「本館編印繍像小説縁起」の筆者をめぐって

張   仕 英



 一九〇三年五月に商務印書館から発刊された『繍像小説』第一号には、創刊趣旨を盛った「本館編印繍像小説縁起」(以下「縁起」と略称)が掲載されている。周知の如く、李伯元は、一九〇三年五月に商務印書館の招聘を受けて雑誌『繍像小説』の主幹としてその編集を担当した。従って、この「縁起」は「李伯元によって書かれたもの」*1であると理解されてきた。それ故、この「縁起」が「李伯元研究をすすめる上で、いかに比重がおおきいかが理解できる」*2として、研究者の間で重視されてきたのも自然の成り行きであった。しかしながら、筆者は李伯元を研究するうちに、この「縁起」と関連した些かの事実を見つけた。それを以下に紹介しようと思う。

 『繍像小説』第一号巻頭に掲載された「本館編印繍像小説縁起」の原文は以下のようなものである。

欧美化民、多由小説;搏桑崛起、推波助瀾。其従事於此者、率皆名公鉅卿、魁儒碩彦。察天下之大勢、洞人類之頤理、潜推往古、豫揣将来、然後抒一己之見、著而為書、以醒齊民之耳目。或対人群之積弊而下i、或為国家之危険而立鑑、揆其立意、無一非裨国利民。支那建国最古、作者如林、然非怪謬荒誕之言、即記汚穢邪淫之事;求其稍裨於国、稍利於民者、幾幾乎百不獲一。夫今楽而忘倦、人情皆同、説書唱歌、感化尤易。本館有鑑於此、於是糾合同志、首輯此編。遠U泰西之良規、近衰C東之余韻、或手著、或訳本、随時甄録、月出両期、藉思開化夫下愚、遑計貽譏於大雅。鳴呼!庚子一役、近事堪稽、愛国君子、儻或引為同調、暢此宗風、則請以此編為之嚆矢。著者雖為執鞭亦忤慕焉。

 この『繍像小説』創刊の「縁起」は、『繍像小説』を考察するにあたって、また李伯元の思想を反映した重要な証拠として、研究者たちによって引用され重視されてきた。
 阿英が、『繍像小説』を分析する時にも、以上の文を引用してこの雑誌の特徴を紹介した*3。
 麦生登美江氏の「李伯元の創作意識」という論文の中でも、これが李伯元の「『新小説』に対するいかに早い反応であったか……、また、これが『新小説』の意図を踏襲していることは明らかであろう」*4と述べている。
 近年、出版された『上海近代文学史』の中にも次のような指摘がある。「李伯元は『繍像小説』を創刊する際、「欧米において国民を開化させたのは、ほとんど小説の影響によるものである。小説は世論を興し、その勢いを助けるのである」と言った。また、小説創作の目的については「或いは社会の弊害を批判し、或いは国家の危険のため鑑みる」と語っており、その口調と言おうとする所は、政治小説家とよく似ている」*5と指摘している。
 しかし、今まで指摘されなかったのは、この「縁起」の中心部分は、一九〇一年『清議報』(第六十八冊)の「瀛海縦談」欄に掲載された「小説之勢力」の内容から写したものであるという点である。
 『清議報』は梁啓超らが一八九八年に日本で創刊した雑誌であり、「戊戌変法」が失敗した後に維新派たちの重要な理論刊行物として、百冊まで発行された。
 梁啓超は、『清議報』発刊の趣旨についてこう述べている。

 一曰:昌民権。始終抱定此義、為独一無二之宗旨、……。二曰:衍哲理。読東西諸碩学之書、務衍其学説以輸入於中国。三曰:明朝局。戊戌之政、已亥之立嗣、庚子之縦団、其中陰謀毒手、病国殃民、本報発微闡幽、得其奸相、指斥権奸、一無假借。四曰:砺国恥。知我国在世界上之位置……。一言以蔽之:広民智、振民気而已。*6

 この趣旨から見ても、『清議報』は鮮明な政治態度、明確な政治理論をもって、社会改革を目指す雑誌であることが分かる。
 この雑誌には梁啓超、譚嗣同らの政治論文を掲載する他、「小説界革命」に関する重要な論文である「訳印政治小説序」(『清議報』第一冊)、「飲氷室自由書」(『清議報』第二十六冊)、及び日本の政治小説『佳人之奇遇』、『経国美談』なども掲載されたのである。
 一九〇一年、第六十八冊の『清議報』に掲載された「小説之勢力」は、短い論説と言うべく、内容は次の通りである。(別の図を参照。傍線を施した部分は「本館編印繍像小説縁起」と類似した部分である。)
 一見して明らかなように、「縁起」に書かれた『繍像小説』の趣旨は、その観点から多くの言葉づかいに至るまで、上掲の文から写し取ったものである。これによって、『繍像小説』の趣旨に表れた小説に対する論議が、たとえ李伯元によって書かれたものであったとしても、それは『清議報』から借りたものであったということが分かる。
 ただ、この「縁起」が、李伯元によって書かれたものだとは断定しにくいものの、李伯元が商務印書館の招聘を受けて『繍像小説』の編集をしていたという立場から考えれば、李伯元によって書かれたものであるという可能性は非常に高いと思われる。にも拘らず、「縁起」に反映している観点は、李伯元がつねに唱えた「假遊戯之説以隠寓勧懲」*7の説と異なり、その当時、商務印書館にいた夏曾佑らの議論と一致している*8。
 『繍像小説』創刊の六年前に、厳復、夏曾佑らによって創刊された『国聞報』に(光緒二十三年<一八九七>十月十六日から十一月十八日)厳、夏両氏は「本館附印説部縁起」という論文を掲載した。この「説部」*9という言葉は、漢籍の四部分類からはみ出した小説・筆記の類を指して、明末清初あたりから使われ始めたものらしく、やがて清末に至り日本から逆輸入された「小説」の語に取って代わられる。
 この論文は、当時盛んであった維新運動を助勢するための小説の役割を中心的に議論したものである。それ故、「新小説理論」の濫觴と見なしてもよかろう。
 厳、夏両氏は『国聞報』で次のような議論を展開している。

 夫説部之興、其入人心之深、行世之遠、幾幾出於経史之上、而天下之人心風俗、遂不免為説部所持。……且聞欧、美、東瀛、其開化之時、往往得小説之助。*10

 つまり、西洋社会が発展する上で、「説部」、即ち小説が果たした役割を認識し、高く評価しているのである。これは、「戊戌変法」前夜に維新の志士たちが小説の役割と「民智」の開発、社会の改革とを結びつける重要な理論的先鞭と言えよう。
 同年に、康有為は、「『日本書目志』識語」の中で次のように語っている。

 故『六経』不能教、当以小説教之;正史不能入、当以小説入之;語録不能喩、当以小説喩之;律例不能治、当以小説治之。*11

 また、同年に梁啓超は、『時務報』(第十六〜十九冊)紙上に「変法通議・幼学論」を掲載し、小説を以てする社会改革を呼びかけている。そして、一八九八年の『清議報』第一冊「訳印政治小説序」の中で、「彼美、英、徳、法、奥、意、日本各国政界之日進、則政治小説、為功最高焉。英名士某君曰:『小説為民族之魂』、豈不然哉!豈不然哉!」*12と明確に「政治小説」の旗幟を掲げている。
 さらに、「戊戌変法」の失敗を教訓として、一九〇二年十一月に創刊された『新小説』の中で、梁啓超は「小説界革命」を宣言している。

 故今日欲改良群治、必自小説界革命始;欲新民、必自新小説始。*13

 以上は維新の志士たちが、国民改造、社会改革に対する小説の果たすべき役割を発見し、重要視した経緯である。これを背景として、一九〇五年に商務印書館から雑誌『繍像小説』が誕生したのである。その『繍像小説』に掲載された「縁起」は、まったくのところ厳、夏、康、梁らの小説に関する議論と合致している。或いは同じ「新小説理論」の系列に属するものと言える。
 一方、李伯元の文学観はと言うならば、一八九七年、彼によて創刊された『遊戯報』に次のような議論が見られる。

 ……故不得不假遊戯之説、以隠寓勧懲、亦覚世之一道也。*14

 また、その後彼が創刊した『世界繁華報』にも、ほぼ『遊戯報』の趣旨に沿った議論が見られる。
 李伯元はあくまでも優れた小説家であり、彼が常に述べた「假遊戯以寓勧懲」という趣旨は、明らかに康、梁たちの「新小説理論」の系列に属するものではない。また、康、梁たちのように小説の功利性を強調する言論は、『繍像小説』創刊以前の彼の文章からは見つけることが出来ない。従って、「本館編印繍像小説縁起」の出現が、李伯元の研究において人々に重要視されたことは、ごく自然のことであり、疑問をもたらしたこともまた、不思議なことではないのである。

 筆者は、本文の初めに指摘した資料以外には新たな資料は見つけられなかった。また、残念なことに『清議報』に掲載された「小説之勢力」には、署名がされていない。しかしながら、この短文が、維新の志士の誰かによって執筆されたものであるということは疑う余地のないことであると思う。
 『繍像小説』創刊に際し、そこに掲載された「縁起」の趣旨は、まず「本館」である商務印書館の意図を反映しなければならないはずである。商務印書館の意図はと言えば、やはり、読者の需要に答えることである。であればその当時の主流であった厳、夏、康、梁などの「新小説理論」に応じようとすることであろう。以上の考察から、私は「本館編印繍像小説縁起」誕生の経緯について、以下のように二つの可能性を推測した。
 一、李伯元は『繍像小説』の編集者として、商務印書館の意図に配慮し、維新派によって編集された『清議報』から「小説之勢力」を見つけ、それを添削し、『繍像小説』の趣旨として立てたのである。
 二、その当時、商務印書館に勤務した維新の志士の誰かが、旧作を持ち出して李伯元と共同で議定したのである。
 何れにせよ、「縁起」に盛られた『繍像小説』の趣旨は、その当時流行した「新小説理論」を反映したものであり、また、李伯元がその趣旨に賛同しなければ成立しえなかったと考えてよいのではなかろうか。

【注】
1)鄭逸梅「晩清小説的宝庫『繍像小説』」(『書報話旧』、学林出版社、一九八三年)。鄭氏は『繍像小説』について、「毎月出版両期、由李伯元主編且兼主撰、第一期創刊於一九〇三年五月、首冠「本館編印繍像小説縁啓」一文即出於李的手筆」と記している。
2)利波雄一「李伯元と商務印書館――『繍像小説』をめぐって」(『中国文学研究』第十期、一九八四年十二月)。
3)阿英「『繍像小説』」(『晩清文芸報刊述略』、古典文学出版社、一九五八年)。
4)麦生登美江「李伯元の創作意識」(『清末小説研究』第一号、一九七七年)。
5)陳伯海・袁進『上海近代文学史』(上海人民出版社、一九九三年)ニ七九頁。
6)梁啓超「本館第百冊祝辞並報舘之責任及本館之経歴」(『清議報』第百冊、一九〇一年十一月)。
7)『遊戯報』一八九七年八月二十五日。『中国近代文学大系』(史料索引集・一八四〇〜一九一九)(上海書店、一九九〇年)収録。
8)汪家熔『出版資料』第二輯、学林出版社、一九八三年十二月。
9)「説部」の語については、中野美代子「説部考」(『東方学』第四七輯、昭和四九年一月)を参照。但し、この論文では、この語が清代中期に使用され始めたと推定する。『漢語大辞典』11巻によれば、使用例の上限として明末の種惺の譚元春に宛てた尺牘が挙げられており、清初すでに使用例をまま見る。
10)厳復・夏曾佑「本館附印説部縁起」(『国聞報』、光緒二十三年(一八九七)十月十六日〜十一月十八日)。
11)康有為「『日本書目志』識語」(上海大同訳書局、一八九七年)。
12)梁啓超「訳印政治小説序」(『清議報』第一冊、一八九八年)。
13)飲氷(梁啓超)「論小説与群治之関係」(『新小説』第一号、一九〇二年十一月)。
 「群治」の言葉については、樽本照雄「梁啓超『群治』の読まれ方」(『大阪経大論集』第48巻第3号、一九九七年九月)を参照。
14)同注7。