『清末小説から』第40号 1996.1.1


劉鉄雲の写真をめぐって


樽 本 照 雄



1.劉鉄雲の肖像
 劉鉄雲の肖像写真は、私の知る限り4種類ある。そのうちの1枚は、集合写真で、劉鉄雲部分のみを切り離したものが別に存在し、正確にいうと4種類5枚ということになろうか。便宜的に肖像1−4と番号を振り、肖像4は部分と全体に分け、それぞれ説明する。その中の1枚について異なる撮影年が示されている。これについても考えたい。

2.それぞれの肖像
 はじめに「劉鉄雲の肖像一覧」を掲げておく。それぞれの写真が、どの書籍雑誌に掲載、収録されているかを○印で示すためだ。ただし、ここにあげたのは代表的な刊行物のみであり、写真掲載誌を網羅したものではないことをことわっておきたい。出回っている劉鉄雲の写真の多くは、一覧のいずれからか複写しているといってもいいくらいだ。

劉鉄雲の肖像一覧

		人間世 魏紹昌 年譜 野草 劉徳隆1 羅振玉 劉徳隆2  
肖像1 ○
肖像2  ○   ○         ○        ○
肖像3  ○
肖像4部分    ○      ○
肖像4全体 ○  ○        ○

人 間 世:『人間世』第3期1934.5.5
魏 紹 昌:魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4
年  譜:劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』済南・斉魯書社1982.8
野  草:「清末小説アルバム」『野草』第33号 1984.2.10
劉徳隆1:劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7
羅 振 玉:羅継祖輯述『羅振玉年譜』台湾・文史哲出版社1986.11
劉徳隆2:劉徳隆、朱禧、劉徳平著『劉鶚小伝』天津人民出版社1987.8



2-1 肖像1(兄とふたりで)
 掲載誌:劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』(済南・斉魯書社1982.8)初出
 撮影年:不明(1902?)
 ほかに転載されているのを見たことがない。珍しい写真だということができる。
 劉鉄雲が、兄・夢熊(字・渭卿。のち孟熊、渭清、味青とも)とふたりでならんで立っている写真である。ふたりともお椀帽をかぶり、短い上着(綿入れか)を着ており、劉鉄雲の方は特に着ぶくれているように見える。季節は冬と思われる。厚着をしているところからも、少なくとも夏ではないだろう。劉鉄雲は、口髭をはやし、丸顔で、眼光が鋭い。カメラの方をみすえている。欄杆のような造形物の支柱に左手をおき、重心を左に傾けて左足をまげてつま先を右足の前に軽くおいた姿勢をとる。一見すると、中庭で撮影したように思える。しかし、光の当り具合が全面的であるのが不自然で、奥行がなく、実際の屋敷で撮影したのではなさそうだ。いかにも写真館のセットらしい。
 いつ撮影したものか書かれていない。劉鉄雲の兄は、1905年に死去しているから、この写真は1905年以前に撮ったものであるのは確かだ。のちに述べる肖像3と同時に撮ったとすると1902年という可能性が高い。


2-2 肖像2(よく見かける)
 掲載誌:『人間世』第3期(1934.5.5)初出
 撮影年:不明(1902?)
 劉鉄雲の胸から上サイズの顔写真である。あちこちに転載されており、なじみの写真だということができる。
 1934年に発行された雑誌『人間世』第3期が初出だ。掲載されたとき、「老残遊記作者劉鉄雲先生遺像」と説明文がつけられた。『人間世』という雑誌は、B5判の大きさで、この大きさの肖像写真というのは迫力がある。
 1949年以降、中国大陸で出版されたいくつかの『老残遊記』と資料集にほとんど同じ写真を見かける。「ほとんど同じもの」というのには理由がある。魏紹昌編『老残遊記資料』(北京・中華書局1962.4)に収録するとき、『人間世』掲載の写真を複写し、さらに右肩の一部を削除したからだ。その後、いくつかの版本などには、この『老残遊記資料』所収のものを重ねて複写したものを使用している。写真凸版を複写したときに生じる網点による模様(モアレ)が現われており、見ればわかる。
 『老残遊記資料』のものは、『人間世』と同じ写真原版をもとにしたのではないかという推測もありうる。しかし、私は、写真原版ではないと思う。なぜなら、『人間世』の劉鉄雲が着ている上着は、シワがよっているところまで写っているが、『老残遊記資料』を見れば、上着全体が真っ黒になってしまい細かなシワが印刷されていない。『老残遊記資料』の肖像は、『人間世』の写真を複写したので微妙な濃淡がとんでしまったと推測できる。『人間世』に提供されたもとの写真は行方がわからず、親族の手元には原版はないのだろう。
 写真の劉鉄雲は、お椀帽をかぶり、眼光は鋭いが、やや緊張がとれた感じもする。口髭をはやし、辮髪の一部分が頭の後に見える。襟のところがモゴモゴしたように見えるのは、下にたくさんの服を着ているからであろう。右肩に白く写っている部分があるが、これは劉鉄雲を撮影した時に当てたライトに服地が反射したものだと思う。そうでなければ、印画紙に光が入ったものか。それゆえ、前述のとおり、『老残遊記資料』に転載した写真は、この光った部分を削除している。
 緊張がとれた感じがすると述べたのは、肖像1に比較しているからだ。2枚の写真をよく比較すると、その表情が微妙に違うだけで、あとは帽子をかぶったところ、着ぶくれた感じ、右肩のライトの反射(そうだとして)などは同一である。肖像1、2ともに同時に撮影したものではないかと思う。
 ちなみに、同じく『人間世』第38期(1935.10.20)には、李伯元先生遺像、呉妍人四十二歳時像の2枚が掲げられる。いずれも『月月小説』に掲載されたものを転載したものだ。


2-3 肖像3(洋装)
 掲載誌:魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局(1962.4)初出
撮影年:1902年
 劉鉄雲の洋装の写真は、きわめて珍しい。
 劉鉄雲四十六歳の時(1902)、上海で撮影したと説明がなされている。洋装でシャツにネクタイをむすび、右手にステッキ、左手でツバひろの帽子をかかえる。左足を前にして軽く足を組んだかたちでかたわらの岩に腰をあずける。帽子はかぶっていない。にもかかわらず頭髪が額のところまであるように見える。辮髪が突然オールバックの髪型になるはずもなく、カツラだろう。
 注目してほしいのは、ステッキの先にある柱である。上に鉢植えが飾ってあるものだ。これは肖像1でしめした支柱と同じものである。そのつもりで見ると、肖像1で兄の後に岩があるが、これと肖像3の劉鉄雲が腰をあずけている岩が同じものだということに気づく。どうやら同じ写真館で撮影したものと思われる。背景に変化をもたせ、タイルの床には敷物を置き、さらに岩の前にも鉢植えを配置して雰囲気を変えたのである。劉鉄雲が着ている洋服、帽子、ステッキおよびカツラは、写真館が用意している貸衣裳だろう。もしこの写真が1902年に撮影されたとするならば、肖像1、2も同時に撮られただろうから同じく1902年のものということになる。

2-4 肖像4
 肖像4を前述のとおり部分と全体に分けるのは、もともとは1枚の写真でありながらまず劉鉄雲部分が先に発表され、のちに劉鉄雲を含んだ集合写真「全体」が公表されたからである。

2-4-1 肖像4(部分)
 掲載誌:魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局(1962.4)初出
 撮影年:1905年と1906年の2説がある
 劉鉄雲四十九歳(1905)、北京で撮影、とのみ説明される。劉鉄雲が白い長衣を着て、岩壁の前に立っている。左手を岩の一部に置き、右手は岩に肘掛け、右足をななめ前に出し休めの姿勢をとる。表情は和らぎ、微笑んでいる。なにか嬉しいことがあったかのようだ。いかにも劉鉄雲一人だけを撮影したもののようだが、実は、これは集合写真であって、劉鉄雲部分だけを特に切り離したものなのだ。部分を拡大してこれだけはっきりと写っているのだから、もとになった写真はよほど鮮明に撮られていたと思われる。全体写真は、次の肖像4(全体)である。


2-4-2 肖像4(全体)
 掲載誌:劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』(済南・斉魯書社1982.8)初出
 撮影年:1905年と1906年の2説がある
 1981年3月、私はこの集合写真と同じものを劉徳威氏よりいただいた。もとのネガから焼き増しした原版写真ではない。原版写真をカメラで複写したものだ。劉鉄雲の上方に白い反射したような部分があるのが証拠である。複写する時、写真に光が反射したものと思われる。写真裏に氏の筆で「劉鶚四十九歳(1905)与琴師在北京寓中」と書かれている。岩の壁の前に作られた階段に4人の男性が立っている。左の3人は、両足をそろえ両手も下に下ろしたままの姿であるが、右の劉鉄雲だけは、肖像3で説明したようにポーズをとっているのがおもしろい。
 その後、劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』に同じ写真が掲載され、その説明に「劉鉄雲在北京寓所造『千仏岩』邀集友好趙子衡(右三)、王孝禹(右二)、琴師張瑞珊(右一)欣賞」と書かれているのに気づいた。この岩の壁が「千仏岩」というもので、劉鉄雲が作らせたものらしい。
 同年譜長編(127頁)では、劉鉄雲日記光緒三十一(1905)年七月二十一日の記述「……午後、千仏岩が落成し、王、趙を見学に招き、晩飯を吃す」を引用する。説明によると、この集合写真は、劉鉄雲所蔵の崔敬剩閧ノ貼られていたという。劉大紳が見知っているのは、劉鉄雲本人のほかに、王孝禹、趙子衡、張瑞珊の3人だと書いてある。張瑞珊は、北京で有名な琴師で、劉鉄雲が師事していたのだそうだ。写真を見た劉大紳が、写っている人物をそうだと特定したのだろう。そこで『野草』第33号(1984.2.10)において清末小説特集を編集したとき、この写真を転載し、劉闡キの説明によってそれぞれの人物に以上のとおりに名前を示した。
 よく考えてみれば、劉闡キの説明は、すこしずれているように感じる。劉鉄雲日記には、王と趙のふたりだけを招待している。張瑞珊の名前など書かれていないのだ。日記の記述と写真の人数が合致しないとなれば、その時の写真ではないと気づいてもよかった。これは後から言えることで、劉大紳の証言を疑う根拠は、当時、私にはなかった。
 同じ集合写真に違う説明をつけた文章がある。それで、私も考えてみる気になった。
 羅継祖輯述『羅振玉年譜』(台湾・文史哲出版社1986.11)に掲載されている。私が劉徳威氏よりいただいた写真と同一のものらしい。劉鉄雲の上方に白くなっている部分があるところからわかる。



 こちらの説明では、右端の劉鉄雲を除いた3人は、左から王孝禹、羅振玉、方葯雨であり、1906年撮影だという。『鉄雲先生年譜長編』の説明と共通するのは、王孝禹だけだ。ただし、『羅振玉年譜』は、その人物を羅振玉だとする。
 『羅振玉年譜』の下に羅振玉と王国維の写真が掲げてあり、これと比較すると3人の中央は羅振玉だといってよさそうに思う。






 劉鉄雲の右隣は、誰か。
 橋川時雄『中国文化界人物総艦』(北京・中華法令編印館1940.10.25初版/名著普及会復刻1982.3.20)に方葯雨の肖像が付けられている。この写真を見ると年齢に差はあるが、劉鉄雲の右から二人目の人物によく似ている。
 羅振玉と方葯雨の写真にもとづくと、3人ともに『羅振玉年譜』の指摘する人物に違いなさそうだ。
 では撮影時期は、いつか。1905年か、それとも1906年か。
 『羅振玉年譜』(33頁)の説明によると、光緒三十二年丙午(1906)八月、劉鉄雲は、揚州の成氏所蔵になる崔敬剳謗盾入手した。同好の士である王孝禹、方葯雨および羅振玉をその抱残守缺斎に招いて一緒にめでたという。
 崔敬剳謗盾フ拓本というのは、きわめて得にくいものだったらしい。墓誌は清の康煕年間に出土したが、いつのまにか行方不明になったため拓本は少ないという。方若原著・王壮弘増補『増補校碑随筆』(上海書画出版社1981.7第一版/1984.2第二次印刷。291-293頁)に、世に伝わる5種類について記述してある。劉鉄雲と関係者の名前が見える部分のみを紹介しておく。
 その1。端方藏濃淡キ合本。王懿栄は、濃墨拓の後半本をまず入手した。王没後は劉鉄雲の所蔵になった。劉鉄雲は、全本を揚州の成氏より入手する。この半本は、王孝禹の手を経て端方のものになり、端方が劉健之から贈られた淡墨前半本と合わせて1冊にしたもの。現在は、上海図書館所蔵。
 その2。劉鉄雲蔵成氏本。劉鉄雲が、丙午(1906)秋に揚州の成氏より全文本を入手した。劉鉄雲は、日本に委託してコロタイプ(写真製版のひとつ)で100部を影印し同好の士に贈呈した。それには劉鉄雲、方葯雨、王孝禹、羅振玉の集合写真が1枚収められている。拓本そのものは、のちに王孝禹の所有に帰し、王孝禹没後は、毘陵の陶氏のものとなり、現在、行方不明。
 その3。劉健之藏本。これはまずコロタイプで影印され、四司馬墓誌と1冊にされ、のちに羅叔言の所有となった。日本・博文堂が再度影印している。梁鼎芬、莫枚、沈曽植、王孝禹、羅振玉の題記がある。
 その4。費念慈藏本。略。
 その5。南京博物院藏本。略。
 角井博「墓誌銘集(上)」(『墓誌銘集<上>』中国書法ガイド25。二玄社1989.8.10。12頁)にも上のほど詳しくはなく少し記述の食い違う部分もあるが、拓本について言及がされていることをいっておきたい。
 説明をうけてみれば、なるほどきわめて貴重な拓本であったのだ。その全文を入手した劉鉄雲の喜びも想像できよう。同好の士を招待して喜びを分かちあった。だからこそ記念写真を撮る気にもなったものと想像できる。どうりで劉鉄雲はニコニコと笑みを見せているはずだ。崔敬剳謗書本を手に入れたことがよほど嬉しかったのだろう。
 ついでにいうと、劉鉄雲乙巳日記(1905)には、羅振玉、王孝禹、方葯雨の3人が集合する日がない。
 肖像4(全体)は以上のとおり、1906年、方葯雨、羅振玉、王孝禹が、劉鉄雲の抱残守缺斎に集まり、入手した崔敬剳謗盾楽しんだ記念に撮影したものとしていいだろう。