『繍像小説』編者問題の結末


樽本照雄



 商務印書館が発行する小説専門雑誌『繍像小説』の主編は、李伯元であるか否か。1984年以来続いている学術論争である*1。
 実をいえば、『繍像小説』の主編は李伯元であるという資料が、論争開始後の1985年にすでに発見されている。決着は、ほとんどついているといってもいい。「ほとんど」というのは、この問題について、資料の信憑性を、大多数の研究者が認めているにもかかわらず、ごく少数の人が認めないからだ。納得しない人がいるから、ゆえに「ほとんど」と表現した。異常な事では、ない。ひとつの問題について、意見が別れるのは、普通に見られる。研究は、多数決ではない。だから、いくら大勢の人たちが意見をひとつにしていても、それが間違っていることは珍しくない。通説を疑え、という。納得できない人がいれば、徹底的に疑問を追求する以外に方法はない。動かすことのできない決定的な資料を発掘するまでは、事実の可能性はいくつも存在する。

1 論争の経過
 論争の経過を、簡単に説明しておく。
 『繍像小説』の主編は、李伯元である。これが、従来、一般に認められた説であった。いわば研究者の常識になっていた。1980年代まで、疑問を提出した研究者は、いない。
 たしかに、『繍像小説』そのものに、主編者の名前は記載されていない。主編は李伯元であるとも、ないとも書かれていないのだ。
 李伯元自身が、『繍像小説』の主編をつとめていたと書き残していない。
 呉〓人は、李伯元を追悼して小伝を書いている。その彼が李伯元を紹介して『繍像小説』に言及しないのは、確かに不思議ということができる。つまり、李伯元が『繍像小説』を主編していた、と証言する知人もいない。
 この事実に注目し、通説に対して異議をとなえたのは、汪家熔である。彼は、商務印書館に勤務していた。商務印書館が所蔵する内部資料を利用できるという点においては、ほかの研究者の誰よりも有利な立場にあるということができる。いわば商務印書館内部から、商務印書館が発行していた『繍像小説』の主編は李伯元ではない、と異説が提起されたのである。従来の定説を真っ向から否定する。研究者から注目されたのは、当然だ。
 汪家熔は、通説を否定するにあたり、新しい資料を探し出したわけではない。状況証拠によっている。李伯元の友人・呉〓人たちが、李伯元と『繍像小説』の関係について言及していないとか、商務印書館の首脳であった張元済らが、「評判の悪い」李伯元をわざわざ招いて『繍像小説』の主編にするはずがない、というだけなのだ。当時、決定的な資料がなかったのだから、状況証拠しかありえない。李伯元編者説を否定し、そのかわりに夏穂卿(曾佑)を持ちだした。
 くりかえすが、汪家熔は、『繍像小説』の主編が李伯元ではない資料を具体的に提出することができなかった。商務印書館には、『繍像小説』の主編が誰であったのかを記録した資料が、保存されていないことがこれでわかる。もし有力な資料が商務印書館に所蔵されていれば、汪家熔が提示しないはずがない。
 汪家熔説に反論したのは、樽本照雄だ。樽本は、『繍像小説』を舞台にしてくりひろげられた奇妙な事実――「老残遊記」の突然の連載中止、「文明小史」と「老残遊記」の盗用問題などから、李伯元が該誌の主編でなければ起こりえない事柄であることを説明した。いわば二次資料を使用して反論したのだ。一次資料がないのだから、状況証拠にならざるをえないのは、汪家熔と同様だ。
 だが、樽本がいくら説明しても、汪家熔は納得しない。汪家熔は、論争の過程で、「老残遊記」のほうが「文明小史」を盗用したのだ、と事実とはかけはなれたまったく反対の異説を提出するなどして、混乱ぶりを露呈した。しかし、混乱しているとは本人は認識していない。
 編者問題は、それのみにとどまらなかった。盗用問題に並行して、『繍像小説』発行遅延問題が浮上してくる。その結果、従来、李伯元の作品であると考えられてきた「文明小史」は、その終末部分が李伯元の作品ではないという別の問題も発生している。別問題だから、今、これには触れない。
 一度は持ち出した夏曾佑だが、証拠がないと反論されると、汪家熔は、再び夏曾佑の名前を筆にすることはなかった。
 論争は、最初、『光明日報』の「文学遺産」欄で展開された。全国紙だから、研究者の注目を集めたのは自然の流れだ。しかし、『光明日報』では、編集者によって論争中断声明が出される。一方で『繍像小説』の主編は李伯元だとする資料が、発見される。だが、汪家熔は納得せず、論争は、継続された。樽本照雄と汪家熔が、日本の研究誌『中国文芸研究会会報』において討論を行なったのがそれだ。また、雑誌『出版史料』第5輯(1986.6)でも特集が組まれた。
 新しく発見された資料が出された、また、樽本の反論に答えなくなったから、汪家熔は、自らの誤りを認めて引き下がったように見えた。しかし、事実は、そうではなかった。彼が沈黙したのは、資料を自分の目で確認するのに時間が必要だったからだ。
 汪家熔が資料を確認して下した結論は、その資料そのものが信用できない、と否定することだった。否定することによって、自らの立論が強固なものだと印象づけようとした。

2 発見された資料(1985)
 新発見の資料とは、1905年の上海郵政司の記録である。方山「李伯元確曾編輯《繍像小説》」(「文学遺産」第692期1985.10.22)から主要部分をそのまま示す。

1905年4月上海郵政司関於上海各報刊的調査摘要
繍像小説
報紙名目  繍像小説
号数  二十号
司事人姓名  李伯元
出印地方  上海北河南路
毎次出印張数 毎次発行三千本
掛号日期  二月初十日

 ここには、あきらかに李伯元の名前がある。しかし、汪家熔は、新聞紙上に示された文面を信用することができなかった。実物を確認するために南京の第二歴史档案館まで足を運んだ。疑問を感じれば、自分の目で確認する。他人の言説を鵜呑みにしない。これこそが、研究者のあるべき姿だ。だからこそ通説に対して疑義を提出することができたのだ。汪家熔の取った行動は、まったく正しいものだった。
 彼は、『繍像小説』とあわせて『外交報』と『東方雑誌』についても関係書類を調査した。その結果を「《繍像小説》編者等問題仍須探索」*2にまとめ、以下のような疑問を提出する。

1.申請単位あるいは法人代表の印章がない。ゆえに権威に欠ける。
2.登録(掛号)は、編訳所事務部が一括処理をするもので、3回(『外交報』は二月初八日、『東方雑誌』は二月十七日)にわけて行なう必要はない。
3.「出印地方」は発行機構の住所を示す。商務印書館では「棋盤街中市」という俗称を使用しており、河南路とは言わない。
4.李伯元という字は、自称ではない。この種の登記には本名を使わなければならない。『東方雑誌』の主編には「陶翰卿」とあるが、そういう人物は存在しない。「高翰卿」の誤りであるし、商務内部の人間はそのような間違いを犯さない。
5.方山は、『游戯報』と『世界繁華報館』の登記表にも李伯元の名前があるという。しかし、李伯元が両紙を同時に編集していた事実はない。

 汪家熔が、こまごまと反論を加えて結局のところなにを強調したいのかといえば、上の資料は、李伯元本人あるいは商務印書館の関係者が、直接、書き込んだものではないということだ。つまり、「郵便局の調査員が記入したもの」にすぎない。ゆえに、権威が揺らぐという。聞き書きで登記表を作成した。だから、商務の人間が3回にわけて登記する、自分の会社の住所がどこか知らない、李伯元(宝嘉)がすでに編集していない新聞の登記をする、などなどの怪奇現象が発生しているという。
 汪家熔が慎重に文章を綴っていることが、わかる。この登記表が、李伯元あるいは商務印書館の人間によって書かれたものではないことを問題にしている。だから、権威が揺らぐ(這5頁登記表的権威性就動揺了)とだけ述べる。資料そのものがニセモノだとは言っていない。ここがミソなのだ。
 資料は、非公開とはいえ資料として存在している。李伯元あるいは商務印書館の人間が書いたのではない、というのはそうだろう。だから、汪家熔の指摘するような間違いが生じたのも理解できる。
 だが、「高翰卿」を「陶翰卿」と聞き違えることはあっても、まったく関係のない人物の名前を勝手に記入することがあるだろうか。また、そのようなことができるだろうか。聞き書きを記入したとして、当時、『繍像小説』の主編という事実があったからこそ、李伯元の名前を記入したのではないのか、と容易に推測できる。
 よく考えてほしい。研究者の努力によって、現在でこそ李伯元という名前は知れ渡っている。だが、李伯元の創作作品は、李伯元あるいは李宝嘉の名前で発表されたわけではない。当時、南亭、南亭亭長などの筆名を使用していたのが事実だ。李伯元の名前など、どこを見ても出てきはしないのだ。同時代の人々が、南亭および南亭亭長が李伯元であることを知るようになるのは、彼の死後――1906年以後だ。周知のことになったのは、ようやく1907年のころである。
 ゆえに、1905年当時、『繍像小説』と李伯元の関係を、「郵便局の調査員」を含んで、当時の一般の人々が知っているはずがない。1905年の登記表に、誰も知らないはずの李伯元の名前が、なぜ記入されているのか。こちらの方が、よほど不思議だろう。不思議というよりも、これこそが重要なのだ。『繍像小説』の主編は李伯元だということを知っている人物から、そう聞かされた。それをそのまま記録したと思われる。だからこそ、資料としての信頼性は高いといわねばならない。
 根拠のある登記表である、というのが私の判断である。
 反論にもならない汪家熔の文章だと私は考えるが、『出版史料』誌の編集者はそう判断しなかった。発表する価値があると思ったから掲載したのだろう。また、汪家熔は、自分の立論に自信があった。だから、自著『商務印書館史及其他――汪家熔出版史研究文集』(北京・中国書籍出版社1998.10)に全文を収録して自分の考えが変わっていないことを強調している。
 方山が発見した資料も、汪家熔を納得させることができない。資料としての信頼性が低い、と否定される。
 新しい資料でもだめなのだ。また、自らが状況証拠によっていながら、他人がいくら反論しても状況証拠であるかぎり、汪家熔はそれを認めようとしない。矛盾といわねばならない。
 『繍像小説』を編集したことがある、と李伯元自身が書いている文書がないから、問題が発生している。
 問題を根本的に解決する方法は、ひとつしか残されていない。すなわち、商務印書館が、李伯元を『繍像小説』の主編として招聘した、と書いた資料を探しだすことだ。だが、商務印書館に勤務していた汪家熔は、それを見つけだすことができなかった。だからこそ、通説を否定したのだが。
 こうなれば、もう私の出番はないといってよい。資料についていえば、日本において調査することは、根本的に無理だからだ。日本に清末関係の資料は、所蔵されていない。資料の発掘は、基本的に中国で行なわれるべきものだろう。中国の研究者が、幅広く、かつ詳細な調査を実施して新しい資料を発見するのを、私は、遠い日本から見守るほかなかった。
 待つこと11年、論争がはじまって17年にして、ようやく別の資料が発表された。

3 発見された決定的資料(2001)
 武禧が「一九〇七年小説略説(中)」(『清末小説から』第61号2001.4.1)のなかで、さりげなく提出している。
 1907年10月9日および12日付『時報』は、以下のような商務印書館の広告を掲載した。

「商務印書館/南亭亭長/繍像小説」(『時報』丁未九月初三日1907.10.9)
  本館前刊繍像小説特延南亭亭長李君伯元総司編著。遠〓泰東之良規,近〓海東之余韻,或手著、或譯本、隨時甄録,月出兩期。出版以來,頗蒙歡迎,銷流至廣。現已出至七十二期。因存書無多,特行減價零售。毎册二角。全部七十二册精裝六函,實洋七元二角。(上海図書館所蔵のマイクロフィルムで確認した。表題は私が補った。原文は句読点なし。武禧がほどこした句読点を生かし、『清末小説から』掲載の誤字を正した)

 上の広告は、『時報』にのみ掲載されたのだろうか。同時に別の新聞へ同じ広告を出したのではないか、と考えるのが普通の感覚であろう。
 10月9日付『中外日報』には、『時報』と同文の広告があることを指摘しておきたい。『申報』と『同文滬報』には、掲載がなかった。
 「本館(注:商務印書館)は、以前『繍像小説』を刊行するため、特に南亭亭長李君伯元を招聘し編著を主宰してもらいました」と見える。
 この広告には、重要な意味がふたつ含

『時報』1907.10.12

まれている。
 ひとつは、いうまでもなく、『繍像小説』の編集が李伯元によって行なわれていたことを述べている。商務印書館が出した広告である。商務印書館自身が、李伯元が『繍像小説』の主編であったことを認めている第一級資料にほかならない。
 もうひとつは、南亭亭長が李伯元であることを明記していることだ。重ねて言うが、いまでこそこの事実は周知のことである。しかし、1906年末、呉〓人が「李伯元小伝」で明らかにするまで南亭亭長とだけあって、それが李伯元の筆名であることなど、どこにも書かれていなかった。
 武禧は、この広告について何の解説もしていない。しかし、これこそが李伯元の『繍像小説』主編説を証明する重要資料だと理解している。だから、わざわざ広告の全文を引用したのだ。武禧の慧眼は、賞賛されるべきである。
 上海郵政司の記録は、いわば内部資料であった。しかし、『時報』および『中外日報』の文章は、商務印書館が社会にむけて発信した文字通りの広告なのだ。『繍像小説』の主編が李伯元であったことを証明する決定的な資料であるということができる。
 1907年の段階で、『繍像小説』の主編者が南亭亭長李伯元であることが商務印書館自身によって公にされている。複数の新聞に掲げられたものだから、それ以後は、周知の事実として認識されたはずだ。いくら呉〓人をはじめとする李伯元の友人が、李伯元と『繍像小説』の関係について言及していない、といっても事実は事実である。周知のことだから、友人たちはあえて述べなかったという見方も成り立つ。ゆえに、『繍像小説』の主編が李伯元であったことについては、わざわざ証拠を提出する必要もない事柄のひとつに属していたと考えられる。
 最後に言っておきたいのは、だからといって汪家熔が提起した問題が、まったくのムダであったなどというつもりは、私には、まったくない。通説に疑問を感じることは、なによりも重要なことだと私自身が考えているからだ。資料に拠って立論する汪家熔の研究姿勢は、私自身がそうありたいと考えている類いのものであることはいくら強調してもしすぎることはない。『繍像小説』の編者問題についてはたまたま、結果として、正しくなかった。それだけのことで、問題提起があったからこそ、周辺の資料発掘が進んだ。しかも、清末の小説専門雑誌について問題が存在していることを世界の研究者に知らしめたことは、まさに汪家熔の功績にほかならない。



【注】
1)論争の詳細は、以下の文章を参照されたい。
樽本「『繍像小説』編者疑案」台北『中央日報』1991.8.20
樽本「南亭亭長の正体――『繍像小説』編者論争から始まる――」『清末小説探索』法律文化社1998.9.20所収
 なお、最近の文章で詳しくこの学術論争について触れているものに郭浩帆「中国近代四大小説雑誌研究」(2000.4.28山東大学博士学位論文)がある。
2)『出版史料』1990年第4期(総22期)1990.12。また、汪家熔『商務印書館史及其他――汪家熔出版史研究文集』(北京・中国書籍出版社1998.10)所収。

【附記】
劉徳隆氏より資料をいただいた。お礼を申し上げる。