『清末小説から』第44号 1997.1.1



長 尾 雨 山 の 教 科 書 (下)
――初期商務印書館の印刷物

樽 本 照 雄


                  

3.長尾雨山の教科書
 長尾雨山が上海へむけて神戸港より出発したのは、1903年12月1日のことだ。
 雨山が上海に到着する約1ヵ月半前の1903年11月19日(陰暦十月初一日)、商務印書館と金港堂は、正式に合弁会社となった。
 蒋維喬日記には、1904年1月より、中国側から張元済、高夢旦および蒋維喬が、日本側から小谷重、長尾槙太郎が参加し、日中共同で教科書編集会議を続けたことが書かれている。商務印書館と金港堂が合弁会社となってはじめての仕事が、教科書編纂であった。その成果が『最新国文教科書』(原物未見)だ。校訂者として名前をならべているのは、日本前文部省図書審査官小谷重、日本前高等師範学校教授長尾槙太郎、福建長栄高鳳謙、浙江海塩張元済の4名である。編纂者は、江蘇を共通項にして陽湖荘兪、武進蒋維喬、陽湖楊瑜統の3名が名前を掲げる*8。
3-1 雨山訳本
 商務印書館は、独自に編纂する教科書と並行して引き続き翻訳日本語教科書を出版をしており、これが長尾雨山の教科書である。表紙に『日文読本』と書かれ、訳校者として長尾雨山が単独で名前を出している。

坪内雄蔵編輯、長尾槙太郎訳校『日文読本』巻5、6 上海・商務印書館 光緒三十(1904)年十月初版/光緒三十二(1906)年八月五版。

 奥付、柱には「和文漢訳読本」と示してあるから、前出坪内『国語読本』の巻5、6であることがわかる。『東方雑誌』第2年第1期(1905.2.28)の出版広告で見たとおり、書名は異なっているが、『和文漢訳読本』のつづきなのだ。
 ただし、訂正再版本*9と対照すると、文章に出入りがあり、課数が異なり、挿絵が違っているものがある。長尾がもとづいたのは初版の『読本』のほうであろう。
 日本語本文の右側に漢字を振り、漢字にはその読みを片仮名で補い、巻末に漢語訳文をまとめているのは、沙張訳本と同じ編集方法だ。1904年の出版だから、雨山が上海で漢訳したものだろう。おおよその内容を知るために目次とそれにつけられた漢訳を示しておく。

巻5
第1 我ガ国ノ気候(我国之気候)第2 鳥(鳥)
第3 お千代と大きなおに(千代之歌)
第4 母ごころ(母心)
第5 草木ノ生長(草木之生長)
第6 茶ト桑(茶与桑)
第7 皇后へいかの御歌(皇后陛下之御歌)
第8 野川のけしき(練習文)(野川之気色)
第9 日本帝国ノ図(日本帝国之地図)
第10 郵便箱の歌(郵便箱之歌)
第11 船ト車(船与車)
第12 東京市(東京市)
第13 みやこの一日(都之一日)
第14 太郎と電話(練習文)(太郎与電話)
第15 電話及ビ電信(電話及電信)
第16 京都(京都)
第17 織物の歌(織物之歌)
第18 大阪(大阪)
第19 豊臣秀吉(豊臣秀吉)
第20 商人(商人)
第21 正直の徳(練習文)(正直之徳)
第22 四面皆海(四面皆海)
第23 軍艦(軍艦)
第24 海の底(海之底)
巻6
第1 富士山(富士山)
第2 日本武尊(日本武尊)
第3 山上のながめ(山上之眺)
第4 国のけもの(練習文)(国之獣)
第5 動物ノ職業(動物之職業)
第6 高橋東岡のつま(高橋東岡之妻)
第7 有用ナル植物(有用之植物)
第8 石炭及石油(煤炭及煤油)
第9 象の目方(象之量)
第10 松山鏡(上)(松山鏡上)
第11 松山鏡(下)練習文(松山鏡下)
第12 楠木正成(楠木正成)
第13 北海道(北海道)
第14 徳川光圀(徳川光国)
第15 鉱山ノ話(鉱山之話)
第16 手がさはると黄金(上)(手捫黄金上)
第17 手がさはると黄金(下)(手捫黄金下)
第18 水ノ功用(水之功用)
第19 水鳥のまがひもの(上)(練習文)(水鳥之類似者上)
第20 水鳥のまがひもの(下)(練習文)(水鳥之類似者下)
第21 義侠なる鶴(義侠之鶴)
第22 隣国(隣国)
第23 征清軍(征清軍)
第24 赤十字社(赤十字社)

 内容を見ると、気候、生物、地理、歴史、電話、電信、商売の仕組み、さらには勤勉倹約正直をすすめる道徳までにもおよんでいる。ときには通信文の見本をまじえて、手紙の書き方を示す。
 単語の数を増やし、まとまった文章を読ませる構成となっていることが理解できる。日本語の読み書きばかりでなく、「事物に関する普通知識の端緒を授くること」を目的として編集されているのはすでに書いた。
3-2 時代の反映
 ところどころに時代を反映する内容が見られる。ひとつは、日本礼賛だ。雨山の漢訳も示す。
 北は北海道から南は台湾まで「オシナラシテ イヘバ、我ガ国ハ、四季トモニ、クラシヨウゴザイマス。カヨーナ ヨイ国ニ生マレタノハ、ワレワレノ幸福デアリマス(概而言之。我国之気候。四時共適人身而易生活。生於斯好国。可謂我等之幸福)」。
 もうひとつは、日清戦争である。この教科書が編纂されたのは、日清戦争後から日露戦争前の時期だ。日清戦争が、教材として採用されたのにはそういう時代背景があった。
 第22「隣国」は、「朝鮮」「支那帝国」が地理上、日本の隣国であることを述べ、第23「征清軍」の導入部となる。
 本編第23「征清軍」は、「頃は、明治の二十七、/朝鮮みだれし折ぞかし、/支那、大国の威におごり、/朝鮮国をはづかしめ、/なほ、我が軍に手むかひす」とはじまる歌の形をとる。雨山は、これをつぎのように漢訳した。「頃者。明治之二十七年。年際朝鮮乱之時。支那衿持大国之威。陵辱朝鮮。且敵抗我国」
 途中を略して、つづくは、「支那力つき、和をこひぬ。/いくさ好まぬ我が国は、/朝鮮国を、末ながく、/独立せさす、とちかはせて、/名誉のいくさを引きかへす(支那力屈講話。我国固不好戦。乃使清国立誓。永令朝鮮国独立。而有名誉之軍。遂旋)」。
 第24「赤十字社」は、「征清軍」をうけて結末部ともいうべき役割をはたしている。すなわち「ソモ々(注:くりかえし記号は「々」で代用した)軍人ガ、敵味方トナリテ、戦場ニ相戦フハ、何レモ、皆、国ノ為メニテ、私ノ故ニハアラズ。サレバ、敵ナリトテ、戦終リシ後マデモ、ニクミ苦ムルハ、道ニアラズ(抑軍人或為敵軍。或為我軍。相戦於戦場。無論何人。皆為国而非為私。然則雖為敵人。戦畢之後。猶憎而苦之。非道也)」。赤十字社は、戦場において敵味方の別なく看護し、「清ノ負傷兵ヲモ、我ガ兵同様ニアハレミテ、イタハリシカバ、彼等、皆、其ノ恩ニ感ジキ、トイフ(雖清之負傷兵。亦猶我兵。労撫救護。是以彼等皆感其恩云)」。
 日本の立場から見た日清戦争である。もともとは坪内逍遥が日本の学童用に編纂した国語読本だから、このような内容となっているのは、理解できる。しかし、日本語を学ぶためにこれを読む中国人読者は、どう感じたであろうか。事実は事実だ、と長尾雨山も漢訳するとき疑問に思わなかったのか。商務印書館は、翻訳教科書として自らの名前を冠して出版しているのだが、その内容に違和感を持たなかったのだろうか、などと疑問がわく。
3-3 日中合弁
 金港堂と合弁会社になった商務印書館内部での人的関係は、よかったという。商務印書館にしてみれば教科書編集の専門知識、印刷の新技術など金港堂より吸収できたことが金額に換算することが不可能なくらいの利益になった。商務印書館理事会の報告書において、中国側がそう認めている。換算することのできる株式配当の利益は、約10年の合弁時期を合算して金港堂が得たものの約2倍にのぼった*10。日本中国の双方が利益を得た結果を見れば、成功した合弁であったということができる。
 経済と技術の総体ではこの合弁は、問題がなかったようだが、しかし、小さな局面では、軋轢がなかったわけではない。日本と中国では文化が異なる。感情の行き違いのないほうがおかしい。
 1904年1月30日、商務印書館の教科書編集会議において次のようなことがあった。新しく公布された「奏定学堂章程」に対して、雨山が失望の気持ちを詩にたくして表わしたところ、蒋維喬は、中国を軽視していると感じ、ただちに詩をもってこたえた*11。
 日本と中国の微妙な関係を示す逸話のひとつである。かすかな箇所にも敏感に反応する蒋維喬がいたことを知れば、雨山訳本が、なんの問題もなく商務印書館から出版されたとは思えない。くりかえすが、あからさまに日清戦争を取り扱った教材について商務印書館側から文句が出なかったとは考えにくいのだ。
 いちばん無難で実際的な処置は、問題のありそうな教材文は削除すればすむ。それがそうではなく、原文のままに漢語訳がついているのだから私は不思議に感じる。
 翻訳教科書の奥付を見る限り、中国人担当者との共訳ではなく、長尾雨山単独の仕事のようだ。翻訳の過程で教材文の検討が中国側によってなされなかったとしても、印刷にまわす時に商務印書館側の点検があるはずだ。内容に変更がないままに出版されており、しかも2年間に5刷も印刷されている。刷数の多さは、中国人読者に歓迎された証拠となる。
 それにしても、教科書の本文、特に日清戦争部分を表面的に読めば、商務印書館はよくも出版したものだと驚く。『東方雑誌』の出版広告でも大いに宣伝している。おうようなのか鈍感なのか、現在から見るととても想像できないくらいの時代感覚だといえよう。辛亥革命以後、商務印書館をとびだした陸費逵らが中華書局を結成し、商務印書館の教科書を攻撃することになる。雨山訳本は、中華書局の批判の根拠に十分なりうるものだ。ただし、出版するまでには裏に意外な事実、事情があったのかも知れず、中国側の資料が出てくるまで、出版の状況など疑問のままにしておきたい。
3-4 翻訳
 雨山訳本には、沙張訳本に見られたような漢訳語の誤りは見当らない。
 巻5に、京都、大阪を説明して「汽車」が出てくる。「汽車」は、この場合、蒸気機関車を意味する。現代漢語では「火車」というが、雨山が間違ったわけではない。清末には、「汽車」*12と「火車」*13が混在していた。
 雨山本は、中途半端な沙張訳本よりは優れているのが、刷数の多い理由であろう。
 日本では小学校用の教科書であったかもしれないが、中国では外国語の教科書である。成人を対象とする書籍にほかならない。内容に首をかしげる部分がないことはないが、そのほかの日本ではすでに出現していた新しい事物、すなわち電話、電気などがこれらの教科書を通じて中国に伝えられた可能性もある。
 金港堂と商務印書館の橋渡しをした山本条太郎の談話に、

……支那人が十万円程の資本で建てた出版会社がありましたが、これも昨年(注:一九〇三年)来資本を倍額にして日本人から半分、支那人から半分出すやうにして、編纂者の外、日本から職人を二三十人連れて来て、支那向きの教科書を拵へる仕事を始めました。これなどは日本と違ひ、教育制度が甚だ不十分でありますので、案じて居りましたが、二三個月前に発行した小学校用の読本であるとか、或は英文の本、ごく初歩の体操、唱歌といふやうな本まで拵へた結果が、学校そのものには余り売れないが、却て家庭に盛に売れ、子供がこれを見るのでなくして、親の方がそれを読むといふ実況で、初めに出したものは千字文の売行を凌駕するとまでいはれた程の勢でありました。*14

というのがある。雨山訳本は、山本条太郎のいう通り、子供が見るものではなく、親が読んだものに含まれるだろう。

4.商務印書館の初期刊行物
 本稿で紹介した2種類の日本語漢訳読本は、商務印書館の初期刊行物として見ると、きわめて珍しい。発行年が1901年と1904年(1906年五版)だから、ほとんど創業まもない時期の出版物といえる。補足すれば、『商務印書館図書目録(1897-1949)』(北京・商務印書館1981)の「++438日語読本」(124頁)の項目には、『和文漢訳読本』が8冊として記録されている。ただし、原著者名、訳者名、発行年を記載しない。また、雨山訳本の『日文読本』は収録していない。『和文漢訳読本』に含めたつもりだろうか。しかし、訳者が異なれば、その由を説明するのが普通のやり方だと思うのだが。とりあえず、雨山訳本は、商務印書館の図書目録にも掲載されていなくらい貴重な出版物だということができる。
 2種類ともに、本文は、日本語のものに傍線を引き、平仮名は漢語に翻訳し、漢字には日本語音をそえている。そえられた漢語、日本語音読みは、手書き文字だ。ここは石版印刷となっている。日本語と漢語のまざったこの複雑な組み版は、当時の商務印書館の印刷技術では、石印によらざるをえなかったらしい。巻末にまとめられた漢訳は、活版印刷となる。線装本である。挿絵は石印、本文は活版印刷おまけに線装本というのは、『繍像小説』の印刷製本方法と同じだ。
 また、長尾雨山の著作物としても貴重な出版物だといえよう。今まで長尾雨山に日本語教科書の翻訳があったということは、あまり取り上げられたことがない。前出中村論文が最初であろう*15。触れられない理由のひとつは、学者、芸術家としての長尾雨山にとって教科書翻訳など取るに足らない、という考えがあったのではないか。しかし、長尾雨山にしてみれば教科書編集、翻訳も主要な仕事の一部を構成していたと私は考える。
 長尾雨山があの教科書疑獄事件に引っ掛かったのも、教科書編集の礼金とばかり思っていた金が、収賄と認定されたからだ。商務印書館に送り込まれたのも、中国人向けの教科書を編集するためである。雨山と教科書には、浅からぬ因縁があるのだ。長尾雨山の教科書の仕事を軽視してはならないだろう。
 雨山の翻訳した教科書が存在していることにより、雨山の仕事の一部を、今、私たちは知ることができるのだ。
【付記】本稿で紹介した商務印書館発行の教科書2種は、いずれも東京都立中央図書館実藤文庫所蔵である。
【注】
8)『商務印書館図書目録(1897-1949)』(北京・商務印書館1981)の「付録」に「最新教科書」の一覧が掲げられている。そのなかに初等小学用として『最新国文教科書』10冊も収録されるが、その初版時期を「光緒二十八年」とするのはおかしい。1902年は、まだ編集も行なっていないはずで、これはなにかの間違いだろう。なお、該書の編者としては張元済、高鳳謙、蒋維喬、荘兪の4名だけを示す。長尾槙太郎、小谷重のふたりは無視している。
9)海後宗臣編纂『日本教科書大系 近代編 第6巻 国語三』講談社1964.4.20/1968.12.10第2刷。248-276頁。
10)樽本照雄「変化しつつある商務印書館研究の現在」『大阪経大論集』第46巻第3号1995.9.15
11)樽本照雄「長尾雨山二題」『中国文芸研究会会報』第135号 1993.1.30
12)渋江保編纂、広智書局同人訳述『泰西事物起原』上海・広智書局 光緒二十八年十二月二十日(1903.1.18)。31頁。
13)「Train 火車」「Steam ship 火船,汽船,大火輪船」『商務書館華英字典』上海・商務印書館 光緒壬寅(1902)三次重印
14)『山本条太郎伝記』山本条太郎伝記編纂会、発行者・原安三郎、1942.3.25。175-176頁。
15)商務印書館『和文漢訳読本』そのものを紹介する文章に、さねとう・けいしゅう『中国人日本留学史』(1960.3.15初版未見/1970.10.20増補版。337-339頁)がある。