劉徳隆『劉鶚散論』序


樽 本 照 雄



本稿は、劉徳隆著『劉鶚散論』(雲南人民出版社1998.3)のために書いた日本語序文である。自分で漢語に翻訳したものが該書には収録されている(漢語の方は、字数に制限があり本稿と同一ではない)。

1 研究方法
 研究論文の価値は、発見にある。今までの研究に新しい発見を付け加えるものでなければ公表する意味はない。
 資料の発掘、事実の探求が、文学研究の基礎となるのは、いうまでもないことだ。
 ところが、文学研究において、資料の発掘は、ややもすると軽視される傾向にある。評価の定まった作品を礼賛するだけで、新しいものを提出しない。あちこちから記述を引っ張ってきて寄せ集めただけの論文が生産される。私の主宰する研究誌『清末小説』『清末小説から』にも、ときおりそういう論文が投稿されてくる。発見のない論文よりも、資料発掘の方がどれほどマシか理解をしていないらしい。
 私が劉徳隆氏の研究に注目するのは、資料の発掘を重視しながら、事実にもとづいて立論しているからなのだ。
 過去の仕事が、劉徳隆氏の研究方法を示している。

2 劉徳隆氏の研究業績
 劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』(成都・四川人民出版社1985.7)は、劉鉄雲の遺文、劉鉄雲日記、関係論文、『老残遊記』版本、太谷学派関係文書などを収録した資料集である。とりわけ劉鉄雲日記を公表したのは、画期的な仕事だといっていい。それまで部分的にしか明らかにされていなかった日記が、誰でも利用できることになった。劉鉄雲研究は、大いに前進する条件を得たのである。貴重な資料の保存に尽力され、またその公開を決意された英断に、私は感服する*1。
 つづく劉徳隆、朱禧、劉徳平著『劉鶚小伝』(天津人民出版社1987.8)は、劉鉄雲の生涯と事業、思想と交遊、学識と著作(生平及事業、思想及交往、学識及著作)の3分野に分けて、それぞれに関連する文章を収録した論文集だ。資料にもとづいて記述されているのはいうまでもない。
 劉徳隆氏の研究方法を紹介しようとすれば、論文を見るのがわかりやすい。
 例をあげよう。劉徳隆「《老残遊記》手稿管見」(『文学遺産』1989年第3期1989.6.7)だ。
 劉鉄雲の「老残遊記」第11回手稿6枚が存在しており、南京博物院に所蔵されているのは周知の事実である。手稿全文を子細に検討したもののひとつが、劉徳隆論文だ。
 論文は、以下の3つを問題にする。
 a.書かれた時期(劉鶚手稿的写作時間)
 「老残遊記」第11回が書かれたのは、1903年と1905年の2回ある。手稿は、1903年に書かれたとする。その理由は、手稿にある「五十瓦登斎古」から原稿が1902年前後に作成されたものだということ、1905年は劉鉄雲の身辺多忙につきその原稿を持参していたとは考えられないこと、字数からして1905年に発表されたものではないこと、である。
 b.修改について(六頁手迹的修改)
 手稿にほどこされた加筆、削除、訂正を検討し、「天帝」を「上帝」などに書き換えている事実を指摘する。ただし、劉徳隆氏が示す数字は、私が数えたものと異なる。なぜだか不明。
 c.李伯元との関係(六頁手迹与李伯元的関係)
 南亭亭長「文明小史」に「老残遊記」と同じ描写がある。日食、月食、北拳南革部分だ。劉徳隆氏は、「老残遊記」手稿が存在しているのであるから、「文明小史」が「老残遊記」を引き写した証拠は確実だという。
 読めば、劉徳隆氏が、問題解決のために資料を手元に置きながら述べていることがわかる。論拠が明確で説得力に富むことが理解できよう。
 ほかの研究よりも数段進んだ論文である、と絶賛して終わると、真実味が薄いかもしれない。私からの小さな希望も記しておく。
 「文明小史」と「老残遊記」の発表時期を含めて、『繍像小説』の発行遅延問題もすでに明らかになっている。それを視野に入れて論じる余地はあるだろう。
 もうひとつ。この手稿は、『繍像小説』掲載のため商務印書館に渡されたものかどうかだ。劉徳隆氏には、自分の考えがあるはずだから、私たちに披露してもらったらよかった。
 『清末小説』第9号(1986.12.1)で、樽本照雄「「老残遊記」の下書き手稿について」、清末小説研究会編「資料:「老残遊記」の下書き手稿」がすでに発表されている。氏は、当然、これを読んでいるはずだ。先行論文を検討しつつ論じてもらったら、より一層、深みのある論文となったと思う。
 劉徳隆氏の研究は、中国大陸では最先端を行くもののひとつであることは、否定できない。
 研究略歴について、劉徳隆氏自身がまとめた文章がある*2。参考になるだろう。

3 交際のきっかけ
 劉徳隆氏と研究論文をやり取りしはじめたのは、福建師範大学の劉闡キ氏から紹介があったからだ。
 劉闡キ氏は、劉鉄雲の孫にあたる。劉鉄雲研究は、一族の中の劉徳隆氏に資料が集中することになっている、という意味のことを知らせてもらった。
 劉徳隆氏は、劉闡キ氏の弟・劉厚沢氏の子息で、劉鉄雲の曾孫である。ただし、劉闡キ氏からの紹介から、すぐさま私と劉徳隆氏の学術交流が始まったわけではない。
 1984年、天津に長期滞在をしていたときだった。天津図書館で清末小説関係図書を調査しながら、あることを思いついた。「老残遊記」手稿と『繍像小説』の「文明小史」および天津日日新聞社版「老残遊記」の本文を比較対照できないか。両作品の盗用関係の謎をとく手がかりになりそうだ。
 「老残遊記」手稿は、当時、全文は公表されていなかった。外国人の私では、見せてもらうことなどできないだろう。知りあいの中国人研究者に器械複写、または写真撮影を依頼する。その研究者は、写真を取る許可が出なかったので筆写したといい、手紙で送ってくれたのだった。写し間違いがないように気をつけたとも書いてある。ただし、一部分が送られてきていない。だが、嬉しかった。天津で、早速、筆写の手稿をもとにして、『繍像小説』掲載の「文明小史」第59回と天津日日新聞社版「老残遊記」第11回の該当部分を対照できるような一覧表を作成した。前述のごとく「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係を調べる基礎資料となるものである。
 1985年帰国し、手稿と刊行物の対照一覧を公表したいと考えた。部分的に抜けていた箇所の補充をお願いし、研究者の名前を出す許可を求めた。資料入手に尽力された人に感謝の意を表わすのは当然だ。ところが、発表しないようにという返事が来た。今から考えれば、外国人とのつきあいに制限があった時期だったのかもしれない。欠落部分を補うことができなかったこともあり、私の計画は頓挫したのである*3。
 しばらくして別の方途をさぐった。ここで劉徳隆氏が、登場する。
 劉鉄雲関係の資料が集中しているというのであれば、劉徳隆氏に聞いてみるのがはやいかもしれない。手紙を書いた。
 劉徳隆氏から送られたきたのが、「老残遊記」下書き手稿の写真である。なかの1、2枚が鮮明さを欠く。厚かましいとは思ったが、再度、送ってもらったことを思いだす。
 劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』が出版され、それにも手稿の写真が掲載されている。しかし、なぜだか6枚のうちの4枚でしかない。
 写真にもとづきあらためて一覧表を作り直した。手稿6枚の完全なかたちを知りたければ、『清末小説』第9号(1986.12.1)の巻頭を飾っているのでご覧いただきたい。
 私が、劉徳隆氏に会ったのは、1987年11月の上海においてである。
 同年、淮安で劉鉄雲生誕130周年を記念する学会が開催されると関係者から連絡があった。開催直前になり、なにか事情があったらしく、それまで連絡を取っていた研究者から学会のことは劉徳隆氏に聞いてほしいという。
 日本の学会では、参加するにはなんの招待状も必要ではない。行けばなんとかなるだろう、という気持ちで上海に到着して、その足で劉徳隆氏の勤務される楊浦区教育学院をたずねた。しばらく待つと、小柄でにこやか、動作のキビキビした氏がエネルギー溢れるといった態度で私の目の前に出現する。淮安の学会に出席したい由を伝えると、一緒に長距離バスで行こうと言われる。願ってもないことだ。外国人を学会に同道することについて、なにかやっかいな問題があったはずだが、私に不安を感じさせることはなかった。その時、出版したばかりだ、と劉徳隆、朱禧、劉徳平著『劉鶚小伝』を手渡される。
 淮安に行くことができるので安心してしまった私の傍らで、劉徳隆氏は、劉鉄雲の詩集(実物らしい)を手にしならが、指差しつつ院長と話をしている光景を思いだす*4。
 1991年には上海の首届中国近代文学国際学術研討会で、1993年には、済南での劉鶚及《老残遊記》国際学術討論会の会場でお目にかかっている。研究に対する情熱を熱心に語る劉徳隆氏の姿勢に変化はない。
 お互いが発表した論文を交換する。私の主宰する研究季刊雑誌『清末小説から』、年刊雑誌『清末小説』は、劉徳隆氏の原稿を掲載して現在にいたる。私の喜びのひとつでもあるのだ。
 このたび、劉徳隆氏の論文集『劉鶚散論』が出版されるという。氏が発表された清末小説関係の論文の中から、とくに劉鉄雲の伝記、著作についてのものと「老残遊記」関係のものを選択して成る。さらに、いくつかの論争も収録された。この事実は、論争に対応できる日頃の蓄積が劉徳隆氏にあることをも証明している。収録論文は、私の雑誌に掲載されたものも多く含まれており、いくらかの助けになったことが嬉しい。
 劉鉄雲の生涯を概観する『劉鶚評伝』に着手されているとも聞く。完成ののち出版されるのが待たれる。

劉徳隆略歴
1942年北京生まれ。
1962年新彊生産建設兵団師範専科学校卒。
現在、上海楊浦区教育学院副教授。
(孫文光主編『中国近代文学大辞典』<合肥・黄山書社1995.12>330頁より抄録)

【注】
1)樽本照雄「劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』はよろしい」樽本『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収
2)劉徳隆「集多「家」美誉於一身――我所知道的劉鶚」台湾『中央日報』1995.2.22-23
3)最初の計画が頓挫したのは、結果的には、よかった。なぜなら、筆写された「老残遊記」手稿には、写し間違いが多いという事実が、後に、わかったからだ。
4)淮安の劉鉄雲学会については、樽本照雄「劉鉄雲故居訪問日記」(『清末小説から』第8号1988.1.1)に書いた。