半歩大前進(3) 『清末小説から』第48号1998.1.1



半 歩 大 前 進 (3)

――『中国近代文学大系』史料索引集を読む


樽 本 照 雄



2-6 「中国近代文芸報刊概覧」(二)
 分類して、文芸雑誌、総合性雑誌、文芸報紙、中国近代已知待査文芸報刊簡表に分ける。
 概覧一が目次を収録していたのに較べ、概覧二は、より簡便に解説と内容紹介、さらに発刊辞などを附録として掲げるものもある。
2-6-1 文芸雑誌(乙編)
 ここに収録されている雑誌は、いくつかが彙録と重複するが、重ならない雑誌の方が多い。貴重である。
 ただ、創作、翻訳に限らず、いずれも作者と作品名を掲げるだけで、発行年月の記載がない。概覧だからそれでいい、という編者の判断なのだろう。しかし、資料性を高めるためならば、発行年月は、欠かせない事項なのだ。惜しい。
 86頁にある『大厦』は、彙録そのほかでは、いずれも『大夏』である。なぜ、史料索引集二だけが『大厦』としているのか不明。
2-6-2 綜合性雑誌
 こちらは、すべて彙録と重複する。
 記述を見るかぎり、雑誌の原物を見なくても彙録をもとにして書くことができる、という印象を持った。
 基本的に彙録収録の目録に拠っている。ただし、『留美学生季報』についての解説で、胡適の「文学改良芻議」が『新青年』に発表したものとは字句が異なっていることを指摘している(148頁)のは興味深い。と、一旦、私は感心したのだ。しかし、同じことが、中国社会科学院近代史研究所文化史研究室丁守和主編『辛亥革命時期期刊介紹』第4集(北京・人民出版社1986.10)の黄沫「留美学生季報」(579頁)に書かれていて、これによったことがわかる。ちょっとがっかりした。
 気になる記述がある。『東方雑誌』に掲載された「創作短篇小説」として「郵賊」「鴆毒媒」「英雄骨」「時諧」などの名前を列挙する(史索二122頁)。
 阿英「晩清小説目」(『晩清戯曲小説目』増補版 上海・古典文学出版社1957.9)では、これらをいずれも創作の部に分類する。どちらが正しいかといえば、これは阿英に軍配が上がる。実物で確認した。
 概覧のこの部分は、彙録の字面だけをなぞって記述したのではないかと思わせるのに十分である。
2-6-3 文芸報紙
 これはめずらしい。おまけに、くわしい。掲載された文章を附録で掲げているから実物の新聞を目にしていることが明らかである。
 ただし、ここでも著者名、作品名のみを記録するだけで掲載月日がない。
 あるいは、作品名のみで著者名のないものがある。無署名で発表されてものか、あるいは採録もれなのか読者は判断ができない。角書を明記しているものもあるし、それがないものがある。あるいは、諷刺類、社会類、情類などと分類する。中途半端である。
 書式に統一が見られないのは、複数の人で手分けして採取作業を行なったためだろうか。
2-6-4 「中国近代文芸報刊概覧」部分についての結論
 本史料索引集は、上海図書館編『中国近代期刊篇目彙録』全6冊がすでに発行されたあとに出てきたことを、私は、くりかえしたい。
 彙録がすでに存在しているのだから、類似の書目を編集する場合、採るべき方針はみっつしかない。

1.彙録と重複しても、文芸項目に重点をおきながら細目までを掲げる。
2.彙録に未収録の雑誌、新聞のみを彙録と同じ方法で細目まで掲げる。
3.彙録とはまったく別の編集にする。すなわち、たとえば著者別作品目録に編集しなおす。

 1の方法は、これだけで大型出版物になってしまうおそれがある。とても2冊では納まらないだろう。しかし、文芸報紙部分だけでも細目を発行年月日とともにまとめていれば、画期的な出版物となっていたことは保証できる。かえすがえすも残念だ。
 分量の関係から1が無理であるならば、いっそのこと彙録に未収録のものだけでも細目をかかげるやり方もあった。彙録にすでに収録されているものは、そちらにまかせる。体裁としては悪いかもしれない。だが、この2こそ、現実的な方法であり、研究にどれだけ役に立つかわからない。しかし、編者は、採用しなかった。その時点で、史料索引集が「完全なる成功」から見放されたといってもいいだろう。
 成功にいたらない出版物にしからならいとしても、まだ、可能性は残されていた。やり方は、いろいろあるのだ。「中国近代文芸報刊概覧」を対象とした著者名索引でも作成すれば、より、便利になっていただろう。それすらも、ない。
 そこで、いっそのこと3の著者別作品目録に編集しなおせば、これまたすばらしいものとなる可能性が大いにあった、とくりかえさざるをえない。今にしてみれば、無益なことではある。
 現実に出されたものは、以上のどれでもない。まことに中途半端な「概覧」でしかなかった。編者が、原物を目にし、手にしたことがわかるだけに、もう一歩の詰めが甘い、と感じてしまう。非難しているではない。せっかくの貴重な資料を十分に利用していないことを、私が残念に思い、口惜しく感じていることをご理解いただきたい。
 史料索引集の目録を主産物とし、その作成過程で書かれた論文を副産物としようか。編者のうちのひとり祝均宙の論文*17を見ると、副産物は豊富に獲得できたということができる。しかし、それに較べて主産物の目録の方は、本来あるべき姿からすれば、やや痩せ細って見えるといえば言い過ぎか。
 『小説叢報』『小説新報』掲載の小説は、ともに前述のように『清末民初小説目録』に収録している。編者は、上海書店で調べようと思えば、これで補うことができた。それをしていないところから、『清末民初小説目録』は、上海書店に「とどめ置かれた」だけで参考にされなかったことがわかるのだ。

2-7 「中国近代文学研究資料篇目索引」
 大きくふたつに分ける。一、総合研究、二、作家作品研究だ。
 前者は、概論綜述、詩詞、散文、小説、戯劇、民間文学、文学社団、報刊・出版、翻訳文学で構成される。後者は、作家を氏名の筆画順に配列し、収録者を数えれば773名にのぼる。また、佚名氏作品研究がある。
 1840-1990年の150年間にわたる研究文献目録である。論文を主とし、大学紀要、研究誌、雑誌、新聞などを幅広く、かつ細かく採取するのが特徴だ。さらに、初出ばかりでなく、のちに資料集などに収録された場合、その単行本名(後に一覧表がある)も明示しているのも親切である。研究文献目録が、どうあれば利用するのに便利なのかを知っている人のやり方だ。適切な処置だということができる。
 清末民初の作家を中心に、関連項目を含めた研究論文総合目録としては、現在まで発行されたなかで規模が最も大きいものではなかろうか。大変に有用であると、再度、強調しておきたい。
 単行本は収録していない、と「叙例」(280頁)に書いてある。しかし、目録をよく見れば、単行本に収録された論文を独立させ、内容によって分類採取している。単行本名だけを掲げるような手抜きをしていないのが、いい。たとえば、『中国近代文学的特点、性質和分期』(中山大学出版社1986.10)、『中国近代文学百題』(中国国際広播出版社1989.4)などなど、収録されたひとつひとつの文章が項目として現われているのだ。便利であることは、いうまでもない。
 718頁にもわたる大部な目録である。不十分な部分が出てくるのもやむをえない。
 気のついた不足点を少し紹介しよう。
 ひとつの論文で複数の分野にまたがるものはどうするか。
 複数の場所に、それぞれ配置する。たとえば、汪家熔「劉鶚和李伯元誰抄襲誰?――答樽本照雄先生」(『光明日報』1984.11.6)は、その題名にあるように劉鶚(507頁)と李伯元(578頁)の2ヵ所に出てくる。それでは、問いとなっている樽本照雄の文章は、どこにあるのか。論文内容からすれば、劉鶚(鉄雲)、李伯元の両項目に、汪家熔論文の前に置かれていてもよさそうなのだが、不思議なことに、そこにはない。報刊・出版の項目に出ている(398頁)。樽本の論文名は、「誰是《繍像小説》的編集人」(『光明日報』1984.9.4)であり、劉鉄雲も李伯元も見えないのが、その原因だろう。やや、機械的な分類といえよう。
 出版ついでにいえば、『出版史料』第1-32期(1982.12-1993.7ママ)が重要資料である。ここからの採取がない(ただし、1件のみ張元済の項目にある<657頁>)。
 魯迅(周樹人)の項目がない。
 当然言及されるべき『域外小説集』が、採録されない。その結果、時萌「晩清文壇論翻訳」(『中国近代文学論稿』上海古籍出版社1989.10)は記録されているが(401頁)、時萌の該書に収録されている「魯迅《域外小説集》的啓蒙意義」は、脱落するという不手際が生じる。清末翻訳界にはたした魯迅・周作人兄弟の功績を無視してはならない。
 文学史は、採取対象からはずされたようだ。
 ただし、胡適「五十年来中国之文学」、阿英『晩清小説史』などについては、書評文が収録されており、その存在がわかるようになっている。そうであるならば、時萌『晩清小説』(上海古籍出版社1989.6)、陳平原『二十世紀中国小説史』第一巻(<1897年-1916年>北京大学出版社1989.12)などが発行されていることがわかるような工夫はなかったものか。ついでにいえば、陳平原、夏暁虹編『二十世紀中国小説理論資料』(<1897年-1916年>北京大学出版社1989.3)は、林゚の項目に見える(684、685頁)。
 文学理論は、総合研究の小説に含ませてある。理論という項目を独立させてもよかったように思う。
 451頁にある王蘊章の項目に、蓬壷「続小説家別伝・王西神先生」の掲載誌として『遊戯世界』彙編第3冊(約1923年)をあげる。これには初出がある。同誌第18期(1922.11)だ。同じように、478頁の王錦南「小説家別伝・包天笑先生」(『遊戯世界』彙編第3冊(約1923年))も、同誌第14期(1922.7)が初出となる。
 つまり、こうなのだ。王錦南「小説家別伝(上)」(『遊戯世界』第14期1922.7)、同題下(同誌第15期1922.8)、さらに、蓬壷「続小説家別伝」(前出)があるというわけ。これらをまとめたものが、『遊戯世界』彙編第3冊に掲載されたらしいとわかる。初出の雑誌を目にすることができなかったのだろう。
 劉鶚(鉄雲。493-511頁)に以下の文献が脱落している。

蒋逸雪『劉鶚年譜』済南・斉魯書社1980.6
劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』済南・斉魯書社1982.8
劉徳隆、朱禧、劉徳平著『劉鶚小伝』天津人民出版社1987.8
陳 遼『劉鶚与老残遊記』中州古籍出版社1989.8

 574頁3行目にある魏紹昌「李伯元的四種雑著考」について説明し、「又見日本中国文芸研究会編《野草》24期(1979年10月)」とするのは誤りである。『野草』掲載の魏紹昌論文は、もともとが日本語訳だ。題名を「李伯元の雑著4種について」(1026頁)という。『野草』掲載の原文は、1961年5月21日付『文匯報』の該文と一部分が重複するが、より詳しい記述となっている。両者は、別論文としてあつかわなければならない。題名が同じなので、勘違いしたのではないか。不注意であったといえよう。
 576頁12行目に掲げる論文名が間違っている。ここには、魏紹昌「《冰山雪海》是冒充李伯元編訳的贋品――兼論楊世驥先生的評介文章」とし、その掲載誌を『清末小説研究』(日本)3期(1979年10月)と表示する。しかし、該論文の題名は「《冰山雪海》是冒名李伯元編訳的一本仮貨」である。著者が、のちに論文名を変更したのだ。また、『清末小説研究』第3号の発行は、1979年12月1日が正しい。
 765頁31行「回憶女革命家秋瑾(上)」〔日〕服部繁子の文章は、いかにも中国語が原文のように見える。しかし、これは、日本語で発表されているのだ。ゆえに、1005頁15行に「婦人革命家王秋瑾女士の思い出(上)」として採録されている。
 清末民初小説関係の専門書は、研究論文に比較すれば、もっと少ない。収録するのにそれほど手間のかかるものでもないはずだ。にもかかわらず単行本は収録しない、という編集方針らしい。なぜそうなのか。理解できない。
 細かいことを最後に言う。
 342頁31行に見える包天笑「晩清四小説家」は、初出は「清晩ママ四小説家」となっている(四小説家だから498、572、623、942頁にも同じ表題で出現する)。「清晩」という言葉は、普通は見かけない。「晩清」が正しいのだろうが、初出は、あくまでも「清晩」である。なんらかの注が必要ではないか。ここに書かなくてはならないことではないかもしれない。まあ、ひととおり目を通しましたという意味である。
 以上は、すべて瑕瑾であることをいっておく。
 日本において、ここに掲げられた論文のすべてを読むことが可能かと問われると、これは、むつかしい、と答えるほかない。日本に入って来ていない、内部資料といってもいい出版物に発表された論文も、この目録には収録されているからだ。それくらい広く細かく採取されている。編者の実力が、充分発揮されていると私は考える。研究論文目録の集大成といってもいい。極めて高く評価する理由である。

2-8 「清末民初小説研究目録――日本、その他の国篇」
 この目録は、私が編集した。原稿は、日本語で書かれている。
 日本語の研究目録を漢語に翻訳するか、日本語のまま掲載するのかの選択は、主編である魏紹昌に任せた。ただし、条件がひとつある。日本語で掲載するならば私に校正をさせること、これだ。原稿を郵送して出版されるまで、何の連絡もなかった。私は、漢語に翻訳されるのだろうとばかりに思っていた。漢語に翻訳するのであれば、著者校正は不要であるとも伝えていたからだ。出てきたものを見て、私は驚いた。日本語のままであったからだ。約束の著者校正をさせなかったものだから、日本語の間違いがいくつもある。恥ずかしい。
 それどころか、「凡例」に奇妙な一条があることに読者は気づいただろう。いわく、「本目録を、直接あるいは間接に使用する場合は、いずれにしても編者・樽本照雄の氏名を明記しなけらばならない」。
 目録を使用する場合、編者の氏名を明記することを「凡例」に明記する目録があるだろうか。私は、見たことがない。おかしな「凡例」である。
 事情を説明すれば、この部分は、主編・魏紹昌にあてた手紙の一部分なのである。過去において、名前を出す条件で資料を送ったところが、印刷物には資料提供者として私の名前が掲げられていない経験があった。この「清末民初小説研究目録」ではそのようなことがないように、資料作成者としての責任を明らかにするためにも、名前を出すよう魏紹昌に要求したのだ。まさか、これが「凡例」として、そのまま印刷されるとは思わない。著者校正をしていれば、当然、削除する箇所である。
 資料集であるにもかかわらず、著者校正を許さない編集とは、どういうことなのか。大いに不審である。中国で発行された資料集に研究文献目録が収録されるという画期的な編集だと思うから、なおさら正確を期してもらいたかったと考えるのだ。
 日本以外の場所で発表された研究文献については、十分でないことは、自分でよくわかっていた。だからこそ、最初は辞退したのだ。魏紹昌から、それでも私(魏紹昌)よりは、材料を持っている、とおだてられて応じてしまった。
 今であれば、韓国なら呉淳邦を、台湾では黄錦珠を、アメリカの王徳威を、ヨーロッパならキャサリン葉をそれぞれ紹介するのだが、すでに手遅れである。ひとこと弁解しておきたい。
 誤植を指摘しておく。(同語句のものは「――」で代用。「……」は、省略を示す)

998頁9行 あくまごも
 → あくまでも
998頁10行 収録するとてろ
 → ――するところ
1002頁14行 《九命奇冤》についこ
 → ――について
1002頁18行 清末の社会小説に就いこ
 → ――に就いて
1005頁24行 李叔同のてとども
 → ――のことども
1008頁8行 《清末小説研究》にの一
 → ――その一
1008頁20行 文学史的に見こ
 → ――に見て
1012頁5行 《林琴南……
 → (《をとる)
1017頁12行 ……前言・あとがぎ
 → ……前言・あとがき
1018頁6行 ……《断鴻粉雁記
 → ……《断鴻零雁記
1024頁17行 曾孟樸アルベム
 → 曾孟樸アルバム
1030頁1行 ……アンドレ|エフ
 → ……アンドレーエフ
1034頁16行 呉研人の……
 → 呉熕lの……
1034頁26行 曽鋳と費行簡《近代名人小伝》のてと
 → ――のこと
1038頁31行 ……《日本沈没》のてと―あるいぼ……
 → ……《日本沈没》のこと―あるいは……
1041頁31行 ……発見ちれた
 → ……発見された
1047頁18行 《清末小説カう》
 → 《清末小説から》

 いずれも簡単な誤植ばかりだ。著者校正をしていたら間違いようのないものであることは、明らかだろう。なぜ、著者校正をさせなかったのか、不思議でならない。

3.おわりに
 以上を採点表にしてみよう。冒頭につけた○△×は、その順序のままを意味する。
△大事記――同内容の年表は、すでにいくつか出版されている。本史料索引集のものは、誤りが少なからず残ったままになっているから、私の評価は△だ。
△簡介――附録の文献目録に、掲載誌、発表年月を明記していないなど書誌情報が不十分である。ゆえに△となる。
△概覧――珍しい史料をつけくわえていて貴重だ。ただし、雑誌本文の記述によらず目次ですませている箇所がある。書誌情報が不十分であると言わざるをえない。安心して利用できない部分があるからには、厳しいかもしれないが、私の見るところ、残念ながら△である。
○篇目、目録――これさえ見れば、1990年までの研究情況を理解する手掛かりになる。便利であり有用であることをいくら強調してもしすぎることがない。◎をつけたいくらいのものだ。
△作家年譜、小伝――小伝は、各集にそれぞれ分散して書かれているものもあるが、一部の作家しか実現していない。史料索引集としてまとまったものがあってもよかったのではないか。
×創作、翻訳編目――作成を計画されてはいた。しかし、結局、実現されなかった。史料索引集としての評価は、×である。だが、だいじょうぶ。私が編集する『新編清末民初小説目録』(清末小説研究会1997.10.10)がこの穴の一部分を埋めるであろう。
 史料索引集全体を見渡せば、彙録に収録されていない雑誌、文芸新聞を大幅に採取したこと、および、研究論文目録をひとつにまとめたこと、このふたつが大きな特徴であるということができる。これは、研究を大きく一歩前進させることになる。しかし、細部を観察すると、細目の記述が不徹底であったり、大まかな記述で済ましている箇所がある。ここは、半歩後退と判断する。総合して半歩前進なのである。前進しただけ高い評価を下したとご理解いただきたい。
 半歩かもしれないが、研究にとっては大きな前進なのだ。

【注】
17)祝均宙「李伯元重要佚文新発現――証実《海天鴻雪記》非李之作」『中華文学史料』1 1990.6
―― 「李伯元与《指南報》」『図書館雑誌』1990年第5期(総43期)1990.10
―― 「《海天鴻雪記》作者並非李伯元」『文学報』529期 1991.5.16
―― 「清末民初七種罕見文芸報刊鈎沈」『出版史料』1992年第4期(総第30期) 1992.12