呉〓人『情変』の原作について


松 田 郁 子



1.原作の存在
 「情変」は、呉〓人(1866-1910)の絶筆となった小説である。『與論時事報』宣統二年五月十六日から同年九月まで(1910.6.22- )連載され、作者呉〓人の病没により八回で中断した*1。武術家の娘阿男と地主の息子白鳳が恋愛関係に陥り、毎夜しのび会ううちに親に知られて引き離される。阿男は白蓮教の法術を使って白鳳を誘拐ししばらく同棲するが連れ戻され、二人はそれぞれほかの相手と結婚する、というところで中断しているが、構成、心理描写に優れ未完となったのが惜しまれる。しかし、楔子に全十回の回目が予告されているので、残り九、十回もだいたいの粗筋は推測できる。現に麦生登美江は「呉〓人の『近十年之怪現状』と『情変』について」*2で九、十回の回目“感義侠交情訂昆弟 逞淫威変故起夫妻”“祭法場白鳳殉情 撫遺孤何彩鸞守節”から「阿男が小棠の下をとび出して白鳳と結ばれるが、捕えられて阿男は死刑になり、白鳳も阿男の後を追い、残された彩鸞は子どもを養育しながら孤閨を守る」というストーリー展開を推察している。作者の死後に出た単行本も八回だけであったようで*3、未登載分を含めた全十回の単行本も存在は確認されていない。おそらく原稿の執筆は生前に完結していなかったと考えてよいだろう。それにも関わらず最終回までの詳しいプロットが冒頭で予告されていたという事実は、呉〓人のほかの作品にも顕著に現れる彼の優れた構成力を示すものである、と、これまで解釈してきた。
 「情変」は、呉〓人のいわゆる‘写情小説’の最終作に位置する作品となるが、それ以前に執筆した二作『恨海』(1906)*4、「劫余灰」(1907-1908)*5と比べ、人物形象に異色性の指摘できる作品である。「情変」の女主人公阿男に描かれた恋の激情、奔放、行動力は、前二作の女主人公たちの温容な淑女という基本的性格とは隔絶した女性像である。恋愛小説としての魅力では、前二作は「情変」に比肩すべくもないといえる。しかし恋する男性を拉致、駆落ち、同棲も辞さない阿男の人物像は、‘仁’‘義’‘孝’‘貞節’を守る人物を好んで描いた呉〓人の作中人物としては、違和感を否めない。常軌を逸した阿男の行動を描きながら作中に批判的論評を挟む作者の真意も測りがたい。これらの点から作者の創作意図については慎重に解読する必要があろう、と考えてきた。
 ところが、たまたま「情変」に原作のあることがわかった。宣鼎の短編集『夜雨秋燈続録』(1880)に収録された「秦二官」*6である。「少女軽業師の恋」と題した井波律子の訳*7がある。筆者は古い雑誌を捲っていて井波訳を読むことができた。115篇の中からこの一篇が訳出されていたことは感謝にたえない。何しろ、知らなければ「情変」についてとんでもない見当違いの解釈をしているおそれがあった。原作があるとなれば、先述した構成、人物像における疑問は直ちに解消する。呉〓人の「情変」は人物、内容、構成すべてにおいて宣鼎「秦二官」を母体としているからである。「秦二官」は短編で「情変」はおそらくその十数倍になる長編である。当然「情変」は登場人物の数も膨らみ、環境や生い立ち、交流の過程も丹念に描かれ、心理描写も入念である。しかし、構成と基本的筋の展開は原作の原型を完璧に留めている。「秦二官」の結末部分と、「情変」未完の九、十回についてかつて麦生登美江の推量した粗筋がほぼ一致するほどなのである。現代の感覚からいえば盗作としかいいようがないだろう。清末であっても作者が同時代人であればおそらく盗作されたと怒るのではないだろうか。
 黄山書社版『夜雨秋燈録』*8に冠された項純文<前言>によると、作者宣鼎(1835-1880?)は字痩梅、安徽省天長県の人。幼時より博識で書画に巧みだったが、家運の衰え、病気や戦乱で辛酸をなめた。書画を売ったり地方官の幕僚を転々として生計を立て四十歳から創作を開始した。「日頃見たもの、聞いたこと、心に残り信じることができたものに取材し」二年間で115篇の文言小説を書き、光緒3年(1877)上海申報館より『夜雨秋燈録』初編を出版した。光緒6年(1880)『夜雨秋燈続録』115篇が彼の死後に出版された。伝奇、志怪小説計230篇が収録されている。宣鼎は1866年生の呉〓人より30歳年長、晩年が呉〓人の幼少年期に当たる。同時代人であるかどうか微妙なところである。両集の出版は呉〓人の「情変」執筆より30年遡るが、清末社会に広く流布し人気を博していたようである。特に総督夫妻の婚姻譚と蛇酒の由来を記した「麻瘋女邱麗玉」(『夜雨秋燈録』巻三)は戯曲や映画に改変され人口に膾炙したという。「秦二官」も、改変の際に改めて断わるまでもないよく知られた作品であったのかも知れない。

2.盗作意識の有無
 呉〓人に盗作を隠したりごまかしたりする様子は全く認められない。そもそも、登場人物の名前からして同じなのである。「秦二官」の女主人公は冦阿良、母親は冦四娘、阿良の恋人の名は秦生、通称は二官。白い袷を好んで着たので秦白鳳とも呼ばれる。「情変」の女主人公は冦阿男、母親の名は冦阿娘である。阿男の恋人の幼名は秦二官、学名は秦白鳳である。ここまで原作のままであると、作者に盗作という意識はなかったのかもしれないとも思えてくる。呉〓人は、『西廂記』『牡丹亭』を白話小説に改めた『白話西廂記』『白話牡丹亭』を書いたとされている*9。その二作が呉〓人の作であるとすれば、「秦二官」についても同様に白話小説化の意識があったのかもしれない。また彼は『石頭記』なら、人物、内容、構成とも何をどんな形で借用しても盗作と非難されることはない。彼が「秦二官」をそれら名高い古典と同等に扱った、という解釈は可能だろうか。しかし、『白話西廂記』は小説化の意図を説明した楔子部分を加えた以外は原作に忠実である。『白話牡丹亭』にも内容を変えた様子はない。『新石頭記』は『石頭記』の登場人物が未来社会を見聞するという設定の下に三名の人物を借りただけで、原作の内容とは関係がない。「秦二官」から「情変」への改作はそれらと異なり、単に白話小説化しただけにとどまらず、作品を通じて自身の愛情論を開陳するという意図の下に原型の骨格に肉付けし十数倍にも引き伸ばすという形を取っている。改作慣れした呉〓人は、文言伝奇小説を白話小説として加筆改作しようというだけの意識でしかなかったのかもしれない。或いは、「秦二官」が読者に周知の作品であったとしてその呉〓人流解釈に妙味があったのかも知れない。しかし、例えそうであっても原作名掲げるべきだったろう。いずれにしても、母体があるからには「情変」を呉〓人の創作とすることはできない。また、原作を明示していない以上、盗作の謗りは免れないだろう。
 しかしながら、呉〓人が加筆した部分には彼の女性への認識や恋愛観が強く投影されることになった。伝奇、志怪の視点で創作する宣鼎は、女主人公の激情と鬼気迫る展開を異常な情欲のもたらした怪異として描いている。それに対し、呉〓人は原作の粗筋を踏襲しながらも、親兄弟、友人をはじめ恋人同士の周辺人物や生活環境、社会背景を設定して恋の成就と破綻を自然な成り行きとして描き、女主人公の率直で一途な性格、落胆と絶望、追いつめられた心理情況を綿密に描いて、起こり得るが自制すべき男女関係、恋のあり方という視点の下に作品化した。作品の形式、内容は同じでも、作者の女性や恋についての捉え方そのものが根本的に違っているという興味深い書き換えとなっているのである。女学や天足を支持すると同時に‘旧道徳の回復’を提唱し、独自の視点で時代と関わっていた呉〓人が、奔放な恋を描いた「秦二官」を素材としたことは興味深い。「情変」は、創作でないことにより呉〓人について考える上での重要性をかえって増したともいえよう。


【註】
1)海風主編『呉〓人全集』(1998.2北方文藝出版社)第五巻を使用
2)『清末小説研究』5号(1981.12.1清末小説研究会)
3)樽本照雄『清末民初小説年表』によれば、1910年『情変(奇情小説)』8回が時事報館から出版されているが未見。
4)『恨海』(10回)。光緒32年(1906)9月、上海広智書局より単行本で出版。
5)「劫余灰」(16回)。光緒33年(1907)10月から同34年(1908)12月まで雑誌『月月小説』に断続的に連載。宣統元年(1909)、上海広智書局より単行本で出版。
6)宣鼎「秦二官」『夜雨秋燈続録』光緒6年(1880)巻3収録
7)井波律子「少女軽業師の恋」(『ミステリマガジン』1993年8月第38巻8号所載)
8)宣鼎(1835-1888?)『夜雨秋燈録』は光緒3年(1877)、『夜雨秋燈続録』は光緒6年(1880)に上海申報館より出版。原刊本は未見。本稿は原刊本に依拠した項純文校点『夜雨秋燈録』上下(1995.9黄山書社)を使用。
9)魏紹昌は「従《白話西廂記》的質疑説到《白話牡丹亭》的発現」(『清末小説』12号1989.12.1所載)でこの二作を呉〓人の著作としている。