清末小説から 第36号 1995.1.1


鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館(2)

樽 本 照 雄



4.時務報グループ
 日清戦争がはじまり帰国した鄭孝胥は、本拠を南京におき、時に上海を往来する生活を始めた。
 この時期、商務印書館はまだ設立されていない。鄭孝胥が上海で長尾雨山と再会するのは、十数年後の1906年のことになる。本論の主題から少しはずれるように見えるかもしれない。しかし、鄭孝胥とその交友関係を探っていくと、ある一定の傾向があり、それは後の商務印書館との結びつきと無縁ではなさそうに思う。鄭孝胥日記に記録された人物をとりあげ、南京、上海における鄭孝胥の交際を見ておきたい。
 私が注目するのは、鄭孝胥と維新派新興ジャーナリストたちとのつきあいである。しぼり込めば時務報グループということができよう。以下の記述は必ずしも時間の経過に沿ったものではないことをおことわりしておく。

4-1 黄遵憲(1848-1905 字は公度)
 鄭孝胥は、初対面の人物についてはその日記に何か一言書き加えていることが多い。ただし、誰のときでも同様なのだが、普段のつきあいでは鄭孝胥日記には名前だけの登場となる。黄遵憲の場合もそうだ。(引用文末尾の数字は、中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』北京・中華書局1993.10の頁数を示す。以下同じ)

光緒二十一年二月二十九日(1895.2.23)
 午後、黄公度に会いに行き、長く話し込む。とても賢く、なかなか才気がある。(471頁)

 この日より、鄭孝胥と「とても賢く、なかなか才気がある」と評された黄遵憲との交際が始まった。駐日本公使館書記官(参賛)を勤めたことのある黄遵憲とは話が合ったのではなかろうか。当時、黄遵憲は上海に住んでいたらしく、『鄭孝胥日記』に名前の見えない時期がある。が、南京を訪れた時には、連日といっていいくらいのつきあいが続いているからだ。
 鄭孝胥と黄遵憲のつきあいがはじまった直後の三月二十三日(1895.4.17)、日清講和条約が調印された。ひきつづいて、ドイツ、フランス、ロシアの三国が日本に遼東半島を清国に返還するよう勧告する。いわゆる三国干渉である。四月初八日(1895.5.2)、会試受験のためおりから北京に集まっていた各省挙人1300名余りは、日清講和条約締結に憤慨し、康有為を中心にして署名を集め、遷都、練兵、変法などの要求を光緒帝につきつけた。往時、受験のため車馬で都に登ったことにちなんで命名されたこの公車上書には、梁啓超、麦孟華の名前も見える*8。
 その後、康有為、梁啓超らは北京に維新派の政治団体強学会を組織し、おなじく強学会上海分会も設立した。上海分会に参加した者のなかに、汪康年、黄遵憲、章炳麟らがいる*9。しかし、両者とも短期間で閉鎖された。上海分会は、『強学報』という定期刊行物を発行したが、これもわずか3号で発行禁止となる。
 閉鎖された強学会上海分会には、張之洞らの寄付金の残額1200両があった。これに黄遵憲が1000元を、盛杏が500元を寄付して『時務報』が創刊される*10。
 『時務報』第1冊は、光緒二十二年七月初一日(1896.8.9)に発行され、第69冊(光緒二十四年六月二十一日<1898.8.8>)までが出た*11。主宰者は汪康年。主筆を担当した人々は、梁啓超、麦孟華、章炳麟などである。日本文翻訳は、古城貞吉だった。
 鄭孝胥が汪康年と知りあうのは、『時務報』が創刊される約半年前のことだ。

4-2 汪康年(1860-1911 字は穣卿)
 張之洞の幕僚であった汪康年の方から訪ねてきた。

光緒二十二年正月十六日(1896.2.28)
 ……汪康年が訪ねてきたが、会わず。夕方、答礼のために訪問する。汪は、号穣卿。(546頁)

 これ以上くわしいことは書かれていない。この時期、鄭孝胥日記には汪康年の名前はそれほど多くは見えない。『時務報』関係でいえば、該誌の代理販売をさせられたことくらいだ。

七月初七日(1896.8.15)
 ……繆小山が来て、『時務報』十冊の代理販売を依頼する。汪穣卿らが創刊したものである。……(568頁)

 『時務報』第3冊光緒二十二年七月二十一日(1896.8.29)に「各処代收捐款諸君名氏住所」が掲載されている。援助金を代理受領するくらいだから時務報となんらかの関係がある人だと思われてもよかったのだろう。それに「南京 繆筱珊太史舞キ 鍾山書院/鄭蘇龕大令孝胥 洋務局」とある。繆筱珊とは、日記に見える繆小山その人だ。
 『時務報』の広告ついでに、おなじく第3冊の販売所に「淮安城内高公橋劉公館」とあるのは劉鉄雲の家である。第14冊より、劉公館に加えて「更楼東羅公館」と見えるが、こちらは羅振玉の屋敷だと思われる。
 黄遵憲、汪康年あるいは後に出てくる梁啓超、麦孟華たちは、時務報グループといっていいかもしれない。この時務報関係者ではないが、私が長らく興味をいだいている人物が鄭孝胥日記に出てくるので、触れておく。その人は、陳季同である。

4-3 陳季同(1851?1852-1907 字は敬如)
 陳季同といえば、曾孟樸がフランス文学研究に身を入れるきっかけになった人物として私の記憶にある。有名なわりにはその経歴があまりはっきりわからない人なのだ。
 陳季同は、福建船政学堂を卒業したのち、1877年にパリ留学、1880年駐仏中国大使館付き武官となり、1886年将軍に進級した。婦人はフランス人。フランス語の著作を持つ。アナトール・フランスとの友情も厚かったらしい。ロマン・ロランの日記にも陳季同の講演の模様が記述されている。1900年、陸樹藩が義和団の難民を救済するため上海から天津に向かった時、同行したのがこの陳季同と厳復である*12。
 陳季同についてそのほかわかったことといえば、1885年に永井禾原とイタリア万国衛生会議に参加したとか(永井禾原『西遊詩続稿』巻1、一ウ)、1897年9月、『求是報』を兄弟で創刊したことくらいだった*13。
 その後出版されたいくつかの人名辞典によると、1878年駐フランス書記官に任じられ、前後してドイツ、イタリアなどの公使館に勤務、帰国後、1884年に幕僚の身分で劉銘にしたがい台湾に赴き、のち副将となる。1895年、「馬関条約」締結後、「台湾民主国」組織を建議し、「外務大臣」となった。失敗ののち大陸にもどっている*14。
 さて、その陳季同と鄭孝胥との初顔合わせである。

光緒二十一年三月初十日(1895.4.4)
 籌防局に行く。(沈)愛蒼、旭庄、次玉、伯初および台湾に行くという陳敬如にあう。(479頁)

 陳季同は、これから台湾に行くというのだから、上の略歴に見える「台湾民主国」建国を目的としていたのだろう。鄭孝胥日記にそうとは書かれていないが、それしかない。台湾の日本割譲に反対して建国された台湾民主国は、日本軍の攻撃により同年6月6日には早くも滅んだという。鄭孝胥日記の閏五月初三日(1895.6.25。499頁)には、陳季同の名前が出てくるのだから、陳季同の台湾行は台湾民主国の誕生と滅亡の時期に重なっていることがわかるのだ。
 厳復は、鄭孝胥日記には、幼陵の名前で出てくる。

4-4 厳復(1854?1853-1921 字は幼陵)

光緒二十一年八月二十四日(1895.10.12)
 ……帰宅すると似斎の弟および陳敬如に会う。厳幼陵が訪ねてくる。衣服を飾り、とても美しい。長く話し、ともに雅叙園へ赴き、食後分かれる。幼陵はすでに鬚をたくわえているが、崩れているほどではない。……(518頁)

 会ったというだけで、それ以上の何かがあるわけではないが、一応、鄭孝胥の交友圏のなかに含めておく。ついでにいうと、厳復が『天演論』を出版するのは、鄭孝胥と会った約4年後の1898年だ。
 鄭孝胥は、この時期、前述のように南京を活動の本拠地としていた。時に国内旅行もしているが、上海は近くとあってよく行っている。厳復との出会いも上海でのことだった。
 光緒二十三年正月から二月にかけて、鄭孝胥は、上海に滞留していた。正月十二日(1897.2.13)の夜、上海に到着し、連日のように陳季同、汪康年たちと会っている。名前だけでもあげておこう。全部は挙げ切れないので関係する人物だけだ。同一日に名前が重複しているのは、時間をあらためて会っていることを示す。

正月十四日(1897.2.15)
 汪穣卿、愛蒼、陳敬如、鄭雅村。(588頁)
正月十五日(1897.2.16)
 何眉孫、鄭雅村、陳敬如、馬湘伯。(588頁)
正月十六日(1897.2.17)
 鄭雅村、陳敬如。(588頁)
正月二十日(1897.2.21)
 何眉孫、羅篤甫、沈笛伊、陳敬如。(589頁)
正月廿一日(1897.2.22)
 陳叔伊、陳敬如、何眉孫、滋卿。(589頁)
正月廿三日(1897.2.24)
 汪穣卿。(589頁)
正月廿五日(1897.2.26)
 謝オ亭、汪穣卿、李叔倫、汪穣卿、盛杏、汪穣卿、張経甫、何眉孫。(589-590頁)

 鄭孝胥が梁啓超と始めて会ったのも、この上海滞在中のことだった。

4-5 梁啓超(1873-1929 字は卓如)
 鄭孝胥日記には次のように書かれている。

光緒二十三年正月廿六日(1897.2.27)
 何秀夫が来る。汪穣卿、梁卓如がふたりして一品香洋菜館に招待してくれ、そこで余亦斎、呉銕樵、鄒殿書、章枚叔たちと会う。何眉孫もまたその場にいる。梁卓如は、人となりは伍昭魔ノ似ているが、言うことは超然としてゆったりとした趣がある。(590頁)

 梁啓超の性格が伍昭魔ノ似ていると書いてはある。しかし、伍昭魔ェどのような人なのかわからないので、推測しようにもどうしようもない。章枚叔の名前が見える。章炳麟だ。
 正月廿七日(1897.2.28)、午後、汪康年、梁啓超を訪問したり、正月廿九日(1897.3.2)、夜、飲もうと陳季同が約束に来て、その夜、新太和館へ行ったり、二月朔(1897.3.3)、梁啓超が来たり、の生活を続けていた。
 梁啓超と張之洞系の汪康年とはうまくいっていなかったらしい。事実、梁啓超は、のちに『時務報』の主筆を辞任している。が、鄭孝胥日記の記述を見ると、汪康年と黄遵憲の間柄にも矛盾があったようで、どうやら時務報館内の問題といえそうだ。上海の滞在を終えて南京にもどった鄭孝胥の耳に、汪康年と黄遵憲は仲が悪い、という噂が伝えられる。

四月初二日(1897.5.3)
 ……夕方、譚復生が来て話すには、時務報館の黄公度は、汪穣卿を追い出そうとしているという。汪がつれてきた章枚叔というものは、粤党の麦孟華たちと合わず、章は康有為をひどくそしり、康の門人は一緒になって章を追い払うと、狼狽して逃げていった。(598頁)

 黄遵憲は、『時務報』への出資者だし、汪康年は主宰者だ。黄遵憲、汪康年ともに鄭孝胥の共通の友人でもある。その内部紛争ということができよう。「合わず」という書き方からすると、感情的なものが原因かと想像される。ただし、詳細が書かれていないのでこれ以上のことは言えない。
 正月、二月の上海滞在を終えたかと思うまもなく、五月末にまたもや上海に鄭孝胥はいる。関係部分を引用する。

五月廿八日(1897.6.27)
 ……時務報館へ行き、汪穣卿、梁卓如、麦孺博らに会う。(605頁)

 麦孺博は、麦孟華のこと。

五月廿九日(1897.6.28)
 汪穣卿が来る。汪、梁、麦公が東和洋行に誘ってくれるが、断わって行かず。(605頁)
六月初六日(1897.7.5)
 汪穣卿、梁卓如と鴻運楼で飲む約束で、陳伯年、張譲三、孫仲隅たちがいる。(606頁)
六月初九日(1897.7.8)
 蒋伯斧が来る。農学会を開設した人物である。蘇州人、歳は二十余。篤実そうな風貌で、長く座ってようやく帰る。時務報館を訪れ、穣卿……に会い、……。(606-607頁)
六月十一日(1897.7.10)
 朝、農会報館へ行き蒋伯斧を訪ねるが、遇わず。梁卓如のところへ行くが、起きていない。(607頁)
七月初二日(1897.7.30)
 午後、時務報館へ行き、汪穣卿に会うと彼が言うには、黄公度がここにいて、穣卿が弟の汪頌閣に「総理事」を与え、自分は「董理」になりたいといっている。(610頁)

 この記述も汪康年と黄遵憲の不和をいっているのかと思う。当事者の一方である汪康年自身の口から発せられたものだから確かなものだろう。

七月初四日(1897.8.1)
 午後、梁卓如、汪穣卿、李一琴が来る。汪と黄公度が不仲で、余は長らく和解させようとした。明日、報館で諸人が全員集まり公度の送別の宴を行なう。(610頁)
七月初五日(1897.8.2)
 午後、卓如が来ていうには、夜九時に万年春で公度に分れのあいさつをする。余に必ず行くようにと。夜、行くと、梁、汪はまだ来ておらず、公度はすでにいる。(610頁)

 不和の結果は離別ということか。
 相変わらず鄭孝胥は、南京と上海の間を行ったり来たりしているが、次の記録も上海でのことだ。

八月初四日(1897.8.31)
 ……印書会へ行くと、陳敬如たちが《求是報》を創刊し、叔伊が主筆で、洪永之、王幼蘊らもみないる。洪永之が余にたずねて、「印書会はどのような道を取れば維持できましょうか」というので、余は、「自分で書籍を印刷するのがよい、印刷請け負いが繁盛すれば維持できる」と答えた。洪は、「しかしながら自分で印刷しようにも翻訳費用がかさむのが苦しいところで、おまけにみんなうまくいくとは限りません、どういたせばいいでしょう」という。余は、「西洋の書物を翻訳し、新しく出版するのがいい。各国の新しく布告された憲章と外国商人の募集ビラ図説をもっぱら集めたものは、手軽だからやりやすいし、また新しいからうまくいきやすい」といった。洪は、「なるほど」という。(615頁)

 叔伊は、陳衍の字。鄭孝胥日記には、自作の詩、その時々の公文書が写されていたり、上のように会話が再現されていて、面白いのだ。私がこの部分に注目するのは、鄭孝胥が出版に対して興味を示していることがわかるのと同時に、時代が必要としている出版物について鄭孝胥自身の考えをすでに持っている点だ。印刷請け負いを基礎とし、西洋の翻訳、それも中国の時代にあったものを出版するという方針は、この時点で発足したばかりの商務印書館の方針とたいして違わない。キリスト教会の印刷請け負いと商業関係の印刷を主たる業務として開設されたのが商務印書館だった。光緒二十三年正月初十日(1897.2.11)が商務印書館創業の日であるが、鄭孝胥日記の発言はそれと同年のことだ。鄭孝胥は、後に商務印書館と関係することになる。彼と汪康年、梁啓超、陳季同らジャーナリストとのつきあいに加え、彼自身がもつこのような経営感覚が、鄭孝胥と商務印書館を結びつける大きな下地となっていたに違いない。出版について知る人物が、商務印書館の理事になるほうがより好都合だ。
 この年、鄭孝胥は、江南製造総局に職を得、上海に転居することになった。

5.上海へ転居
 鄭孝胥の新たな就職を記録しているのは、以下の記述である。

光緒二十三年八月廿四日(1897.9.20)
 曇り。午後、宝源祥へ行くと、何眉孫が「総公司に書手がひとり足りない、人はいるか」というので、余は答えなかった。晩、似斎が来て、楷書を試しに書いて、明日行って見せるようにいう。(619頁)

 ここにいう「総公司」というのは、江南製造総局(通称:江南製造局)のことだ。書手としたのは、原文「写手」であるが、楷書を試験するくらいだから文書を記録するのが職務だと想像する。
 この日以来、ほとんど毎日のように「総公司」あるいは「公司」へでかける生活が始まった。また、八月廿九日(1897.9.25)に虹口寿椿里に家を借りており、上海で別の職に就いたことと無関係ではありえない。
 以前、短期間上海に滞在していたころの交流が再現され、今度はこころおきなく続く。梁啓超、汪康年、陳季同らと、訪問しあい、料理屋に招かれ招きかえし、時務報館、求是報館を訪れ、話をすることが繰り返される。その仲間に羅叔蘊が加わったのは十月のことだった。

【注】
8)湯志鈞『戊戌変法人物伝稿(増訂本)』北京・中華書局1961.4/1982.6第二次印刷。670、671頁。
9)湯志鈞『戊戌変法人物伝稿(増訂本)』717、720頁。
10)『時務報』第3冊(光緒二十二年七月廿一日<1896.8.29> 台湾・京華書局影印1967.5)には、「助資諸君名氏」として「汪穣卿進士/梁卓如孝廉 集銀壹千貳百両 黄公度観察捐集銀壹千元 盛杏観察助銀伍百両 朱竹意志廉訪助銀壹百元 黄幼農観察助銀伍百両 薛次申観察助銀貳百元 黄愛棠大令助銀壹百元 ……」などのように掲載されている。また、史和、姚福申、葉翠ヨ編『中国近代報刊名録』(福州・福建人民出版社1991.2)には、鄒凌翰の名前もあげてある。189頁。秦紹徳『上海近代報刊史論』(復旦大学出版社1993.7)には、張之洞が強学会上海分会に寄付したのは1000両だと書いてある。40頁。
11)上海図書館編『中国近代期間篇目彙録』第1巻 上海人民出版社1965.12/1980.7第二次印刷
12)樽本照雄「陳季同、ロマン・ロラン、陸樹藩」『清末小説研究会通信』第10号 1981.9.1。のち『清末小説きまぐれ通信』1986.8.1所収。
13)「乙未戊戌間全国各地主要報刊負責人題名」、湯志鈞『戊戌変法人物伝稿(増訂本)』北京中華書局1961.1第1版未見/1982.6第二版所収。733頁。また、湯志鈞「清末民初上海的報刊(二)」『出版史料』1988年3,4合期(総13,14期)1988.9。100頁。
14)李盛平主編『中国近現代人名大辞典』北京・中国国際広播出版社1989.4。408頁左。同様の記述が陳玉堂編著『中国近現代人物名号大辞典』(杭州・浙江古籍出版社1993.5。514頁)にある。また、陳秉仁「汪康年師友書札各家小伝」上海図書館編『汪康年師友書札』(四)上海古籍出版社1989.10。4109-4110頁。さらに、アナトール・フランス著、小野忍訳「支那小説談――陳季同訳「支那短篇小説集」について――」『中国文学月報』(第33号 1937.12.1)があることも指摘しておく。