『清末小説から』第38号 1995.7.1

鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館(4)

樽 本 照 雄



7.湖北から広西へ

 戊戌政変後、鄭孝胥は、いったん上海にもどったあと張之洞より先に湖北にむかった。
 武昌城内に居を定めた鄭孝胥が、日記の中でしょっちゅう会いに行っている広雅、南皮とは、すなわち張之洞のことである。時に上海に出ることもあった。上海では、羅振玉、張元済、汪康年らと面会したり、芝居を見るのがほとんど習慣のようになっている。
 この時期の略歴をおさらいすれば、鄭孝胥は、張之洞の命で京漢鉄路南段総辧をつとめ、漢口鉄路学堂を主宰した。1903年に広西で農民一揆が発生したため、広西辺防督辧としてベトナム国境に近い竜州に約三年駐在することになる*18。
 武昌にいたころ会った日本人を名前だけでもあげておこう。近衛公爵(740頁)、宗方小太郎*19(漢報館主742頁)、嘉納治五郎(843頁)、岡幸七郎および狩野直喜(852頁)らである。
 新聞『漢口日報』にかんして興味深い記述が見える。呉熕lとの出会いだ。

7-1 呉熕l(1866-1910)と出会う
 呉熕lは、光緒二十三年(1897)、『字林滬報』の文芸附録である「消閑報」を編集することからそのジャーナリストとしての人生を始めた。『字林滬報』は、もともとイギリス人の経営になる『ノース・チャイナ・デイリー・ニューズ』(North China Daily News 中国名字林西報)の中国語版として創刊された。「消閑報」が附録となったのは1897年というから、呉熕lは、その初期段階から編集にたずさわったことになる。ついでにいうと、光緒二十六年(1900)『字林滬報』は、営業不振により日本の東亜同文会に売られ、『同文滬報』と名前を変える。
 翌光緒二十四年(1898)には、『采風報』の主筆にまねかれた。この時期、呉熕lは、新聞主筆をハシゴするかのように短期間のうちに次々と場所を変わる。追い出されたとは書かれていないから、有能であったため引き抜かれたということか。『采風報』にしても、その創刊は光緒二十四年(1898)だから、呉熕lの就任を当てにしてのものかもしれない。『采風報』での仕事は、比較的長くつづいた。といってもせいぜい2、3年のことだ。光緒二十六年(1900)あるいは光緒二十七年(1901)に『奇新報』へ移るまもなく、光緒二十七年(1901)九月から光緒二十八年(1902)二月まで『寓言報』に腰をおろす。約半年がたつかたたぬかに、光緒二十八年(1902)春、呉熕lは『漢口日報』の招きに応じた*20。
 ということで、呉熕lは漢口に(たぶん)滞在している。
 鄭孝胥日記には、「光緒二十八年八月廿六日(1902.9.27) 始開《漢口日報》。……」(845頁)と書いてある。『漢口日報』の創刊は八月末だろう。すると、呉熕lがまねかれたのが同年春だというのは、創刊準備をするためだったとわかる。呉熕lと共に事にあたったのは、沈敬学(習之)、蒋子才(紫儕)であるという。
 鄭孝胥が住んでいたのは武昌だ。漢口へ行くには舟を利用する。鄭孝胥が呉熕lに会ったのは、その舟の中である。

光緒二十八年十一月初四日(1902.12.3)
 ……舟の中で粤人呉繭人に会う。漢口日報館主筆である。(852頁)

 日記の書き方から推測するに、ふたりは初対面だ。初対面でなければ、広東出身だの職業だのを書きはしない。繭人は、呉熕lの字である。何か話をしただろうが、その内容までは記録がない。翌年実施されるはずの経済特科が話題になってもおかしくはない、といいたいのだが、はたしてどうだろう。

7-2 経済特科
 経済特科というのは、清末に実施された臨時の試験で、時務に通じた人材を抜擢することを目的としていた。光緒二十四年(1898)に貴州学政厳修が提案し、容れられる。義和団事件で人材の必要性が痛感され、光緒二十七年(1901)に各部院寺の長官および各省督撫学政に推薦が命じられた。鄭孝胥日記の光緒二十七年四月十九日(1901.6.5)には、経済特科の試験を実施するという意味の十七日付け内閣上諭がそのまま引用されている。日記に上諭を書き写しているくらいだから、鄭孝胥はこれに興味を覚えたのだと想像する。
 鄭孝胥が舟中で呉熕lに出会ったちょうどその日、天津『大公報』に「保挙経済特科員名単」が掲載された。これを見ると、呉熕lは李伯元とともに曽広漢に推薦されている。鄭孝胥も張英麟に推挙されていることがわかる。ところが、鄭孝胥日記には、推薦についてひとことの言及もない。これはどういうことだろうか。経済特科に推薦する側から鄭孝胥に連絡はなかったのだろうかという疑問が当然のようにわくのだ。鄭孝胥日記に推薦に関する記述がないということは、本人には連絡なしに推薦を勝手に行なったと考えざるをえない。
 武昌で同日の天津『大公報』を見ることができるのかどうか、疑問を感じる。ただ、たまたま私が見たのは天津『大公報』であって、それ以前に経済特科候補者の名簿がどこか別の新聞に掲載された可能性もないわけではない。可能性を残しながら、経済特科が話題になったか、という点については、呉熕lとの会話について書かれていないので、今は不明としておこう。
 鄭孝胥日記には、前述した通り彼自身が経済特科に推薦されたという記述は見えない。しかし、鄭孝胥は経済特科に興味を示していた。というのは、武昌を離れてからの日記に「閏五月十四日(1903.7.8)……新聞によると、十六日が経済特科の試験という……」(887頁)と書いているのだ。試験日の二日前であるが、北京を遠く離れていた。一揆鎮圧の作戦行動を取る毎日の鄭孝胥には、受験できる状態にはなかった。にもかかわらず経済特科の試験について記録していることに留意すべきだ。
 日記には、もう1ヵ所経済特科に言及するところがある。六月初六日(1903.7.29)に経済特科の合格者名を書き写しているのだ(894頁)。一等袁嘉谷(穀)ら9名、二等馮善徴ら18名、合計27名全員の名前をわざわざ日記に記載しているところを見ると、気にはなっていたらしい。
 辺境に身を置く鄭孝胥にとって、社会の情報を入手する手段は、電報、各種新聞、友人との文通であった。日露戦争の模様もそうして知る。
 竜州における鄭孝胥については、省略する。だいぶ寄り道をしてしまった。先を急ごう。

8.上海にて
 光緒三十一年十月(1905.11)、鄭孝胥は上海にもどった。伝記類によると「海蔵楼」を築くということになる。
 早速、高夢旦、厳復、張元済たちとの交流が復活した。夏曽佑とのつきあいもはじまる(1018頁)。
 十二月廿一日(1906.1.15)には、商務印書館編輯所へおもむき張元済と会う(1024頁)。ところが、ここで当然出てきていいはずの長尾雨山の名前が見えない。
 長尾雨山はといえば、教科書疑獄事件に連座し1903年に有罪判決を受けている。同年12月1日午前、河内丸で神戸より上海にむけて出発し、そのまま商務印書館に勤務しているはずなのだ。
 ここで時間をさかのぼるが、『張元済年譜』*21によって長尾雨山の足跡を簡単にたどっておく。
 長尾雨山が上海についてからすぐさま商務印書館での国文教科書編集がはじまった。張元済、高夢旦、蒋維喬、小谷重および長尾雨山が参加し、編集方針を議論する。編集会議から約二ヵ月半後という速さで、光緒三十年二月十三日(1904.3.29)には『最新国文教科書』第1冊を発行している。光緒三十一年七月(1905.8)、商務印書館速成小学師範講習所が創設され、張元済、蔡元培、杜亜泉、蒋維喬、徐念慈、高夢旦、厳保成らと長尾雨山は教師を勤めた。
 鄭孝胥が商務印書館編輯所に姿を現わした1906年の時点で、彼の上海滞在はすでに2年が経過している。どういうわけか、鄭孝胥の前に雨山がいない。

8-1 長尾雨山と再会する
 鄭孝胥が長尾雨山に再会したのは、年が明けて光緒三十二年二月廿四日(1906.3.18)のことだった。その日の夜、鄭孝胥は、黄浦灘、大馬路を散歩する。来客がふたりあったのち、「長尾槙太郎がやってきて、蔡忠烈の漁村詩に題するよう求める」(1035頁)と書いてある。ただこれだけ、ほかには何も記されていない。あっさりとしたものだ。普通ならば、なぜ長尾雨山が上海にいるのか、その経緯など簡単な説明があってもいいように思う。それもない。話の内容が記録されていないのだから、はっきりしない。
 長尾雨山が上海に来ることになったその経緯については、数日前に商務印書館編輯所を訪れたとき、張元済、高夢旦たちとの話題にはのぼったのかもしれない。また、そんなことはなかったことも予想できる。教科書疑獄事件が長尾雨山本人から、直接、鄭孝胥に話されるようなたぐいの話とも思えない。それにしても日記に長尾雨山がなめたであろう辛酸について一言も触れていないのは、何を意味しているのだろうか。杉村邦彦氏の文章によると、長尾自身はその家庭内で事件のことは話題にしなかったという*22。考えれば当たり前のことだ。自ら求めて不愉快になることもない。家庭内でそうであるならば、外の上海においても同様であったろう。昔の友人に告げることではない、というのは常識から判断してのことだ。長尾雨山が上海にやってきた理由などについて、鄭孝胥が日記に書き残していないのは、友人の名誉を重んじたためなのか、あるいは別に理由があるのか。日記には、事実および思うことのすべてが書かれていなければならない、などとは思わない。聞いても日記に書かないこともあるだろう。また、本当のことを知らない可能性もないことはない。今は、疑問としておく。
 あっさりすぎる再会の翌日(二月廿五日、1906.3.19)、「長尾のために蔡忠烈に和する詩をつくる」(1035頁)とあり、つづく翌翌日(二月廿六日、1903.3.20)にも「長尾のために扇に題する」(1035頁)と見える。
 その後、長尾雨山の名前は、鄭孝胥日記にそれほど多くは登場しない。三月六日(1906.3.30)1037頁、廿九日(1906.4.22)1039頁、四月二十日(1906.5.13)1042頁、二十七日(1906.5.20)1042頁くらいのものだ。これでは頻繁な交際というわけにはいかない。そうなった理由のひとつは、鄭孝胥の立憲準備運動への参加ではなかろうか。

8-2 預備立憲公会など
 鄭孝胥は、七月廿八日(1906.9.16)に張園で立憲準備(預備立憲)についての演説を行なっている(1057頁)。明らかに清朝政府の立憲準備宣言を受けたものだ。鄭孝胥は、まず立憲制の研究を目的とした憲政研究公会を組織し、数回の会合をへて預備立憲公会と改名した(1061頁)。十一月朔(1906.12.16)、愚園で預備立憲公会第1回会議が開かれ、会員の選挙で理事15名が選ばれ、鄭孝胥は最多の46票だった。さらに理事の互選で14票(理事は15人なのだ)を獲得した鄭孝胥が会長に、張謇(字は季直)と湯寿潜(字は蟄先)のふたりが副会長となる。会長と副会長については、いろんな説があるらしいが、当事者が書いているのだからこれが正しいのだろう。商務印書館関係者では、張元済、高夢旦、陸爾奎、孟森、夏瑞芳、印有模、李抜可、陶葆霖、高鳳岐らが会員であった*23。
 その後、鄭孝胥は、南京などに数回の旅行を行なうなど多忙な日が続く。
 長尾雨山の名前が日記に登場するのは、ほぼ1年ぶりの光緒三十三年四月廿二日(1907.6.2)のことだ。「晴、午後また雨。高夢旦を訪問し、ともに商務印書館の新築印刷局と編輯所を見る。ともに長尾雨山、呉翊庭をたずね、九華楼で飲むことを約し……」(1093頁)と書いてある。新築の印刷局というのは、閘北宝山路に建設した印刷工場とそれに併設した編訳所を指す。編訳所は五月初三日(1907.6.13)から使われるから*24、鄭孝胥たちが見たのは、その直前のものだったことになる。
 鄭孝胥は、責任ある地位に就くと一所懸命にする人であるらしい。旅行中を除いて上海にいる時は、預備立憲公会の事務所に毎日のように顔をだしている。光緒三十三年十月初七日(1907.11.12)、曾孟樸に会ったのも、立憲公会がらみであるらしい(1114頁)。同月廿二日(1907.11.27)にも新安里の曾孟樸の家を訪問している(1116頁)。
 鄭孝胥は、毛織物工場設立にも関係した。光緒三十三年五月十九日(1907.6.29)から「日輝譎ミ」が日記に出現する(1097頁)。日輝織譎ミと書く文献もある。日記では日輝譎ミ、日輝帳房などと表現される。立憲公会に加えて、八月よりほとんど連日、日輝譎ミの帳場を訪れているところに、鄭孝胥の生まじめさのようなものを私は感じるのだ。日輝譎ミは、工場を建設し同年十二月には操業を開始するにまでこぎつけた(1171頁)。
 工場といえば、大生紡績工場の理事にもなっている(七月廿三日1907.8.31。1105頁)。鄭孝胥の場合、自らすすんで理事になるというよりも、選ばれて、あるいは依頼されて引き受けるというかたちをとることが多い。日輝譎ミの理事会では、工場の状況説明を報告したあと、来年はやらない、と声明しているところからも(十二月廿九日1909.1.20。1173頁)そこらあたりの事情が理解できるのだ。もっとも、「やらない」といいながら、その後も引き続き仕事をしてはいるのだが。

8-3 商務印書館株主
 鄭孝胥は、上海では高嘯桐、夢旦兄弟、張元済、厳復たちとしょっちゅうといっていいくらいに顔を合せている。そのこともあってか、商務印書館に赴くこともある。そこで商務印書館の株主になるよう説得されたらしく、いつのまにか株主になっている。「いつのまにか」というのは、日記に何月何日株主になった、とは書かれていないからだ。なぜ株主になっているのがわかるかというと、四月初六日(1908.5.5)に、「商務印書館の株主会で、議題は日曜日営業の事である。信者の株主諸君は、みなだめだという。多数決で決める」(1140頁)とある。株主でなければ、株主会に出席することはできない。信者というのはキリスト教のである。商務印書館の創立者で中心をなしていた3人はキリスト教信者であった。『張元済年譜』に引用された蒋維喬日記によると、株主会は一品香で開催され、参加した株主は41名、高鳳池が前年の営業報告を行なったあと理事を選出している。日曜営業を提案したのは張元済であったらしい。投票で決めたともある*25。また、四月十九日(1908.5.18)に商務印書館の1907年分の年利息を受け取っている(1142頁)。これも鄭孝胥が商務印書館の株主であることを証明している。
 鄭孝胥が、商務印書館の株主の資格で理事に選出されたのは、一年後の株主会であった。

8-4 商務印書館理事会
 宣統元年閏二月廿五日(1909.4.15)に鄭孝胥は、商務印書館株主会に出席した。理事を7名にするということで選ばれたのが、張元済、鄭孝胥、高翰卿、印錫璋、高夢旦、鮑咸恩、夏瑞芳である(1186頁)。この時、資本を75万元から80万元に増やすことが決められた。商務印書館の資本金の推移は、正確な金額がわかっていないという不思議なことがある*26。1909年の時点で、資本金75万元を80万元に増額するというのは今まで知られていなかった数字だといっていい。理事が書いていることだから信頼できる。
 株主会において理事が選出されたのをうけて、三月初八日(1909.4.27)、第1回理事会が開催され、張元済が主席となった(1188頁)。また、この会議には日本側の代表として加藤駒二と長尾雨山が列席していたはずだ*27。しかし、鄭孝胥日記には、日本人ふたりの名前は記録されていない。
 第1回理事会を含めて三月に2回、四、五、六、七月には各1回、八、九月に各2回、十、十一、十二月に各1回、つまり十ヵ月に合計13回の会議に鄭孝胥は出席している。ほかの組織の理事をいくつも兼ねているうえの活動だから、かなり忙しいといってもいいだろう。
 理事会のあいまに張元済(菊生)から相談を受けることもあった。

宣統元年四月初五日(1909.5.23)
 ……張菊生が来て商務印書館のことを話す。私はつぎのように言った。四部にわけるのがよい。株式・産業が一部、資材・印刷が一部、会計・発行が一部、編訳・出版が一部。それぞれに理事一人が責任を負う。そうすれば事業発展の基礎は固まるだろう。菊生はその通りだとし、理事会で提案しようという。(1193頁)

 組織作りのための素案であるらしい。張元済が理事会で提案しようというくらい鄭孝胥の考えは素晴らしかった、ということは簡単である。しかし、商務印書館が創立された1897年から数えて、この時点ですでに12年が経過している。理事会が第1回会議を開催したのも1909年であることを考えてほしい。すなわち、言葉を換えて言うならば、創業から12年間にわたって組織らしい組織もなく商務印書館は運営されてきたということだ。
 また、理事には、以下に示すような仕事もあった。

宣統元年十二月初四日(1910.1.14)
 張菊生が来て、商務印書館理事会の日本株主宛返信一通を示し、署名せよという。夏瑞芳のために給料と事務費を増額することである。……(1223頁)

 夏瑞芳は、商務印書館創立者のひとりである。その給料増額についても日本側へ報告しなければならないのか、とあらためて知る。それが外国との合弁会社というものなのか。わざわざ張元済が訪ねてきて署名を求めなければならない種類の事柄であるらしい。忙しいはずだ。肩書きだけの理事ではなかったこともわかるだろう。
【注】
18)陳貞寿「鄭孝胥」朱信泉、厳如平主編『民国人物伝』第4巻 北京・中華書局1984.3
19)中下正治「漢報と宗方小太郎」『季刊現代中国』第6号(1973.6.20)が詳しい。
20)以下の文献を参考にした。
●中下正治「中国のおける日本人経営の雑誌・新聞史」その1――明治期創刊のもの 『アジア経済資料月報』1997年7月号 1977.7.20
●魏紹昌編『呉熕l研究資料』上海古籍出版社1980.4。李葭栄「我仏山人伝」では、『漢報』という名前を出している。しかし、時期的にみてこれは1905年の『楚報』の誤りだ。『漢口日報』には触れていない。
●中島利郎「李葭栄『我仏山人伝』訳注――附 呉熕l年譜稿・呉熕l世系表――」大谷大学『文芸論叢』第20号 1983.3.30。本論文の注14と「呉熕l年譜稿」の1902年に見える『漢報』は、『漢口日報』の誤り。
●王俊年「呉熕l年譜」『中国近代文学研究』第2輯、第3期 1985.9、12/『我仏山人文集』第8巻 広州・花城出版社1989.5
●王立興「呉熕l与《漢口日報》――対新発現的一組呉熕l材料的探討」『明清小説研究』1989年3期(総13輯)1989.7.30。これには、資料として「有関呉熕l在《漢口日報》時期資料二篇」がある。のち、王立興著『中国近代文学考論』南京大学出版社1992.11所収。ただし、資料は2篇ふやして4篇になっている。
●史和、姚福申、葉翠ヨ編『中国近代報刊名録』福州・福建人民出版社1991.2。『漢口日報』を1903年創刊とするのは、間違いだろう(129頁)
●祝均宙「清末民初七種罕見文芸報刊鈎沈」『出版史料』1992年第4期(総第30期)1992.12
●松田郁子「小説家呉熕lの出発――雑誌『蘇報』登載の手紙から」(関西大学)『中国文学会紀要』第15号 1994.3
21)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』北京・商務印書館1991.12
22)杉村邦彦「有関長尾雨山的研究資料及其韻事若干」『印学論談』杭州・西印社出版社1993.10
23)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』63頁
24)沢本郁馬「初期商務印書館の謎」『清末小説』16号1993.12.1。32頁。
25)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』77頁。なお、『張元済年譜』では、株主会の開催日を「5月7日(四月初八日)」としており鄭孝胥日記と異なっている。今、鄭孝胥日記に従う。
26)沢本郁馬「初期商務印書館の謎」40-42頁。汪家熔「主権在我的合資――一九〇三年〜一九一三年商務印書館的中日合資」『出版史料』1993年第2期(総第32期)1993.7、141頁に「商務印書館日股投資和獲利表」が掲載される。該表を見ると1908年の総資本金は75万元、1909年は75万9500元である。鄭孝胥の証言と食い違っている。
27)『商務印書館大事記』北京・商務印書館1987.1