包天笑翻訳原本を探求する


樽本照雄



1.包天笑重訳「鉄世界」
 包天笑の翻訳で、日本の森田思軒からの重訳ものがあるが、あなたの文章は、なぜ、そのことに言及していないのだ、といわれたことがある。なんのことでしょうか。突然、責められても困ります。
 考えるに、清末小説研究会編『清末民初小説目録』(中国文芸研究会1988.3.1)に掲載した包天笑の訳本のうち、森田思軒を原訳者とするのは、確かに、1点しか収録していない。

T202* 鉄世界 (科学小説)
(法)迦爾威尼原著 天笑生(包公毅)訳述
上海文明書局 光緒29.6(1903)
JULES VERNE“LES CINQ CENTS MILLIONS DE LA BEGUM”1874 紅芍園主人(森田思軒)訳「仏・曼・二学士の譚」『報知新聞』1887.3.26-5.10

とあるのがそれだ。香港中文大学のポラード(DAVID E. POLLARD。漢名:卜立徳)氏がいわれる包天笑の翻訳とは、これとは異なる別のものらしい。
 『清末民初小説目録』の編集にあたって、資料収集、つまり原本の探索にはできるだけの努力はした。いいわけになるが、日本での公的所蔵は、まとまったものがほとんどない、というのがたどり着いた一応の結論である。中国語に翻訳された清末小説は、ことに無残としかいいようがない。かろうじて実藤文庫くらいをあげるべきか。たとえば、商務印書館が発行した翻訳叢書である「説部叢書」、また、林゚の「林訳小説」シリーズを完揃いで所蔵する日本の図書館を、私は寡聞にして知らない。必然的に書目あるいは外国の図書館所蔵目録などの二次資料に頼らざるをえない。
 原本がなければ、確実な記述ができないのはいうまでもないことだ。不十分さは充分に認めながらも、『清末民初小説目録』をあえて編集発行したのは、研究の基礎資料になんとか近づけたいと考えたことによる。清末と民初を結合させた本格的な目録が、中国に、当時、なかったことも理由のひとつだ。
 「ないよりマシ」
 こうでも思わなければ研究は進まない、と割り切ったのである。
 上記の「鉄世界」については、最初、阿英「晩清小説目」(『晩清戯曲小説目』増補版 上海・古典文学出版社1957.9。170頁)から情報を取りだした。阿英書目には、以下のように記述されている。

鉄世界 法迦爾威尼原著 天笑訳。光緒二十九年(一九〇三)文明書局刊。

 前の記述と阿英の両者をくらべれば、その違いにすぐ気づかれるだろう。「科学小説」という角書、「天笑生訳述」の署名、また、「光緒29.6」と発行月(当然、旧暦を意味している)までも記している点は、阿英の書目に見えない、あるいは阿英の記述とは異なっている。なによりも森田思軒の名前が、阿英書目の該当部分にはない。それらを記入することができたのは、該書がたまたま実藤文庫に所蔵されていたからだ。
 『清末民初小説目録』発行後、記述の典拠を示しておくほうがなにかと便利であることに思い至った。多数の資料にもとづいているため、私自身も、どれが何に拠ったのかわからなくなりつつある。なによりも信頼性を高めるためにも必要な作業といえる。再度、全項目について点検をし典拠文献の主なものを注記した。現在、「鉄世界」については、次のように記述している。

鉄世界 (科学小説)
(法)迦爾威尼原著 天笑生(包公毅)訳述
上海・文明書局 光緒29.6(1903)
JULES VERNE“LES CINQ CENTS MILLIONS DE LA BEGUM”1874。英訳“THE BEGUM'S FORTUNE”。紅芍園主人(森田思軒)訳「仏・曼・二学士の譚」『報知新聞』1887.3.26-5.10。後、単行本。集成社1887.9[阿英170][現代894][大典61]は、1903.8出版とする。[実藤614][中日870.061]

 原本の英訳名を添えたのは、森田思軒は英語しか解さず、ヴェルヌものも英語訳本からの重訳であるからだ。
 目につくものはできるだけ収録する作業を継続しているのが、おわかりいただけようか。しかし、ひとりの力では限界があるのは、いうまでもない。研究者からの情報提供、助言がなによりも貴重なものとなっている。
 ポラード氏が示されたのは、「秘密使者」に関するものだ。上と同じように『清末民初小説目録』を見ると、「秘密使者」は2件を掲載している。その、ひとつを例としてあげる。

M343* 秘密使者 (地理小説) 上下巻
(法)迦爾威尼著 天笑生(包公毅)訳述
上海小説林社 1904.6上巻 1904.8下巻 小説林(叢書)
JULES VERNE著? →秘密党魁

 森田思軒の名前は、どこにも見当らない。「JULES VERNE著?」と「?」にしたのは、原作がわからず、ヴェルヌと断定できる材料に不足したことを示している。のちに中国大陸で出版されたいくつかの目録にも、森田思軒訳本がもとになっている、と書かれたものを見ていない。だからこそ、ポラード氏からいただいた包天笑「訳余贅言」部分の複写は、ありがたかった。原本は、復旦大学図書館に所蔵されているらしい。森田思軒とジュール・ヴェルヌの名前が出てきて、「訳余贅言」に本の原題が「瞽使者」だと書かれていれば、調べるのは簡単である。森田訳は、最初、「盲目使者」と題されて発表され、のちに「瞽使者」と改題されたという。
 そこで「秘密使者」については、以下のように書き換えた。

秘密使者 (地理小説) 上下巻
(法)迦爾威尼著 天笑生(包公毅)訳述
上海小説林社 1904.6上巻 1904.8下巻 小説林(叢書)
JULES VERNE“MICHEL STROGOFF”1876。英訳“MICHAEL STROGOFF”[叢書134][現代895][大典78]。ヴェルーヌ著、羊角山人訳述、森田思軒刪述『盲目使者』郵便報知新聞1887。改題『瞽使者』報知社 上1888.5/下1891.11(DAVID E. POLLARD) →秘密党魁

 と、まあ、こういう作業を際限なく続けているわけです。際限なくといっても、まだ10年にはならない。

2.商務印書館版説部叢書『航海少年』
 ポラード氏にお会いしたのは、1996年正月の香港中文大学で開催された国際学会であった。学会での発表は、私にとって簡単なものではない。なにか新しいものを付け加える内容にしたいというのが発表の基本である。そればかりか、それを中国語で発表するというのは、精神的に緊張を強いられることなのだ。ただ、その研究分野の最先端を行く研究者に会うことができるのは、やはり魅力であるといわなければならない。事実、その時の会場でもひとりの研究者に出あった。北京大学英文系の劉樹森氏である。
 劉樹森氏からいただいた『清末民初中訳外国文学研究報告』という印刷物は、私の目を引きつけたのだ。
 清末民初に発表された外国文学の中国語翻訳についての研究である。序跋、批注、訳者の分析(32頁)から、哀情小説、愛国小説など類型別にして各小説の解説(82頁)が主要部分を構成する。附録として「1840-1919年各種刊物上発表的部分中訳外国文学作品目録」(892種)と「1840-1919年間発表的部分外文学作品中訳本目録」(426種)、その他がある。
 氏は、私に、1300余種の翻訳作品を読破して作成したといわれ、どうやら、未発表論文らしい。中国語ワープロで印字したものを複写し綴じてある。
 英語に堪能な劉樹森氏だからこそできる研究だといってもいいだろう。翻訳文学研究、あるいは比較文学研究には、外国語の習得が必須条件である。ことさらいうまでもない。中国大陸の研究者のなかにも、そういうタイプの研究者が現われた。「文革」後における、よき伝統の復活といえるのではないか。
 私の知らない当時の雑誌から作品を拾い上げたものもある。漢語訳作品の原作が何であるのか、指摘している部分も多い。まさに『清末民初小説目録』のためにあるように私は思った。教えられるところの少なくない研究である。早速、関係する項目を『清末民初小説目録』の備考欄に取り込んだのはいうまでもない。いちいち挙げるは煩雑なので、1例だけを示すにとどめよう。
 鴎村桜井彦一郎の翻訳に『(勇少年冒険譚)初航海』(日本・文武堂1899.6.14初版未見/1906.6.25十五版)という少年冒険物語がある。単行本の扉に「エム、リード原著、桜井鴎村補訳」と書いてあり、原著者がT・M・リード(Thomas Mayne Reid。1818-83)だとわかる。日本の児童文学界では、有名な翻訳作品のなかのひとつだ。
 桜井鴎村の翻訳では、「二勇少年」「澳州歴険記」「朽木舟」「航海少年」などについても中国語翻訳がある。「初航海」の原作がリードのものならば、その他の作品もリードの原作であろう、と安直な想像をしたことがあった。
 『航海少年』の原作は、リードであるという予想は、原物で確認するまえに私の確信に近いものとなった。
 胡従経『晩清児童文学鈎沈』(上海少年児童出版社1982.4。225頁)を読むと、魯迅の幻の翻訳原稿「北極探検記」は、『航海少年』(商務印書館 光緒三十三<1907>年八月 説部叢書第八集第五編)ではないか、と書いている。私は、内容からしてそれはありえない、リードの“The young voyageurs, or The boy hunters in the North”(1853)であろうか、と作品名まで予測したのだ。これが大間違い。原物をイギリスから入手してみれば、明らかに別作品だった。
 『清末民初小説目録』には、

H150* 航海少年
(日)桜井彦一郎原訳 商務印書館編訳所訳
中国商務印書館1907.8 説部叢書八=5

と記述した。桜井鴎村訳『航海少年』(文武堂発兌、博文館発売1901.4.30世界冒険譚8)という説明を書き落としている。そのことに気がついたのが、『清末民初小説目録』の版下を印刷所に回した後だったからどうしようもない。
 最初の疑問から十数年が経過した。なんら新しい情報は出てこない。
 桜井鴎村「遠征奇談」が収録される『少年翻訳小説』(三一書房1995.11.15 少年小説大系第26巻)が出版されたのを、私はよろこんだ。日本での研究がどれくらい進んだかがわかる、と思ったからだ。桜井鴎村の「航海少年」にも解説があるかも知れない。研究者層の厚みを考えれば、原作が発見されている可能性もある。
 ところが、手に入れてみると、これはガッカリだった。佐藤宗子「解説」に「航海少年」についての言及はない。「年譜」の鴎村部分に「明治三十四年(一九〇一) 二十九歳/『英学新報』創刊。この年、「世界冒険譚」シリーズの『漂流少年』『殖民少年』『航海少年』『不撓少年』『朽木之舟』『侠勇少年』を刊行」とあり、わずかに書名が示されているのみなのだ(520頁)。
 八方ふさがりの情況で、『航海少年』の原作に手掛かりを与えてくれたのが、まさに劉樹森氏の該目録であった。それには、

215 《航海少年》(1907)(英)TOM BEVAN THE“POLLY'S”APPRENTICE

と書かれているではないか。劉樹森氏へ手紙を書き、上記の記述は何に拠ったのか、その根拠をたずねた(1996年11月20日付来信によると、調査中であるということだ。また、のちの手紙によると新計画に着手したそうで、質問は疑問のままに終わってしまった)。
 一方で、早速、私なりの調査を行なう。ただし、結果は、あまりたいしたことはない。トム・ベヴァン(TOM BEVAN)の同名作品が1900年にロンドンで出版されていることがわかったくらいだ。洋書専門店で、再版本などが入手できるかと聞いてみたが、目録には記載がないという。ニューヨーク随一という古本屋で検索してもらっても、該当する書籍はなかった。
 1996年3月、インターネットを利用したことがあるという阪口直樹氏をわずらわせてトム・ベヴァンに関する情報を検索してもらった。カリフォルニア大学図書館1件、米国議会図書館1件、梅花女子大学にTOM BEVAN(1868-)の著作が収蔵されているという結果である。ただし、“The‘Polly's’Apprentice”は、ない。残念ながら、ここでも探索の糸がとぎれてしまった。あとは、気長に待つしかないだろう。
 現在、『清末民初小説目録』では、以下のような記述にしている。前にあげた版本とは別のもの1例を示すだけにする。

航海少年 (冒険小説)
(日)桜井彦一郎原訳 商務印書館編訳所訳
上海商務印書館 丁未8(1907)/1914.4再版 説部叢書1=75
桜井鴎村訳『航海少年』文武堂発兌、博文館発売1901.4.30世界冒険譚8[叢書783][民外4265][現代903][実藤612][中日870.039]劉樹森は、(英)TOM BEVAN“THE‘POLLY'S’ APPRENTICE”1900とする。[HOOVER][INDIANA]

 これを見れば、商務印書館版「説部叢書」初集第75編の『航海少年』は、実藤文庫のほか、スタンフォード大学フーバー研究所、インディアナ大学に所蔵されているのがわかる。

3.包天笑重訳「空谷蘭」
 そうこうしているうちに、大学が1996年の夏休みに入った。例年通り『清末小説』の編集と並行して私の論文執筆にとりかかる。劉鉄雲「老残遊記」と黄河のかかわりを述べようとしていた。数年来の課題である。手元に資料を積んでいるだけで、取り掛かるのが遅れてしまった。書きはじめると、これが長くなりそうで、分載を考えていたころだ。
 オーストラリア大学の柳存仁氏から手紙をいただいたのは、そんな日常のなかであった。
 柳存仁氏の手紙は、包天笑の翻訳「空谷蘭」に関するものである。
 「空谷蘭」という書名を見て、私は、すぐさま『清末民初小説目録』を開ける。こう書いている。

K068* 空谷蘭 32回 2冊
(英)亨利荷特著 (日)黒岩涙香訳 天笑(包公毅)訳
有正書局
黒岩涙香訳『野の花』前後編 扶桑堂1909.1.2/5.2
天笑の訳は、始め『時報』に連載された。 MRS.THOMAS HARDY “THE MOTHER'S HEART”

 発行年が不明であるなど充分といえる説明ではないが、このように記述した根拠には、いくつかの資料があった。
 ひとつは、阿英の「晩清小説目」であるが、これには「空谷蘭 天笑(包公毅)訳。32回。有正書局刊。二冊」(127頁)とあるだけだ。
 (英)亨利荷特著、(日)黒岩涙香訳、『野の花』、『時報』という語句は、何に拠っているかというと、范烟橋「民国旧派小説史略」(魏紹昌編『鴛鴦蝴蝶派研究資料』(史料部分)上海文芸出版社1962.10初版未見/日本大安影印1966.10/のちの版本に、香港・生活・読書・新知三聯書店香港分店影印1980.1と上巻史料部分 上海文芸出版社1984.7がある)なのだ。ここに原作は、黒岩涙香訳の「野之花」であり、原著者は英国の女作家亨利荷特、『時報』連載後、有正書局から単行本が出版された、と書かれている(229頁)。
 ではMRS.THOMAS HARDY“THE MOTHER'S HEART”は、どこから持ってきたか。
 黒岩涙香の研究といえば、伊藤秀雄である。伊藤秀雄『改訂増補 黒岩涙香 その小説のすべて』(桃源社1979.5.15)に、「(『野の花』)『万朝報』(明治三十三年三月十日〜十一月九日)訳載。原本はミセス・トマス・ハーディ(英一八四〇〜一九二八ママ)著『母の心』(The Mother's Herat)の訳。……」(295頁)と解説してあるのをそのまま挿入した。
 范烟橋がいう「英国女作家亨利荷特」は、ヘンリー・ウッド夫人(MRS. HENRY WOOD、1814-87)をさしているのに違いなかろう。イギリス人、結婚以前の名前をELLEN PRICEといった。著作が多数あり、中国語では、亨利瓦特夫人とも音訳される。
 一方がヘンリー・ウッド夫人といい、片方がトマス・ハーディ夫人では、明らかに矛盾している。伊藤秀雄の詳細な研究からするとトマス・ハーディ夫人の方が正しいような気がする。しかし、確証をもたないから併記するほかない。
 「空谷蘭」は、包天笑の多数の作品のなかのひとつにすぎないが、阿英の記録が充分でない部分があったり、原作を追求して行くには、いくつもの資料が必要となることがご理解いただけるだろう。
 これを見ながら柳存仁氏の手紙を読む。要点は、涙香の『野の花』がイギリスの亨利・荷特著というのは、確かか?確かならば、亨利・荷特の英文原文と小説名を示せ、と言われる。
 柳存仁氏は、『清末民初小説目録』をご覧になられて私にご質問をくださったのではなさそうだ。目録には、すでにMRS.THOMAS HARDY“THE MOTHER'S HEART”と書いているから、わざわざ質問をされるはずがない。
 亨利・荷特は、間違いではなかろうか、と私は、返答した。同時に、范烟橋「民国旧派小説史略」と伊藤秀雄『改訂増補 黒岩涙香』の関係部分を複写して郵送した。涙香の『野の花』が包天笑の原作でない場合は、なにとぞご教示いただくようお願いするのを忘れない。わからないことは、専門家に聞くのがいちばん確実だからだ。
 しばらくして柳存仁氏よりご教示の手紙をいただく。
 ミセス・トマス・ハーディというのは、MRS.THOMAS HARDYであるが、しかし、生卒年がTHOMAS HARDYと同一であるのは奇妙である。HARDYは2度結婚しており、最初の夫人は、EMMA LAVINIA GIFFORDで1912年に他界した。1914年、HARDYは、 FLORENCE EMILY DUGDALEと再婚し、この人は女性作家で児童文学作品を書いている。THE MOTHER'S HEARTは、あるいはそういったものかもしれない、という内容である。
 トマス・ハーディ(1840-1928)が2度結婚していようとは知らなかった。あわてて手元の『英米文学辞典(第三版)』(研究社出版株式会社1985.2.28)を見る。たしかに、1874年、EMMA LAVINIA GIFFORDと結婚し、1912年に妻に先立たれ、1914年、助手のFLORENCE EMILY DUGDALEと再婚した、と書いてある。
 柳存仁氏のいわれるように、ミセス・トマス・ハーディの生卒年が夫とまったく同じと言うのは、伊藤秀雄の書き間違いであろう。誤りだろうとは推測されるが、確認のしようがないため、とりあえず「空谷蘭」について、以下のように書き改めておいた。フローレンス・エミリー・ダグデイルの名前を出すことができたのは一歩前進といっていいだろう。これで決定である。

空谷蘭 32回 2冊
(英)亨利荷特著 (日)黒岩涙香訳 天笑(包公毅)訳
有正書局
FLORENCE EMILY DUGDALE(MRS.THOMAS HARDY)“THE MOTHER'S HEART”。ミセス・トマス・ハーディー原著、黒岩涙香訳『野の花』前後編 扶桑堂1909.1.2/5.2。天笑の訳は、始め『時報』に連載された。[阿英127](柳存仁)

 問題は、かたづいた、つもりでいた。
 大阪経済大学図書館でついでに調べる気になったのが、また悩みの始まりとなるのだ。
 ダグデイルの生卒年は、1881-1937年である。その最初の著作は、“THE BOOK OF BABY BEASTS”(1911)がある。30歳の時の本だ。のちに書いたトマス・ハーディの伝記(1928、1930)で有名らしい。
 気になったのは、ダグデイルの著作のなかに“THE MOTHER'S HEART”が見られないことがひとつだ。記録されていない著作がある、という場合も考慮にいれる必要があるだろう。しかし、黒岩涙香の翻訳は、単行本になる前に『万朝報』紙上で連載されていた(1900.3.10-11.9)という事実がある。涙香が見た原本は、明らかに1900年以前に出版された著作だ。ところが、ダグデイルは、1881年生まれである。“THE MOTHER'S HEART”の著者だとすると、ダグデイル19歳の時になる。あるいは19歳以下という可能性もある。これは、あまりにも若すぎるのではなかろうか。
 そうすると、可能性としてはハーディの先妻ギフォードしか残らなくなる。
 ギフォードは、夫ハーディと同じく1840年生まれである。涙香の翻訳した原本が1900年以前に出版されたとして、ギフォード60歳以前のことになる。可能性としてはこちらの方が高い。ただし、彼女の著作は“SPACES”(MAX GATE 1912)くらいしか記録がない。こちらにも“THE MOTHER'S HEART”の記載をみることができないのだ。
 決定、と思っていた項目も、以下のように書き直すことになった。

空谷蘭 32回 2冊
(英)亨利荷特著 (日)黒岩涙香訳 天笑(包公毅)訳
有正書局
MRS.THOMAS HARDY“THE MOTHER'S HEART”。ミセス・トマス・ハーディー原著、黒岩涙香訳『野の花』前後編 扶桑堂1909.1.2/5.2(初出『万朝報』1900.3.10-11.9)。天笑の訳は、始め『時報』に連載された。[阿英127](柳存仁)原作は、THOMAS HARDYの後妻FLORENCE EMILY DUGDALE(1881-1937)よりも先妻EMMA LAVINIA GIFFORD(1840-1912)の作品である可能性が高い。亨利荷特(MRS.HENRY WOOD)の著作とするのは誤りではないか。

 有正書局が何年に発行した作品であるのか、わからない。再度、柳存仁氏に発行年の問い合せをする。それと同時に蘇州大学の范伯群氏に質問の手紙を書いた。

4.「空谷蘭」と「野の花」
 范伯群氏は、鴛鴦蝴蝶派についての著作で有名だ。たとえば、『礼拝六的蝴蝶夢』(北京・人民文学出版社1989.6)、『鴛鴦蝴蝶――《礼拝六》派作品選』上下(北京・人民文学出版社1991.9)、共編『1898-1949中外文学比較史』上下(南京・江蘇教育出版社1993.9)などがある。また、叢書を編集し解説も書かれているのでご存知のかたも多いだろう(「民初都市通俗小説叢書」全10冊 台湾・業強出版社1993.2-1994.4、「中国近現代通俗作家評伝叢書」全12冊 南京出版社1994.10)。
 范伯群氏に再会したのも香港中文大学であった。討論会が終了したのち1ヵ月を香港での書籍調査にすごすというお話で、なるほどこうした日頃の努力が研究に反映されているのだなと理解したことだ。
 さて、しばらくしてのことだった。『空谷蘭』の複写が送られてきた。これは、私のまったく予想していなかったことだ。范伯群氏のご厚意である。あらためてあつくお礼を申し上げたい。
 『空谷蘭』は、上冊144頁、下冊150頁、全32回で構成される。序跋の類はつけられておらず、原書名、原著者名ともに書かれていない。本文1頁には、書名とともに「呉門天笑生訳」とあり、奥付には有正書局が名前を出しているだけで刊行年月日の記載がないのだ。
 今、手元の黒岩周六著訳『野の花』(明文舘書店1916.2.15縮刷第1版未見/1926.5.1縮刷第80版)を見る。その内容は、貴族・瀬水冽をめぐるふたりの女性、すなわち瀬水夫人である澄子と青柳品子の愛憎劇である。家庭小説に分類される。
 その書きだしは、「大事の子を兵隊に遣るのは何処の親も心快くは思はぬ者、けれど行く当人は少年の血気で、是から軍人の仲間に入ると思へば肉も躍るほど気が勇む」(総ルビは省略)となっている。
 一方、包天笑訳「空谷蘭」第1回は、「常言道国家的専制易除,社会的専制難除(国家の専制は除きやすく、社会の専制は除き難し、とよく言われる)」が始まりである。原文とは、まるで似つかぬ。包天笑自らの考えを述べるのが導入部分となっているのだ。
 登場人物はといえば、涙香原文→天笑訳文の順に示せば、陶村時之介→陶村時介、妹・澄子→糸刃珠、瀬水冽→蘭、青柳品子→青柳柔雲と和漢折衷のものもあり、外国の地名は、マドラス→買特拉士、レスタシヤ→蘭士特迦といった具合である。
 話の大筋は涙香原文を守りながらも、その訳文(この場合は重訳となる)は、包天笑によって自由に潤色されている。これは、別に包天笑の翻訳に限った現象ではない。当時の漢訳小説に、普通に見られるものである。
 「野の花」と「空谷蘭」のふたつをならべてみて、その内容が基本的に一致するものであると確認することができた。
 翻訳原作の探求という点からいえば、こんどこそこれで決着がついたことになる。
 また、柳存仁氏からのご教示によると、『空谷蘭』2冊は、有正書局の光緒三十四年(1908)出版で、署名は包公毅となっているという。そうすると、こちらは、范伯群氏からいただいた複写とは別の版本である。
 結局のところ、『清末民初小説目録』では、複写で私が確認した版本とは別に、1908年版のものを独立させることにした。なかなかに奥が深いのである。

5.補訂作業は続く
 あるアメリカの研究者から連絡があり、東京に行くのだが清末小説関係書籍を所蔵する大学、図書館にどういうところがあるのか教えてほしい、という。
 以前にも外国の研究者から同様のことを問われた経験がある。私は、そのつど一瞬、考えこみ、首を横にふるのが常のことであった。そのような大学、図書館が日本にあったら、これまで資料収集に苦労はしていない、と声が漏れそうになる。手紙(大学あてに同文のファクシミリもとどいていた)に向かって首をふってもしかたがない。しいて言うなら東京中央図書館にある実藤文庫あたりでしょう、と電脳からファクシミリを送った。無事とどいたとは思うが、電脳では手ごたえなく不安だ。
 清末小説関係書籍は、日本にはまとまって所蔵されていない。あちらでひとつ、こちらでふたつ、と見て行くしか方法がないのだ。何度か同じことを書いた気がする。私個人でできる範囲は限定されている。ほかの研究者からの情報提供がなによりもありがたい、と再度いっておきたい。
 『清末民初小説目録』にまとめたのも、なにかの反応があれば、訂正することもできると期待したこともある。
 こういう原稿を草しているのも、研究者の注意を喚起するためなのだ。