清末小説から 第35号 1994.10.1


鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館(1)

樽 本 照 雄



1.鄭孝胥のこと
 鄭孝胥と長尾雨山*1のふたりに長年の交遊があったことは、周知の事実に属する。彼らが知りあうのは、東京であった。委細を述べる前に鄭孝胥について簡単に紹介しておきたい。
 鄭孝胥(1860-1938)は、福建省l県(福州市)の人。字は、蘇戡、蘇龕など。号は、太夷、海藏。1882年の郷試で挙人となる。1891年、李鴻章の子・李経方が出使日本大臣となったのに従い日本・東京で副領事を勤め、1893年より神戸兼大阪領事に任ぜられた。1894年の日清開戦により帰国。張之洞の幕に入ったのち、芦漢鉄路南段総辧、広西辺防督辧を歴任する。1905年、上海に海藏楼をもうけて居住し、鉄道、金融、商工、新聞、出版、教育などの新興事業に参加、上海での預備立憲公会会長にも選ばれている。錦愛鉄路督辧、湖南布政使に起用される
が、辛亥革命後十数年間は上海に門を閉ざす。1932年、満洲国が設立されると国務総理となった。「清朝の遺臣といわれた古い型の人物で、儒教の王道主義を強調し、また文人として民国一流の詩人、書家であった」と評される*2。
 鄭孝胥は、二十三歳(1882年)から七十九歳(1938年)まで五十六年間におよぶ日記を残した。

2.鄭孝胥の日記
 鄭孝胥に「海藏楼日記」があることを知ったのは、労祖徳「鄭孝胥日記中的出版史料――読《商務印書館大事記》」(『商務印書館館史資料』之四十二 1988.11.19)を読んだからだ。上記鄭孝胥の略歴には触れていないが、彼は、民国初年、上海・商務印書館の理事会(原文:董事会)主席をつとめたことがある*3。
 だから日記には、夏瑞芳暗殺、商務印書館からの日本資本回収などの記述があるという。ならば長尾雨山との交遊についても言及されているはずだ。その出版を長く待っていた。
 中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』全5冊(北京・中華書局1993.10)として世に出た該書から、まず長尾雨山に触れた部分を紹介しよう。

3.日記の中の長尾雨山――日清戦争まで
 東京滞在中の鄭孝胥は、「説文」を読み、英語を習い、作詩をし、ビリヤードを行ない、茶屋通いをするなどの毎日であった。ただし、ビリヤードが頻出するのは前半時期、東京にいた頃である。一時帰国をはさんだ後、神戸兼大阪領事に任じられると公務が忙しくそれどころではなくなったようだ。
 鄭孝胥が一流の詩人・書家であれば、日本人との交流が増えて感じることも生ずるのは必然であろう。

光緒十七年八月十九日(1891.9.21) ……夜、李公使の宴に集まった書き物をめくってみると、日本人の詩はみなひどく劣っており、西島醇なる者の文がまだ理解できる。中国人の作品にいたっては、評論するにたえない。*4

という記述が見える。日本人の作のみならず中国人のものも同じくダメというのは、一流の詩人らしさのにじむ箇所だ。
 吉川幸次郎は、「そのころ新しく開設されたばかりの清国公使館は、当時の日本人のいわゆる漢学を軽蔑するのを、習慣としていた。侮蔑はゆえのないことでなかった。当時の日本の漢学者文人は、当時の中国人から見ればはなはだしく時代おくれの、明の学問、詩、書、画を、祖述するのが、一般であったからである」*5とのべている。日本人が外国語で、それも古語を使用して詩を作るという不自然さを考慮に入れれば(当の本人はそうは思っていないかもしれないが)、作風の違いだけが軽蔑の原因ではなかろう。鄭孝胥の日記には、中国語として成り立っているのかどうかが問題にされているような気がする。だからこそ、一般の水準を抜いた日本人が出現すれば、それは鄭孝胥にとって驚きになる。
 1891年の冬、長尾雨山(1864-1942)が東京に滞在中の鄭孝胥を訪ねてきた。
 鄭孝胥日記には、次のように書かれている。

十一月十二日(1891.12.12)
 朝、「資治通鑑」を読む。はなはだ寒い。日本人長尾槙太郎が会いに来る、張袖海の紹介。その人、号は雨山、身なりはまったく質素で、「詠懐」五詩を礼物とする。筆談すれば、詞はとても流暢で水野貫竜に比べることができ、西島よりもうまい。またつづけて数首を出したが、みなすばらしく文句のつけようがない。「詠懐」詩にいわく、「飯カゴにおわれて忙しく、平素は楽しむひまもない。昂然として世間に合わず、世人は私を傲慢という」と。また、「聖人は死してすでに久しく、大盗のタネはつきない。老子のいう治法はゆるやかで、無為は天理ではない」ともいう。筆づかい構想ともによく、養成する価値がある。昼過ぎまで話して帰る。……張袖海が来て座る。この日西島醇が来るが、会わず。*6

 張袖海は、東京在住の中国人で、公使館に出入りをしていたらしい。鄭孝胥と行動をよく共にしているところを見れば、公使館員かもしれない。西島醇は、日本人。中国語ができたことは、前述の引用に見える。
 長尾雨山の「著者略歴」によると、1888年に東京帝国大学文科大学古典講習科を卒業し、学習院教師、文部省専門学務局に勤務するかたわら、1889年、東京美術学校教授兼務、と書かれている。東京美術学校教授となったのは、雨山二十六歳の時であった。かぞえれば鄭孝胥と会う1891年は、雨山二十八歳、鄭孝胥三十二歳となる。鄭孝胥は、四歳年下の、それも日本人の作った詩を絶賛したことになる。長尾雨山の学識才能をうかがうに十分であろう。
 吉川幸次郎は、つぎのように書く。

 そうして長尾氏は、駐日清国外交官の一人と、終生の刎頚の交わりをむすぶ。鄭孝胥氏であって、やがて今世紀中国旧詩壇の驍将となった人であるが、若い二人の交遊は、東京ではじまった。当時の鄭氏の詩の一節にいう、「此の都にて文士と号するものは、浮躁にして多くは実ならず。盛名あること頼襄の如き、語助も未まだ完悉ならず」。「其の粗ぼ可なる者を求むれば、百に未まだ一つを得ず。吾れに善きものに長尾有り、後より起こるも実に美質」。長尾氏の漢文の文法の正しさは、頼山陽の及ぶところでない、というのである。*7

 鄭孝胥の日記から理解できるのは、長尾雨山のすぐれた才能ばかりではない。才能の素晴らしさとはどこかチグハグな質素な身なりである。鄭孝胥の印象に残った長尾雨山の「身なりはまったく質素」から思いだすのは、つぎのような吉川の回憶談だ。

 明治の初年、東京で白面の書生であったころの長尾氏が、清国公使館を訪問したときの逸話を、私はかつて狩野氏からきいた。大清帝国の公使黎庶昌は、長尾氏が、ひとえの着物をきているのをいぶかり、寒くはないかと、筆談で問うた。長尾氏は即座に筆を走らせ、昂然と答えた。「寒士ハ寒ニ慣ル、ナンゾ衣ノ単ナルヲ怕レンヤ」、寒士慣寒、那怕衣単。突差の応答が、寒、単と、韻をふんでいるのに、公使は驚倒した、と。*8

 銭実甫編『清季新設職官年表』(北京・中華書局1961.7)の「出使各国大臣年表」を見ると、黎庶昌が日本に派遣されたのは1881年から1884年までと1887年から1890年までの前後2回になっている。「白面の書生」というから、時期的には1887-1890年のころかと思う。長尾雨山の質素な身なりというのは、学生のころからのものらしく、教授になっても変わらなかったようだ。
 鄭孝胥と長尾雨山の最初の出会いから、親密な交際がすぐさま始まったかというと、日記を見る限り、そうでもない。

十一月十六日(12.16)
 長尾、手紙にて謝す。*9
十一月廿九日(12.29)
 国華社に行くと長尾が迎え入れ、しばらく座って、著書「儒学本論」をもって帰る。*10

 「儒学本論」は、刊行されることのなかった長尾の原稿である。このあと、鄭孝胥は約三ヵ月の一時帰国をした。日本にもどってきてだいぶ時間がたったころポツポツと交流が続く。

光緒十八年九月初四日(1892.10.24)
……夜、長尾槙太郎来て話す。*11
十月十五日(12.3)
 ……午後、張袖海のところへ行き、同行して水野を本所区小梅瓦町八十一番に訪ねる。浅草をまわり隅田川に出て到着した。貫竜は病にふしており、私が来たのを聞いておおいに喜び、出てきて拝す。長く話し、また蕎麦を用意してくれた。辞して張と国華社に行き長尾雨山を訪ねるが、ちょうど外出しており、しばらく待つと帰ってきた。月はすでに出ており、亀清第一楼に登ると、隅田川をのぞんで霞んだ月が美しく、両国橋が近くにあってぼんやりとした光におおわれ、水中に橋影と灯火がちらつくのが見えるだけだ。長尾が私に言うには、ここは華麗で東都の揚州であると。三妓を呼ぶ。小栄、小福、小吉、皆よろしからず。長尾は詩がとてもよく、即座に数首を連作し韻をかさねる。張袖海がこれに和し、私も已むを得ず書いていわく、「子野(張袖海の号?)は歌を聞きどうしようかと叫び、二君の句は人をとても感動させる。蘇龕(鄭孝胥の号)は、今夕君のために酔い、両国橋のたもとで月の下を過ぎる」。「酒家が川端に船のように集まり、我が客は世俗にとらわれず、地上に降り立った仙人である。私は酔ったので月の明るいうちに帰りたい。李白のようにわざわざ盃をあげて天に問うこともない」と。……*12

 鄭孝胥は、長尾雨山と会うたびに雨山の詩に感嘆の声をあげている事実に注目しておきたい。雨山が鄭孝胥より一方的に学恩を受ける立場であったなら、その交流はそう長くは続かなかったかもしれない。だが、鄭孝胥も一目をおく才能を雨山が有していたからこそふたりのあいだには厚い信頼関係が生まれたともいえるのだ。
 これ以後、鄭孝胥日記には、長尾雨山に関するあまり長い記述は見えない。

十一月初七日(12.25)
 役所に行く。花園町へおもむき長尾を訪ね長く話しこむ。日本人で田中三四郎というものが同席する。長尾は日本林谷の刻印をひとつ贈る。文にいわく「撫孤松而盤桓」(陶潜)と。また彼の父・竹懶の詠琴詩巻子を示す。詩はとてもさっぱりしていて俗ではない。さらに中国人・王克三の画梅一幅を出すが、運筆は俗である。客は帰り、長尾は湖辺へちょっと飲みにいこうとさそう。私に一緒に副島のところに行こうと請うが、断わる。……*13

 竹嬾は、雨山の父・柏四郎勝貞の号。

十一月初九日(12.27)
 ……長尾が一人をつれて来る。姓は牧、名は野、号は静斎、儒者である。長く座り、一緒に出て湖月楼で飲む。春吉、春楽の二妓を呼ぶ。夜中に分かれる。*14

 日本人で「野」という名前は考えにくいから、「牧野」という姓の間違いだろう。

十一月十五日(1893.1.2)
 役所に行く。水野、浅田、長尾、西島らへ賀年の書を書く。*15
十二月初四日(1.21)
 ……夜、長尾が来る。副島が話しをしたいと私を明日招待するというが、断わる。*16
光緒十九年一月二十三日(3.11)
 ……長尾雨山が来る。長く座る。*17
二月初六日(3.23)
 曇り。役所へ行く。午後、長尾雨山がその友・黒木欽堂、名は安雄なるものを連れて来る。夕方まで話す。長尾は私の送別の宴をしたいというが、感謝して断わる。二人が言うには、西京の文士で知っているのは、大阪では、藤沢恒、号南岳、古文をよくする。五十川エ堂、また古文をよくする。神戸では水越成章、号耕南、詩がうまい、亀山節宇、また詩をよくする。西京では江馬天江、小野湖山、みな詩をよくする。私のために紹介の手紙を送るという。……*18
二月十三日(3.30)
 ……四時、秋樵と両国橋へ行き長尾を訪ねるが、会えず。……*19

 送別の話がでてくるのは、このあと鄭孝胥は、船で横浜を発ち神戸へ向うからである。以下は神戸での日記だ。

三月二十五日(5.10)
 ……長尾雨山が来る。引き止めて食事を出す。里差遜が館に着く。夜、洪韻松、長尾と食事をする。*20

 里差遜は、音訳すればリチャードソンとなるだろうか。三月二十三日(5.8)に英語の教師として推薦された「密色士里差遜」の名前が見える。こちらは、リチャードソン夫人であろう。

光緒二十年二月二十一日(1894.3.27)
 ……長尾槙太郎と牧野が来る。手合亭で食事をし、妓女を呼ぶ。……*21

 1894年8月、日清戦争が始まった。鄭孝胥は、同月、帰国する。雨山との交遊は、しばらく途絶える。

【注】
1)最近では、杉村邦彦「有関長尾雨山的研究資料及其韻事若干」(『印学論談』杭州・西毎社出版社1993.10。268-325頁)が、長尾雨山その人と研究、資料について詳細に述べている。また、松村茂樹「長尾雨山『嘉慶道光以後の支那画』」(『中国文芸研究会会報』第150期記念号 1994.3.30。116-121頁)が新資料を紹介する。二論文ともに参照されたい。
2)鄭孝胥の略歴については、中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』(全5冊 北京・中華書局1993.10)、『アジア歴史事典』(下中邦彦 平凡社1959.9.20/84.4.1復刊)、橋川時雄『中国文化界人物総艦』(北京・中華法令編印館1940.10.25初版。名著普及会復刻1982.3.20。713頁。肖像を附す)によった。カッコ内の引用は、『アジア歴史事典』の百瀬弘の筆になる。
3)汪家熔整理「解放以前商務印書館歴届負責人(董事長、総経理、総編輯)」『商務印書館館史資料』之十九 北京・商務印書館総編室編印1982.11.5。20-21頁。以下のように書かれている。
1.董事会主席
1903-1909年初、有董事四名、不設固定会議主席
1909年3月-1912年5月 主席 張元済
1912年6月-1913年5月 主席 鄭孝胥
(以下略)
4)『鄭孝胥日記』234頁。
5)長尾雨山『中国書画話』筑摩書房1965.3.10/1975.9.15初版第12刷。吉川幸次郎「解説」。360頁。
6)『鄭孝胥日記』255-256頁。
7)長尾雨山『中国書画話』筑摩書房1965.3.10/1975.9.15初版第12刷。吉川幸次郎「解説」。361頁。
8)長尾雨山『中国書画話』筑摩書房1965.3.10/1975.9.15初版第12刷。吉川幸次郎「解説」360頁。
9)『鄭孝胥日記』257頁。
10)『鄭孝胥日記』259頁。
11)『鄭孝胥日記』325頁。
12)『鄭孝胥日記』330頁。
13)『鄭孝胥日記』333頁。
14)『鄭孝胥日記』333頁。
15)『鄭孝胥日記』333頁。
16)『鄭孝胥日記』337頁。
17)『鄭孝胥日記』344頁。
18)『鄭孝胥日記』345頁。長尾雨山「欽堂黒木君墓銘」『東洋文化』第40号(1927.8.1)がある。
19)『鄭孝胥日記』346頁。
20)『鄭孝胥日記』352頁。
21)『鄭孝胥日記』402頁。