上海で報道された日本・教科書疑獄事件


樽 本 照 雄


 日本の教科書疑獄事件が、上海で報道されている。
 教科書疑獄事件は、結果として金港堂をはじめとする教科書会社が引き起こした教科書採択に関する贈収賄事件である。1902年の年末に摘発がはじまり、ほとんど連日のように新聞で報道されていた。
 これだけの大事件だ、日本国内だけの話題であったわけではない。梁啓超が横浜において主宰発行していた雑誌類が、上海に輸送されていた時代である。日中間では、品物ばかりでなく情報も行き来していた。日本の新聞を騒がせていた教科書疑獄事件は、上海でもほとんどリアルタイムで報道されていたことを紹介しておこう。
 日本・教科書疑獄事件は、上海『申報』1902年12月26日付で「文字之獄」と題して掲載されている。これが最初の新聞記事である。
 友人からの伝聞という形をとる。以下、要約すれば、日本の各学校で使用する教科書は、文部省の検定を受けてのち刊行する。本年陽暦2月より贈収賄のあることを察知し、秘密裏に調査していたが、12月21ママ日、東京地方裁判官中川君は、集英堂社長ママ永田一茂、普及舎ママ社長池部活三を召集し証人とした。同日午前十時東京金満ママ堂書籍会社原亮三郎の父ママは、検事正室川淵ママ検事正ママおよび検事羽佐ママ君により審問をうけ五時に終わり帰宅を許可される云々。
 一斉摘発が行なわれたのは12月17日であって21日ではない。池部活三は集英堂社員だ。金満堂ではなく金港堂だし、「原亮三郎の父」というのは原亮一郎を指しているが、名前から想像するのとは反対に原亮三郎のほうが父親である。室川淵は、川淵が正しく、検事正を重複させているし、羽佐は羽左間の間違い。というように誤りの多い記事となったのは、伝聞をそのまま流したためであろう。誤記の行進とはいえ、教科書疑獄事件が上海に報じられた最初として注目される。
 1902年12月28日付「大索書林」から全10回のシリーズ記事を構成する。ここでは、もういちど大捜査の模様を描写して、より正確になっている。金港堂と正しく表記する。これ以下の報道は、金港堂関係を中心にして見ることにしたい。
 1902年12月31日付「大索書林続述」では、日本某新聞の報道を引用する。注目されるのは、証拠がある収賄者として、「高等師範学校教授長尾槙太郎、金港堂書肆編輯長前文部書記官正七位小谷重」と明記していることだ。名前、所属ともに正確である。
 1903年1月1日付「大索書林三志」金港堂の名前があがっている
 1903年1月2日付「大索書林四志」
 1903年1月4日付「大索書林五志」原亮一郎の名前がある
 1903年1月6日付「大索書林六志」金港堂書店主人原亮一郎の妻が出現する
 1903年1月8日付「大索書林六ママ志」金港堂、原亮一郎の名前が見える
 1903年1月9日付「大索書林七ママ志」
 1903年1月15日付「大索書林七ママ志」原亮一郎が登場する
 1903年1月16日付「大索書林八志」小谷重雄ママ、原亮一郎、金港堂、加藤駒治ママの名前がある
 以上、いずれも基本的に日本で報道された新聞記事を引きうつして『申報』の記事が作成されている。その書き方は、検事の名前と被疑者の実名を羅列するのがひとつの型になっている。拠った日本の新聞がそうなっているのだろう。
 ほとんど1ヵ月におよぶ連続報道は、それぞれの文字分量は多いとはいえないとしても、日本の教科書疑獄事件を上海人に強く印象づけたのではないかと思うのだ。金港堂の名前が頻繁に登場していることを忘れてはならない。長尾槙太郎と小谷重が実名で報道されていることも見逃すわけにはいかない。大方の人々には記憶に残らなかったとしても、商務印書館の関係者には印象強くあとを引いた可能性も否定することはできない。
 商務印書館の首脳が、日本での教科書疑獄事件を知っていたのかどうかについては、資料は残っていない。しかし、のちの人の証言に教科書疑獄事件が出てくる。これを見れば、関係者から聞いたことがあると想像できる。なによりも上海『申報』での連続報道がある事実を見れば、事件を知っていたと考える方が自然だ。私は、商務印書館が、金港堂との合弁準備を始めたのが1901-1902年頃だと予測している。教科書疑獄事件発生以前から両者の接触があったとすれば、なおさらのこと商務印書館側は、大いなる関心をもって新聞報道をながめていたのではないか。長尾槙太郎、小谷重、加藤駒二の名前が脳裏に刻みこまれたと想像する。その彼らが、教科書編纂の専門家として、約1年後に上海に乗り込んでくるのを、商務印書館首脳部は、想像していただろうか。
 のちに商務印書館と金港堂が合弁会社となった時、商務印書館側は、表立っては金港堂の総代理店となったとはいう。だが、実態が「合弁会社」だということを謳おうとはしないばかりか、その事実を明らかにしようともしはしない。日本・教科書疑獄事件が上海でも知られていたことを考えれば、その報道から約1年近く経過していようとも、事件の当事者のひとつである金港堂と合弁をしたといえば、上海の人々の関心を刺激するかもしれないと判断したと考えてもおかしくはない。商務印書館が合弁をいいたくなかった理由のひとつにもなる。