『清末小説から』第39号 1995.10.1



鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館(5完)

樽 本 照 雄



9.辛亥革命前後
 宣統元年十二月(1910.1)、アメリカ、イギリスからの借款で錦州鉄道をロシア国境の愛琿まで延長する計画があった(1224頁)。京漢鉄道で経験をもつ鄭孝胥が、推薦されて錦愛鉄路総辧に任じられる。といってもこれは書類上のことであって、実際には奉天到着後に日付をさかのぼって発令された(1256頁)。
 同年十二月廿九日(1910.2.8)、その奉天(今の瀋陽)に到着、そのまま腰をすえるのかと思うと、そうではない。天津、北京、上海、漢口ととびまわっている。
 上海にもどれば、日輝譎ミ理事会、預備立憲公会、中国公学理事会、商務印書館理事会と精力的に出席をするのが常だ。
 宣統三年正月朔(1911.1.30)、北京前門西石碑胡同に寓居するが(1306頁)、上海に行くことも従来通りであった。上海で、張元済、夏瑞芳、高夢旦らの商務印書館館員に会っていた彼は、急に北京に呼び戻され湖南布政使(財政長官)に任命される(1326頁)。鄭孝胥が長沙についたのが、宣統三年閏六月初六日(1911.7.31)のことだ。役所に到着の報告をし、財政、塩務の状況説明を受けたところに電報がとどいた。地方省の官制を改定し公布するので諮問のために北京に行ってくれ(1335頁)、という。長沙に来てから4日目のことである。混乱しているとしかいいようがない。
 北京にもどってしばらくすると辛亥革命である。宣統三年八月二十日(1911.10.11)の日記には、「湖北兵変」「湖北乱事」と書かれている。北京の状況はというと、大清銀行に数万人が取りつけにおしかけ、市内では大清銀行のお札が使えなくなるわ、金、米、銀の値段があがるわ、デマが流れるわ、市民が北京を脱出しようとするが汽車に収容できないわ、天津の船が少なくて乗り切れないわの騒ぎである。林琴南に会いにいくと、彼は家族を天津の租界に避難させたがっていた(1350頁)。「死ぬまで清国の遺老だ」(1353頁)と自ら日記に書いた時、鄭孝胥は五十二歳であった。
 宣統三年九月初八日(1911.10.29)、鄭孝胥は上海にもどる。
 宣統三年十一月十三日は、西暦の1912年1月1日にあたる。中華民国となり西暦が採用されるが、「遺老」である鄭孝胥は、日記はそのまま旧暦を使用する。鄭孝胥日記では、「宣統皇帝退位後第一年、歳在壬子」と書くごとくである。ただ、本稿では旧暦と同時表示するのはややこしいので、以後、陽暦で示すことにする。
 鄭孝胥の「遺老」ぶりを表わす例として、時代はくだるが芥川龍之介の文章を紹介しておこう。中華民国となって10年後のことだ。鄭孝胥日記には、

1921.4.24
 ……波多および日本人芥川龍之介来訪。(1866頁)

と書かれている。
 芥川の側から見ると、鄭孝胥は以下のようであった。鄭孝胥その人を知る上で参考になるから、少々長くなるが芥川の文章を引用する。(総ルビは省略)

十三 鄭孝胥氏
 坊間に伝ふる所によれば、鄭孝胥氏は悠悠と、清貧に処してゐるさうである。処が或曇天の午前、村田君や波多勲と一しよに、門前へ自動車を乗りつけて見ると、その清貧に処してゐる家は、私の予想よりもずつと立派な、鼠色に塗つた三階建だつた。門の内には庭続きらしい、やや黄ばんだ竹むらの前に、雪毬の花なぞが匂つてゐる。私もかう云ふ清貧ならば、何時身を処しても差支へない。
 五分の後我我三人は、応接室に通されてゐた。此処は壁に懸けた軸の外に殆何も装飾はない。が、マントル・ピイスの上には、左右一対の焼き物の花瓶に、小さな黄竜旗が尾を垂れてゐる。鄭蘇戡先生は中華民国の政治家ぢやない、大清帝国の遺臣である。……
 鄭孝胥氏が我我の前に、背の高い姿を現はしたのは、それから間もなくの事だつた。氏は一見した所、老人に似合はず血色が好い。眼も殆青年のやうに、朗な光を帯びてゐる。殊に胸を反らせた態度や、盛な手真似(ジエスチュア)を交へる工合は、鄭垂氏(注:鄭孝胥の息子)よりも反つて若若しい。それが黒い馬掛児に、心もち藍の調子が勝つた、薄鼠の太掛児を着てゐる所は、さすがは当年の才人だけに、如何にも気が利いた風采である。いや、閑日月に富んだ今さへ、かう溌剌としてゐるやうぢや、康有為氏を中心とした、芝居のやうな戊戌の変に、花花しい役割を演じた頃には、どの位才気煥発だつたのか、想像する事も難くはない。……*28

 「小さな黄竜旗」が、鄭孝胥その人の意識を象徴していることがわかるだろう。
 政治むきのことはひとまず置き、鄭孝胥日記に見る商務印書館について次に述べたい。

10.商務印書館にて
 鄭孝胥日記には、商務印書館と金港堂の合弁解消のいきさつについて何か記述があるのではないか。これが、私がいちばん期待した点であった。今まで、合弁解消の詳細は明らかにされていない。当事者の証言であるからまたとない資料である。

10-1 民国の商務印書館理事会
 1912年6月7日、鄭孝胥のもとに商務印書館から辛亥の決算報告が送られてきた(1419頁)。あるく8日に株主会が開催され、鄭孝胥は代理人を遣る(1419頁)。この会議では理事に、鮑咸昌、印錫璋、張元済、夏瑞芳、鄭孝胥、王之仁、奚伯綬の7名を選出している*29。
 鄭孝胥は、最初、理事になることをしぶった。「清朝の遺老」としては、しばらく社会活動から身を遠ざけたかったのではないかと想像する。事実、蟄居といってもいいくらいに自宅から出ていない。しかし、夏瑞芳と張元済の説得を受け、毎日3時間だけ商務印書館で仕事をすることを承諾した。交通費は月に百両である(1422頁)。7月2日の商務印書館理事会に出席したが、鄭孝胥が上海に到着して以来、市内に足をはこんだのは八ヵ月ぶりという(1422頁)。翌3日より鄭孝胥の商務印書館出勤がはじまった。日曜日のみを休み、毎日の商務印書館通いである。
 本稿のはじめに、鄭孝胥が商務印書館理事会主席をつとめていたことに触れた。もとづいた資料には「1912年6月-1913年5月 主席 鄭孝胥」*30と書かれている。しかし、鄭孝胥日記の記述と照らし合せると、鄭孝胥は、7月2日の理事会で主席に選出されていなければならない。6月8日の株主会で理事を選び、そののちの理事会で互選をするというのが商務印書館のやり方だったはずだからだ。つまり、「1912年6月」ではなく、「1912年7月2日」である。細かいことだが一言述べておく。
 7月31日の日記には、張継、胡漢民、熊希齢、于右任、汪兆銘らが民立図書公司を創設し、株を百万集め、編訳、印刷のふたつがすでに成立している、商務印書館の強敵である、とわざわざ書いている(1426頁)。中華民国成立後、新しい出版社が生まれてくるのは、時代の要請に従ったものだろう。中華書局もそのなかのひとつだ。

10-2 教科書戦争――中華書局の出現
 商務印書館の競争相手となる中華書局であるが、競争意識の強烈さはその成り立ちが普通と違うからである。中華書局の創立者・陸費逵は、もともと商務印書館に勤務していた。そのことが特異といっているわけではない。特異だと思われるのは、陸費逵のやり方である。
 陸費逵(1886-1941)、字は伯鴻、浙江桐郷の人。南昌で人と正蒙学堂を経営、日本語を学ぶ。十八歳で武昌に行く。新学界書店を経営、革命活動に参加し、漢口『楚報』の主筆になるが張之洞に封鎖されて上海に逃れた。昌明公司上海支店(書店)、文明書局をへて、1908年、商務印書館に入社し国文部編集者となる。翌年、出版部部長、『教育雑誌』主編および師範講義部主編を兼任している。1911年、武昌蜂起が勝利したのを見て、陸費逵は、革命が成功すること確信し、教科書も大改革をしなければならなくなると考えた。当時、商務印書館は教科書の改革について手つかずのままだったらしい。戴克敦、陳協恭らと資金を集めながら、陸費逵は、新しい教科書を編集し、1912年1月1日、上海に中華書局を設立した*31。
 武昌蜂起は、1911年10月10日に起こった。中華書局の創業は、くりかえすが1912年1月1日だ。わずか2ヵ月に足らぬ日数しかない。武昌蜂起よりも前に教科書編集に着手していたとしても、時間が限られていたことに相違はない。陸費逵は、商務印書館の同僚とつれだってとびだし、教科書販売を主とする書店を創立したのだから、商務印書館側から見ると「裏切り」とうつったのではなかろうか。
 1912年2月26日付『申報』には、「教科書革命」と大きく、それも2ヵ所にわたって広告が打たれているのが目を引く。その標語は、2ヵ所の広告が一致しているわけではないが、ふたつを統一してみると、以下のようになる。いわく、独立自尊、自由平等、人道主義、政治主義、軍国民主義、実際教育重視、融和国粋欧化、中華共和国国民養成などである。それらをひっくるめて「教育革命」とよび、その元が教科書だという。
 説明の冒頭は、こうである。「立国の根本は教育にある。教育の根本は教科書にある。教育を革命しなければ国の基礎はついには固めることができない。教科書を革命しなければ、教育の目的はついに達することができないのである。往時、異民族が国政に当り、政治体制は専制で束縛抑圧に全力を傾注していた。教科図書はきびしく支配され、自由真理共和大義がそこから注入されるはずがなかった……」梁啓超ばりの文章である。
 清朝時代の教科書を大いに出版販売していたのが商務印書館であった。古い教科書を批判することは、必然的に商務印書館を攻撃することになる。
 商務印書館の教科書編集と販売に大いに功績があったのが、ほかならぬ陸費逵である。中華書局の広告が意味しているのは、いわば、自分の仕事を自分で否定し、そればかりか競争相手攻撃の手段に使っているということだ。商務印書館側にしてみれば、これほど腹の立つことはないのではなかろうか。教科書編集と販売で腕をふるった有能な社員とばかりに思っていた人物が、さあ、新しい時代に新しい教科書を作らんといかんな、期待してますよ、と(私は想像するのだが)いうやさきに、「あんたらはもう古い」とばかりに商務印書館をとびだしていったのだ。そればかりか、ぶつけてきたのが「教科書革命」と「完全華商自辧」である。商務印書館にとって危機感がつのるはずだ。
 商務印書館が打ちだした対抗策は「値引き」である。中華書局の「教科書革命」に対抗して出てきたのが「値引き」では、私でなくともがっかりするだろう。『申報』1912年4月12日に「民国紀元/商務印書館発行所落成/大紀念 新編共和国教科書五折収価」という広告が掲載されている。5割引きだというのだが、教科書というものは安ければ売れるというものではあるまい。商務印書館が、当時、有効な対策を持っていなかった証拠である。
 鄭孝胥日記の1912年11月11日に、「……夜、張菊生の約束に出向き、中華書局に対抗するため初高等小学教科書の販路拡充について協議する」(1442頁)とある。値引きという小手先の対策では中華書局にかなわないことがようやくわかったのであろう。
 商務印書館の敵は、同業者の中華書局だけではなかった。日本資本が入っていることを商務印書館は、あまり話したがらなかった*32。「弱味」をつくのが攻撃の基本である。おまけに、その「弱味」を熟知している人物が攻撃の指揮をとっているわけだからこれ以上強力なことはない。中華書局が提出した標語のひとつが、「完全華商自辧」であることはすでに述べた。完全な中国資本という意味は、外国、この場合は日本の資本が入っていません、ということにほかならない。隠してもあらわれるのは常のことだ。商務印書館の理事が把握している事実として、辛亥革命後には、広西で広告に掲載して攻撃してきた、湖南では多数の学界が中国資本の某公司の図書を紹介した、湖北では日本の株が入っているという理由で教科書を審査することを拒否した、などがある。攻撃があるたびに事態の収拾におおわらわとなり、精神上の苦痛がはなはだしい、これが金港堂との合弁を解消する大きな理由となった。それを決意させた経済的理由も存在する。1913年の段階で、日本人株はすでに全体の4分の1にまで低下していた*33。合弁最初の出資が五分五分であったのだから大幅な不均衡を生じていたということができる。
 それでは、商務印書館が金港堂との合弁をやめることを決定したのはいつなのか。

10-3 日本人持ち株の回収
 鄭孝胥日記によると、1913年1月4日から合弁解消の議論が始まる*34。

1913.1.4
 ……(商務)印書館へ行く。夜、日本人株券を買い戻すことを論議したが、余は都合が悪いと考える(原文:余以為不便)。(1448頁)

 鄭孝胥が、どういう理由でよくないというのか、その説明はない。1月4日の会議は、3日後に開催される理事会の下相談だったのかもしれないが、肝心の理事会は、人数が足らず開かれなかった。
 日本株の回収は、機密を要する事だったので、株主会を召集すべきだったが、理事会が責任をもって決議した、という意味の報告がある*35。
 そうすると、鄭孝胥日記に見える2ヵ月後の3月4日に開かれた理事会(1456頁)において、日本株回収の決議がなされたと推測される。しかし、鄭孝胥は、その理事会の内容について記述していないので確認ができない。
 4月19日には株主会がもたれ、鄭孝胥は理事会主席の資格で前年度の営業報告を行ない、拡充案を提出している(1461頁)。金港堂との合弁解消については、前述の通りだとすると秘密条項だからという理由でたぶん報告しなかったのだろう。この時選出された理事は、鄭孝胥、鮑咸昌、印有模(錫璋)、張元済、葉景葵、伍廷芳、夏瑞芳だ*36。
 5月6日の理事会では、鄭孝胥から伍秩庸(廷芳)に主席を交代している(1462頁)。
 鄭孝胥日記に日本株回収の記述がふたたび現われるのは、1月から数えて8ヵ月も経過した9月のことになる。
 以前、夏瑞芳の給料を増額するために日本側株主に報告書を出すことがあった。給料で報告がいるくらいなら、ましてや日本株を購入して合弁を解消するというような重大案件は、上海在住の日本人の裁量には含まれていないのは当然だと考えていいだろう。だいいち、創業以来守られていた中国側2名、日本側2名の理事制度は、1909年4月15日をもって日本側の理事を排除し、中国人だけ7名の理事会になっている。商務印書館の理事会が合弁解消をいくら決議しようとも、相手のあることでもあり、最終的には金港堂側と交渉をしなければならない。

1913.9.10
 ……夏瑞芳が長尾と日本株を購入することを協議するため東京へ赴くことになる。……(1482頁)

 長尾雨山は、上海に滞在したきりで1度も日本には帰国したことがなかったのかと思えば、そうではないようだ。夏瑞芳の案内役となったのだろう。

1913.9.11
 ……(商務)印書館へ行くと、(張)菊生が憤慨していう。「日本人はあまりにも道理をわきまえない。日本株を回収しないわけにはいかない」(1483頁)

 張元済がなぜこんなに怒っているのか、理由がわからない。また、ここでいう日本人とは誰のことなのだろう。上海にいる長尾雨山たちなのか、それとも金港堂の人間か。日本株回収について事前に手紙などで金港堂に打診していて、拒否の連絡を受け取ったようなことでもあったのかと想像するが、そこまでは書かれていない。

1913.9.27
 ……(商務)印書館へ行く。夏瑞芳が日本から帰っていて、日本の株主は株を売るつもりがないという。(1484頁)

 夏瑞芳らの日本滞在は、約2週間になる。金港堂が商務印書館と合弁する話をまとめたのが、夏瑞芳と原亮三郎、山本条太郎である。当然、今回もこの3者が顔を合せたのだと思う。夏瑞芳は、合弁解消にいたる商務印書館側の状況を説明したはずだ。ただし、金港堂との交渉にのぞんで、夏瑞芳がどういう条件を準備していたのか、まずこれがわからない。合弁解消を申し込めば、金港堂側はただちに受け入れてくれるとでも思ったのだろうか。鄭孝胥日記には、合弁を解消すると決議をしたとあるだけでその条件には触れていない。合弁の契約書が出てこないのも理解しがたい。わざわざ夏瑞芳が日本にまで出向いて交渉したにもかかわらず、簡単に株の売却を拒否されているところを見ると、私の考えでは、商務印書館と金港堂の合弁には、解消するときの条項が定められていなかったのではないか。もしそうであるならば、もめるはずだ。

1913.11.12
 ……(商務)印書館理事会に赴き、日本株40万を回収し、4期に分けて支払うことを相談する。……(1490頁)

 金港堂側は、1913年11月に福間甲松を上海に派遣し交渉に当らせている。日本と連絡を取りながらの交渉なのだろう。しかし、金港堂が代理人を派遣したという事実は、株回収に応じるということを意味している。そうでなければ派遣する理由がない。夏瑞芳がわざわざ日本にきたのに株回収を拒否した金港堂だったが、方針が変更されたらしい。「40万」という数字は、商務印書館の総株数のうち3,781株が日本のもので、1株を100元で計算すると37万8,100元になるところから出てくるものだ*37。

1913.12.26
 ……夏瑞芳に会い、日本株買収のことを話す。……(1495頁)
1914.1.2
 ……夕方、(商務)印書館理事会に赴き、日本株を回収することを協議する。総額54万余元、まず半分を支払い、残りは6ヵ月を期限とする。(1496頁)

 20日前の日記には、「40万」とあった金額が、いつのまにか「54万余元」に変化している。これが、福間甲松との交渉によるものだろう。つまり、日本側の持つ3,781株を1株あたり何元に評価をするかが、主要な問題となっているのだ。
 1月6日に最終決定を見て、1株=146.5元となった。合計55万3,916.5元である*38。1月2日当日よりも約1万元も多くなっている。これは何を意味するかというと、1月2日では、1株=143元くらいで交渉していたのだ。これで54万0,683元となって鄭孝胥のいう「54万余元」にほぼ等しい。それをギリギリまで交渉し、日本側は、さらに3.5元を上乗せさせたと想像できる。福間甲松は、最後までねばった。

1914.1.7
 ……商務印書館理事会に行く。日本株を回収することは昨日調印をして、27万余両を支払う。正月三十一日に臨時株主会を開催する。……(1497頁)

 理事たち関係者全員が集まって調印をしたのではないらしい。すると商務印書館は夏瑞芳が、金港堂は福間甲松が出席したのだと考えられる。文中にいう「正月三十一日」は、陰暦ではなく陽暦であるから注意されたい。
 1月10日、夏瑞芳が銃で打たれ、暗殺された。翌11日、緊急理事会が開かれ、印錫璋が社長に選ばれる。
 夏瑞芳の死は、金港堂との合弁解消とは関係がない。しかし、金港堂との合弁を決意し、また、その合弁をやめることをも決断した夏瑞芳が、合弁解消調印のわずか4日後に殺されようとは、まさに夏瑞芳の時代がその死とともに終焉したことを示している。
 1月31日、株主特別会が開催され、日本株回収の経過が鄭孝胥によって報告される。こうして10年にわたる商務印書館と金港堂の合弁は終了した。

11.長尾雨山帰国
 1914年1月6日に日中合弁が解かれたのだから、長尾雨山にしてみれば解雇ということになる。商務印書館からいえば、日本とは縁を切りたい、「完全華商」を宣伝したい、攻撃からのがれて精神的に楽になりたい、という願望が先にたっている。かりに長尾雨山を再雇用したいと思ったとしても、それはできなかったと考えるべきだろう。
 長尾雨山は、商務印書館の株を45株所有していた*39。1株=146.5元で計算すると6,592.5元になる。
 商務印書館における日本人の給料は、技師長の木本勝太郎が180元、加藤駒二と長尾雨山が200元だったという*40。
 1909年当時の上海における標準的給料、といっても親子4人家族がどうやら生活できるという水準で60元という数字が報告されている*41。これから見れば、長尾雨山の200元は高額ということになろう。しかし、夏瑞芳が張元済をその所属していた南洋公学訳書院から商務印書館に引き抜く時、月給350元を支給した*42のとくらべれば、200元というのはそれほどでもない。
 昇給についての資料がないので200元を基礎数字において6,592.5元を割り算すれば、約33ヵ月分の給料ということになる。これは株だけの所得であり、ほかに貯蓄があるかどうかはわからない。
 2回分割払いであったとしても金銭的に余裕があったのか、長尾雨山は、すぐには帰国せずしばらく中国に留ることにしたようだ。
 1914年6月21日、長尾雨山が中国国内を旅行するというので、商務印書館の同人が徐園にあつまって歓送会をひらいている*43。
 といってもすぐに旅行に出かけたわけでもないらしい。6月30日には、鄭孝胥が長尾に会いにいっており(1521頁)、7月10日には、張元済が長尾雨山を招待し宴会を催してもいる*44。7月24日に長尾のほうから鄭孝胥にわかれを告げにきて、7月26日、ようやく列車に乗るのを見送られているのだ(1524頁)。
 日本に帰国する前に行なった長尾雨山の中国国内旅行について詳しいことはわからない。いつ上海に帰ってきたのかも不明だが、12月14日に鄭孝胥のもとを長尾雨山が訪ねてきた。長尾がいうには、「陽暦22日に帰国する。日本東京大学が余を漢文教授に招いており、月俸300元である」(1543頁)と。翌15日朝、こんどは鄭孝胥が長尾を訪ねる(1543頁)。つづくのは歓送会である。主催者が違えば、それだけの回数を宴会についやすらしい。
 12月17日、鄭孝胥は、小有天において長尾の歓送会を開く。張元済、高夢旦らも出席した(1543頁)。
 12月20日、長尾雨山のお別れ会に六三園へ行く。客は数十名、宴会が終わり、撮影をして解散する(1543頁)。
 12月21日、張元済は、カールトンで長尾槙太郎が日本に帰国するので歓送会を催す。高夢旦、蒋維喬、荘兪、李抜可らが参加する*45。
 宴会の数だけ、長尾雨山は友人に恵まれたと解釈できる。それだけ人望が厚かったのだ。

1914.12.22
 ……山城丸に行って長尾雨山が帰国するのを送る。雨山は帰国し、西京市室町出水上に居住する。……(1544頁)

 1914年、内藤湖南が、南京から投函した長尾雨山あての絵葉書が残っている。「泰山に上り曲阜に詣し南京に入りこれより上海に向申候斗姥宮の尼姑をも一見致候/十一月五日/虎」という文面で、宛て先は「京都市室町出水上ル」*46である。鄭孝胥日記に見える住所と同じところだ。1913年12月14日に長尾雨山が鄭孝胥に言ったという、東京大学の漢文教授に招かれている、というのが事実だとしたら、帰国後の住所が京都というのは理解しがたい。東京に直行してもいいはずだからだ。
 上海発の山城丸は、長崎行きだったらしく、長尾雨山は、長崎経由(12月24日)で京都にもどってきた。
 足かけ12年実質11年にわたる長尾雨山の上海滞在だった。金港堂と商務印書館の合弁が10年間だからそれよりも1年長いことになる。


【注】
28)芥川龍之介『支那遊記』改造社1925.1.3。48-52頁。
29)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』105頁
30)汪家熔整理「解放以前商務印書館歴届負責人(董事長、総経理、総編輯)」『商務印書館館史資料』之十九 北京・商務印書館総編室編印1982.11.5。20頁。
31)熊尚厚「陸費逵」『民国人物伝』第3巻 北京・中華書局1981.8。230-236頁。ほぼ同文のものが、「陸費逵先生」と改題され、中華書局編輯部『回憶中華書局』上編(北京・中華書局1987.2)に収録されている。1-5頁。
王震「陸費逵年譜」上下 『出版史料』1991年第4期(総第26期)1991.12、1992年第1期(総第27期)1992.3
32)樽本照雄「商務印書館が触れられたがらない事」『中国文芸研究会会報』第113号1991.3.30
33)「商務印書館特別株主大会理事会報告」『清末小説から』第30号 1993.7.1。14頁。
34)『張元済年譜』の1912年の項目には、この年から株の回収を金港堂と交渉しはじめる、とあるが鄭孝胥日記と合致しない。張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』103頁。
35)「商務印書館特別株主大会理事会報告」
36)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』112頁
37)樽本照雄「金港堂から商務印書館への投資」『中国文芸研究会会報』第160号1995.2.28
38)沢本郁馬「初期商務印書館の謎」『清末小説』第16号1993.12.1。44頁。
39)汪家熔「商務印書館日人投資時的日本股東」『編輯学刊』1994年第5期(総第37期)1994.10.25。樽本「金港堂から商務印書館への投資」『中国文芸研究会会報』第160号1995.2.28。
40)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」『文化史料(叢刊)』第2輯 1981.11。147頁。
41)樽本照雄「清末民初作家の原稿料」『清末小説から』第15号1989.10.1。のち、樽本照雄『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収。
42)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」144頁
43)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』118頁
44)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』118頁
45)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』119頁
46)『内藤湖南全集』第14巻 筑摩書房1976.7.30。517頁。