半 歩 大 前 進 (2)

――『中国近代文学大系』史料索引集を読む


樽 本 照 雄



2-3 「中国近代文学大事記」
 日本でいう文学年表である。作家の生卒、文学活動、文芸思想論争、作品の発表、雑誌の創刊などなど文学に関する事項を編年体で記録する。1840年から1919年までの80年間を104頁にまとめた。
 読んで雑然とした印象を受けるのは、月の順になにからなにまで押し込んだためである。読物としてはじめから読んでいくのには適当かもしれないが、検索がむつかしい。項目ごとにまとめるという方法もあると考える。
 言及する人は少ないが、陰暦、陽暦の混在には悩まされる。清末民初が、ちょうど陰陽暦の転換期にあたっており、それゆえに生じる混乱なのだ。
 たとえば「1907年11月」と表記されるものがあるとする。「1907年」とくれば、この「11月」は当然陽暦だと思うではないか。ところが、これが丁未十一月を機械的にアラビア数字に置き換えただけという実例が、別の刊行物にはある。明らかに誤りだ。
 本大事記は、陽暦で統一して記述する方針らしい。陰暦を併記しないから、換算間違いを避けることができる。ただし、うっかり記述がないわけではない。1906年「2」月に呉熕l『二十年目睹之怪現状』第1冊単行本を出版するとある(69頁)。該書第1冊は、光緒三十二年二月十八日の日付が印刷されており、陽暦では3月22日となる。陰暦二月を誤って陽暦2月としたものだ。
 史料索引集という書物の性格からして、厳密な記述が期待されている。陰暦との併記も考えられるのではないか。
 もうひとつ残念に感じたのは、人名索引、作品索引がついていないことだ。あればもっと役立ったことだろう。
 この大事記(年表)のもとになったのは、同名の「中国近代文学大事記」といい、『中国近代文学発展史』下(北京・中国文聯出版社1991.6)に収録されている。
 『中国近代文学発展史』のために大事記の編集作業を進める一方で、同時に、あるいは少し遅れて史料索引集用の編集を行なったことが、出版年を見るとわかる。
 『中国近代文学発展史』所収のものは、歴史背景、文学活動、本年刊行的作品などの項目別に、史料索引集は、月日順に配列するという違いがあるだけだ。元の資料は同一だから両者ともに同じ箇所が間違っている。
 ざっと見て、私が気のついた誤りなどを以下にかかげる。

17頁2行 劉鶚(1857-1909)
 → 1857.10.15-1909.8.23。呉熕l、李伯元の生卒を月日まで示すならば、劉鉄雲についてもそうしてほしい。
23頁14行 6月1日,李伯元出生……
 → 5月21日*10
27頁10行 曾樸出生……
 → 1872.3.1-1935.6.23。呉熕l、李伯元の生卒を月日まで示すならば、曾孟樸についてもそうしてほしい。
41頁14行 石昌書局
 → 石倉書局が正しい。郭長海の論文が有名だ*11。
42頁10行 石昌書局
 → 石倉書局
57頁8行 魯迅(19歳)参加李伯元主編的《游戯報》……
 → 『游戯報』に見える名前は、「周樹人」であるという。この「周樹人」が魯迅である保証はなにもない。「周樹人」は複数存在するのだ*12。
58頁2行 日本革命亡命者金井雄
 → 金井雄は、革命亡命者ではない。日本語教師として中国に赴いた。
60頁15行 《迦茵小伝》
 → 《迦因小伝》 書名に2種類ある。包天笑らのものは「迦因小伝」、林゚らの翻訳が「迦茵小伝」だ。因と茵の違いだが、これを混同している。
61頁30行 李伯元(35歳)謝絶経済特科的保薦……
 → 1901年ではなく、経済特科推薦は1902年である*13。
64頁3行 呉熕l《二十年目睹之怪現状》発表於《新小説》……
 → 呉熕l「二十年目睹之怪現状」の『新小説』発表は、1903年からであり、ここにあるような1902年ではない。
64頁12行 《繍像小説》……1906年4月停刊
 → 『繍像小説』は、第13期より発行年月日が書かれていない。その発行は遅延していた。以下、『繍像小説』の発行年月日についての記述は、すべて憶測によって表記されている。いちいち掲げない。
65頁2行 天津《日日新聞》
 → 日本人の西村博が天津で創刊した新聞で、名称が日本式に《天津日日新聞》なのである。
66頁3行 《迦茵小伝》
 → 《迦因小伝》
66頁16行 5月,秋瑾到日本留学……
 → 7月2日に神戸に到着した*14。
67頁9行 二春居士(李伯元)
 → 二春居士は李伯元ではない、と論文が発表されている*15。
68頁12行 4月、小説《黄繍球》……開始転載於《新小説》
 → 『新小説』の連載は10月から。
69頁1行 劉鶚続著《老残遊記》二編若干巻
 → 1905年の劉鉄雲日記に見える「老残遊記」若干は、二編ではなく初集の原稿である*16。
69頁26行 2月、呉熕l著《二十年目睹之怪現状》第1冊単行本出版
 → 第1冊の出版は、光緒三十二年二月十八日(1906.3.22)であり、ここでは陰陽暦を混同している。
76頁22行 《域外小説集》第1集出版,由東京群益書社和上海広興綢緞荘発售
 → 東京神田印刷所印刷が正しい。1924年に上海群益書社が再版したのと混同したらしい。
77頁5行 《域外小説集》第2集在東京出版,由東京群益書社発行
 → 東京神田印刷所印刷が正しい。群益書社は上海の書店。
83頁23行 (1912年9月の項)《血海花魂記》
 → 該作品は、1913.2.9-6.1の『独立周報』に連載されている。配置間違い。
84頁18行 《神州光復志演義》……広智書局刊行
 → 広益書局
87頁17行 翻訳小説《銀女王》
 → 《銀山女王》
89頁7行 (1914年6月の項)徐枕亜的小説集《枕亜浪墨》出版
  → 1915年3月の間違い。
92頁19行 (1915年6月の項)蘇曼殊作短篇小説《絳紗記》
 → 1915年7月10日の間違い。
94頁17行 《福爾摩斯探案全集》
 → 《福爾摩斯偵探案全集》
94頁26行 曾樸著《゙海花》第3冊,望雲小房刊行
 → 望雲山房
100頁9行 周作人訳《童子林的奇跡》
 → 《童子Lin的奇跡》が正しい。作品名を勝手に改変してはならない。
100頁29行 《負国報恩》
 → 《負骨報恩》
101頁10行 一名《女豈皮足拜骨》
 → 《女豈皮妍骨》
101頁11行 《小説学報》
 → 《小説季報》
101頁13行 《楊尼思老葺a他的驢子的故事》
 → 《楊尼思老葺a他驢子的故事》が正しい。作品名を勝手に改変してはならない。
101頁14行 《楊拉奴媼復化的故事》
 → 《楊拉奴媼復仇的故事》
102頁18行 九州帝国大学(現称帝国大学)
 → 現称九州大学としなければならない。

 ただし、以上の間違いのうち、わずかに2ヵ所のみ、初出『中国近代文学発展史』が正しく史料索引集の方が誤植である箇所がある。すなわち、史料索引集の101頁10行のものは、初出が「《女豈皮妍骨》」(『中国近代文学発展史』410頁)となっていて、こちらが正しい。同じく、101頁11行のものも初出の《小説季報》(同前)が正しい。この二つは、編者が印刷所の誤植を見落したのだ。
 以上、その誤り、不充分な点を見てみた。この大事記(年表)は、今までの研究成果をそれほど熱心に吸収していないことがわかる。これはどういうことであろうか。
 『中国近代文学発展史』が発表されて以後、史料索引集が出版されるまで、中国の研究者のなかで誰もその誤りを指摘しなかったのだろうか。もっとも史料索引集には、訂正をする機会を与えられなかったという可能性は考えられる(私が経験した)。それを割り引いて考える必要があるかもしれない。しかし、もともとの原稿が間違っていることは明らかだ。編者たちが、最新の研究成果を吸収して自らの大事記に盛り込む努力をしなかったのではないか、といわれてもしかたないだろう。専門の史料集でさえこれくらいの誤りがあるところから、中国ではそれほどまでに史料整理の仕事は軽視されているのか、と暗澹たる気持ちにならざるをえない。

2-4 「中国近代文学思潮、流派、社団簡介」
 経世文学思潮、鴉片戦争時期的愛国詩潮、桐城――湘郷派など16項目について解説する。
 参考の便宜を考えて関係参考資料目録をつけた(編選説明)という。確かに便利である。しかし、見れば「雑説 梅曽亮」などと、文章名と作者名が羅列してあるだけだ。掲載雑誌、発行年、収録書籍という手掛かりはなにも与えられていない。ないよりまし(ここは誉め言葉である)、なのかもしれないが、せっかく資料目録を掲げるのならもう少し親切にしてもらえないものか。研究者ならば、自分で探索しろ、という編集方針なのだろうか。なにかお座なりというか、不親切というか、ここでも資料が大事にされていない気がする。

2-5 「中国近代文芸報刊概覧」(一)
 まず最初に、史料索引集に限らず、雑誌総目録などこの種の資料集についての私の評価基準を明らかにしておく。
 資料を扱う場合の基本方針は、「あるがまま」であらねばならない。
 資料の字句は、そこにあるがままに採録するのが正しい。編者の考えを付け加えたい場合は、注記のかたちにする。訂正、加筆、書き換えなどは、無断で行なってはならない。
 資料整理について、なにか誤解があるように感じる。あるがままに材料を収集することだけでは研究にならない、とでも考えているのではないか。なにか手を加えなければならないように考えていないか。
 資料収集など誰でもが簡単にできる、という誤解が背景にあるからこそ、そういう現象が発生するのだ。これはまさに大きな誤解である。資料収集とその整理には、人の資質と密接に関わったものがあり、誰にでもできるというものでは決して、ない。
 資料収集とその整理は、研究の基礎となるものなのだから、厳密に手間とひまをかけて、じっくりやってほしい、と私はいつも願っている。
 資料を「あるがまま」の形であつかうという基本方針の上にふたつの評価基準がある。
 従来の資料集にないものをどれくらい多く収集しているか。これがひとつである。
 資料そのものをいかに正確かつ忠実に記載しているか。評価基準のふたつだ。未発表の資料を収集していても、その記述が不正確であっては価値が半減する。
 概覧全体の構成から見ていこう。
 一と二に分かたれている。「編選説明」を合わせて読むと、一は文芸雑誌(甲編)を、二には文芸雑誌(乙編)、総合性雑誌、文芸新聞を収録する、とだけある。総合性雑誌とは、日本でいう一般雑誌という意味だが、これと文芸新聞とあわせて、文芸の専門雑誌から区別するのはわかる。しかし、文芸雑誌をふたつに分けたその基準を明らかにしていない。
 編集に違いがある。甲編は、総目次で、期数と発行年月日がそのまま記録されている。一方、乙編は、おおよその発行状況を述べ、内容によって分類した掲載作品名をかかげる。
 さて概覧一は、1872年創刊の『瀛寰瑣記』から1919年の『文学雑誌』まで、44種の雑誌について細目を収録する。
 強調されるのは、実物を編者自らの目で確認したことだ(「引言」173頁)。よほど自信があるのだろう。発刊辞などが附録で収録されているところから、そのことがわかる。貴重な資料となっていることは、いうまでもない。この部分は、私は、高く評価する。
 概覧に収録された雑誌の多くは、前出上海図書館編『中国近代期刊篇目彙録』全6冊掲載の雑誌目録と重複しているのも事実だ。
 ここは編者の悩むところだと想像する。彙録と重複する雑誌を採取しても二重手間になるだけだ。かといって史料索引集に主要な文学雑誌が収録されていなければ史料集として成り立たない。手近に彙録を見ることができない研究者のために、重複を厭わなかったと考えるべきか。
 概覧掲載の雑誌では、紙幅の関係から文学に関係のない項目は削除している場合がある。だから、彙録と重複する雑誌については、いっそのこと彙録を見た方が間違いがなくてよろしい。そもそも、概覧に収録された目次は、彙録の細目をそのまま取り込んでいるにすぎないのだ。
 たとえば、雑誌原文にはなくて彙録の記述にあるものを、概覧がそのまま引きうつしているものがある。
 『新小説』第2号に掲載された小説について、概覧(史料索引集一231頁)は、

語怪小説
 俄皇宮中之人鬼 (法)前駐俄公使某君著 曼殊室主人訳

と記す。
 しかし、『新小説』の原文の目次には、

 ◎語怪小説………一三三
俄皇宮中之人鬼 曼殊室主人

とあって、これが翻訳作品であることは分からない。原作者名は表示されておらず、概覧の記述になるはずがない。『新小説』の本文を見ると、

語怪小説俄皇宮中之人鬼 曼殊室主人訳

と書かれているだけで、ここからも概覧に見えるような「(法)前駐俄公使某君著」という記述はないことがわかる。原文をよく見れば「訳者識」の冒頭に「此篇乃法国前駐俄公使某君所著也」とある。彙録の編者は、この記述をもとにして、

語怪小説
 俄皇宮中之人鬼 (法)前駐俄公使某君著 曼殊室主人訳

と記録した。彙録編者の丁寧な仕事だというべきだ。概覧は、この彙録をそのまま頂いたことが明らかだろう。
 たとえば、『繍像小説』の発行年月を異なったカッコで示す例がある。
 周知の通り、『繍像小説』は第13期より発行年月を記載しなくなる。彙録では、そのため第12期までは、発行年月を()でかこんで示し、第13期より〔〕に変え区別している(2巻1105頁)。彙録編者の配慮である。概覧も説明抜きでこれを踏襲する(史料索引集一254頁)。
 たとえば、彙録の誤植がある。
 『小説林』第11期に掲載された陳鋏侯「西装之少年」を例にとろう。その著者を彙録3巻2131頁では、陳鉄侯と誤植する。概覧も同様に陳鉄侯と誤っている(史料索引集一361頁)。初出雑誌を見れば間違いようがない箇所である。それを誤っているのは、彙編をそのまま書き写していることを意味する。
 たとえば、ロシア文字を使用している箇所がある。
 概覧では、『小説時報』「欧戦佚聞勇奴」の原作者を、ロシア文字を使って表わしている(史料索引集一422頁)。しかし、雑誌原物の該当箇所を見れば(目次には原作者の名前が掲げられない)、V.NEMIROVICH-DANCHENKS氏作となっていて、おまけに氏名末尾の綴りが間違っている(正しくは、V.NEMIROVICH-DANCHENKO)。ところが、概覧では、ロシア文字を使用し、正しい綴りになっているのだ。なぜ、概覧の記述がロシア文字なのであろうか。彙録4巻2710頁の表記がロシア文字であるからなのだ。
 彙録をそのまま複写しただけだから、見落す部分も出てくる。
 概覧の『小説林』第12期最後部分に欠落がある(史料索引集一363頁)。今、補うと以下のようになる。

「射虎集」、柴崖「(滑稽小説)白綾巾」、鉄「鉄甕燼余」、蟄競「海外逸聞」

 以上、少し例を挙げてみた。間違い部分もあるが、しかし、たいした問題ではない。彙録という参照できる資料が別にあるからだ。
 しかし、史料索引集だけにしか出てこない雑誌、新聞についてとなると、これが問題になる。はたして信頼できる記述となっているか、不安を感じないわけではない。
 彙録になく、この史料索引集にはじめて収録される雑誌が9種ある。
 具体名を挙げる。『寧波小説七日報』、『墨海』、『文芸叢報』、『小説叢報』、『七天』、『朔望』、『十日新』、『小説新報』、『小説画報』だ。
 もうひとつ付け加えるならば、『小説月報』は、彙録は9巻12号(1918.12.25)までしか収録していない。しかし、史料索引集は、11巻12号(1920.12.25)までを収録する。(ついでにいえば、9種類のうち『小説叢報』と『小説新報』以外は、私は見たことがない。さっそく増補訂正作業を継続している『清末民初小説目録』に関係部分を採録させてもらったのはいうまでもない。)
 すぐ気がつく疑問点はふたつある。
 その1、『小説叢報』第1週増刊(1915.6.28)が収録されていないのはなぜか。
 その2、『小説新報』を第4年第12期(1918.12)までしか収録していないのはなぜか。
 後者については、「中国近代文学大系」そのものがその対象を1840-1919年としているのだから、1919年分を収めなかった理由がわからない。
 くりかえすが、彙録にあるものは、記述を比較対照できるから、誤りがあろうともなんとかなる。しかし、もし、雑誌原物を見ることができず、史料索引集に
のみ収録されている雑誌については、こちらに依拠せざるをえない。ところが、この概覧の記述に不備があるのだ。
 たまたま、私は、『小説叢報』と『小説新報』を所蔵している(全揃いではない)。その小説は、『清末民初小説目録』にも収録した。両者を照しあわせてみる。概覧のものには、作品名に誤植がある、原著者を書いていない、著者の名前が違うなどなど、原物の雑誌とあまりにも異なる記述が出てきた。多すぎるといってもいい。
 たとえば、『小説叢報』第3期(1914.7.20)の概覧を見てみよう。必要箇所だけを抜きだす(1054頁。下線:樽本)。

名人軼聞胡屠 無城
趣情小説升降機 鱒X
奇情小説痴人福 仁灼、義
紀事小説攀特廬軼史 水心、古月

 無城は、蕪城の誤植だ。実際の雑誌本文を見ると、もっと詳しいことが判明する。

名人軼史胡屠 蕪城
趣情小説升降機 美国Paul West著
倪鱒X
奇情小説痴人福 英国馬剖利原著
仁灼訳、義酪℃
実事小説攀特廬軼史
Aleandre Dumas 法国大馬仲原著
水心、古月合訳

 いうまでもなく、Aleandre Dumasは、Alexandreの、大馬仲は、大仲馬の誤植である。
 一見してわかるように、概覧は、重要部分を取り落としている。概覧を見ている限り、翻訳と創作の区別がつかない。
 もうひとつ『小説新報』第2年第7期(1916.7)から。全部を挙げると煩雑となるので、1ヵ所だけを抽出する。

偵探小説変相之宰相 少芹

という作品がある。これを実物で確認すると、

奇情偵探小説変相之宰相
俄国貝爾斯原著
江都黄少芹訳述

とあって、これまた翻訳ものなのだ。概覧からの記述では、その判断ができない。
 なぜ、こうまでも記述が異なっているのだろうか。これは概覧の編者がしかけた一種のワナではないか、と思った。この史料索引集が出典であることを隠して引用した場合、その誤った記述から出典を黙っていることが判明するように小細工をほどこしたのではないか。しかし、これは考えすぎだろう。他人が研究成果を無断借用する例があるからといって、その防止策を実行してしまっては史料索引集としての価値がなくなる。
 答えは簡単だ。概覧の編者は、目録を作成するに当って雑誌の原物を見たことを強調していることは述べた。確かに原物を見たのだろう。ただし、見たのは目次だけだった。目次と本文に記述の違いがあることを知らなかった。あるいは、確認しなかったのである。
 目録を作る時、目次と本文に異同がある場合、本文の記述に従うのが基本である。おまけに、清末民初時期に発行された雑誌には、この種の異同が多く見られるのも常識のひとつなのだ。
 概覧の編者は、その基本を知らなかったのか、あるいは手を抜いたかだ。その結果が、以上のような無残な形となってしまった。せっかくの貴重な史料が、これではなんにもならない。ないよりマシ、というならば、その価値が半減したというべきか。いずれにしても、惜しい。
 編者が雑誌の原物を見たことを、私は疑ってはいない。しかし、目録作成にあたって、編者が行なったのは、『中国近代期刊篇目彙録』に収録されるものはそちらの記述のままを原稿とし、彙録未収録の雑誌は、目次だけから採取したと思われる。(次回完結)


【注】
10)樽本照雄「清末四作家の生卒年月日」『大阪経大論集』第47巻第6号1997.3.31
11)郭長海「劉鉄雲雑俎」『清末小説』第14号1991.12.1
12)樽本照雄「二人の周樹人」『伊地智善継・辻本晴彦両教授退官記念中国語学・文学論集』東方書店1983.12.10。
―― 「周樹人がいっぱい」『清末小説』第17号1994.12.1
13)樽本照雄「経済特科考」『大阪経大論集』第46巻第2号(通巻226号) 大阪経済大学 1995.7.15
―― 「李伯元と呉熕lの経済特科」『太田進先生退休記念中国文学論集』中国文芸研究会1995.8.1
―― 「李伯元、呉熕lと経済特科の意味」『中国文芸研究会会報』第166号 中国文芸研究会 1995.8.31
―― 「李伯元和呉熕l的経済特科」(中国語)『中国学報』第36輯 韓国中国学会1996.7.20
14)樽本照雄「秋瑾東渡小考」「文学遺産」第629期『光明日報』1984.3.13。後、郭延礼編『秋瑾研究資料』山東教育出版社1987.2。
―― 「秋瑾来日考」『大阪経大論集』第159-161合併号 大阪経大学会1984.6.30
―― 「新聞に見る秋瑾来日」『中国文芸研究会会報』第53号 1985.6.30
―― 「秋瑾来日再考」『清末小説から』第13号 1989.4.1
15)祝均宙「《海天鴻雪記》作者並非李伯元」『文学報』1991.5.16
魏紹昌「《海天鴻雪記》的作者問題」『河南大学学報(社会科学版)』第31巻第2期(総119期)1991.3.31
16)樽本照雄「天津日日新聞版『老残遊記二集』について」『野草』第18号 1976.4.30