●清末小説から 第42号 1996.7.1




呉熕l訳「電術奇談」余話(下)


樽 本 照 雄


                  

 王立言は、「菊池幽芳の翻訳と対照して見ると」と明言している。文字通り信じれば菊池幽芳の翻訳を見ているはずだ。しかし、加筆があると言ってはいるが、菊池幽芳の文章を対照させて具体的に引用しているわけではない。王立言の「前言」は、菊池幽芳の翻訳が手元になくても書くことのできる文章である。なんら検討をせずして「再創作」と決めつけているのが不可解だ。
 王立言の説明で腑に落ちない最大の箇所は、菊池幽芳の原文を見ているにしては、呉熕lの「電術奇談」を再創作の作品と断定していることだ。確かに呉熕lの加筆はある。しかし、「電術奇談」が菊池幽芳の大筋にほぼ忠実であることを考えれば、「再創作」などという結論にはなるはずがない。
 王立言は、菊池幽芳「新聞売子」を見ておらず、事実関係については私の文章を引用したのではないかと気がついたのは、つぎのような箇所が出現したからである。私が書いたものと王立言の原文を並列してみる。

樽 本(1985):「新聞売子」は、恋愛幻想探偵小説である。幽芳の言う通りたしかに「事実錯綜趣向変幻巧みに読者の好奇心を動かす」作品だ。*12
王立言(1988):在日本這種作品称“新聞売子”,即恋愛幻想偵探小説,以事実錯綜、趣向変幻巧妙吸引読者。*13

 私が、菊池幽芳「新聞売子」を「恋愛幻想探偵小説」と言ったのは、主人公の男女の恋愛が小説の軸となっており、催眠術が重要な小道具で登場し、さらに「殺人事件」が発生して探偵が登場するからである。王立言の表現と私の文章が、偶然、一致したとはとても思えない。もとづいた文献を明示していないからには、王立言は、無断引用をした、といわれてもしかたがないのではなかろうか。
 中国で、事実は誰が指摘しようが事実にすぎない、ということを聞いたことがある。つまり、事実を発掘することには価値を認めないという意味だ。研究論文のルールを無視した考え方だと思う。研究界の常識とは相容れないというべきだろう。それが例外的なものであるとわかるのは、伊藤徳也と劉岸偉の例を知っているからだ。
 魯迅、周作人兄弟は、日本で『域外小説集』を出版した。これに言及した『日本及日本人』の記事を、劉岸偉は注に引用している*14が、最初に事実を指摘した藤井省三の名前を落としていると伊藤徳也に批判された*15。劉岸偉は、「著者(注:劉岸偉自身)の許し難い怠慢であ」るとその誤りを認めている*16。
 引用典拠を明示するのが規則だということを、伊藤徳也と劉岸偉の論争は私たちに教えてくれる。当然すぎてあたらめて書くのが恥ずかしい。
 王立言の「発見」を知った盧叔度は、王立言に「発見」のいきさつを質問しなかったのだろうか。これも疑問のひとつである。
 引用文献を明示するのは、自他の立論を区別するためには、必要かつ最低限度の規則であろう。中国の学界でもこの規則は、将来、ひろく受け入れられるものだと、私は、信じている。

5.回数の謎
 香港の学会に参加した呉淳邦の話によると、韓国の研究会で呉熕lの「電術奇談」が話題になったことがあったのだそうだ。6回の文言が24回に膨れあがっていて、どうしてこれが翻訳であろうか、呉熕lの創作に違いない、と発言する研究者がいたという*17。
 前述したとおり、6回の文言が24回に書き改められた、というのが「再創作」が出てくる根拠である。説明する。
 菊池幽芳「新聞売子」は、『大阪毎日新聞』に75回にわたり連載された。これを方慶周が文言で6回にまとめる。それにもとづいて呉熕lが24回に書き直した。これが経過だ。
 初出の『大阪毎日新聞』あるいは単行本を見れば、回数の疑問は氷解する。すなわち、75回というのは単に75日にわたって連載されたことを意味しているにすぎない。副題が添えられ、「摩耶子」1-3、「不幸なる試験」1-4などと示されているのが、本来の回数なのだ。副題を内容別に数えると24回になる。方慶周は、原文24回を文言で6回にまとめたと思われる。なにも24回の1回分が文言の1回に相当すると考える必要はない。原文24回の4回分が文言の1回分に当るとすれば、6回になるではないか。
 それよりも、菊池幽芳の原文24回が、そのまま呉熕lの訳文24回に対応していると考える方が事実に近いと思う。
 私の仮説であるが、呉熕lは、口語訳するにあたり、方慶周の文言訳6回原稿と菊池幽芳の日本語原文をふたつ並べながら中国語に翻訳したのではなかろうか。呉熕lが日本語を解したかどうか、今のところわからない。呉熕lが日本に来たことが事実であるならば、少しは日本語を理解していたかもしれない。呉熕lの翻訳が、菊池幽芳の原作に基本的に忠実であるところから、文言原稿と日本語原文の並置を想像させるのだ。
 王立言の説明が、私の記述の無断引用であろうとも、また、盧叔度がその事実を知らなかったとしても、菊池幽芳の「新聞売子」が原作であるということは、1985年には明らかになっていた。王立言以後の文献、それも最近のものに正しく記述がなされているのかどうか、検証する。

6.王立言以後
 大陸で発行された目録2種類と香港学会で配付された資料について見てみよう。
6-1 賈植芳、兪元桂主編『中国現代文学  総書目』(1993)
 本目録には、「附録二 1882-1916年間翻訳文学書目」が収録されている。翻訳を特別扱いしているといっていい。
 1900年の項目に次のように書かれている。

電術奇談(一名:催眠術) 小説。[日]菊池幽芳著,方慶周訳述,我仏山人(呉熕l)、衍義知新主人(周桂笙)評点@大阪駸駸堂,前後編二冊,1900年9月、10月版。A上海広智書局光緒31年8月(1905年)版。B北京中亜書局1911年版。C世界書局1923年3月版。*18

 以上の記述で奇妙なのは、初出の『新小説』連載が抜けていること、および菊池幽芳原作の書名「新聞売子」が落ちており、いきなり大阪駸々堂の発行1900年としていることだ。『新小説』掲載は1903年なのだから、1900年の項目に配列するのは間違いである。清末小説研究会編『清末民初小説目録』にもとづいて、必要な箇所を引き抜いたのだろう。『中国現代文学総書目』は、単行本を中心に採取しているらしいから、大阪駸々堂からはじめたのかもしれないが、それにしてもこの部分は杜撰だとしかいいようがない。有用な目録だけに、残念である。
6-2 陳鳴樹主編『二十世紀中国文学大典』  (1994)
 1897年より1929年までの編年体文学年表といってもいい画期的な書籍である。その陳鳴樹「総序」に『清末民初小説目録』が言及され、典拠資料のひとつになっているらしい。ただし、その他の典拠については説明がない。
 1905年の項目に「電術奇談」を収録し、新小説社刊とする*19。たしかに新小説社発行とするものがあることは、『清末民初小説目録』にも書いてある。ただし、「又上海広智書局1911.3刊」とあるが、これは何かの見誤りであろう。初出の『新小説』連載、菊池幽芳「新聞売子」を明記していないのは大きな問題だ。
 最後に、香港学会で配付された資料を紹介しよう。
6-3 魏元良“A LIST OF CHINESE TRANSLATION OF SCIENCE FICTION IN THE EARLY MODERN PERIOD”(1996)

<電術奇談>(一名<催眠術> 写情小説) 24回
(日)菊池幽芳氏原著 方慶周訳述 我仏山人(呉熕l)衍義 知新主人(周桂笙)評点
<新小説>1年8号−2年6号(18号) 光緒29.8.(1903.10.)-?
上海広智書局 光緒1.8(1905) 扉訳“奇情小説 電術奇談 横浜新小説社訳”
北京中亜書局 中華帝国元年
世界書局 1923.3

 記述は、『清末民初小説目録』をほとんどそのまま踏襲している(ただし、『清末民初小説目録』に拠ったとは書かれていない)。上海広智書局本に「ママ」とした箇所は、光緒31年が正しく、そうでなければ1905年にはならない。ここで抜け落ちているのが、菊池幽芳の「新聞売子」とその単行本の存在である。
 魏元良の説明によると、この一覧表は、「民国時期総書目」などの総合目録、「林゚翻訳作品全目」などの目録、および復旦大学王継権と北京大学劉樹森が提供した関連索引によって作成したとなっている。上海から香港へ情報が伝達される過程で、重要な部分が脱落したらしい。
 私の論文も、『清末民初小説目録』も、王立言の無断引用も、これらの比較的新しい目録には、それほど役立っていないのがさびしい。

7.情報交換
 1985年からすでに10年が経過している。菊池幽芳「新聞売子」の存在は、情報の時代といわれるわりに共通の知識となってはいないのが実情のようだ。
 資料整理を軽視していることが、他人の文章を無断引用するという形になって表われている。ひとつの翻訳の原作が何かというのは、小さな問題にすぎないかもしれない。しかし、小さな問題だからといってそれを軽視するならば、いつまでたっても誤りを正すことはできないだろう。小さな誤りが、「再創作」などという大きな誤りに変化していることに気づくべきなのだ。
 どんな小さな問題でも、共有の知識とならなければ研究の進歩は望めないのではないか。そのためにも先行研究を尊重しながら情報の交換を密にしたいものだ。
 まあ、思うほどには、他人は、自分の論文を読んでくれない、読まれたと思えば無断引用される、という単純な事実をつきつけられたということだろうか。怎麼辧?没有辧法!というのが香港学会での楽屋落ちなのである。
【補遺】前号で未見とした文献について補っておきたい。孫楷第『中国通俗小説書目』初版は、中華大辞典編纂処、国立北平図書館 中華民国二十二年(一九三二)三月発行である。1932年は誤り。1933年が正しい。「電術奇談」が「すでに翻訳という性質のものではない」(179頁)との記載がある。それ以来、「新聞売子」の発見までとすると52年にわたって、また、1996年時点で63年間も孫楷第の根拠のない意見が尊重されてきたことになる。いったん定着してしまうと誤りも根深いものに変化するのだ。
【注】
12)樽本照雄「呉熕l「電術奇談」の方法」『清末小説』第8号。16頁。『清末小説論集』所収。209頁。
13)我仏山人著『恨海』広州・花城出版社1988.8。96頁。
14)劉岸偉『東洋人の悲哀――周作人と日本』河出書房新社1991.8.30。350頁。劉岸偉の注9の引用には間違いがある。『日本及日本人』第508号(1909.5.1)を見る機会があって確認した。劉岸偉(誤)「支那人も夫れに力づけられた訳でもなからうが」→原文(正)「支那人も、夫れにカブれた訳でもなからうが」。前者の「、」は見落したとしても、後者の「カブれた」を「力づけられた」と誤っているのはなぜか。字形を見誤ったものか。まず字数が違う。さらに「カブれた」というやや毒を含んだ表現が、劉岸偉が間違って書くような「力づけられた」では文脈の意味が違ってくるではないか。
15)伊藤徳也「周作人の「文学的生涯の終焉」と「東洋人の悲哀」――劉岸偉「東洋人の悲哀――周作人と日本」について――」『野草』第49号 1992.2.1。123-124頁。
16)劉岸偉「『東洋人の悲哀――周作人と日本』に関する二、三の説明――伊藤徳也氏に答えて――」『野草』第50号 1992.8.1。135-136頁。
17)呉淳邦氏から求められて『大阪毎日新聞』に連載された菊池幽芳「新聞売子」の複写を送っておいた。呉淳邦氏の見解がなんらかの形で表明されると思う。
18)賈植芳、兪元桂主編『中国現代文学総書目』福州・福建教育出版社1993.12。893頁。
19)陳鳴樹主編『二十世紀中国文学大典』(1897-1929)上海教育出版社1994.12。95頁。