『游戯報』の周樹人


樽 本 照 雄


 『游戯報』に周樹人の名前が掲載されていることを、私は、疑っているのではない。
 その周樹人が、間違いなく魯迅本人であると、なぜ断定できるのか、その根拠はあるのか、と単純な疑問を提出しているだけだ*1。
 『游戯報』に周樹人の名前を見いだしたのは、路工である*2。
 それ以来、『游戯報』の周樹人は魯迅だと認定されたまま、現在にいたる。魯迅研究の専門家からは、疑問らしきものは出されていない*3。
 路工による断言が、のちの魯迅研究家によってくりかえし引用されてきた。
 その間、資料の発見がまったくなされなかったわけでもない。『魯迅年譜』第1巻が、周囲の情況について詳細な説明を加えたことがある。
 すなわち、『游戯報』が発表した募集詩の入選者名簿の甲等第七位(原文:甲等第七名)に周樹人の名前で掲げられ、図書購入券一元(購書券一元)を贈られた。題名は「花好月圓」である、という記述だ*4。
 「甲等第七名」「購書券一元」「花好月圓」などを、はじめて明らかにした。説明が具体的で、『游戯報』の実物を確認していなければ書くことはできないと推測される。
 しかし、この説明には、致命的な欠陥がある。『游戯報』の周樹人は魯迅だ、とはじめから信じきっている。疑う気持ちは、まったくないらしい。ゆえに証拠を示さない。『游戯報』の周樹人がなぜ魯迅なのかという根本問題は、解決されていないのだ。説明が詳細になった分、『游戯報』の周樹人は魯迅であるという思い込みは、より強固なものとなった。
 ここでも私はくりかえさざるをえない。『游戯報』の周樹人が、周樹人であるというだけで魯迅のことだと断定するのは、性急すぎるのではないか、検討する必要があるだろうというのである。
 なぜなら、周樹人を名乗る人物は、魯迅ばかりではないからだ。当時、複数の周樹人が存在していた。
 魯迅という筆名をもつ周樹人、通州のひと周樹人(墨生)、貴渓のひと周樹人。同時代に、少なくとも3名は同姓同名者がいる。
 だから、『游戯報』の周樹人が魯迅であることをいうためには、なんらかの証拠を出す必要があろう。研究上、当たり前すぎる要求である。
 今まで『游戯報』の該当部分全体が紹介されることは、なかった。
 題名の「花好月圓」までを指摘している『魯迅年譜』第1巻が、前出の文章で『游戯報』の写真を掲載してもいいはずだが、それは実行されていない。
 このたび入手した資料によって以下に関係部分の全文を掲げる。

『游戯報』己亥(光緒二十五年)十一月十七日(1899.12.19)
花好月圓人寿図徴題贈彩単○超等十名 〓溝趙君弼臣贈袍料洋十元 咸陽汪君献贈書籍票洋四元 昭文孫君同康贈日本小説佳人之奇遇一部十六冊 呉県欧陽君淦贈石印廿二子一部二十本 丹徒葉君玉森贈石印東華続録一部十六本 泉唐鍾君濂 文君斌臣 諸君以壮 周君樹人 許君毓麟 各贈書籍票洋一元○特等二十名 鍾〓 梁元〓 銭煥綺 鍾春 鍾震 魯奎綬 沈錫侯 楊〓 薛宜興 沈福庶 曹涵 呉作賓 沈焜 孫吟笙 梁元溥 余観国 楊象書 董〓 蘇甘伯 楊家禾 以上各贈書籍票毎値五角 一等姓氏明日続録

 『魯迅年譜』第1巻が明確にしたはずの事柄と照合すれば、いくつかの字句が異なっていることに気づく。
 募集された詩の題目は、「花好月圓」ではなく、「花好月圓人寿図」が正しい。
 周樹人の順位は、「甲等第七名」ではなく、「超等第九名」だ。
 書籍購入券には違いなかろうが、原文は「購書券一元」ではなく、「書籍票洋一元」となる。
 字句の食い違いがあることから、『魯迅年譜』第1巻は、直接、『游戯報』の原物にもとづいて記述したのではないことがわかる。なにかの資料を孫引きしたのだろう。
 『游戯報』の記事を見て、複数の事実がうかびあがってくる。
 入選者の氏名発表記事だが、入選者全員が平等に掲げられているわけではない。等級が設けられており、扱いに差がある。同じ「超級」であっても、上位5名は、原籍を明記し、おまけに賞品が、ほかとは違う。
 呉県欧陽君淦は、ほかならぬ欧陽鉅源である。『游戯報』に投稿を繰り返し、それによって李伯元に認められた。のちには、李伯元と作品を共同で執筆するようになるし、李伯元の死後は彼の跡継ぎの位置を占める。
 孫同康に景品として与えられた「日本小説佳人之奇遇一部十六冊」というのも興味深い。
 書名と冊数から見ても、これは、あきらかに日本語原本だ。漢訳「佳人奇遇」が『清議報』1-35冊(1898.12.23-1900.2.10)に連載が開始されたのは、この『游戯報』の1899年よりも約1年も前のことだ。ただし、1899年12月時点では、連載が継続中であった。漢訳が単行本になるのは、もっと後のことになる。
 日本語原本が景品となった理由は、なにか。
 想像できるのは、『清議報』が上海に伝えられて話題になり、原本「佳人之奇遇」が輸入されていたということか。あるいは、漢訳とは関係なく、一部の注意を引いていた日本の小説だったのか。孫同康が日本語を解したかどうかは、わからない。景品とは出すことに意味があり、内容を理解できるできないは問題ではない、といわれればそういうものかもしれない。
 「東華続録」を贈られた葉玉森は、南社の社友だろう*5。
 問題の「周君樹人」を、あらためてながめる。
 「周君樹人」とあるだけだ。それ以外の字句は、なにもない。よく見てほしい。
 原籍も明らかにされてはいない。この周樹人が魯迅であると断定する証拠はおろか、少しの手掛かりすらも、ここには、まったく示されていない。
 たどりつく結論は、ひとつだ。路工の指摘は、根拠をもたない勝手な断定である。のちの魯迅研究者の、検証なき追従である。
 『游戯報』の周樹人が魯迅であるかどうか、不明のままだとするほかない。決め手に欠ける、と私は、何度でも主張する。

【注】
1)樽本「二人の周樹人」『伊地智善継・辻本春彦両教授退官記念中国語学・文学論集』東方書店1983.12.10。樽本「周樹人がいっぱい」『清末小説』第17号1994.12.1。のち『清末小説探索』(法律文化社1998.9.20)所収
2)路工「魯迅与民間文学」『新建設』1959年12月号。1959.12.7。51頁
3)私の知るかぎり、唯一の例外は王学鈞だ。沢本郁馬「李伯元研究の広がりと深化――王学鈞編『李伯元全集』第5巻の特色」『清末小説』第21号1998.12.1
4)魯迅博物館・魯迅研究室編『魯迅年譜』第1巻 北京人民文学出版社1981.9。67頁
5)「南社社友事略」鄭逸梅編著『南社叢談』上海人民出版社1981.2。110頁