《蘇報》‘本館記者’の呉熕l批判の背景(下)


松 田 郁 子



(3)《中国教育会》と《愛国学社》
 蒋維喬によれば、《中国教育会》、《愛国学社》の成立と分立の経緯は概ね次のようになる。1902年4月に上海新党蔡元培、蒋智由、林少泉、葉瀚、王季同、汪徳淵、黄宗迎らの発議で、表面は教育事業を行いひそかに革命を鼓吹する団体《中国教育会》が成立し、各地の同志に上海に来るよう連絡した。そこに、1901年3月、二十数名の学生を率いて日本に留学中、駐日公使蔡鈞ともめて強制送還された呉稚暉、張継が加わった。1902年9月16日、上海国立南洋公学に同盟休校が起こり二百余名の学生が退学するに至った。彼らは自力では建学できなかったので、成立まもない《中国教育会》に賛助を求めた。そこで蔡元培、黄宗仰が資金を調達し、《愛国学社》が成立した。有給で雇ったのは上級英語の西洋人女性教員のみで、三、四年の国文を章太炎、一、二年国文を蒋維喬、歴史地理を呉丹初が担当するなど、《中国教育会》会員が義務的に教務を担った。教職員は、蔡元培が商務印書館、呉稚暉が文明書局に務め、章太炎、蒋維喬は翻訳でという具合にそれぞれ自活し、教務は純粋の奉仕だった。しかし、学社社員の中には《愛国学社》を主体、《中国教育会》を付属とみなし、教員を社員の学費に依存する公僕と見て指示に従わず陰口をきく者もいた。《中国教育会》指導陣の内、呉稚暉は社員を陰でかばい、蔡元培は社員をよしとはしないものの表面穏やかに対していたが、章太炎は断固として学社と合作すまじと主張した。双方の溝が深まる中、1903年6月16日、《愛国学社》は社員の名義で、《蘇報》に<敬謝中国教育会>を発表して《中国教育会》からの脱離を宣言した。それに対し、《中国教育会》も会長黄宗仰名義で、<賀愛国学社之独立>を発表して、両者は表面的には円満に分立する形となった。
 <敬謝中国教育会>の執筆者は‘愛国学社社員’となっている。その主張は概ね次のような内容となる。
 《中国教育会》と《愛国学社》は「精神、宗旨共に同じく、祖国を思い努力するのも同じで、本来、両者を隔てる境界はない」のだから「同人と教育会に何故わだかまりや主客の別があろうか」。それなのに、部外者は「同人が教育会に依頼している」とみている。また「社員でない教育会諸君」が同人の進歩の為に尽くしてくれると「依頼の悪名」の重荷がますますのしかかる。「同人の志は教育会に依頼するにはない」から「形式」を分ける事にしよう。最後は、「我が同志」は「閑居せず、疑い躊躇する」ことなく、「涙をふるって同人を待とう」と呼びかける形となっている。
 この、『中国教育会』に「依頼」しているとみられる立場に不本意で離脱を宣言した筆者の‘愛国学社社員’については、個人であるか複数であるかさえ判らない。しかし、文中で、「我が同志」が「同人」に参加を呼びかけている点からも、《中国教育会》からの離脱は《愛国学社》社員全員の総意ではなく、《中国教育会》に不満を抱く有志の「同志」が主導していた事が判る。指導的立場にいて社員に心理的負担をかけた「社員でない教育会諸君」の一人は章太炎であったと予測される。
 蒋維喬によれば、もともと《中国教育会》は各自が各々の基準で改革の構想を掲げ、比較的緩やかに結集した、受け皿の広い団体であったらしい。そこで、時に怪しげな人物も紛れこみ、《愛国学社》社員の疑念を生んだという。章太炎が、蒋智由を通じて蔡元培を知ったと述べている*9如く、会員はおそらく皆、大なり小なり交友関係で結ばれていたのだろう。太炎は蒋智由、黄宗迎とは仏教を通じての親交が深かった。また、彼は、いわゆる改良派汪康年の《時務報》や、洋務官僚張之洞の《正学報》編集に携わり、鄒容の《革命軍》に序文を書くといった具合に、救亡を第一義とし路線の相違を問題にしない傾向が強かった。また、蔡元培も、広義の民族革命を念頭においていたようで、1903年3月14日、《蘇報》に掲載した<釈仇満>の一文では、「満人の血統は久しく漢族と混合し、その言語と文字もすでに漢族の文字、文章に淘汰されている。満人の標識は世襲爵位と働かずして座食する特権のみである。満人が自覚してその特権を放棄するならば、漢人は満人を殺し尽くす必要など断じてない。」と述べ、鄒容が《革命軍》で主張した‘殺尽胡人’の見解に反対している。
 《蘇報》紙上において、《中国教育会》と《愛国学社》の考え方の違いと、それによる見解の不統一を端的に表すのは、満州族と漢民族の問題や、《中外日報》主筆で、拒俄運動や不纏足会を主催した汪康年関係の記事である。例えば、1903年5月6日の論説<海上執刀史>は、四月一日に張園で汪康年の主催した拒俄集会を紹介し「この日の会費、電報費はすべて汪君が負担した」と汪康年の労をねぎらっている。救国の大義に沿った活動であれば党派を問わず評価しようとする会の傾向の表れとみてよいだろう。ところが、5月18日には、「彼の主筆」汪康年が拒俄演説会での「ある団体」の挙動を「激発語言、跳擲叫囂、譁譟扮演」と形容し「児戯に等しい」と批判した、と抗議した論説<読中外日報>が載る。1901年の第一回集会での演説者の一人であった呉熕lも、1906年の小説『新石頭記』で、喧噪、怒号、笑声で演説する声さえ聞きとれない拒俄演説会の状況を描写しているから、汪の批評はあながち事実に反していたわけではなかったろう。<読中外日報>の筆者は、おそらく当日の挙動の当事者であった《愛国学社》社員の一人と思われるが、汪が「康有為、梁啓超の関係者」でありながら戊戌、庚子での連累を辛くも免れてきた経験から、官憲を恐れる余り「消極姿勢」を取るのだと決めつけている。洋務官僚の干渉に反発する学園闘争に端を発して成立した《愛国学社》の社員にとっては、活動の内容如何に関わらず、張之洞や梁啓超と均衡を保ちながら報刊発行を続けてきた汪の姿勢自体が、容認し難いものであったかのようにみえる。そのような彼らの警戒心は、汪の招請で《時務報》編集に関わった事のある章太炎や、汪と共に演説会開催を呼びかけた蒋智由等ほかの《中国教育会》会員に対してもおそらく向けられていたと思われる。
 蒋維喬は、回憶の随所で章太炎と呉稚暉の確執が組織内の対立を深刻化させていた事を示唆している。清朝最後の大学者にして稀代の奇人の章太炎に、学生が不満を抱いていたとしても、おそらく太刀打ちできなかったろう。しかし、先述したように、呉稚暉が盾になってくれた。その呉稚暉も、太炎の狂態にだけはさすがに為すすべもなかったらしく、「評議会で教育会と学社の合作解消が談義された時、稚暉はおどけた態度を頼みに舌鋒鋭く学社側の肩を持った。太炎は皆の面前で、‘稚暉、お前が陰謀纂奪を図って宋江の仕業をまねようと、このわしがいる限りやれはせんぞ’と、テーブルを叩いて怒鳴りつけた。稚暉は日頃、立て板に水の弁舌でその場を思いどうりにしたが、太炎の顛狂には譲らざるを得ず、黙りこんだ。以来、集会に太炎が居れば稚暉は席を避けた」というエピソードを、蒋は紹介している。但し、呉稚暉自身はその話を否定している。真偽はともかく、両者の確執は、《愛国学社》における呉稚暉の影響力がそれだけ大きかった事を表しているといえる。

(4)呉稚暉の影響力
 蒋維喬の記述から、運営面で呉稚暉が指導力を発揮した場面を見てみる。
 先ず、1903年春、《中国教育会》会長改選の時、呉稚暉は、会の運営費を潤沢にしようという思惑から、ユダヤ富商ハードン夫妻と親しい黄宗仰を会長に推すよう《愛国学社》社員に呼びかけた。会員の多くは宗仰が僧侶という点で、会の会長として戴くには適当でないと考えた。しかし、稚暉はあくまで譲らず、学社社員の絶対多数は稚暉についたので、宗仰を会長に選出する事となった。
 また、1903年3月、東京の留学生が軍国民の教育と義勇隊の結成を呼びかけた。《愛国学社》でも義勇隊を組織したが教官がいなかった。4月、南京陸師学堂に退学運動が起こった。喜んだ呉稚暉は、「うちの義勇隊には教練担当がいない」と連絡した。この招請を受けて、陸師から林力山、章士が派遣され、後で四十余名の学生が《愛国学社》の学籍に編入した。力山、士は体育教員と教練を担当した。この二事だけでも、重要な局面において、社員を率いた呉稚暉の発言力が高かったことがわかる。彼には人心掌握や組織運営の才があったらしい。蒋維喬は「当時、会では戯れにここは梁山泊のようだと言っていた。呉稚暉を将にみたてると宋江だとか、知謀に長けているから呉用だとか言う者もいた」と回想している。
 また、蒋慎吾<蘇報案始末>*10によれば、呉稚暉は《愛国学社》に他紙に対抗する機関報が必要だと主張し、学社社員七人が交替で社論を書き、毎月百元の報酬を受け取るという契約を《蘇報》館と結び、学社の経費とした。以後、《蘇報》主筆は呉稚暉、汪文溥、章士等が担当し、「駁…」の類の革命宣伝記事や「読某報」の類の他紙攻撃記事が登載された。《蘇報》事件で逮捕された陳仲彝は、法廷で「《蘇報》は父陳範の経営で、総主筆は呉稚暉である」と供述している。この証言によれば、《蘇報》が《愛国学社》の機関紙となったのは、呉稚暉の画策であった事になる。また、館主の息子の目に主筆と映るほど、稚暉の権限が強かったことがわかる。
 《蘇報》館主陳範の要請で章士が《蘇報》改革に着手したのは1903年5月27日からとされている*11が、前年3月に《中国教育会》、9月に《愛国学社》が成立した頃から、陳範の意向とも一致して、《蘇報》は革命的色調を強めていた。その中で各記事に最も多く関わっていたのは、学社社員に影響力が強く、ほかならぬ章士を上海に呼んだ張本人でもある呉稚暉であったと考えてよいのではないだろうか。

(5)呉稚暉の回憶
 呉稚暉の<回憶蒋竹荘先生之回憶>は蒋維喬の回憶に異議を唱えたというには歯切れが悪い。要略すれば、自分は「甲午以前は革命の何たるかも知らず」康有為や梁啓超の感化を受け「維新派小卒」となり、以後刺激を受ける度に成長した。今や「国民党党員にして無政府主義者」となったが、当時は《中国教育会》を、「中国で最も早い革命団体であったとも知らず」、「私学理事会みたいなもの」と思っていた。今になってそれを知り、申し訳なく思うが悪気があったわけではない、という釈明に終始しているといえる。また、《中国教育会》と対立した《愛国学社》社員に荷担した点についても否定せず、次のように説明している。「学社も学生は未来の主人公であり、老人(‘老朽’)は譲るべきだと鼓吹していた。……私は《中国教育会》に参加してからさらに進歩し、三つのスローガンを持つようになった。皇帝と民衆との訴訟では民衆に味方する、教師と学生との訴訟では学生に味方する、父親と息子との訴訟では息子に味方する、というものだ。……当時、私が《中国教育会》を革命団体であると知っていたとしても、私は《愛国学社》をより革命的団体であると考えて、両者が衝突すれば学社を助けたろう。主義が(幼稚で)誤っていただけで、いかなる不公正もなかった。……当時、章太炎は四十近い人間で、二十そこそこの人間に主義を講じるのは革命党らしくないと今でも思っている」
 呉稚暉の回憶から、唯一明らかとなっているのは、彼と章太炎が当初から反目しあっていた事だろう。上記の記述のほかにも、1902年、日本留学三カ月弱の時、清国公使の圧力で本国送還に遭い、憤激の余り、海中に投身して救出され、蔡元培に上海へ連れ帰られた自分を、章太炎が「下水溝に飛びこんだ」と笑ったと述懐している。稚暉自身が、《中国教育会》、《愛国学社》個々人に「仲違いの暗闘」があったと認め、次のように述べている。「今になっても教育会の若干名は学社の話になるとずっと機嫌が悪いし、学社の人間も教育会の話になると機嫌が悪い。真相は人と人にあって会と社にはない」。分裂の原因は、突き詰めれば人間関係にあったというのが、やはり実情に近いようである。
 《愛国学社》が<敬謝中国教育会>を発表して独立を宣言した後、《中国教育会》も<賀愛国学社之独立>を発表し、容認と祝辞を述べる。その末尾で学社に、トルコ、インドの如く滅亡に至らぬよう、(空言でない)「独立の精神と学識」をもって国権の快復を図るよう、奮起を促している。その言葉には、「精神、宗旨が同じ」と言いながら、亡国の危機に瀕する時期に仲間割れする軽挙に対する危惧が感じられる。当時、この分裂を論じた《浙江潮》は、「今日の中国の志士はどうして‘意気名誉’の四字を逃れられないのか、日々この四字に煩わされ同族が敵対するまでになるのはどうすればよいのか」と、危惧している*12。それらの危惧は的中し、独立後、二週間弱で《蘇報》館関係者の逮捕と停刊を招き、《愛国学社》は解散、《中国教育会》も活動停止を余儀なくされる。《蘇報》事件で兄弟分の章太炎、鄒容を逮捕された章士は、来し方を回顧して、「才識、能力が劣弱」で「実行が不得手」だったと悔いたという*13。また周知の如く、章太炎と呉稚暉は、《蘇報》事件に絡んで関係をより悪化させ、民国成立以後も対立し続けた。

(6)呉熕lへの影響
 上海で報刊編集に携わっていた呉熕lは、《中国教育会》に関係した人々と既知の間柄となる機会が多かったはずである。実際、汪康年や蒋智由、黄宗仰とは拒俄演説会で同席している。「書」が公開であったか私信であったかわからないが、その掲載に際しても、《蘇報》関係者の知人の手を経たと考えるのが自然だろう。呉熕lの《漢口日報》主筆辞職を、言論弾圧に対する抵抗と評価したり、権力への屈服と批判したり、意志統一の取れていない《蘇報》の対応については、<告>の署名人「本館記者」が誰かという問題をはじめ、詳細はやはり疑問のままである。ただ、このような一貫しない報道の背景には、上記のような《蘇報》内部の対立が介在していたと考えてよいだろう。「未来の主人公」を自認する学生たちは、既存の報刊や文人の文章には、その‘革命’性を計って‘老朽’の度合を点検しようとしたかもしれない。《漢口日報》を辞職し小説家に転じてまもなく連載を開始した小説《二十年目睹之怪現状》で呉熕lが開陳している満族についての議論は、先に挙げた蔡元培の論説の内容とほぼ一致する。もともと、彼の立場や主張には、《愛国学社》社員の目に、《中国教育会》に近い‘老朽’派と映る要素が備わっていたのだろうと思われる。
 後に呉熕lは、小説《上海遊驂録》などで‘教養と節度の無い革命党人’を批判する。このような‘革命党’観は、彼にとりおそらくは不本意であったと思われる批判を浴び、掲載紙も発禁に遭い、改革の労苦が水泡に帰する光景を目の当たりにしたこの時の体験に始まっているとも考えられる。

【註】
9)湯志鈞編《章太炎年譜長編》中華書局1979.10
10)同6書収録
11)<章士>李文海、孔祥吉主編《清代人物伝稿》下編第五巻 遼寧人民出版社1989.11
12)<上海教育会与愛国学社之衝突>《浙江潮》第六期1903.6.20<時評>内国之部
13)同11