梁 啓 超 の 種 本
――雑誌『太陽』の場合

樽 本 照 雄



 種本とは、いうまでもなくもとになった他人の文章をいう。種本である、と明記すれば問題はない。なにも断わらないと、ややこしいことになる。無断引用だといわれたり、はなはだしくは盗用だと非難されることもある*1。
 梁啓超に対して、無断引用、盗用という言葉が使用されることが、過去において、ままあった。
 ただし、ひとこと説明が必要だろう。梁啓超には、今日で言う、負の意味の盗用あるいは無断引用という意識が、まったくないことだ。

1 梁啓超の「なんでも利用主義」

 利用できる文章は、手当りしだいに引用するという傾向が、梁啓超にはあった。誰の文章か、注記する時も、書かないこともあるというだけにすぎない。啓蒙を急いでいたためであろうか。
 政治家、言論人としての梁啓超にとって、出典を明示しないこと、悪くいえば盗用、無断引用などは、その政治目的のためにはなにほどの意味も持たなかったように見える。
 当時は、また、それほど問題にもされなかった。ただ、まれに非難されたことがある。
 政治上の意味を離れて観察すれば、これはひとつの材料となる。すなわち、非難の文章をたどることによって、梁啓超の文章がどこらあたりから出てきたものか、ようやく判明するからだ。
  私は、梁啓超の「恥部」を暴くつもりはない。だいいち梁啓超には、盗用、無断引用の意識がないのだから、「恥部」にはならないのだ。
 梁啓超が発表した文章の一部分に、もととなる資料、文章があることを追求する必要があることは、周知の事実だ。彼の小説論がどこから得られたのかを理解するためである。
 政治家、言論人としての梁啓超が、小説論を空から抽出したとは思えない。拠ってたつ文章、文献があるにちがいない。すなわち、種本探索だ。これが、私の出発点である。
 種本探索、と言うのは簡単だ。しかし、試みた人は、それが困難であることを知っている。ただ、言わない、書かないにすぎない。
 梁啓超は、日本滞在中の読書について、ごく少数を除いて、ほとんど言及していないのではないか。梁啓超が所蔵する日本書籍の目録*2はある。しかし、完全な目録かどうか不明だし(収録数が少ない)、所蔵した書籍を梁啓超が読んだという保証はない。
 梁啓超の小説論について、現在まで、研究者のうちの気づいている何人かが、その種本を追求してきた。だが、誰一人として、それに成功していない。梁啓超は、ほとんど手掛かりを残していないからである。
 種本探索は、梁啓超と同じ読書を追体験することにほかならない。梁啓超と同時代の明治時期に発行された日本書を探す作業は、考えただけで気が遠くなる。それも手掛かりなしの状況においてである。着手する研究者がいないのは、理解できる。
 ゆえに、梁啓超が、同時代人から盗用したと批判されたという記述は、ひとつの糸口となるのだ。
 一例をあげよう。梁啓超の「烟士披里純(INSPIRATION)」(『清議報』第99冊光緒二十七年十月廿一日<1901.12.1>)がある。
 これは、徳富蘇峰作「インスピレーシヨン」(『静思余録』国民叢書第4冊、民友社1893.5.1/1911.1.20四十一版)を中国語に翻訳したものだ。蘇峰の文章について、初出の雑誌『国民之友』をあげないで、後の収録著書を示したのには理由がある。梁啓超が拠ったのは、単行本の方であるからだ。
 梁啓超の文章には、徳富蘇峰の名前が出てこない。蘇峰の名前を出さず、そのうえ文章そのものは、まるまるの翻訳になっている。ゆえに、盗用ということになる。事実、当時から批判があった。
 盗用問題とは別に、視点をかえて蘇峰の書籍をながめてみる。そうすると、梁啓超の日本における読書範囲のなかに徳富蘇峰を含めることができる。
 ただし、追求してみると、徳富蘇峰は、問題解決の糸口とはならなかった。私の探しかたが不十分なのだろう。こうして、何度目かのふりだしにもどるのだ。
 梁啓超に対する盗用非難が、多数存在していた、というものでもない。あとは手探りになるのもやむをえないだろう。
 本稿では、梁啓超の種本のひとつに雑誌『太陽』があることを述べたいと思う。小説論の種本探索からは、少し離れる。準備作業のひとつだと考えていただきたい。

2 梁啓超「伝播文明三利器」

 文章名を「伝播文明三利器」という。初出からそう呼ばれていたわけではない。
 もともとは、『清議報』に連載していた「飲冰室自由書」の一部分で、題名はつけられていない。署名は、任公。該誌第26冊(光緒二十五年八月初一日<1899.9.5>)掲載の九則のうち三則を『飲冰室合集』に収録するさい「伝播文明三利器」と題した。
 「犬養木堂が私(注:梁啓超)に語っていうには、日本の維新以来、文明普及の方法にはみっつある。ひとつは学校、ふたつは新聞、みっつは演説である。……」で始まる箇所を抜きだす。ゆえに「伝播文明三利器」と題された。

2-1 「伝播文明三利器」の原文と日本語訳
 本稿で問題にする部分の原文と日本語訳を掲げる。梁啓超の文章には、タネとなる文献があることをいうのに必要だと考えるからだ。

  於日本維新之運有大功者、小説亦其一端也。明治十五六年間、民権自由之声、遍満国中。於是西洋小説中、言法国、羅馬革命之事者、陸続訳出、有題為自由者、有題為自由之燈者、次第登於新報中。自是訳泰西小説者日新月盛。其最著者則織田純一郎氏之花柳春話、関直彦氏之春鴬囀、藤田鳴鶴氏之繋思談、春窓綺話、梅蕾余薫、経世偉観ママ等。其原書多英国近代歴史小説家之作也。翻訳既盛、而政治小説之著述亦漸起、如柴東海之佳人ママ奇遇、末広鉄腸之花間鴬、雪中梅、藤田鳴鶴之文明東漸史、矢野竜渓之経国美談(矢野氏今為中国公使、日本文学界之泰斗、進歩党之魁傑也)等。著書之人、皆一時之大政論家、寄託書中之人物、以写自己之政見、固不得専以小説目之。而其浸潤於国民脳質、最有效力者、則経国美談、佳人ママ奇遇両書為最云。
 日本維新の運動に大きな功績があったのは、小説もまたその一部分である。明治十五、六年の間、民権自由の声が、国中にあまねく満ちた。そこで西洋小説の中でフランス、ローマの革命のことをいうものを陸続と翻訳し、「自由」と題するもの、「自由の燈」と題するものをたて続けに新報に掲載した。これより泰西小説を翻訳するものは、日に日に盛んになっていった。その最も著名なのは、織田純一郎氏の「花柳春話」、関直彦氏の「春鴬囀」、藤田鳴鶴氏の「繋思談」、「春窓綺話」、「梅蕾余薫」、「経世偉観ママ」などである。その原書は、多くは英国近代歴史小説家の作品だ。翻訳が盛んであるうえに、政治小説の著述もまたようやくはじまる。たとえば、柴東海の「佳人ママ奇遇」、末広鉄腸の「花間鴬」、「雪中梅」、藤田鳴鶴の「文明東漸史」、矢野竜渓の「経国美談」(矢野氏は、今、中国公使であり、日本文学界の第一人者にして進歩党の傑物だ)などである。著者は、みな一時の大政論家であり、書中の人物に仮託して自己の政見を書いたのであって、もとより専ら小説と見なすことができるわけではない。また国民の脳に滲み込むのに最も効力があったのは、「経国美談」、「佳人ママ奇遇」の両書が最たるものであったという。

 梁啓超は、著者と作品名を具体的にあげている。この部分だけを読めば、梁啓超が、日本の明治維新後の文学状況について、十分に研究していると誰しもが感じるだろう。
 事実、増田渉は、つぎのように書いている。「彼の『飲冰室自由書』(一八九九年、『清議報』)の中の『文明普及之法』を見れば、彼が日本の政治小説について研究するところあったことが知られる」*3
 増田渉は、梁啓超の該当原文を日本語に翻訳して示しているくらいだから、この部分が、梁啓超の研究の結果だと信じていたに違いない。

2-2 言及された日本語作品
 作品名がかかげられている。柳田泉の著作など*4によって簡単な書誌をつけておく。これにより梁啓超の研究の成果を検証することができるはずだ。

「(欧州奇事)花柳春話」5冊 リトン著、丹羽(織田)純一郎訳 高橋源吾郎出版1878.10-1879.4 
ロード・リットン原作「アーネスト・マルトラヴァース」1837と続編「アリス」1838の抄訳。(13頁)
「(政党余談)春鴬囀」4冊 ビーコンスフヰールド著、関直彦訳述 関直彦(橘村書屋)・阪上半七出版1884.3-9
ビコンズフィールド伯ディスレイリ「コニングズビー」1844(46頁)
「(諷世嘲俗)繋思談」2冊 李頓著、尾崎庸夫訳、藤田茂吉(鳴鶴)佐訳纂評 藤田茂吉(報知社)出版1885.12
ロード・リットン「ケネルム・チリングリイ」1873(60頁)
「(泰西活劇)春窓綺話」2冊 服部誠一纂述 阪上半七発兌1884.1
スコット「湖上の美人」1810(48頁)
「(政治小説)梅蕾余薫」2冊 蘇骨土著、牛山良助意訳 和田篤太郎(春陽堂出版)1886.12-1887.2
スコット「アイヴァンホウ」1820(71頁)
「経世偉勳」3編 尾崎咢堂(行雄)著 集成社書店1886.5-11
「経世偉観ママ」に誤る。ディスレイリを主人公にした伝記文学(71頁)
「佳人之奇遇」8編 柴東海(四朗)著 博文堂1885.10-1887.10
「佳人ママ奇遇」に誤る。
「(政事小説)花間鴬」3冊 末広鉄腸著 金港堂1887.4-1888.3
「(政治小説)雪中梅」2冊 末広鉄腸著 博文堂1886.8-11
「文明東漸史」藤田鳴鶴(茂吉)著 藤田茂吉出版、報知社発兌1884.9
「(斉武名士)経国美談」前後篇 矢野竜渓著 報知社1883.3-1884.2

 以上を知ったうえで、梁啓超の文章を検討してみよう。

2-3 梁啓超の文章を検討する1
 冒頭部分を見てほしい。日本維新に対する小説の功績を認める考え方は、来日以前の梁啓超に、すでにあった。「日本の改革は、俗謡と小説の力に頼った(日本之変法、頼俚歌与小説之力)」(「蒙学報演義報合叙」『時務報』第44冊、光緒二十三年十月十一日<1897.11.5>)
 全体を見れば、日本の文学界における変遷、すなわち西洋小説の翻訳から政治小説の発生という動向を、梁啓超は、大きく把握していることがわかる。
 大筋は、そのとおりだろう。ただし、こまかく見ていくとおかしな箇所があることに気づく。
 まず、梁啓超があたかも西洋小説の翻訳作品のように述べる、「自由」「自由の燈」とはなにか。そのような翻訳作品は、存在しない。
 つぎに、作品と著者の勘違いがある。藤田鳴鶴の「繋思談」までは、よい。つづいて「春窓綺話」、「梅蕾余薫」、「経世偉観ママ」をあげている。しかし、これでは3作ともに藤田鳴鶴の作品のように読めてしまう。上に示したように、それぞれの作品は、藤田鳴鶴のものではない。誤解を与える書き方である。さらに、「経世偉観ママ」は、「ママ」と注記したように「経世偉勳」が正しい書名なのだ。
 「佳人之奇遇」を「佳人奇遇」と誤記している。
 この文章は、あたかも梁啓超が独自に研究したように読むことができる。ところが、これには、もととなる文献がある、という指摘が、夏暁虹によってなされた。

2-4 夏暁虹の指摘
 夏暁虹が提出するのは、『日本維新三十年史』第九編「文学史」である。
 夏暁虹論文の関係する部分だけ、要点を先に紹介しておく。
 梁啓超は、羅普訳『日本維新三十年史』を読んでいた。梁啓超自身の筆になる「東籍月旦」で、該書を推薦しているところからもわかる。梁啓超の文章を『日本維新三十年史』の該当部分と対照すると、同文である。『日本維新三十年史』の原本『明治三十年史』は、1898年に出版されているから、梁啓超はこの本によって日本の明治小説発展史について理解した*5。
 夏暁虹の研究論文が他の研究者のものと異なり独自なのは、資料を博捜したうえで新しい指摘をしているからだ。『日本維新三十年史』を示した点など、高く評価されてしかるべきだろう。
 私も、東京・博文館編輯、上海・広智書局(羅普)訳印『日本維新三十年史』(上海・広智書局 光緒二十八年五月十八日<1902.6.23>)を日本でさがした。天理図書館に所蔵されている。うれしや、と見てみると肝心の第九編「文学史」がない。天理図書館所蔵本は、第3冊が欠けているのだ。がっかりした。
 また、調べてみると、該書は、実藤文庫373にも所蔵される。問いあわせる。どうしたことか同じように該当部分が欠けているという。不思議なことがあるものだ。
 というわけで羅普訳の中国語は、夏暁虹論文から孫引きする。

2-5 羅普訳『日本維新三十年史』
 中国語原文をかかげるのは、読みにくいかもしれない。だが、文章を対照するためには必要な作業である。ご辛抱いただきたい。

  此及十五六年間,民権自由之説,盛行於世。新聞紙上,有載西洋小説者,如《絵入自由》、《自由之燈》,皆伝法蘭西、羅馬革命之事者也。自是翻訳泰西小説者,源源不絶,則当日人心之渇望新文学,即此可見一斑;而他日小説之推陳出新,亦於茲伏線矣。今試挙其例,則織田純一郎之《花柳春話》,最先問世,他如関直彦之《春鴬囀》,藤田鳴鶴之《繋思談》,及《春窓綺話》、《梅蕾余薫》、《経世偉観ママ》等。其原書多為英国近代歴史小説家之作。訳本既出,人皆悦之,遂不知不覚,竟成小説革新之媒。柴東海之《佳人ママ奇遇》,第一破格而出,継而末広鉄腸著《雪中梅》、《花間鴬》。又有別為一体,不純乎小説者,則藤田鳴鶴之《文明東漸史》,矢野竜渓之《経国美談》等是也。

 梁啓超の文章と対照すると、ほぼ一致するといっていいだろう。作品名と著者が完全に同じだ。書名が間違っている部分も同一である。こまかな言い回しが異なる部分もある。
 梁啓超があたかも翻訳作品のように記述した「自由」「自由之燈」は、羅普の翻訳を見ると、『絵入自由』『自由之燈』という新聞の名前としている。羅普が、正しい。
 藤田鳴鶴の「繋思談」とそのあとの作品の関係について、羅普の翻訳は、「及」一字でつないでいる。この文章だけを見ている読者にとって、つまり日本の小説についての知識を持たない人にとって、これでは、梁啓超と同じ誤解をしてしまう。
 『日本維新三十年史』の出版は、1902年である。梁啓超の「飲冰室自由書」は、それより前の1899年に発表されている。梁啓超が、羅普の翻訳を原稿で読んでいた可能性は、否定できない。しかし、もしそうだとしたなら、新聞と作品名を間違えるだろうか。ということは、梁啓超は、日本語原本を直接、目にしていたことになる。
 とどのつまりは、日本語原本を見なければならない。

2-6 原本は「奠都三十年」
 夏暁虹が原本だとしている『明治三十年史』は、正確に書けば、『太陽』第4巻第9号臨時増刊「奠都三十年」(1898.4.25)である。ただし、「明治三十年史」が間違いだというわけではない。雑誌の形態をとった単行本の表紙中央に「奠都三十年」と大書し、その左に小さく「明治三十年史」と表示しているからだ。
 博文館の発行する雑誌『太陽』は、明治30年までの日本を総括して特別号を発行した。それがこの「奠都三十年」なのだ。そのうちの文学部分をまとめて記述するのは、柳井録太郎である。
 「第九編 文学」においては、明治維新より30年までの文学を回顧する。総論、小説、脚本、新体詩の四部分にわけて解説している。
 柳井の把握によると、明治の新文学は、西南戦争後の自由民権運動において政治関係者が文学に筆を染めたことに始まるとする。「是の如き著作は純はら文学の為にせられしものにはあらで、政論家の輩が其政治思想の余熱を漏らせしもの多し」というわけだ。
 梁啓超の文章のタネとなった箇所を引用する(240-241頁。ルビは省略)。

……十五六年の頃民権自由の声かしましき折、仏蘭西羅馬等の革命に関する西洋小説の、絵入自由、自由の燈など云ふ新聞に掲げられしは、政治界の雲行の文学の上に映れるなるべし。是より引き続きて泰西小説の翻訳切りに出でしは、当時の人心が新文学を霓望せるの徴として見るべく、将に来らむとする新小説の前表とも云ひつべし。其の二三の例を挙ぐれば、織田純一郎氏の花柳春話を魁として、関直彦氏の春鴬囀、藤田鳴鶴が繋思談より春窓綺話、梅蕾余薫、経世偉観ママ等なり。其原書の多くは英国近代歴史小説家の作なり。この西洋小説の翻訳は、端なくも小説革新の緒となり、是より柴東海の佳人之奇遇を初めとして、末広鉄腸の雪中梅、花間鴬、少しく純粋の小説とは異れども藤田鳴鶴の文明東漸史、矢野竜渓の経国美談等続々出で来れり。されど是等の著訳の著者は、悉く当時の政論家にして、作中の人物に仮托して自己の政治上の意見を吐露するが著作の一大目的となりしが如し。……

 梁啓超が読んだのは、上に引用した部分に違いない。
 ついでにいうと、柳井録太郎名義の上記引用文に酷似しているものがある。しかも柳井に先行する。樗牛高山林次郎の「明治の小説」である。参考までに示しておく。

……是等作者の小説を掲載せる新紙の主なるものは、東京絵入、絵入自由、絵入朝野、自由の燈等なり。但自由の燈に掲げたる宮崎、小室諸氏の小説は、多くは民権革命を鼓舞する西洋小説の翻案、若くは翻訳にして、当時政治界の暗澹たる風潮を伺ふに足るもの、他の群作家のと自ら其趣を異にせるものありき。/この頃に前後して泰西小説の翻訳切りに出でしは、頗る注意すべき事実なりとす。其の二三を挙ぐれば、織田純一郎氏の花柳春話を魁として、関直彦氏の春鴬囀、藤田鳴鶴が繋思談、其他春窓綺話、梅蕾余薫、経世偉観ママ*6等、他にも少からず。多くは其原書をリツトン、スコツト、デイスレリ等の英国近時の歴史小説の中に求めたりしが如し。而して其訳者は概ね時の政論家にして、やや文字あるものにして、専ら文学に従事するものに非ず。……(中略)……而して今やスコツト、リツトンの訳者によりて、外国小説の規模結搆の巧妙自然に近く、思想文章の精緻高尚なる、遥に本邦小説に卓越するものあるに驚きたる文学社会は、猛然として深く自ら省みる所あり。是に於て小説革新の機運初めて動く。柴東海が佳人の奇遇。末広鉄腸が雪中梅、花間鴬。藤田鳴鶴の文明東漸史。乃至少しく後れて矢野竜渓が経国美談等は、実に是風潮に乗じて出でたるものに外ならず。*7

 ふたつは同文といってもよい。
 柳井録太郎は、『太陽』の発行元である博文館の社員だ*8。樗牛高山林次郎の文章を下敷にして、柳井が「奠都三十年」の小説部分を書いたことになる。高山樗牛自身が、当時は、『太陽』の編集主幹であったから、樗牛の許可があたえられていたのだろう。それにしてもほとんど同文になっているのは、おおらかな時代のできごとか。

2-7 梁啓超の文章を検討する2
 日本語原文を前にして、梁啓超の中国語を読んでみよう。
 「仏蘭西羅馬等の革命に関する西洋小説の、絵入自由、自由の燈など云ふ新聞に掲げられしは」を「於是西洋小説中、言法国、羅馬革命之事者、陸続訳出、有題為自由者、有題為自由之燈者、次第登於新報中(そこで西洋小説の中でフランス、ローマの革命のことをいうものを陸続と翻訳し、「自由」と題するもの、「自由の燈」と題するものをたて続けに新報に掲載した)」と梁啓超は、中国語訳した。「絵入自由、自由の燈など云ふ新聞」とあるにもかかわらず、新聞の名前を翻訳小説の題名と取り違えたのだ。これは、あきらかに誤訳である。
 梁啓超は、『絵入自由新聞』、『自由燈(じゆうのともしび)』を知らなかったことになる。もっとも、梁啓超にかわって弁解すれば、日本語原文に省略したかたちで『絵入自由』と書かれていたとか、余分な「の」がついていたからかも知れない。
 梁啓超が「絵入自由」の前二文字を省略したのは、「絵入」を中国の小説によく見かける「繍像」と受け取ったのかとも思う。
 原文にある「当時の人心が新文学を霓望せるの徴として見るべく、将に来らむとする新小説の前表とも云ひつべし」は、梁啓超の翻訳では省略する。
 「藤田鳴鶴が繋思談より春窓綺話、梅蕾余薫、経世偉観ママ等なり」は、日本人でも、文学史の知識がなければ、このままでは、誤解する可能性がある。「より」だけで「春窓綺話」以下を藤田鳴鶴から切り離すことはむつかしいだろう。ましてや梁啓超は外国人なのだ。
 「経世偉観ママ」は、日本語の原文が誤っているのだからしかたがない。
 「この西洋小説の翻訳は、端なくも小説革新の緒となり」を「翻訳既盛、而政治小説之著述亦漸起(翻訳が盛んであるうえに、政治小説の著述もまたようやくはじまる)」と言い換える。「小説革新の緒となり」政治小説か発生したかもしれないが、それを「而政治小説之著述亦漸起」と表現を変えるのは、やや翻訳のしすぎではないかと思う。梁啓超にすれば、翻訳ではない、資料にもとづいた自分の文章だ、というかもしれない。
 藤田鳴鶴の「文明東漸史」、矢野竜渓の「経国美談」を出す前に、原文が説明している「少しく純粋の小説とは異れども」を梁啓超は、なぜ省略したのか、不明だ。小説としたほうが、梁啓超には都合がよかったのだろうか。
 矢野竜渓に関する注釈は、梁啓超の筆になるものだろう。
 「而其浸潤於国民脳質、最有效力者、則経国美談、佳人ママ奇遇両書為最云(また国民の脳に滲み込むのに最も効力があったのは、「経国美談」、「佳人ママ奇遇」の両書が最たるものであったという)」という。「経国美談」と「佳人之奇遇」を持ち上げるのは、梁啓超の考えのようでもあり、別の文章からの引用のようでもある。
 総じて、細かな誤訳や省略はあるにしても、梁啓超の翻訳は、おおむね大筋を掴んでいるといえようか。
 一方、羅普の翻訳は、日本語原文をそのまま厳密に中国語に移し、見事である。
 『太陽』に梁啓超のインタビュー記事が掲載されていることを紹介しておきたい。

3 雑誌『太陽』の梁啓超インタビュー記事

 『太陽』の臨時増刊「奠都三十年」を梁啓超が自分の文章「飲冰室自由書」に利用したのは、以上のとおりである。
 その「飲冰室自由書」が掲載された『清議報』第26冊の巻頭を飾るのは、同じく梁啓超の「論中国与欧州国体異同」という論文であった。
 論文の成立を梁啓超は説明してつぎのように書いている。すなわち「本論文は、太陽報の記者の依頼に応じて書いたものだ。すでに該報第19号に掲載されている。今、ここに転載する」と。
 ところが、『太陽』第19号には、梁啓超の文章は掲載されていない。第20号掲載が正しい。
 といっても、1号のずれは、重要な問題ではない。梁啓超は、『太陽』の編集者からあらかじめ聞かされていた通りのことを書いたのだろう。たぶん、『太陽』の編集者も第5巻第19号の予定で原稿を入れた。ところが、『太陽』第19号に臨時増刊が割り当てられたため、急遽、1号繰りさがって第20号になっただけのことだ。
 発行の日付は、『太陽』第5巻第20号
は、明治32(1899)年9月5日、『清議報』第26冊は、光緒二十五年八月初一日、西暦になおせば1899年9月5日であって同日となる。
 『清議報』の題名が「中国」であるのに、『太陽』の掲載になると「支那」になっているのが異なる。あとは漢文のままで同文である。当時は、二重投稿についてもやかましくいわなかったらしい。
 それはさておき、梁啓超は『太陽』の編集者と知りあいであることがわかる。どのように面識を得たのか、その詳細は不明だ。中国から亡命した政治家、言論人と日本のジャーナリストの関係かとも思う。それを想像させるのが、岸上操による梁啓超へのインタビュー記事なのだ。
 質軒の名前で発表された「梁啓超氏の談片」は、『太陽』第5巻第21号(1899.9.20)に掲載される。梁啓超の漢文論文につづくものだ。
 梁啓超が、『太陽』の編集者に誰がいるのか、著述はなにかなどと質問する。岸上は、中国人の何樹齢について問う、梁啓超が、人物月旦を書きたいと考えている、などなど、内容的にそれほど見るべきものはないように思う。記事の分量そのものが短いし、梁啓超の来日についてつっこんでインタビューするつもりも岸上にはなさそうだ。単なる閑談にすぎない。
 ただし、私の興味を引く箇所がある。梁啓超の日本語についてのものだ。
 岸上は、梁啓超との問答を始めるにあたり、「九月某日、清客梁君啓超を某牛込の寓に訪ふ。一問一答、双互の筆、紙上に向つて暫くも停まらず」と書く。梁啓超と岸上のふたりは、筆談に終始したことがこれからわかる。
 もうひとつ、岸上は、持参の『通俗徳川十五代史』を贈呈した。それについて「梁君既に仮字文を読み得ると聞けば贈りつ。梁君謝して之を受け、却て戊戌政変記一部九巻を予に贈らる、蝦鯛の気味なり」と述べている。
 以上の2ヵ所から判明するのは、梁啓超の日本語読解能力は、1899年9月段階で、話すことはできず、仮名文が読める程度にはなっていたということだ。
 梁啓超は、その「三十自述」のなかで、日本東京に住んで1年、ようやく日本語を読むことができるようになり、思想はそのため一変した*9、と書いている。
 仮名を読むことができれば、漢字と組み合わせて日本語が理解しやすくなっただろうことは容易に想像できる。梁啓超への上記インタビュー記事は、彼自身の記述を裏付けているように思う。
 「伝播文明三利器」をそのもととなった日本語と対照して梁啓超の日本語がどの程度のものか推測することが可能だ。くりかえせば、こまかな日本語の表現を取り違え誤訳することはあっても、大筋の把握はできている、というものである。

【注】
1)樽本照雄「梁啓超の盗用」『清末小説から』第20号1991.1.1
夏暁虹「也説梁啓超的盗用」『清末小説から』第22期1991.7.1
2)『梁氏飲冰室蔵書目録』国立北平図書館1933。附録二
3)増田渉「梁啓超について」『中国文学史研究』岩波書店1967.7.25。172頁注5
4)柳田泉『明治初期翻訳文学の研究』明治文学研究第5巻 春秋社1961.9.15/1966.3.10二刷。()内の数字は、該書の頁を示す。
『マイクロフィルム版国立国会図書館所蔵明治期翻訳文学書全集目録』T ナダ書房1987.10.9
5)夏暁虹「梁啓超与日本明治小説」『北京大学学報』1987年第5期1987.9.20。31頁。『覚世与伝世――梁啓超的文学道路』上海人民出版社1991.8所収。208-209頁
6)全集所収の文章では、「観」を「勳」に訂正している。
7)高山林次郎「明治の小説」『太陽』第3巻第12号博文館創業十周年記念臨時増刊1897.6.15。679-680頁。また、『樗牛全集』第2巻 博文館1904.3.13/1908.5九版。450-452頁
8)鈴木正節『博文館『太陽』の研究』アジア経済研究所1979.5.10。9頁
9)梁啓超「三十自述」『飲冰室文集』上下 上海・広智書局 光緒三十一年十一月二十五日(1905.12.21)訂正三版/光緒三十四年五月朔日(19 08.5.31)訂正五版