魯迅「造人術」の原作・補遺
――英文原作の秘密


神田一三


 『清末小説』第22号(1999.12.1)に掲載した「魯迅「造人術」の原作」について補足説明をする。
 魯迅がもとづいた日本語翻訳と、さらにさかのぼって英文原作に関するものだ。
 前回、日本語翻訳の初出と英文原作の書誌情報は、抱一庵主人「特別通信造人術」の解題(藤元直樹執筆。『未来趣味』第7号1999.5.2所載)を参照した。その後、知ることのできた事柄をつけくわえる。

1.『朝日新聞』掲載
 抱一庵主人の翻訳は、『朝日新聞』に2回にわけての掲載(1903.6.8、7.20)だと解説された。だが、『朝日新聞』といっても東京と大阪では内容、紙面構成が異なる。「『大阪朝日新聞』には登載されていないから、『東京朝日新聞』なのだろう」と私が書いた理由である。『朝日新聞』だけでは、不十分だ。どちらか特定するためには、調査する必要がある。
 マイクロフィルムを見れば簡単にわかる。あいにくと近くの図書館には、『大阪朝日新聞』しか所蔵されていない。それで、以上のような書き方になった。のちに調査すると、やはり『東京朝日新聞』に掲載されていたので、これで確認できたことになる。
 それにしても、藤元直樹は、第2回目の新聞掲載をよく発見したものだ、とあらためて感心する。文献調査という、いわば地味な作業に耐えることのできる人であるらしい。だからこそ書くものに深みが生じると思われる。
 6月8日付の掲載分には、挿絵が1枚ある。イニトール氏が机の前に立ち、右手をテーブルに押しつけて、机上の物体を凝視している。机には、円形の大口グラスが置いてあり、そこから液体らしきものが跡を引いている。その先には、仰向いて両足を立てた形のなにやら人体らしき、拳大の黒いものが画かれる。これが「造人術」の結果生じた人工生命である。『東京朝日新聞』挿絵は、英文原作に添えられたイラストをそのまま写したのだ。

2.英文原作
○掲載号の問題
 英文原作については、私は、次のように書いた。「原抱一庵主人が翻訳した「造人術」の英文原作は、Louise J. Strong著“An Unscientific Story”(Cosmopolitan誌1903年1ママ月号。「ママ」としたのは、該誌1月号には掲載されていないことがわかっているからだ。現在、調査中)という」
 「ママ」をつけて疑問を呈したのには、理由がある。
 藤元直樹によって、つぎのような説明がなされている。「Cosmopolitan掲載は原の言葉とは異なり一九〇三年一月号である」(『未来趣味』第7号66頁)
 「原の言葉」とは、新聞初出が「去月五日の同紙上に掲載せられしものなり」だったものを、単行本収録時に書き換え「一千九百○三年五月五日の同紙上に掲載せられしものなり」を指す。
 藤元直樹は、原抱一庵が書いた「五月五日」を「一月号」に訂正した。掲載号の誤りだから、『コスモポリタン』誌で確認していなければ、こう訂正することはできない。
 私は、以上の記述に拠って『コスモポリタン』誌掲載の該作品をさがした。
 関西では、『コスモポリタン』誌の該号を所蔵するのは、大阪府立中央図書館がある。問い合わせると、該誌1月号は所蔵するが、Louise J. Strong著“An Unscientific Story”は掲載されていない、という意外な回答であった(1999.8.6)。おまけに雑誌名は、The Cosmopolitanだとも回答にはある。日本語では、『コスモポリタン』誌でかまわないが、英文で示す場合は、やはり「The」も表示しなければならないだろう。
 藤元が特に注記して訂正する雑誌の号数が違うのは、不思議だ。これは、実際に足を運んで確認するよりしかたがない。
 東大阪市に新築された図書館を訪れた。請求して原本を見れば、ストロングの作品は、藤元の書いているような1月号ではなく、『コスモポリタン』誌の2月号に掲載されている。
 藤元直樹は、2月号を1月号だと誤記した。
 ここで疑問が生じる。藤元は、『コスモポリタン』誌を確認している。見ているにもかかわらず同誌2月号を1月号と書き誤るだろうか。
 単純な誤記かもしれない。だが、意地悪く考えれば、意図的な書き間違いもある。原物を確認せず、他人の業績に拠りながら典拠を明示しないで、あたかも自らが調べたような顔をして文章に取り込む研究者に対する警告なのだ。わざと間違えて無断引用の証拠とする。
 藤元は、苦労して調査した成果だけを無断で利用された苦い経験を持っているのではないだろうか。などと、邪推し、意図的な誤記を思いつくのは、私の根性が曲がっているからだ。やはり考えすぎで、単純に書き誤ったにすぎないのだろう。

○日本語翻訳の問題
 魯迅の漢語訳は、原抱一庵の日本語訳を忠実になぞっていた。では、原抱一庵の訳文は、英文原作をどのように翻訳しているのかを見てみよう。
 英文原作の冒頭をかかげて、日本語訳をつける。

He sat, tense and rigid with excitement, expectancy, incredulity. Was it possible, after so many years of study, effort and failure? Could it be that at last success rewarded him? He hardly dared to breathe lest he should miss something of the wonderful spectacle. How long he had sat thus he did not know; he had not stirred for hours--or was it days?--except to adjust the light by means of the button under his hand.
His laboratory, at the foot of his garden, was lighted day and night in the inner room (his private workshop) with electricity, and no one was admitted but by especial privilege.(411頁)
 彼は、興奮と期待と深い疑いをもって緊張し硬直して座った。多年の研究、努力そして失敗ののちに、できたのだろうか。ついに成功が彼に与えられたのだろうか。すばらしい光景を失うことになりはしないかと、彼はほとんど息をすることができなかった。どれくらいそのように座っていたのか彼にはわからなかった。彼の手元のボタンによって光を調整する以外には、彼は、何時間も、あるいは数日だったのか、動くことはなかった。
 彼の実験室は、庭のすみにあり、内部の部屋(個人的な仕事場)は、日夜電気で照らされており、特権を与えられたもの以外は、誰であろうとも入室を許されていない。

 いきなり事件が発生して始まる英文原作は、原抱一庵の手にかかると、次のような日本語翻訳に生まれ変わる。再度、引用する。

疎林を中間にして正屋と隔たれる、此一小屋は、三方ともに高き生垣をもて囲まれ、窓は南に面して長方形なるが一つあり、青色の薄き絹の帳、之に懸れるが、その帳を透して、灼然として光の絶えず庭面を照し来るは、裡に勁き電気の昼夜となく燃かれあればなり。
当屋敷は、これボストン理化大学非職教授、化学士以仁透氏の本邸にして、この一小屋は、婢僕は愚か氏の妻子と雖も立入ることを禁じある、化学研究の氏の秘密室なり。

 英文原作が、事件の出現から筆を起こして読者の注意を引く構成になっているのに比較して、原抱一庵の訳文は、まず情景描写から始める。両者に共通する部分は、実験室が日夜電気で照らされていること、立ち入り禁止くらいのことだ。
 さらに驚くべきことは、「ボストン理化大学非職教授、化学士以仁透氏」という説明は、英文原作には、ない。大胆な改作といってもよい。英文原作のずっとあとに“Professor Levison”(416頁)と書かれて出てくるが、これもイニトールとは似ていない。抱一庵のイニトールは、はたして、どこからきたものか。
 英文原作と日本語翻訳が、これほどまでにかけはなれていると、中国の研究者は、これは翻訳ではなく創作である、といいそうだ。だが、日本では、豪傑訳と称して、あくまでも翻訳であると考える。間違っても創作だという研究者はいないから、一言つけくわえておく。
 原抱一庵が日本語に翻訳した「人間の芽」、魯迅訳「人芽」の原文は、“the life-germ”である。あえて翻訳すると「生命の芽」というところか。抱一庵訳「造人術」は、この「人間の芽」の成長過程部分のみの翻訳で、のちの単行本『(小説)泰西奇文』収録分は、原作全体からいえば、おおよそ7分の1にしかならない。
 日本語に翻訳された以外の残りの部分は、いかなるものなのか。原作の内容を簡単に紹介しよう。
 教授は、みずから創造した人工生命に首をかじられ、おもわずそれを投げつけてしまう。人工生命の急速な発育に危惧を感じはじめる。教授が意図したのは、すこし劣った生命の種類を創造することであったからだ。人工生命は、教授のしゃべる言葉を覚えるまでになった。怪物(curious creature.413頁)は、ついに教授に質問する。「私は、なに?」怪物が、人間の魂を有することに教授は愕然とした。やってはならないことをやったという恐れが、教授に生じる。人工生命は増殖を続け、ついに教授には重荷になってしまう。怪物をどうするか考えに考え熱中するあまり、ある日、ドアに鍵をかけることを忘れると、書斎に群れているのに気づくありさまだ。庭に教授の子供たちが遊んでいる。平和な情景を見た教授は、怪物を滅ぼすことを決心し、戦うが、なんと失敗する。怪物を部屋にとじ込めたまま、妻の願いにより、パーティに出席した教授は、妻から休養をとるように求められる。それを振り切って書斎にもどった教授は、破滅を予感していたが。気づくとベッドに横たわり、妻がいる。説明によると、実験室が大爆発し教授は吹き飛ばされて、一命をとりとめたのだ。怪物は跡形もなかった。
 「非科学小説」と題する英文原作は、人工生命の創造に成功しての歓喜の絶頂から、人工生命の予想外の増殖、急激な発育に恐れを感じ、最後は、それを滅ぼそうとし失敗するが、意外な結末で救助されるという構成になっている。作品としてのひとつのまとまりは、確かに、ある。

○作品翻訳の意義
 英文原作を日本語に翻訳しようとした原抱一庵の考えは、わからないわけではない。人工生命を題材とした空想科学小説は、珍しかったかもしれないからだ。
 原抱一庵は、英文原作全部を読んでから翻訳にとりかかったに違いない。短篇だから当たり前だろう。冒頭部分しか発表されなかったのは、何かの事情があってのことだと思われる。作品自体の価値を知って、あるいは興味を引いたからこそ、原は、日本語に訳した。
 だが、魯迅の場合は、どうか。原抱一庵の訳文、それも原作の冒頭部分だけを読んで、なぜ漢語に翻訳する気になったのだろうか。魯迅は、英文原作を知らない、読んでいない。だから、日本語翻訳が、完結したひとつの作品だと受け取ったはずだ。「人間の芽」が、細胞分裂をくりかえして徐々に人間の形になる、という部分だけを取り出して――結果的にそうなったのだが、漢語に翻訳する価値があると考えたのだろう。だが、原作全体から切り離されたこの小部分に、どれほどの意味があるというのか。中国の研究者がいうような「唯物主義の科学観」を作品に見ることなど、到底できはしない。魯迅が書いたものならば、どんなものでも賛美するというのはいかがなものか。魯迅の本当の意図について、今の私には不可解というよりしかたがない。
 英文原作で興味深いのは、人工生命がいかなる形態をしているか、その説明なのだ。問題にされるべき秘密は、この人工生命にある。

○英文原作の秘密――人工生命が意味するもの
 『コスモポリタン』誌のうたい文句は、挿絵つき月刊誌だ。つまり漢語でいえば、『繍像小説』である。原作を飾った挿絵は、2枚ある。実験室の机上に人工生命が誕生している絵については、前に触れた。もう1枚は、上半身が人間で獅子の手と下半身をもった、スフィンクスのような生物が描かれている。小説の人工生命とは異なる。内容とは関係なく挿絵師が勝手に想像して描いたらしい。
 原作者は、人工生命について箇条書きにしてつぎのように書いている。

Pygmies, between three and four feet in height, immensely strong; long, thin, crooked limbs, in some of unequal length; squat, thick bodies; pointed heads, bald but for a tuft of hair at the crown; huge ears, that loosely flapped, dog-like; nose, little more than wide nostrils; mouth, a mere long slit, with protruding teeth; and eyes, ah! eyes that showed plainly far more than animal intelligence. They were small, oblique set closely together, of a beady black, their only lids being a whitish membrane that swept them at intervals ― but they sparkled and glowed with passion, dimmed with tears, and widened with thought.
 ピグミーのように、背の高さは3から4フィートのあいだで、とてつもなく壮健。長く細くまがり均等ではない長さの手足。ずんぐりして厚い身体。とがった頭、ハゲているが天辺は髪の房をつける。ゆるく垂れ下がった犬のような大耳。やや広がった鼻孔の鼻。割れめだけの口で、出っ歯。目は、おお、目は動物の知能よりも明らかに上回っていることを示している。それらは小さく、斜めでふたつとも密接して位置しており、ビーズの黒さ。まぶたは、ただ白い膜で、間隔をおいて閉じる。しかし、それらは、情熱できらきら光り輝き、涙でぼんやりするし、思考することで大きくなる。……(416頁)

 人工生命=怪物は、邪悪な様相をしていると原作者はいいたいらしい。
 少し前の部分で、怪物が増殖することを述べる箇所がある。怪物自らが教育をほどこし、身体も心もより早く発達していく。「彼らは、彼ら独自の言語を発明、発見したのか、不思議でチンプンカンプンだが、それでもって思考を交換し会話を交わし、……」(414頁)
 怪物は、作者の想像力から生まれるとはいえ、作者の住む時代と場所による影響から逃れることはできない。なにか既存の肖像,イメージにもとづいてつくりあげたと考えるのが普通だ。
 空想科学小説だと思うから、問題はなさそうに見えるだけだ。だが、怪物についての描写を読むと、なにか引っ掛かる。居心地の悪さを感じるのが正直なところだ。この不愉快な気分に加味して、さらに、1903年という時代、およびアメリカという場所を考慮に入れると、ぼんやりとした不快感が、急速にひとつの像を結ぶ。
 怪物を描写して「ピグミー」という名称を出すから、この固有名詞に負の意味を与えているとわかる。これは、黒人差別である。
 ストロングの描く怪物は、独自の言語を有し、聞くものはチンプンカンプンである。これは、英語圏のものでないことを暗示する。次はどうか。「とがった頭、ハゲているが天辺は髪の房をつける」は、辮髪を連想させる。中国人だ。「割れめだけの口で、出っ歯」も中国人を想像させる。19世紀アメリカの政治諷刺マンガに描かれた中国人そのものだといわざるをえない。あくまでも諷刺の対象とされ、戯画化されていることに注目してほしい。
 アメリカの中国人は、政治諷刺マンガでは次のように描かれた。すなわち、「辮髪・出っ歯・細い眼など、中国人イメージは醜悪なものになる一方であった。/……醜悪に描かれたその姿は、中国人をして正真正銘の手に負えない「異教徒」の集団に仕立て上げてしまった」(胡垣坤・曽露凌・譚雅倫編、村田雄二郎・貴堂嘉之訳『カミング・マン』平凡社1997.4.16。11-12頁)
 異教徒の集団であれば、怪物にほかならず、それらに対していかなる攻撃を加えようとも、良心は痛まない。
 ストロングが、人工生命の形態を描写するとき、ピグミーと中国人を並列したのには、特別な意味がこめられていた。当時の政治諷刺マンガには、黒人と中国人が同時に登場する、あるいは黒人化した中国人が描かれることがあった。戯画化された中国人を集めた『カミング・マン』を見れば、すぐに実例を捜し当てることができる。当時のアメリカには、黒人差別と中国人差別が共存していたという事実を、自分の目で確かめることはきわめて容易だ。
 1884年から1904年までに、アメリカでは一連の中国人移民制限法が公布された。中国人労働者のアメリカ入国を禁止する差別法である。中国でその廃止を求めてまきおこった運動が、あの「アメリカの中国人移民排斥法に反対する運動(反美華工禁約運動)」にほかならない。上海でのアメリカ商品のボイコット、中国各地で反米集会がもたれることになったのは周知のことだろう。
 アメリカが、黒人および中国人を公然と差別した時代に、ストロングの小説は、書かれて発表された。アメリカにおける黒人差別と公認の中国人差別を自らの小説に取り入れ、具現化して人工生命=怪物をつくりあげたと理解できる。怪物の形態を描写した文章が、その証拠だ。原著者は、政治諷刺マンガに登場する「醜悪」な中国人を見ていたにちがいない。怪物を、黒人化した中国人に仕立て上げるのは、ストロングにとっては、自然な思考の流れだった。
 中国人を怪物あつかいしているから、ストロングの原作には、明らかに、当時の黒人と中国人に対する蔑視が存在していることを確認する。
 魯迅は、英文原作を知らずに、その一部分だけの日本語翻訳にもとづいて漢訳した。英文原作では、「人芽」が発育して怪物になるが、そこにはまごうことなき中国人がイメージされていたなど知るよしもなかった。該当箇所は、日本語に翻訳されていないからだ。もし、英文原作の全文が日本語に訳されていたとしたら、魯迅は漢語に翻訳しただろうか。
 アメリカにおいて中国人が差別されており、中国大陸で「アメリカの中国人移民排斥法に反対する運動」が盛り上がろうとしていた同時期に、魯迅は、日本で「造人術」を、一生懸命、漢語に翻訳していた。魯迅が翻訳して中国の雑誌に発表した「造人術」の英文原作が、ほかならぬ中国人を侮蔑して怪物につくりあげた小説だったとは、まるで悪い冗談のように私には思える。

【附記】藤元直樹氏より、高峯生「奇談 生命の製造」(『中学世界』第15巻第15号 1912.11.1)の複写をいただきました。ストロング英文原作の日本語全訳です。感謝します。