●清末小説から 第42号 1996.7.1



劉   孫 氏 の こ と


樽 本 照 雄


                  

 しばらく留守にしていて帰宅すると、郵便物のなかに見慣れない封筒がまざっている。国際電報とある。TERAOと宛名は誤っているが、確かに私あてだ。本文は、ローマ字が使用してあり、よく見ると日本語である。漢字混じりに直して電文を示す。

 恩師劉闡キ儀、脳出血により、3月20日、22時12分、永眠いたしました。葬儀および告別式は3月23日を予定しております。つつしんで御通知もうします。KYUU REI

 「KYUU REI」は意味不明。発信場所は福州で、冒頭に「恩師」とあるから、劉闡キ氏の所属されている福建師範大学関係者からの電報だとわかる。
 劉闡キ氏の父は、劉大紳である。劉大紳は、「老残遊記」の著者・劉鉄雲(鶚)の四男にあたる。劉鉄雲からみれば、劉闡キ氏は、孫となる。以前の論文では劉厚滋という名前を使用し、こちらの方でも有名だ。
 私が劉闡キ氏にお目にかかったのは、わずか三回にすぎない。
 最初は、1984年だった。当時、私は勤務校からの長期海外出張で、天津外語学院の宿舎に滞在していた。天津図書館所蔵の清末小説を調査するため、ほとんど毎日の図書館通いだった。昼の休憩時間は閲覧室が閉ってしまうため、バスで宿舎にもどり、午後、再び訪れるという日課である。閲覧室には、なぜか日本の雑誌『中央公論』が置いてあり、請求図書が出てくるまで読むのが楽しみだったことをおぼえている。1984年当時、日本語の雑誌を天津で目にすることなどできなかったからなおさらである。天津のその後の発展ぶりは、活字で読んだり人から聞くのだが、1983年の「反精神汚染キャンペーン」の翌年ということもあり、町自体は静かなものだった。文化街は建設されておらず日本でいう古書店もない。私には、図書館くらいしか行くところがなかったのだ。
 そんな毎日を過ごしていたから、福州から劉闡キ氏がわざわざ私の宿舎に見えたおりには、本当にびっくりした。背は高くないものの、がっしりとした体格で厚い眼鏡をかけ、ステッキを片手に、少し息を切らして話される。二階の部屋だったからか。「日本語は忘れてしまいました」と氏の口から日本語が飛びだしたのには二度おどろいた。学生時代、長崎に留学していたという。ところどころ聞き取りにくい箇所もあるが、丁寧な日本語なのだ。私の顔に接触せんばかりに顔を近づけて話されるのは、目がほとんど見えないからだともうかがったような記憶がある。教え子だという男子学生を連れているのは、そのためなのだろう。天津在住の親戚に会うのだと、風のように去って行かれた。
 二度目は、1987年に淮安でお会いした。11月、江蘇省淮安で劉鉄雲の生誕百三十周年を記念する「劉鶚及『老残遊記』学術討論会」が開かれたのだ。清末の作家を記念する学会など、それ以前には聞いたことがない。主催の関係者から連絡があったので画期的な催物だと期待し、報告論文を用意して赴いた。中国には、まさか外国人が参加することのできない「学術討論会」があるなどとはまったく予想していなかった。大会前日の夜、指定された宿舎の私の部屋へ数人の人々がやってきた。どうやら説明役に日本語のわかる劉闡キ氏が指名されたらしい。いろいろおっしゃるのだが、聞き取れない部分があって、とにかく大会には外国人を参加させる許可がおりないといわれる。かといってこのまま帰れというわけでもない。会場で配付された参加者の発表論文はもらったし、劉鉄雲の墓参りもした(劉闡キ氏から、あとで、親族ですら案内されなかったと聞いて奇異に感じた)。著名な近代文学研究者たちと三食を共にし、連日、部屋で話もした。研究発表大会に出席しない、記念撮影に加わらないだけのことだ。「学会に参加したと言ってはならない」と念をおされもしたが、確かに形のうえでは参加したことにはならないのだろう。誤解のないように言いそえるが、私は、あのときのことを別に怒っているのではない。中国の事情を知らずに淮安に行った私の方が悪いのだろう(同じく若いアメリカ人が学会途中に来たが、彼も参加はできなかった)。ただ、説明役を押しつけられた(と想像するのだが)劉闡キ氏は、さぞかし困惑されたであろうと、お気の毒に思う。ご迷惑をおかけしたことがいまさらながら申し訳ない。
 学会の食堂では、劉闡キ氏の隣に座ることが多かった。氏の眼は以前よりも悪くなったという。子息の劉徳威氏がそばでつきっきりの世話を焼かれる。健啖であり声は大きく、なるほど文章を書くほどお元気なのだと安心もした。(このときの模様は、樽本「劉鉄雲故居訪問日記」『清末小説から』第8号<1988.1.1>を参照されたい)
 3年前の1993年10月、済南で開催された「劉鶚及《老残遊記》国際学術研討会」でお会いしたのが最後となった。劉闡キ氏は、劉鉄雲の孫として、この国際学会開催に尽力されていたらしい。事前に氏よりお手紙をいただいた。中国の研究者ばかりでなく、アメリカのシャディック氏(「老残遊記」の英訳者で有名)ほか海外からも参加者がいる、私も来るようにとのお言葉である。行かないわけにはいかない。済南では、劉徳隆氏に案内されて、学会宿舎にある劉闡キ氏の部屋にうかがった。すぐさま劉鉄雲の話となる。劉鉄雲研究は広範囲にわたっているが、彼の黄河治水についての研究のみが行なわれていないことを強調された。そういえば、この学会に参加していた森川登美江氏も、劉鉄雲の黄河治水について発表をするよう前もってすすめられていたということだった(森川登美江「“泉城”済南の旅」『清末小説から』第33号1994.4.1)。のちに発表された劉闡キ「我的祖父劉鶚――兼談《老残遊記》的若干問題」(台湾『中央日報』1994.4.22-5.1)にも、劉鉄雲の黄河治水について言及する部分があり、当時の氏の関心がどこらあたりにあったのかを知ることができる。済南は、乾燥した気候で、10月にしては暑いくらいの日差しだった。ワイシャツの衿をゆるめ、部屋のひじかけ椅子に深々と腰をおろし、やや早口に話される様子は、元気にあふれていたのが印象に深く残っている。劉闡キ氏を先頭にした劉一族が、山東師範大学の厳薇青氏のお宅を訪問したのにまぜてもらったのもよい思い出だ。電報に書かれた死因から想像するに、氏は高血圧症だったのかも知れない。私自身の経験からいえば、表面的には元気そうに見えるのだ。
 三回だけの会見なのだが、それ以上のおつきあいをしてもらったような感じがする。考えてみれば、氏の論文をずいぶん早くから読んでいたのだ。
 私は、卒業論文に「老残遊記」を選んだ。大学院でも関係資料をひきつづき収集した。ぶつかった問題のひとつが、それまであまり触れられていなかった劉鉄雲と太谷学派のつながりである。1970年当時、中国では「文化大革命」が進行中であり清末小説に限らず研究どころではなかった。中国でそうなのだから、日本でも同様である。さらに、劉鉄雲と太谷学派の関係をのべた先行文献は、ほとんどなかった。文献をさぐっていって、ようやくたどりついたのが劉闡キ氏の諸論文なのである。劉厚滋「張石琴与太谷学派」(『輔仁学誌』第9巻第1期 1940.6)によって太谷学派についておおよその情況を理解することができた。最初に劉闡キ(厚滋)氏に会うまで約15年間もその文章にはお世話になっていたのだ。
 劉鉄雲の詩集『鉄雲詩存』(済南・斉魯書社1980.12)、『鉄雲先生年譜長編』(山東斉魯書社1982.8)など劉鉄雲研究には欠かせない重要基本文献は、贈呈を受けていた。
 1983年には、「老残遊記」外編残稿の執筆時期について、『光明日報』紙上を舞台に時萌、樽本、劉闡キ、魏紹昌たちの討論があった。あるひとつの問題について行なわれた討論は、たとえ意見が異なっていようとも、お互いを身近な関係にしたような気にならせる。いつもそうなる、とはいかないが、この時はそうだった。
 また本誌『清末小説から』には、日本語による論文「劉鶚と戊戌変法の関係について」(『清末小説から』第8号1988.1.1)をいただいている。さらには、劉鉄雲作「老残遊記」二集9回に続けて合冊にした『老残遊記補編』第10-20回(北京・文化芸術出版社1992.2)を出版するなど筆力は衰えなかった。
 劉鉄雲の孫ということで厳しい時期が劉闡キ氏にはあったはずだ。お会いした時、私には、それを口にする勇気はなかった。
 劉闡キ氏の研究は、劉鉄雲と「老残遊記」に限るものではない。私の関心が「老残遊記」にあるため、氏の限られた部分にしか言及できないのを残念に思う。劉闡キ氏の幅広く深い学識については、全面的に触れることができる人物におまかせしたい。
 劉闡キ氏が老残遊記研究においてあげられた業績は、いずれも専門家には必要不可欠なものになっている。日本と中国の国境を越えて、学恩を受けているもののひとりとして、心より感謝申しあげたい。

ご冥福を祈る。
(1996.3.29)