《蘇報》‘本館記者’の呉熕l批判の背景(上)


松 田 郁 子



はじめに
 以前、私は、《蘇報》2497号(1903.6.21)<光緒29.5.26>に、呉熕lが載せた書信<已亡漢口日報之主筆呉沃尭致武昌府知府梁鼎芬書>の記事を見て、1903年に呉熕lが《漢口日報》の主筆を務めていた事、彼が、武昌府知府梁鼎芬の言論弾圧や経営干渉に抗議して辞職した事*1を知った。そこで、私は、呉熕lのその後の作品の中に表れたこの事件に関する記述に焦点を当てる作業を試みた。その結果、呉熕lは、この時に味わった官界の暗黒面に対する深刻な幻滅感を契機として譴責小説家に転じた、という結論に至り、私見を述べた事がある*2。
 その後、樽本照雄氏より、<已亡漢口日報之主筆呉沃尭致武昌府知府梁鼎芬書>(以下、<書>と省略する)の存在については、王立興氏がすでに、<呉熕l与《漢口日報》――対新発現的一組呉熕l材料的探討>*3の論文で、未発見の呉熕l資料として発表されていたことを教えていただいた。該論で王氏は<書>とそれに関連する《蘇報》の記事をすべて採録、当時の政治状況を詳細に分析されている。その結果、王氏もやはり、《漢口日報》買収事件は呉熕lの作家としての転機であったと指摘されている。
 私は、王論文を知らずに、再び同一の資料を採録し、その結果、王氏への非礼は言うを待たず、紙数を無駄にし、多くの活字を作る手数をかけさせることになった。誌面を借りて、王立興氏と編集印刷の皆様におわびします。
 さらに、<書>に関連して気になっていた点を、王氏もまた問題視しておられることも知った。未だ論定できる資料と論理をもち得ないがこの際、仮説を述べさせていただき、ご意見を仰ぎたい。

(1)呉熕lへの批判
 問題となるのは、《蘇報》が呉熕lの文章<書>に付けた<告已亡<漢口日報>記者>という論評の内容である。《蘇報》は、呉熕lの<書>を転載するにあたり、わざわざ、その上段に“輿論商”欄を置き、‘本館記者名義’の署名で、《告已亡漢日報記者》(以下<告>と省略する)の一文を掲げた。この文章は、<書>についての内容解説という形を取っているが、実質は、下段に掲載した<書>が政治的に妥協し、権力者に追従した文章であると、筆者呉熕lを批判した記事である。上段の<告>を読んだ後で、実際に下段の<書>を読んだ当時の読者は、事実関係を知らない場合でも、<告>の紹介を不適切と感じたであろう。しかも、《蘇報》は、この記事に先立つこと九日、6月12日<光緒29.5.17>2488号の記事、<詳記漢報改帰官弁事>(以下<詳記>と省略する)で、すでに、武昌知府梁鼎芬が《漢口日報》の経営に介入し、同報を買収して官報としたのに抗議して、主筆呉熕lが辞職した経過を報道している。‘本館記者名義’の署名人に事実関係についての基礎知識がなかったとは思えない。すでに<詳記>を読んでいた読者が、<告>と<書>を並べて読んだとすれば、なおさら、奇異な解説と受け取めただろう。
 <詳記>の記述に沿って《漢口日報》事件に関する報道を要略してみると、次のようになる。
 呉沃尭(熕l)、沈学敬を主筆とする《漢口日報》は日頃「清議を主張」したので、警察局總弁金鼎、武昌府知府梁鼎芬は「骨髄に徹する恨み」を抱いていた。4月18日、梁鼎芬が各学堂の拒俄集会を妨害して該報に罵倒された。怒った梁は、張之洞、端方を後ろ盾に経営陣に圧力をかけ、該報を官弁に売却させた。そこで、「呉熕lは‘払然’と去り、沈学敬はまだぐずぐず残っている」。このように、《蘇報》の報道は呉熕lの辞職を、言論機関ヘの政治的介入に対する抵抗、という視点で受けとめている。
 <書>は、辞職にあたり梁鼎芬にあてた絶縁状である。そこに呉熕lが述べている辞職理由は、梁が言論権を制圧し「某氏(張之洞を指す)にへつらおうとして」、民間紙を官報にしたのは「役人官兵が民の資産を強引に掛け買いする」のと何ら変わりない行為である、という非難につきる。後半の梁の慰留に対する拒絶の弁の方が、むしろ本論ともいえる。先ず、「文章家、(ほかの箇所では「数千年の詞藻、考証の学を凡守するだけ」とそしっている)、教育者として門下に人材あふれる公(梁鼎芬)が、なぜこの自由、平等と虚言を吐く人物(呉熕l)を引き留めるのか」、「守旧でも維新でもなく極中極正の道理を守ると公言する公が、どうしてこのような尊貴をわきまえぬ無頼文人、破廉恥漢の自分と組もうとするのか」、「旧主の資産(である報刊)を強占した者に従うとなれば、自分は失節之婦、敗降之将の責めを免れないが、気節凛然の人である公が、どうして失節敗降の人物を用いる気になるのか」と列挙し、それらが梁の日常的言動であることを仄めかす。それにより学界を聾断する権力者という梁鼎芬像を素描し、自身の正当性を印象づけたところで、「敢えて清貧を慮らず、失館を憂えず」辞職する意志を表明する。このように、相手を持ち上げる体裁を取って、言外に批判の意図を潜ませる表現は呉熕lならではといえよう。その後の呉熕lが、小説《二十年目賭之怪現状》、《新石頭記》や笑話、筆記などで、梁鼎芬の号に凝した登場人物名や、同一任地の同一役職人物、時には本名まで使い、執ように梁への個人攻撃を続けたことは、以前に指摘した。呉熕l自身が<書>で述べているように、彼と梁は同郷人で、早くから面識があった。ほかの官人に対するより幾分身近な相手の不公正に対して感じる憤りは、よりいっそう強かったのだろう。
 <告>は、<書>の文章に、呉熕lが「梁鼎芬に哀れみを乞い」、「言論の自由を放棄」し、「甘んじて腐敗に従い」、「資本家に降り」、「権力者にへつらって」主筆辞職を表明した、という解釈を与えている。さらに、呉熕lが「梁鼎芬のご愛顧を賜り、狂喜している」という、不可解としか言い様のない批評まで加えている。執筆者の<本館記者>に、<書>の意図を汲み取る読解力がなかったとは思えない。意図的に曲解したとすれば、<告>の狙いは、呉熕lを「甘んじて梁鼎芬の下風を拝する」いわゆる洋務派或いは改良派として扱い、批判することにあったとしか考えられない。
 この点について、王立興氏は上記の<呉熕l与《漢口日報》――対新発現的一組呉熕l材料的探討>で、<書>と<告>の文章を分析し、<告>の文章の批判点が「書」の実際の内容に符合していない点、《蘇報》記者の呉熕lに対する批評が、一方的で偏っている点を指摘している。王氏は、そうなった理由について、「この時期の《蘇報》は日ましに革命的色彩を鮮明にしており、自身の新聞発行の主旨を守るために、守旧派の《申報》、“新政”擁護派の《新聞報》、保皇派の《中外日報》を紙上攻撃していた。官弁に帰した《漢口日報》に行なった攻撃もその一つであった。この時期発表した<論《中外日報》>、<論湖南官報之腐敗>、<論報界>、<読《新聞報》自箴篇>等の文はすべてその立場をはっきりと表している。公正に見て《蘇報》が新聞の言論自由を守るために各種の旧態依然たる新聞を攻撃したのは非難するにあたらない」と分析し、「しかし、そのために呉熕lを巻き添えにし、故意に激烈な言葉を弄したのは、為すべからざる失策であった」と論評している。王氏のこの分析は、思想的立場の表明が報刊発行の本質的意義となりつつあった当時の言論機関と、それを余儀なくさせる政治状況という社会背景にもとづいて、《蘇報》記者が呉熕lに示した態度を解釈した妥当適切な見解である。
 しかし、王氏の解説をもってしても、なお、次の二点については釈然としない。
 1.何故、呉熕lが“新政”擁護派、保皇派として批判の対象となったのか。
 呉熕lは、悪辣な地方郷紳の支配下にある中国社会ではまともな議員選出などできないから議会政治は時期尚早であると主張したり、売名や将来への先行投資が目的で革命派になる人物を批判したりしたので、一律に保皇派、反動派として扱かわれたこともあった。但し、それは解放後の扱いであって、生前にそのような評価が定着していた形跡は見あたらない。職業作家となって後、雑誌の共同編集者として親交を深めた翻訳家の周桂笙や、死後、彼の伝記を書いた李懐霜も革命派である。ともかく、彼が上記のように逆説的な革命反対を主張したのは、すべて《漢口日報》主筆を辞め譴責小説家に転じて後である。該紙辞職以前の彼は、拒俄運動を支援する愛国者、総督巡撫を背後に持つ大官に抵抗する反骨のジャーナリストとして活動していた。それを承知で、「梁鼎芬のご愛顧を賜り狂喜」したと、敢えて強引な解釈を<書>に下した<告>の筆者、‘本館記者’には、何らかの意図があったとしか考えられない。
 2.何故、《蘇報》紙上で<詳記>と<告>の見解が異なるのか。
 先に述べたように、もともと、《蘇報》は、当局の言論統制に従うのを潔しとせず辞職したという視点から、《漢口日報》事件を報道していた。確認しておくと、<詳記>で当局の弾圧と呉熕l辞職を報道、その九日後、呉熕lの辞職通告書<書>を登載する。但し、その冒頭に、記者の批判的コメント<告>が付けられる。その後も、官報と化した《漢口日報》の無味乾燥な記事や、残った編集者の無気力などを伝える記事が、断続的に載る。しかし、辞職した呉熕lに対する非難の論評は見られない。むしろ、硬骨の編集者を失った新聞が、予期どおり精彩を失った事実を確認しようとする報道の流れとなっている。即ち<告>の呉熕l批判だけが浮いた形となっているのである。
 このような、呉熕l側に立った<詳記>の報道、<告>の一転した批判、もとの報道姿勢に沿ったその後の追跡記事、という、《漢口日報》事件に対して《蘇報》の取った統一を欠いた対応は何を意味するのだろうか。「各種の旧態紙への攻撃」が「呉熕lを巻き添えにした」という、王立興氏の挙げられた基本的要因に加え、さらに、見解の統一を欠くような事情が《蘇報》内部に生じていたのではないか、という疑念を抱かざるを得ない。それが、《漢口日報》事件に対する不統一な報道という形となって表れたのではないのだろうか。
 そこで、本稿では、《蘇報》の中心的存在であった人々の関係や立場といった人的環境の側面、及びそこから起こり得た事態について検討し、若干の補足を試みておきたい。

(2)《蘇報》の環境
 とりあえず、方漢奇《中国近代報刊史》*4によって、《蘇報》の出版環境、人的背景についてみてみたい。《蘇報》はもとは日本人を発行名義人とする。1900年、陳範が買収し、言論機関としての影響力を持つことになる。陳範は、字を夢頗、湖南衝山の人、兄の陳鼎が戊戌の政変に連座し、彼自身も教会関連事件で免官になり、政治不信を抱くに至った元官僚である。彼がひきついだ《蘇報》は、はじめ康有為、梁啓超に共感する立場で、改良派の傾向が強かった。しかし、列強の脅威が強まり、東京で“支那亡国二百四十二年紀念会”が開かれ革命団体が相次いで結成され、革命の気運が高まるに連れて、陳範も『蘇報』も革命派に同調する方向へと転換し始めた。1902年冬ごろから、学生の愛国運動や学園闘争を報道し、革命派に傾いてきていた《蘇報》は、1903年に入って以後、革命的色彩をいっそう強め、前後して《異哉満学生異哉漢学生》、《釈仇満》、《漢好辨》、《代満政府籌御漢人之策》、《俄据満洲後之漢人》等の論説を載せ、革命を鎮圧する清朝政府に対する革命派の公開の論壇となった。1903年5月27日、陳範は章士を正式に主筆に迎え、以後7月7日に停刊させられるまでの約一か月半、《蘇報》は激烈な筆調で民族、民主革命を主張した。章士は《愛国学社》の社員である。《蘇報》は《愛国学社》の成立以来、同社と連携関係を保ち続け、大量に学社の教員、学生の論稿や演説記録を登載した。また、「月に百金を愛国学社に贈り」、彼らが交替で社説を執筆する契約を結んでいた。
 《蘇報》を実質的に発行していたのが、《愛国学社》の教員と学生であったという事実は、編集体制の統一という問題の核心が《愛国学社》という組織にある事を示している。《愛国学社》の成立を支援したのは《中国教育会》である。1902年春、蔡元培、蒋智由、黄宗仰、蒋維喬らは、上海に、《中国教育会》を結成した。表面では教育事業を行っていたが、実は革命団体だった。同年秋、《南洋公学》退学生の学校創設の要請に応じて結成されたのが《愛国学社》である。翌年春には《南京陸師学堂》の退学生、章士、胡敦復らも加わった。蔡元培、章太炎、蒋維喬、呉稚暉、張継ら《中国教育会》会員が教員を務めた。
 即ち、この時期の《蘇報》は、《中国教育会》と《愛国学社》という、世代も教養も社会的立場も姿勢も異なった改革論者が共同で運営する組織の構成員によって編集されていたのである。そのような場合に、思想や見解の相違、衝突はあって当然であろう。その一端が、<本館記者>と署名する人物が呉熕lの<書>を論評した<告>に表れているのではないだろうか。
 《中国近代報刊史》の上記の記述はもちろん、馮自由《革命逸史》*5をはじめ、章太炎や蔡元培の年譜解説など、この時期の《蘇報》、《中国教育会》の資料に関する限り、おそらくそのほとんどすべてが蒋維喬の<中国教育会の回憶>*6によっていると言って過言ではない。蒋のこの回憶は、三十年余を経て、関係者の多くが黄泉に帰し、記憶も混乱した時期に発表され、事実関係を具に詮議する余地のないまま、史的記録として公認されたのではないかと思われる。それは、蔡元培が訂正箇所を指摘した蒋維喬宛の書簡に「書かれた昔日の事は、半ばは、覚えておれなかった事です。先生のこの文章がなければ、《中国教育会》のかつての事績は消滅せざるを得なかったでしょう」*7と感想を述べているのでもわかる。そのように、あくまで一個人の主観にもとづいた回想で、その認識や記憶の細部までを絶対視することはできないという点をふまえても、やはり、貴重な証言である事には変わりない。
 そして、この回憶を回憶したのが呉稚暉の「回憶蒋竹莊先生之回憶」*8である。しかも、その内容は、反論というより、むしろ自身の履歴と思想的展開を述べながら、往事の行動についての理解を求めた釈明というに近い。この両者の証言によって、当時、《蘇報》を取りまいていた人的環境の概観がうかがい知れる。
(次号完結)

【註】
1)張之洞の意向を受けた梁鼎芬の言論弾圧を、呉熕lが《漢口日報》で攻撃、梁が報館買収という強行手段で該報を傘下に入れようとしたので辞職した、という事件である。
2)松田郁子<小説家、呉熕lの出発点――雑誌《蘇報》登載の手紙から>《関西大学中国文学会紀要》15号1994.3
3)王立興<呉熕l与《漢口日報》――対新発現的一組呉熕l材料的探討>《中国近代文学考論》南京大学出版社1992.11所収
4)方漢奇《中国近代報刊史》山西人民出版社1981.6
5)馮自由《革命逸史》台湾商務印書館 民国54年10月
6)蒋維喬<中国教育会之回憶> (<蘇報案始末>附録一)上海通社編《上海研究資料続集》 民国62年6月25日所収(孫常緯編著 民国74年6月国史館)。初出は《東方雑誌》33巻1号 1936.1.1
7)同6書収録
8)同6書収録