包天笑「三千里尋親記」について


神田一三



 郭延礼『中国近代翻訳文学概論』(漢口・湖北教育出版社1998.3)は、詳細な翻訳文学研究書であることはいうまでもない。細かいところまで追究しており、驚異的な書物である。索引が便利だし、本書をてがかりにして、翻訳文学の研究をはじめることができる。まことに重要な研究成果だということができよう。
 ただし、これだけ大部の書物だから、追究しきれていない部分があるのは、しかたがない。
 たとえば、「三千里尋親記」である。
 包天笑自身が、「三千里尋親記」は日本語から翻訳したものだと証言している。

 当時、日本の外国語の翻訳書籍は、ほとんどが漢文を主としており、それを中国語に重訳するのは比較的容易であるのが私にはわかっていた。そこで古い小説を探してもらったのだが、ふたつの条件があった。ひとつは、欧米作品を翻訳したものであること、もうひとつは、漢文が多くてひらがなの少ないものであることだ。私が翻訳した2種類の日本語小説は、このふたつの条件に合致している。「三千里尋親記」は、児童を教育する倫理小説で、全部で1万字くらいにすぎない。イタリア語から翻訳され、原文には挿絵があって児童の興味を引いた。ひとりの児童が、危険をおかして彼の母親を探して3千里を行くというもの。……/このふたつの小説は、のちに上海の文明書局に売り渡し、彼らによって出版された。*1

 包天笑自身の証言である。注目しないわけにはいかない。ここには、「三千里尋親記」という作品名が具体的に示されている。
 この題名を見れば、日本では、ただちに「母をたずねて三千里」という題名が口にのぼる。アニメーションになってテレビ放映されもした。それくらい有名な作品だ。
 郭延礼は、この「三千里尋親記」に注釈をつけて以下のように述べている。

 「三千里尋親記」は、包天笑が自分で言うところによると、本は上海の文明書局から出版された(『釧影楼回憶録』香港大華出版社1971年版。173頁)。しかし、原著を捜し当てることができないため評論のしようがない。阿英『晩清戯曲小説目』および樽本照雄など編『清末民初小説目録』のいずれも収録していない。*2

 「原著を捜し当てることができない」のは、阿英と樽本照雄の小説目録に収録されていないからだ、と読めないこともない。責任を目録に押しつけてしまっているようなのだ。うーん、精緻な研究を行なっている郭延礼らしくない記述のように思われる。
 「三千里尋親記」は、エドモンド・デ・アミーチス Edmondo De Amicis の作品『クオーレ Cuore』のなかの一部分であることは、いわば常識である。『クオーレ』は、日本では、『愛の学校』の書名でも知られる。
 さらに、『クオーレ』は、包天笑自身が証言しているように、『馨児就学記』という題名で大胆に翻案している。これについては、郭延礼も説明している。
 『馨児就学記』を見れば、あるはずの「三千里尋親記」部分が省略されていることがわかる。大胆な翻案だから、省略されていても不思議ではない。そのかわりに「児童修身之感情」という題名が記述される*3。その内容は、イタリアの子供が3千里の遠くに親をさがす、というのだ。包天笑が書いている「三千里尋親記」にほかならない。
 包天笑は、日本語に翻訳された『クオーレ』*4から「母をたずねて三千里」部分を抜き出して漢訳した。その題名は「児童修身之感情」である。文明書局に売却して、それが同題の単行本になった。
 包天笑の回想と『馨児就学記』をつきあわせて見れば、以上のようにその翻訳と出版の経緯を容易に理解することができる。
 包天笑は、回憶録を執筆した時、「児童修身之感情」という書名を忘れてしまい、その内容から連想したであろう「三千里尋親記」の方を記載したらしい。だから「三千里尋親記」という題名は、もともと存在しないのだ。
 阿英であろうが『清末民初小説目録』であろうが、存在しない「三千里尋親記」を収録しているはずがない。だから、探しても見つかるわけがない。
 『児童修身之感情』ならば、天笑訳として文明書局(光緒31(1905))発行のものが、阿英書目(128頁)にも、また『清末民初小説目録』旧版(144頁)にも収録されている。後者には、「DE AMICIS“CUORE”1886から“FROM THE APENNINES TO THE ANDES”」と注釈までがついているのだ。
 郭延礼は、「原著を捜し当てることができない」と書きながらも、『中国近代翻訳文学概論』の427頁と500頁において『馨児就学記』とあわせて原著である『児童修身之感情』を列挙している。書名を挙げているだけで、書物そのものを手にしていなければ、それは確かに「原著を捜し当てることができない」ことにはなろう。だが、事実はそれほど複雑ではなく、単に『馨児就学記』と『児童修身之感情』の関係、あるいは包天笑の「三千里尋親記」についての思い違いに、郭延礼は気づかなかっただけのようだ。
 ほんの小さな誤りである。しかし、清末の翻訳研究をいくらかでも前進させるためにも、郭延礼の間違いを訂正することは意味のあることだと考えている。

【注】
1)包天笑『釧影楼回憶録』香港・大華出版社1971.6。173頁
2)郭延礼『中国近代翻訳文学概論』426頁注3
3)天笑生「(教育小説)馨児就学記」『(商務)教育雑誌』1年1-13期 宣統1.1.25-12.25(1909.2.15-1910.2.4)未見。今、台湾・商務印書館1976.12本による。346頁
4)発行年からみて、包天笑がよった日本語訳は、杉谷代水『学童日誌』(1902.12)かと推測する。ただし、未確認。