中国現代文学の源流を発掘する
――樽本照雄『初期商務印書館研究』

阪 口 直 樹



 この9月、樽本照雄『初期商務印書館研究』(清末小説研究会2000.9.9 \10,000)が“また”出た。ついこのあいだ、『清末民初小説年表』、『新編清末民初小説目録』が出たと思ったばかりだから、樽本さんの超人的な仕事ぶりに脱帽である。先だってある学会報告要旨に「現在元気な研究のジャンル」として“清末”を挙げたら、早速「清末はほそぼそとやっております」との反応があった。日本の中国文学研究の陣営は極めて貧弱だから、精力的な研究者が一人いると、即「元気なジャンル」となるわけである。そもそも、清末民初時期が重視され始めたのはそう古くない、私は2年ほど前に次の文章を書いたことがある。

 各文学史において清末民初は、単なる「シッポ」か、「アタマ」という付属物か、完全に無視されるかという位置づけしか与えられなかったのである。だが、近年の一連の研究によれば、清末民初期にはすでに、近代的印刷技術、ことに活版印刷の普及により、多品種、大量印刷の時代に入っていたことが明らかにされている。そして(1)清末民初定期刊行物が、1898年より増加し、1904年で一つの頂点を示し、1907年に最大のピークを迎えること(小説の発行点数の頂点は1915年)。(2)翻訳小説は1901年から1920年まで、全体の70%を翻訳が占め、商務印書館の単行本の93%が翻訳であったこと。(3)民初文学は、商務印書館院というガリバー出版社と、広智書局・小説林社が競争的に育て上げた。(4)上海、北京、東京・横浜という「トライアングル」のネットワークが形成されていたことがわかる。なかでも、1897年に設立され、のち日本の金港堂と合弁(1903)後、テキスト出版で急速に規模を拡大した商務印書館が、清末民初から30年代に至るまで、一貫して中国文化の中枢に位置し、出版事業だけではなくて多数の知識人を育成組織したことは、中国近代化にとってきわめて重要な事実として位置づけられるべきだろう。(「“民国文学史”の構想と課題」『近きに在りて』第33号1998.5)

 このように、商務印書館の存在は中国近現代文学史上極めて大きい。思えば、樽本さんが商務印書館と金港堂との日中合弁事業、あるいは教科書疑獄をめぐる長尾雨山の問題について文章を書かれたのは、もう20年も前のころだったと記憶するが、その後中国では『商務印書館図書目録』(1981)、『商務印書館大事記』(1987)、『商務印書館九十年』(1987)、『商務印書館九十五年』(1992)、『商務印書館――百年』(1998)など一連の重要な資料が出され、研究環境は好転したかに見える。だが初期商務印書館研究については、あたかも幼児期のトラウマのように忌避されてきたのである。本書出版の意義は、まずその空白を埋めたことにある。
 さて、本書の中身を簡単に紹介してみる。目次を見ると、第1章・商務印書館、第2章・金港堂、第3章・日中合弁、第4章・初期商務印書館の精神分析の合計4章からなり、最後に文献一覧(関連論文索引)と索引がついていて、総378頁に及ぶ。
 第1章は商務印書館の創業期を対象にしており、創業者の一人である夏瑞芳の経歴から教科書の発行や張元済の関与、発行所の設立まで19項目にわたり、多くの図版や写真を多用して説得的に展開されている。そのなかで私が特に興味を引かれたのは、商務印書館とキリスト教との関係で、J.D.デイヴィス著『新島襄伝』の漢訳出版物『尼虚曼伝』が貴重な図版を使って分析されている。中国のメディアの発達が聖書や『益世報』などキリスト教の布教活動と密接不可分であったことを、ここでも知ることができる。
 第2章では、今は無くなった金港堂さがし(そういえば仙台にも大きな金港堂書店があったっけ?)から始まって、同書店の教科書発行にいたる経過、長尾雨山の関わりと教科書疑獄事件の顛末、そして金港堂の商務印書館への投資のいきさつまでが語られる。この部分は日本の掘り起こし資料を充分に駆使した著者の独壇場といえ、中国側研究者の手に負えない部分であろう。
 第3章は、いよいよ金港堂と商務印書館との日中合弁という最終ラウンドである。これまで「とても競争にならないと考えた商務印書館は、外資を利用するため金港堂と合弁することにした」という誤解に対して、著者は金港堂の原亮三郎が山本条太郎(三井物産上海支店長)に上海市場の調査を依頼し、山本が当時経済破綻状況にあった商務印書館の夏瑞芳との間を取り持った事情、これら日中合弁事業の過程と商務印書館の火災事件や教科書疑獄事件等々、これらの複雑な関係を明快に整理でき得たことが本章の重要な価値である。その他、合併後の商務印書館の状況、長尾雨山の上海体験と帰国の事情など話題はさらに広がっていくが、そのなかで中国図書公司との軋轢、中華書局との教科書戦争、中国の教育課程などといった項目も興味深く感じられた。それは清末民初の文化において、文学がメディアや教育と分かち難く結びついていた状況を浮き彫りにしているからである。
 さて、最終の第4章は、これまでの実証的な態度から一変し、五四以後民族主義の勃興のなかで、外国企業との合弁事業が外国侵略の許容だと見なされることを恐れて、当事者たちが事実をそらせたり歪めたりする心理状況を歴史的にたどりながら、「商務印書館が示したこの内外ふたつの反応は、すべて金港堂との合弁によってもたらされた癒されることのない心の傷が原因なのである。」と結論づけている。
 この章でちょっと気になることは、樽本さんの実証的研究の背景にある、ある種のペシミスティックな態度である。これはあとがきで「だが、私は、ひとつの仕事をやり終えたという満足感、達成感を味わうことができない。この爽快感のなさ、後味の悪さはどこからくるものなのかと考える」と述べたこととも関係するだろうが、ここではフロンティアとしての樽本さんがかつて味わった、苦い体験の数々を想起すべきなのだろうか。ともあれ、本書は中国現代文学の源流となった商務印書館の創生期を、バラバラの瓦や礎石を集めて、考古学的方法で再構成する事に成功した。その成果は、樽本さんの嘆息とは別に、今後中国現代文学研究における必須の基礎資料として活用されるに違いない。
【初出】『中国文芸研究会会報』第228号2000.10.29