『清末小説から』第37号 1995.4.1


鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館(3)

樽 本 照 雄



5-1 羅振玉(1866-1940 字は叔蘊)

光緒二十三年十月廿日(1897.11.14)
 汪穣卿の約束で万年春に行き、席には葉曼卿、郭秋屏、羅叔蘊がいる。羅は名を振玉といい、農会報館の理事である。(629頁)

 農会(または務農会)は、羅振玉と蒋伯斧によって、1896年、上海に創設された。翌1897年、雑誌『農学報』を発行しはじめている。上の日記には「農会報館」とあるが、別の箇所では「農学報館」と書かれており、当時、両方の呼称があったのか、それとも書き間違いなのかわからない。鄭孝胥が羅振玉と顔をあわせたのは、このころの話なのだ。
 『農学報』を見れば、いく人もの手になる題字のうちひとつは鄭孝胥が書いている。また、劉鉄雲の兄・孟熊も筆をふるっているのが注目される。農会加入者の名前には、創立者の蒋伯斧、羅振玉の名前があるのは当然として、汪康年、梁啓超、黄遵憲の名が掲げられいる。時務報グループと同じなのだ。そのほか、目を引く会員というと、馬建忠、李鴻章、劉鉄雲、程恩培、張鴻あたりか。
 さて、鄭孝胥の訪問先に、時務報館、求是報館のほかに農学報館が加わったのはいうまでもない。
 以後、交際の模様は大きく変わることもなく、頻繁に同じような顔ぶれの名前が日記に記録されていることだけを述べ、年があけて光緒二十四年正月の高夢旦との出会いに筆を進めたい。

5-2 高夢旦(1870-1936 原名は鳳謙)と会う
 桐城派の名手だった高嘯桐(名は鳳岐。1882年の挙人)とは、鄭孝胥は面識があった。高鳳岐三兄弟の末弟が高夢旦である。高夢旦は福建の人。長兄・鳳岐に作文を習い、秀才に合格した後、家庭教師をして自給する。そのころ林゚とも交際している。1895年、鳳岐に従い杭州で西湖蚕学館(蚕桑専科学校)を手伝った。
 高夢旦は、『時務報』に投稿し梁啓超に認められたという。『時務報』には、高夢旦の文章が3篇掲載されている。第24冊(1897.4.22)「拝跪の礼は、現在、行なってはならないことを論ず(論拝跪之礼不可行於今)」、第26冊(1897.5.12)「西洋の有用の書籍を翻訳するについての意見(翻訳泰西有用書籍議)」、第53冊(1898.3.3)「釈彝」という。いずれも時事を論じたものだ。高夢旦は、最初、梁啓超とは手紙のやりとりをしていたが、上海に出た時、梁啓超に会った。ところが、高夢旦は福建語をしゃべり、梁啓超は広東語をあやつり、まったく話が通じない、やむなく終日筆談をすることになったと蒋維喬が書いている。
 鄭孝胥と高夢旦の出会いを見てみよう。

光緒二十四年正月廿三日(1898.2.13)
 ……夜、汪穣卿の新太和館での招きに応じる。高夢旦に会う。嘯桐の弟である。杭州に行くという。(642頁)

 高夢旦は、旅行で上海に来ていたことになる。
 こののち杭州求是書院が浙江大学堂に改められると労乃宣に招かれて総教習となり、1902年、学生につきそって日本を訪問する。その時の見聞から、日本の明治維新の成功は、小学教育に根本原因がある、と高夢旦は認識したらしい。同年、兄の高鳳岐が張元済との関係で商務印書館に入社する。翌1903年末、高夢旦は辞職して日本から帰国し、上海の商務印書館に入社することになる*15。
 鄭孝胥が、商務印書館に入社するまえから高鳳岐、夢旦兄弟と交際があったことも、のちの鄭孝胥の商務印書館入りに影響をもたらしたと思うのだ。
 ついでだから、鄭孝胥日記に見える林゚(1852-1924 字は琴南)と高鳳岐の例をいくつか拾いだしておく。先に言っておくと、鄭孝胥、高鳳岐、林゚の三人ともに、1882年に挙人となっているので同期の友人ということになる。

閏三月廿七日(1898.5.17)
 ……永興里へ行き(林)琴南、(高)嘯桐の同期のふたりを訪問するが、いない。……(656頁)
閏三月廿八日(1898.5.18)
 抜可が来る。しばらくして、(林)琴南、(高)嘯桐来がくる……(656頁)
閏三月廿九日(1898.5.19)
 ……姚石浮ェ来る。林琴南、高嘯桐、李抜可と嵐が同じく来る。……(656頁)
四月朔(1898.5.20)
 ……車で(林)琴南、(高)嘯桐を訪問し、はなはだ長く話し込み帰る。嵐と(林)琴南たちは一緒に杭州へ遊ぶ。……(656頁)

 上は、林゚と高鳳岐のふたりと鄭孝胥が会っているものだ。鄭孝胥が、林゚ひとりと話したりご飯を食べたり、一緒に写真をとったりしたのは、四月二十日(1898.6.8)から廿三日(6.11)までの連日であったりする。
 さて、高夢旦といえば、

五月朔(1898.6.19)
 朝、羅叔蘊を訪問し、路で高夢旦に会う。……(663頁)

と日記には見える。
 高夢旦との路上での出会いは、最初の面会からほとんど四ヵ月の空白がある。これは高夢旦が当時杭州に住んでいたことによるのだろう。

6.戊戌の政変まで
 今、記述の対象としている光緒二十四年(1898)は、戊戌の年だ。この年に行なわれた改革運動が、戊戌の変法である。短期間で失敗に終わる(戊戌の政変)が、それまでに、鄭孝胥の日記に見える記事で私の注意を引くことがらを、簡単に書きとめておく。

6-1 時務報館の総主筆を引き受ける
 梁啓超は、第55冊(1898.3.22)を限りに『時務報』の主筆を辞任した。汪康年は、梁啓超の主筆辞退を見越していたらしく、梁啓超に替わる主筆を早目にさがしていた。見つけたのが鄭孝胥である。

正月廿六日(1898.2.16)
 ……愛蒼を訪問し、汪穣卿に会うと、余に時務報館総主筆となるよう要請する。新聞の頭に掲載する外来の文章を選ぶことが主というので、余は引き受ける。(643頁)

 それぞれに一家言の持ち主であるから、意見の衝突することが出てくるのは当然だろう。

6-2 東文学社の開設
 中島裁之が北京に創設した東文学社がある。中国人に近代知識と日本語を教授する目的の私立学校だ。北京・東文学社は1901年の創立だが、上海の東文学社は、それよりも3年早くできている。

二月十八日(1898.3.10)
 高嘯桐が来る。午後、東文学社を訪問する。羅、蒋が社主である。みな正装でやってきており、余は普段着だ。書状を渡して帰る。当日は開学のため客を招いて宴会である。公司に行き、愛蒼が来る。夜、劉聚卿と一緒に蒋、羅を農会報館へたずねる。……(646頁)

 実藤恵秀は、「東文学社は日本語をおしえるために、1898年、羅振玉によって、上海に開設され、藤田豊八がその教育にあたったものである」*16と書いている。鄭孝胥の日記により、その開設の日時が特定できる。北京・東文学社に、劉鉄雲は寄付をしているが、劉鉄雲の友人である羅振玉がはじめた東文学社であるから、なんらかの援助をしなかったのだろうか、という疑問がわく。ただし、そこまでは『鄭孝胥日記』からうかがうことはできない。

6-3 劉鉄雲(1857-1909 名は鶚)の名前が見える
 閏三月初四日(1898.4.24)に受け取った手紙によると、山西の鉱山開発、鉄道建設について述べており、それに劉鶚が提案した借款契約および規定二十余条が示してある、という。(653頁)
 山西の鉱山は、山西省の商務局が外国資本である福公司からの借款により開発をはじめたものだ。福公司の中国人支配人になったのが劉鉄雲であり、そのため外国人と通じているとの批判があった。結果は、劉鉄雲が免職になるのだが、これがのちの劉鉄雲漢奸説の根拠ともなったのだ。

6-4 方守六に会う
 四月初九日(1898.5.28)には、「方守六なる者が来る。方寿伯の甥で、現在、中西書院で英語を学んでいる」(657頁)という記述がある。方守六といえば、英斂之を思いだす。英斂之が天津で『大公報』を創刊する準備をしていたとき、天津、上海間を往来して主筆となる人物をさがしまわっていて、結局、契約したのが方守六だった。連夢青を英斂之に紹介したのも方守六である*17。なるほど、方守六は、英斂之と出会う4年前は、中西書院で英語を学んでいた学生だったのか。それがすぐさま新聞の主筆になるのだ。若い知識人が必要とされた時代だったことが理解できるのだ。

6-5 小田切万寿之助(1868-1915)と会う
 小田切万寿之助は、東京外国語学校で中国語を学んでいる。1896年に杭州領事、翌1897年には上海総領事代理となっているから、鄭孝胥との面会は、上海赴任後それほど時もたっていない時期である。

二月初八日(1898.2.28)
 九時、神尾をたずね長く話す。日本領事小田切万寿之助に会う。中国語をあやつることができる。……(645頁)

 この初対面のあと何回か小田切と会っているが、亜細亜協会の規則についてやりとりをしていることだけをいっておく。鄭孝胥は、日本で神戸兼大阪領事をやっていたこともあり、駐上海領事館と関係があることは別に驚くにあたらない。
 四月二十三日(1898.6.11)、変法維新が宣言される。
 四月廿八日(1898.6.16)の『鄭孝胥日記』には、「夜、亜細亜協会第一回集会に赴くが、小田切は来ていない。来たものは船津、永井の日本人ふたり。徐致靖が人材を推薦して、康有為、張元済のふたりは召見され、黄遵憲、譚嗣同は部に送られ引見、梁啓超は総理衙門に調べさせることになった」(661頁)と書かれている。鄭孝胥も張之洞に推薦され七月には北京に呼ばれた。北京で出会ったのが張元済だ。

6-6 張元済(1867-1959 号は菊生)
 鄭孝胥日記に張元済の名前は見えるものの、詳しくはない。
 「七月廿六日(1898.9.11)……張菊生が来る。……」(679頁)。日記には、これだけしか記述がないのだ。また、「八月朔(1898.9.16)……午後、訳書局へ行く。梁卓如、康幼博と一時に食事を約束していたのだが時間になっても主人は来ない。書き置きをして帰る。象房橋通芸学堂へ行き張菊生をたずねるが、遇えず。厳又陵と長く話す」(680頁)ともあって、梁啓超、張元済ともに多忙であることがわかるくらいのことである。
 『鄭孝胥日記』には、異変は、つぎのように記録されている。

八月初六日(1898.9.21)
 ……使用人がやってきて報告するには、九門提督(注:京師衛戍治安部隊の長官)が太后のお言葉を奉じて康有為を逮捕しようとしたが、康はすでに都を出ており、その弟康広仁および使用人五人を捕縛したという。(681頁)

 康有為、梁啓超は海外に逃亡し、譚嗣同、楊鋭、劉光第、林旭、楊深秀、康広仁は処刑、陳宝箴、江標、黄遵憲ら数十人は罷免された。維新改良運動であった戊戌の変法は、これで挫折する。戊戌の政変である。

【注】
15)高鳳岐と高夢旦については、以下の文献によった。
汪家熔「高夢旦先生小伝(1870-1936)」『商務印書館館史資料』之二十七 北京・商務印書館総編室編印1984.6.20
蒋維喬「高公夢旦伝」『東方雑誌』第33巻第18号1936.9.16/『出版史料』第5輯1986.6。94-97頁/『商務印書館九十五年』北京・商務印書館1992.1。50-57頁。
荘兪「悼夢旦高公」『商務印書館九十五年』北京・商務印書館1992.1。58-62頁。
16)さねとう・けいしゅう『中国人 日本留学史』くろしお出版1960.3.15/1970.10.20増補版。258頁。また、湯志鈞主編『近代上海大事記』(上海辞書出版社1989.5)には、「羅振玉在上海創辧東文学社、聘藤田豊八、田岡嶺雲、諸井六郎等日人任教員、学員有王国維、樊炳清、沈紘等」と書かれている(538頁)。
17)樽本照雄「『老残遊記』の成立」『清末小説』第15号 1992.12.1