『説倭伝』から『中東大戦演義』へ


竹 村 則 行


1 日清戦争と下関講和
 今を去る百年程前、明治の新生日本が老大清国に果敢に挑んだ日清戦争が、その後の日本の近代化膨張路線を決定づけた意義は大きい。一方の清朝中国が今日にまで尾を引く近代化の遅れを痛感したのもこの戦争であった。その講和会談は1895年、下関の春帆楼で持たれた。日本側全権は伊藤博文、清朝側は李鴻章である。丁々発止の遣り取りの貌は外相陸奥宗光の『蹇蹇録』(岩波文庫所収)に詳しい。

2 『中日議和紀略』
 一方の清朝側も5回に渉った会談の内容を逐一記録して文書に残している。今日国立公文書館(内閣文庫)に蔵する『中日議和紀略』がそれである。この文書は編者を明記しないが、李鴻章が書記馬建忠等に命じて記録させた公式文書と覚しい。即ち『清光緒朝中日交渉史料』巻38に言及する中日議和の『問答節略』の原文がこの文書に相当するであろう。

3 『中東大戦演義』
 清末小説の『中東大戦演義』はこの日清戦争(甲午中日戦争)を敷衍した時事小説であるが、興味深いことに、この中に上記『中日議和紀略』の全文が丸ごと引用されている。この小説は『甲午中日戦争文学集』(阿英編、中華書局、1958年)、『中国近代珍稀本小説』(春風文芸出版社、1997年)に翻刻するほか、『中国通俗小説総目提要』『中国歴代小説辞典』等に提要や紹介がある。版本については、阿英の前掲書に「光緒26(1900)年刊」とあり、後出の辞典類の言及も概ねこれを踏襲する。
 ところで、該小説は一名『説倭伝』(倭は倭人、即ち背の低い日本人の蔑称)というが、筆者が先年、偶ま広州の古書肆で見かけて購入した『説倭伝』は、「光緒23(1897)年」の刊記を有する鉛印本であった。しかし、阿英を始め、中国の今日の研究者間に該本についての言及が無いので、この機会に、以下に簡単に資料紹介を試みたい。

4 『説倭伝』
 『説倭伝』の成書時の版本には排印本(2冊)と石印本(4冊、『中東大戦演義』と改名)の二種類がある。排印本は柳存仁『倫敦所見中国小説書目提要』に英国博物院蔵本の紹介があり、刊年不明の由であるが、恐らく初版に近いものと思われる。一方、石印本は、『中国通俗小説提要』『中国歴代小説辞典』等の蔡国梁氏の報告によると、鵬飛万里の署簽、図像十二幅を有し、光緒26(1900)年、上海刊であり、先の阿英の言及と刊年が一致する。ところが、ここに紹介する『説倭伝』二冊本は、「光緒二十三年歳次丁酉孟秋」「興全洪子二撰輯」「香港中華印務総局承刊」の刊記を有する鉛印本であり、朱色の題簽は篆文で「新刻説倭傳」と印する(複写参照)。但し石印本に有するという署簽、図像は無い。ここで注目すべきは、「光緒二十三(1897)年〜孟秋」と明記する刊記である。これは『説倭伝』の最終第33回に述べる光緒22年6月の通商行船条約締結から僅か1年後の事であって、件の日清講和談判から数えても僅々2年後にしかならない。従って、上記の蔡国梁氏の提要が、「馬関(下関)条約締結5年後に、作者は義憤と沈痛の気持で、〜」と述べるのは、更に時間を短縮して「2年後に〜」と訂正する必要がある。また、樽本照雄先生の御指教によると、その他、馬良春他編『中国文学大辞典』、劉葉秋他編『中国古典小説大辞典』、孫文光主編『中国近代文学大辞典』、王継権他編『中国近代小説目録』等の諸本にも、光緒23年刊『説倭伝』の言及が無い由であるが、時事小説はいわば時事の即時性が生命であり、この場合も、下関講和条約締結「2年後」に書かれた作者の義憤と沈痛の思いは、「5年後」に較べて格段に強烈であって、やはり訂正が必要である。
 以上を要するに、『説倭伝』は1897年に初版を出版後、3年を経て、上海に於て石印の『中東大戦演義』という当世の通俗演義小説風に新装改題して再刊されたものと思われる。

5 まとめ
 『説倭伝』(『中東大戦演義』)の清末小説としての評価は、先の蔡国梁氏のように、その時事性と愛国性に一定の評価を認めつつも、未熟な構想や表現に難点を見出すのが妥当であろう。本稿で取り上げた講和会談の原資料をそのまま引用するのはその難点の一であるが、該書からは、百年の時間を越えて、作者の愛国の情熱が今もひしひしと伝わって来る。初版(に近い)と思われる今回発見の『説倭伝』は鉛印本であり、初版時に相当部数が印刷されたものと思われるが、阿英を始め、今日の中国の研究者に言及が無いので、誤認の訂正と新所蔵の報告を求め、あえて駄文を弄した次第である。

【注】該本に関するより詳しい報告は、拙稿「清末小説『説倭伝』に全文転載された李鴻章編『中日議和紀略』をめぐって」(『文学研究』96、九州大学文学部、1999年)参照。