『繍像小説』の重版
――小説雑誌の重版問題1


樽 本 照 雄


 清末に出現した小説雑誌の隆盛は、それら小説雑誌そのものが重版されるという事実をもってしても知ることができる。初版だけでは間に合わなかったほどの需要があったということだ。
 初版か、重版か、研究界においては、一部を除いてそれほど注目されていない問題のように思う。なぜなら、研究論文に言及されることがないからだ。
 初版と重版を比較して、収録作品に違いがあるわけではない。作品本文も同一である。そうであるならば、初版と重版の違いに気づく研究者が多くないのもうなづける。
 だが、作品以外の部分に注目すると、とたんに初版と重版の問題が出てくる。
 たとえば、初版と重版では、表紙が異なっていたり、広告ページがあったりなかったりする。明らかにふたつのものなのだ。そこまで細かく見る人は、少ない。少ないというよりも、私の見る限り、この重版問題に気づいている研究者は、ほとんどいないのだ。
 広告ページを題材にする時、本来は、あとからつけくわえられたものにもかかわらず、最初から掲載されていたかのような記述をする。これは、正確ではない。厳密に初版と重版を区別すべきだと考える。
 私が日本で見ることのできる小説雑誌は、それほど多くはない。いくつかの主要な雑誌について、重版問題を論じることにする。

 『繍像小説』の表紙には、2種類がある。牡丹と孔雀だ。この事実は、研究者周知の事柄に属する。
 ただし、牡丹の花1輪が、羽根を広げる孔雀にいつ交替したのか、従来からいくつかの説らしいものがある。あるいは、記述が混乱している。

牡丹から孔雀へ
 たとえば、第2期から変更になったとするものがある。

○牡丹 第1期 孔雀 第2期 畢樹棠「繍像小説」『文学』第5巻第2号 1935.7.1。270頁
「談繍像小説」と改題。張静廬輯註『中国出版史料補編』北京・中華書局1957.5。129頁/魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。463頁

 畢樹棠が書いているのは、創刊号は牡丹で、第2期より羽を広げた孔雀に改められたというのだ。
 第2期から孔雀に変わっているのならば、

○孔雀 第6期 張静廬輯註『中国近代出版史料二編』上海・群聯出版社1954.5

孔雀の第6期があるのも不思議ではない。
 だが、創刊号から孔雀を示す文献もある。

○孔雀 第1期 阿英『晩清文芸報刊述略』上海・古典文学出版社1958.3

 表紙写真が飾られている。阿英の著作なのだから、とこちらの方が信用される可能性も高くなる。それでは、畢樹棠のいう牡丹は書き間違いなのか。
 実は、『繍像小説』表紙の牡丹孔雀問題については、私は、過去においてすでに結論を出している。

「第一期の表紙は牡丹の花が一輪描かれ、第八期まで同じ図柄である。第九期から最終の第七二期まで、孔雀が羽をひろげた図柄が続く」(樽本照雄「『繍像小説』について」『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20所収。384頁)

 当時、澤田瑞穂所蔵だった『繍像小説』に基づいてこう書いた。この版が貴重なのは、初版であるからだ。有名な「本館編印繍像小説縁起」は、色紙に印刷されて創刊号と第2号の本文冒頭にとじ込まれている(「縁起」の影印を『清末小説から』第50号1998.7.1、17頁に掲げておいた。文章そのものを収録した資料集は多い。だが、これ以前に原物を写真版で示した文献は、ない)。ところが、中国の研究者の文章を読むと、この「縁起」を収録していない版があり、捜し当てるまで苦労したという。つまり、重版の存在が予想できる。
 私は、『繍像小説』の原物にもとづいて、第1-8期は牡丹、第9-72期は孔雀と確認している。畢樹棠の書く、第2期から孔雀に変化する、は当然誤りである。張静廬が資料集で掲げた第6期の孔雀も、重版であることがわかる。阿英が示した第1期の孔雀も、同じく重版だ。
 つまり、牡丹を飾った初版と、孔雀で統一した重版があったことになる。
 私の記述を参考にしたかどうかわからないが、魏紹昌の資料集に収録された『繍像小説』の表紙には、

○牡丹 第1-8期 孔雀 第9-72期 魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。17頁

と、正しい説明がつけられている。この説明は正しいにもかかわらず、同じ資料集に収録した畢樹棠の論文の該当箇所について、注釈を加えないのは、少し不親切な気がする。
 それよりも、大きな問題がある。魏紹昌は、畢樹棠の文章を勝手に書き換えているのだ。重要な箇所だから、重ねていう。
 『繍像小説』の停刊時期に関する部分である。
 畢樹棠の原文には、「停刊年月不明、約在光緒三十二三年之間」(270頁)と書かれている。『繍像小説』の発行年月日は、第13期より記載されなくなる。だから、畢樹棠の書くように停刊の年月は不明、1906年から1907年の間と説明するのが正確なのだ。
 ところが、魏紹昌は、この部分を「停刊於光緒三十二年(丙午)三月」と勝手に書き換えた。停刊の年月が不明どころか、光緒三十二年(1906)三月に確定しているように書くのだ。畢樹棠の原意を損なう改竄だといわざるをえない。
 これは、資料編集者がやってはならない種類の、資料集の資料的価値を疑わせることになる、編集者のいわば自殺行為である。せめて注釈というかたちで、編集者の意見だとわかるようにできなかったものか。現在に至るまで、『繍像小説』が、「光緒三十二年三月」で停刊しているように広く深く誤解されている原因は、この魏紹昌の書き換えにいくらかの責任があるはずだ。
 牡丹と孔雀を並べて掲げるのは、魏紹昌編『李伯元研究資料』よりも、次の文献の方が早い。

○牡丹 第1期 孔雀 第9期 澤田瑞穂「閑談『繍像小説』」『清末小説研究』第4号 1980.12.1。5頁

 『李伯元研究資料』の発行年は1980年12月となっているが、実際の出版は遅れているはずだからだ。
 『繍像小説』の牡丹孔雀問題は、以上で決着がついていると思っていた。
 だが、雑誌の影印版が出版されて、問題は振り出しにもどったような印象をあたえる。あるいは、一層の混乱を発生させた。影印版は、表紙を孔雀で統一してしまったのだ。

○孔雀 第1-72期 『繍像小説』「晩清小説期刊」上海書店影印、香港・商務印書館1980.12

 影印版の出版は、原物を見ることのできない情況を一変させたという意味で、画期的である。その価値は、認める。
 だからこそ、底本の選択には注意を払ってもらいたかった。重要な「本館編印繍像小説縁起」が収録できていないのは、底本になかったためなのか。ないならば、「縁起」を失っていない版本を捜索するのが本来のありかただろう。この重要文章を収録しないで影印版を出版した気が知れない。それとも、「縁起」そのものの存在を知らなかったのか。まさか、と思う。
 また、広告ページを削除するという編集方針にも大いに問題がある。削除することによって、影印版の学術的資料価値が、大きく損なわれるということに無知なのである。これは、最近の『図画日報』影印版にも引き継がれており、よくよく研究者でない人物が主宰しているらしい。
 影印であれば、原物と同じだ、と普通考えるではないか。表紙が孔雀で統一されていれば、初版もそうだった、と誰しもが思う。説明がないのだから、しかたがない。
 表紙についての説明と影印版が、一致しない。当然のように混乱する研究者が出現する。原物を見ることができないからなおさら困惑する。
 『繍像小説』の表紙について質問を受けた私は、あらためて説明しなければならなかった。
 以下は、インターネットの清末小説研

【図1】初版創刊号表紙

究会のホームページに掲げている。全文を引用する。なお、今回、*印の注を追加する。

 『繍像小説』の表紙について質問をいただきました。重要な問題ですので、以下に説明しておきます。
 『繍像小説』には、2種類の表紙があります。牡丹と孔雀です。しかし、初版と重版では、その表紙が異なります。
 質問1:『李伯元研究資料』(上海古籍出版社 1980.12)463頁に「第一期表紙は牡丹であり、第二期から最後まで孔雀である」と書いてある。本当か。
 回答:畢樹棠の書き誤り。(『李伯元研究資料』所収の畢樹棠「繍像小説」には、魏紹昌により書き換えがあるので注意を要する*上に述べた停刊年月に関しての書き換えを指す)
 質問2:『李伯元研究資料』17頁に影印されたその二種類の表紙の注に「第1-8期が牡丹で、第9-72期が孔雀」と書いてある。本当か。
 回答:これが正しいのです。私は、原物初版と原物重版の2種類を所有しており、それで確認できます。

【図2】「商務印書館徴文広告」

 質問3:1980年に上海書店が影印出版した『繍像小説』8冊の表紙は1-72期まで「孔雀」のみ。どちらが正しいか。
 回答:上海書店の複写本は、正しくない*「正しくない」というのは、表紙についてのこと。本文はそのままである。
 『繍像小説』初版の表紙は、第1-8期が牡丹で、第9-72期が孔雀なのです。研究者によって記述が異なるのは、『繍像小説』の重版を見て書いているからでしょう。
 上海書店が出版した複写本は、重版にもとづいたもの、厳密な手続きを経ていませんから、信頼することはできません*「信頼することはできません」というのも、表紙についてのこと。

 『繍像小説』には、初版と重版が存在していることが理解できよう。

重版の証明
 『繍像小説』に重版があることの根拠は、表紙の違いである【図1】。
 初版は、くりかえせば、表紙の図柄が牡丹から第9期より孔雀へ変更された。牡丹表紙の創刊号と第2号には、「本館編印繍像小説縁起」が掲載されている。
 創刊号から第8期までを重版するにあたり、表紙を孔雀に統一し、「本館編印繍像小説縁起」を収録しなかった。あるいは、なにかの手違いで収録モレになった。
 重版にあたって、作品本文は同一にしたまま、表紙を孔雀に変更したほかの違いといえば、広告ページ、裏表紙の差し替えもある。乱丁、落丁も発生しているし、全冊揃いといっても、初版と重版を混在させたものも存在する。
 初版には存在して、重版には見られない例として「商務印書館徴文広告」をあげておこう。

「商務印書館徴文広告」
 「商務印書館徴文広告」は、文字通り商務印書館が行なう原稿募集の広告である【図2】。『繍像小説』第22期の巻末に、薄緑の色紙に印刷され折りたたんで綴じ込まれている。挟み込みではない。綴じ込みだから印刷時期を予測する手掛かりとなる。第23期も同じ形態で附される。ただし、こちらは薄茶褐色の紙というだけが異なる。この広告は、上海書店が出版した影印版には、収録されていない。
 「商務印書館徴文広告」は、『東方雑誌』第9期光緒三十年九月二十五日(1904.11.2)にも掲載される。『繍像小説』と同じもの。青色紙に印刷されている。同一の広告が、『東方雑誌』と『繍像小説』に掲載されるから、発行年月が不明の『繍像小説』がいつ出版されたかを推測する手掛かりとなる(詳しくは、樽本「『繍像小説』の発行時期ふたたび」『清末小説探索』法律文化社1998.9.20所収を参照のこと)。
 商務印書館が教科書、『繍像小説』および『東方雑誌』を創刊し、それらのための原稿をひろく募集することをいう。
 第一類国文教科書、第二類小説、第三類論説という種類分けになる。
 小説では、具体的に教育小説、社会小説、歴史小説、実業小説と指定される。さらに、その報酬も明記されているから次に引用しておく。

第1位 洋100元、第23位 各50元、第45位 各30元、第6-10位 各20元、11-20位 10元……

 字数による計算ではなく、1篇に対する報酬であることがわかる。
 1904年3月に創刊した『東方雑誌』がらみの原稿募集広告であって『繍像小説』専用ではない。商務印書館の刊行物共通で、原稿募集の結果は、『東方雑誌』第2年第3期(光緒三十一年三月二十五日<1905.4.29>)において発表された。題して「商務印書館徴文題名」という【図3】。

呂侠人(贈百元)
東絲生 張宗祥(各贈五十元)
李惜霜 姫文(各贈三十元)
蔡緑農 王惜華 寿孝天 張文英 呉啓明(各贈二十元)
桂成支 何寿珊 陳枚 海蠖 胡子承 丁逢甲 魏虞卿 呉廷銓 顧祖武 王立(各贈十元)
呂勉之 西〓樵者 周惺 紅崖 劉巽権 包栄爵 有恒軒 朱寿侠 壮者 黄鐘 企蘇子 姚子盤(各贈五元)
高覚仏 〓博甫 〓溥春 許玉庭 〓〓子 青山外史 卜琴 朱紫芳
郭必 楊仲騏 潘鶴青 洛陽老梅 馮鏡芙 趙冕黄 越侠(各贈国文教科書教授法八冊習画帖九冊)
香雲庵 郭襟陶 蘭皐覊客 張〓初(各贈本年東方雑誌十二冊)
徐〓曇 蓬莱求仙客 曹タ广 〓東駕日生(各贈繍像小説第一至十二冊)
顧子静 夏鼎彝 宋子玉 甦生 丁坤生 王毓慶 潘世祥 程文慶 陳謨(各贈国文教科書教授法八冊)
先憂〓 宋子和(各贈本年東方雑誌六冊)
呉家ト 藝菊館主 楊敬斎 単声揚 曹〓〓 張康齢 曹驤 潘善初
履霜子 華炳生 万寿禧 呉不恒 無極真人 乗槎侠士 劉立斎 丁漢僧 
冬〓生 張漢民 文覚生 朱志復 楊廷〓 扶桑寓公 方愛〓 荘則恭 蒋其偉 華炳生 許承〓 蘇霊 諸賢臨 戈講武(各贈本年袖珍日記一冊)

 入選者が以上の数にのぼるのだから、応募者はこれの数倍はあったのではないかと想像するのに十分だ。
 入選者の中には、作品を商務印書館から出版するもの、『繍像小説』に掲載するものも出てくる。
 たとえば第1位の呂侠人は、『惨女界』 30回 2冊を商務印書館(光緒34.3<1908>)から出版している。
 30元を獲得した姫文は、「市声(実業小説)」25回(『繍像小説』43-72期[乙巳1-丙午3(1905.2-1906.4)][]内は推測)を執筆連載する。
 また、丁逢甲は、一人で複数の文章を応募した。丁逢甲で10元、筆名の壮者で5元、丁坤生名義では国文教科書教授法8冊を獲得している。作品としては、壮者名義で「掃迷帚」24回を『繍像小説』43-52期([乙巳1-5(1905.2-6)])に掲載しているといった具合である。
 最後に、「附録商務印書館徴文」が、『東方雑誌』第2年第4期(光緒三十一年四月二十五日<1905.5.28>)に掲載されていることも付け加えておく。作者と文章題名は、以下のとおり。
 李惜霜「我国各地交通不便語言因以参差今汽車汽船既未遍通有何良策能使語言齊一歟」
 李惜霜「学堂用経伝宜以何時誦読何法教授始能獲益」
 海蠖「医学与社会之関係」
 丁逢甲「中日二国同在亜洲同為黄種又同時与欧美通商而強弱懸殊至此其故何歟」

 商務印書館主催による原稿募集によって小説家が輩出した、というわけではなさそうだ。しかし、一般読者に向けて原稿料を明示して文章を募集するという行為は、原稿料制度の存在を広く知らせることになったであろう。
 すなわち、上海において売文によって生活することの可能性をより拡大したのではないか。原稿料による生活の成立――職業作家が誕生する環境を準備したと考えるのだ。