雑誌』第四期に出版広告が掲載された。いわく、『東方雑誌』「四年1-12期 三角」と。その時の『東方雑誌』四年第11-12期はまだ編集中であり、世に出ていない、どうして11-12期が売りだされただろうか?これが張純氏の書いている文面だ。
 まず、『東方雑誌』第四期といっているのは、いつの第四期なのか。第四年の第四期かと想像してもみるが、張純氏が書いていないので不明だ。その広告もどういう文脈で「四年1-12期 三角」と書かれているのかわからない。張純氏の書き方によると、あたかも第四年1-12期が発売されているかのようだが、この箇所を見る限り、出版予告かもしれないではないか。まったく意味不明の文章だといってよい。
 私は『東方雑誌』の出版広告を根拠にしたが、第4年第3期までを使用したにすぎない。第4年第12期までのものなど範囲外である。私が拠っていない部分について、その発行時期を問題にされても的外れとしかいいようがない。

5.金松岑「゙海花」の広告
 金松岑が『東方雑誌』の著訳広告のなかで、「(『゙海花』は)現在すでに印刷中、近日中に出版。上海鏡今書局発行」と述べている。事実は、『゙海花』は「現在すでに印刷中」ということなどなかった。書店が虚偽の広告をするのは清末では普通に見られる現象であった、と張純氏は書く。
 これも『東方雑誌』の第何年第何号の広告か明記されていない。文面から推測するに、そもそもこの広告は上海鏡今書局が出したもではないのか。金松岑の『゙海花』が発行されなかったのは上海鏡今書局の問題であって、商務印書館『東方雑誌』の責任ではない。出版広告はあやふやなものだと張純氏はいいたいらしいが、上の例から見れば、上海鏡今書局の出版広告が頼りにならないと言うことは可能でも、『東方雑誌』に責任を転嫁することはできない。『繍像小説』の発行元である商務印書館が出している『東方雑誌』だからこそ、私はこの雑誌の広告に注目しているのだ。上海鏡今書局など何の関係もない。張純氏はなにか勘違いをしているとしか思えない。

 最後は、『繍像小説』第70期所載「学究新談」第23回にでてくる「軍機大臣阮嗣泰」だ。袁世凱と通音し、袁世凱が軍機大臣になったのは光緒三十三年七月丙辰(1907.9.4)だから、『繍像小説』第70期は1907年9月4日以後に発行された。この一点のみを立論の根拠としている。結局のところ、張純氏は、約10年前と同じ論拠をくりかえしているだけだ。
 『繍像小説』の発行情況を示す客観的な資料が張純説と一致しない以上、私は、張純説をとらない。何度でもいう。

W.おわりに
 張純氏は、『繍像小説』の1907年9月4日以後終刊説にしがみついている。視点が硬直してしまった張純氏には、あらゆる資料がそう見えるのかもしれない。私が張純氏の提出する論拠のひとつひとつを検討して感じることだ。あるいは、そう見たいという願望が客観的な資料の存在から目をそらさせているのかも知れ
ない。
 だが、日本で私が調査するよりも、張純氏が中国で探索するほうが、よほど資料的にもめぐまれているはずだ。『繍像小説』の終刊時期について、誰の目にも明らかで疑いようのない決定的な証拠を張純氏が発見されるよう期待したい。