贋作ホームズ失敗物語2
――煮夢生『滑稽偵探』の場合

樽 本 照 雄


 中国にも贋作ホームズ物語がある。欧米で創作された贋作ホームズ物語を漢訳したものを指しているのではない。中国人作家が、ホームズを主人公にした小説を創作して公表しているものをいう。
 中国で、その種の贋作ホームズ物語がどれくらい書かれたのか、見当がつかない。コナン・ドイル作品の漢訳目録も公表されていない現在である*1から、その感を深くする。ドイル作品の漢訳研究そのものが十分進んでいない現状では、贋作研究にまでは、まだ手がまわらないのもしかたがないだろう*2。
 お寒い研究情況ながら、作品名を見て、いくつか気づくことがある。
 たとえば、題名あるいは角書にシャーロック・ホームズの名前を折り込んでいるものの、いかもにあやしい作品がある。贋作を前面に押し出したように見える。

冷血(陳景韓)戯作「(短篇小説)歇洛克来遊上海第一案」『時報』1904.12.18
(包)天笑「(短篇)歇洛克初到上海第二案」『時報』1905.2.13
冷(陳景韓)「(短篇)〓〓案(歇洛克来華第三案)」『時報』1906.12.30
(包天)笑「(短篇)蔵鎗案(歇洛克来華第四案)」『時報』1907.1.25
半儂(劉半農)「(滑稽小説)福爾摩斯大失敗」第一−五案『中華小説界』2年2期-3巻5期 1915.2.1-1916.5.1

 ホームズが上海にやってきて大失敗をしてしまう。なんとも人を喰った創作作品だ。ホームズ愛好家なら、怒ってしまうほどになさけないホームズにおとしめられている。しかも、清朝末期から民国初期にかけて、連続して複数の作家によって書きつがれているところがおもしろい。ホームズ物語ならではの、あるいは中国だからこその、他国に類を見ない珍現象だということができるかもしれない。逆にいえば、それほど、中国ではホームズ物語は人気を博したという証拠だ。
 題名に手掛かりが残されていれば、ことは簡単だ。しかし、作品名を見ただけでは、わからない贋作もある。
 ここで紹介するのは、そういう種類のうちのひとつだ。

煮夢生『(滑稽小説 絵図)滑稽偵探』上海・改良小説社 宣統三(1911)年正月

 手元にある本書を見れば、活版印刷、線装本、紙質は新聞紙に近く、保存はよくない。柱の下に「説部叢書/改良小説社印行」とある。小引1、目次1、絵図5、本文全10章25丁。
 書名だけは、阿英「晩清小説目」96頁に収録されている。しかし、該書について解説した文章を見ない。現在では入手しにくくなっているのかもしれない。
 煮夢生は、李小白のことだろう。
 陳玉堂の『中国近現代人物名号大辞典』(杭州・浙江古籍出版社1993.5。295頁)には、「3186【李才】(?-1929前若干年)広東梅県人。字小白,号煮夢。南社社友。著見1914年《南社叢刻》」とある。
 ほかの著作には、煮夢訳『白頭鴛鴦』(上海・改良小説社 光緒34(1908))、煮夢生『豈有此理』2冊(上海・改良小説社 宣統2(1910))、煮夢『新西遊記』30回、6冊(上海・改良小説社 宣統2.2(1910)-11月 説部叢書)、(李)小白『(言情小説)鴛鴦碑』10章(上海・小説林社1908.2 小説林小本小説3=1)などがある。
 また、蕭相トは、傀儡山人『官場笑話(原名傀儡魂 滑稽小説)』1-2冊(上海・改良小説社1909三版 説部叢書)、天酔訳『傀儡偵探』(改良小説社 宣統1(1909))も、李煮夢小白の作品だとしている。
 著者・煮夢生による短い「小引」がある。全文を紹介しておく。

小引
吾観学界之現状、而憤而哭。吾観軍界之現状、而憤而哭。吾観警界之現状、而憤而哭。吾観社会種種之現状、而憤而哭。然吾憤而人不知也。吾哭而人不聞也。則亦何益之有哉。吾乃息吾憤、止吾哭、吮筆濡墨而作滑稽偵探。

 本書執筆の動機が、書かれていることがわかる。作者は、教育界、軍隊、警察などなど社会の現状に対して怒りを感じ、そして泣くのだ。それを小説にした。

(1)開幕
 シャーロック・ホームズ(歇洛克福而摩斯)は、上海にいる。なぜいるのかの説明は、ない。彼は、上海での失敗つづきで鬱鬱としていた。ある夕方、たずねてきたワトスン(華生)にむかって、英国ロンドンではあれほど有名であったこと、それが上海で失敗をかさねて、などと愚痴るのだった。グチるホームズも、珍しい。本物のホームズとは、すでに異なることが、ここからも理解できる。
 「君、ほら見てくれよ、冷血と天笑の書いたホームズ探偵事件のホームズを。なんと無知であることか」
 このセリフこそ、冷血(陳景韓)と包天笑が『時報』紙上で交互に発表した連作をさしている。ホームズ得意の人物観察が当たらない、モルヒネを求めてうろうろする、アヘンを吸うガン首(鎗)を銃のガンと勘違いするなどなど、上海での行動がことごとく失敗に終わった。読者ならば、すでに承知のことだと話が進められる。
 「君、やめとけよ。中華文明は天下第一だよ。しかも上海文明は中華第一なんだ。上海人の策略考えは欧州人の十倍は勝っているからね。君は、ささやかな英国の探偵家にすぎないから、上海人と戦うためには身のほど知らずであってはならないよ」とワトスンがいう。こういうセリフが、上海人を喜ばせるのか、それとも、作者自身がそう言われたいのか。そのどちらでもあるのだろう。
 名誉回復の機会がある。ワトスンの友人で滑稽生という西呉の人間と、ホームズ、ワトスンの三人は、汽車で西呉にむかった。蘇州あたりになるのかもしれない。
 まず、不可解なのが、なぜ、西呉なのか。上海でもいいではないか、と普通の読者は、考えるだろう。しかも、おかしなことに、ホームズにしか解決できない特別の事件があるわけでもない。
(2)女学生歟?妓女歟?
 西呉の寒翠之山荘において、滑稽生は、むこうにいる女性はどういう人物かとホームズに質問する。
 歳は十八九、金縁メガネをかけ、タバコを吸っている。少年とたわむれているようでもある。
 ホームズが、その女性を妓楼の女性だと判断した根拠は、名家の女性は、服装が整っている、ものごしが端正である、性情が高尚である。それらと反対のあの女性は、妓楼のものに違いない。滑稽生は、それを聞いて笑った。あの人は、女学生なんです。ワトスンがもらった名刺には、中央に「賈自由」とあり、右に「文明呉州人」左に「前某某女学校肄業生」と書かれているのだった。
 賈自由は、名前だが、漢語としての意味は、自由を商うとも読むことができる。同時に、「賈」は「仮」に通じるから、贋の自由をも意味する。
 例のホームズの人物観察術である。陳景韓も包天笑も、それ以後に贋作ホームズ物語を書いた劉半農にしても、よほどドイルの述べる人物観察術に感心したようだ。物語のはじまりに、まず、出てくる。それも、ドイルが物語の導入部分にさりげなく、自然なかたちですべりこませているのとは異なり、中国人作家たちは、強引に設定する。なにがなんでも観察推理して当ててみろ、ほーら間違った、と言いたいためなのだ。ホームズに失敗させるために、仕掛けるのだからたちが悪い。
 「女学生か、妓女か」という章題からもわかるように、当時、出現していた女学生が好奇の対象となる。女学生と妓女を並列しているように、作者の意識としては、身なり、立ち居振る舞い、いずれもが妓女とかわらぬものとして女学生が存在していた。あるいは、女学生をそのような存在にしておきたかったということだ。新しい教育を受けた女学生が、妓女と区別がつかない。著者の女学生批判の視点を見ることができよう。
 以後も、人の区別がつきにくいことが話題に取り上げられる。
(3)警察歟?竊賊歟?
 ホームズと滑稽生が、酔って宿へ帰る途中のことだ。ホームズは、ある家の壁に通風孔があることに気づいた。滑稽生は、中国の壁に通風孔など、もともとがないのだと答える。ところが、穴がある。滑稽生は、ホームズを指さして笑い物にする。「おお!大探偵!大探偵!天下にこんなにぼんやりした探偵がいるかよ!」泥棒の掘った穴なのだ。またまぬけな泥棒だな、警察の交番がすぐ近くにあるぞ、とホームズ。ところが、出てきた泥棒は、警察官の王老八であった。滑稽生は、いう。さあはやく帰ってことの顛末をワトスンに報告し、筆記にしてもらおう。
 泥棒と警官が同一であることをいいたいがために、ホームズと滑稽生は、捕まえもしない。とらえたところで、ムダだと考えたのか。警察と盗賊の区別がつかないということだ。1898年、湖南で黄遵憲が日本の警察制度にもとづいて設立した湖南保衛局がはじまりだ*3。「警察」という言葉そのものが新しい。
(4)学生歟?優伶歟?
 午後、三人は、お茶を飲みにでかけ、談笑していた。ふたりの若者が入ってくる。青服と、赤服で女性のなりをしており、指輪をし、纏足ではないが柄靴を履いている。まわりの客は注目する。そのうち、一人が歌いだすと、連れが拍子をとる。また、周囲が感嘆するほどにうまい。黒い着物を着た若者が、ふたりに話しかけている。そこで、ホームズの人物観察術である。黒服の若者は、汚れているところからアヘン中毒者か教師だ。ふたりの若者は、役者だ。これがホームズの見立てである。すると滑稽生がいう、違うよ。三人ともに、学生なのだ。役者と見間違うほどの学生ということだ。それにしても、著者は、学生を役者に見えるように作っているわけで、学生が嫌いなのかと思う。
(5)学生談上
 ワトスンは、(不思議なことに旅先に知ったところがあるのか)病院に行ってしまった。滑稽生がついていった。旅館に残されたホームズは、やることがない。そこに昨日の黒服と赤服の若者がやってきた。これまたホームズの観察術を試そうというのだ。ホームズは、いう。学生ではないかな(昨日、滑稽生に教えられている)。当たり。よくわかりましたね。ひどく眠そうだから、昨夜は勉強で寝ていない。手首に傷があるのは歴史書を読んで怒りで机をたたいた。クツ、ズボンには傷がついているのは、体操で走ったからだ。
 ところが、ホームズの推理は、全部ハズレである。なぜなら、赤服は、花小宝の家で麻雀をしていて寝ていない。花小宝と男がうるさく、怒って机をたたいたので手首にケガをした。朝、地理の試験があるのを思いだし急いだからクツが破けた。黒服の方はといえば、地理の試験があるが、覚えられないためカンニング用紙を作った。教員にみつかって20点減点といわれ首席になれないことを怒って机をたたき、手首を痛めた。試験が終わって逃げる途中で柱の釘にひっかかってズボンを破いたのだった。
(6)学生談下
 ホームズは、ふたりの学生に説明する。私の探偵術は、奇抜なものではなく、鋭い思考を頼りにしているだけだ。学生だと思うから、行動もそこから着想する。学生の範囲をこえていれば、予測ははずれる。
 学生が、つぎに試そうとしたのは、ふたりの衣服に関してだ。ひとりの衣服は、華麗だし、もうひとりはアカじみている。その理由は、なにか。
 ホームズが述べる個人の好み、家の経済状態は、理由ではないと否定される。その答えはなにかといえば、学生になっているのは、功名のためである。成績が優秀でなければならない。教員は、服装を見て判断する。アカじみていれば学業優秀だと考える。だから、わざとアカじみさせている。教員に迎合しているのだ。華麗な衣服の学生は、西呉の女性は学生を好むから、真珠をとる(女性をひきつけるという意味)ために、きれいな衣裳を着ている。教員に憎まれることなど関係ないね。
 西呉の学生は、この両派を出ない、と著者は書く。すなわち、教員に迎合する功名主義者と好色学生である。
 学生の範囲を外れるというのはどういう意味かと問えば、ホームズは、「品行」だと答える。ならば、赤服と黒服のどちらが品行が優れていると思うか。黒服だね。その理由は。「女郎買いをするかどうかだ(嫖不嫖)」とホームズは、断言する。ところが、赤服がいうには、ホームズが黒服は女郎買いをしないと考えているが、夜鷹の恋人がいるんです。ここでホームズは、またもや判断誤りをしてしまうのだ。
 品行の問題に関連して、学生の女郎買いまでもが出現する。西呉の現状が、ありありと写しだされているということができよう。
(7)馬夫歟?大少歟?
 三人は、西洋料理屋・普天香へ行った。隣室に十数人の芸者にかこまれた二十歳ばかりの若者がいる。滑稽生にいわれて、ホームズは、その若者が若旦那(大少爺)であると推測した。金持ちの若旦那でなければ、芸者をあげて宴会などできないだろう。これが理由である。ところが真相は、馬丁だった。ワトスンが口をはさむ。彼がまた失敗しただって。信じられんね。
(8)兵歟?盗歟?
 旅館にいるホームズを客がたずねてくる。「華生偵探案」を読んで、その神業を試したいという。またもや人物観察なのである。
 首と額の間に刀傷があるから、よく人と格闘する。身体に合っていないシャツは、奪ったもの。袖にアヘンのあとがついているから、10分前までアヘンを吸っていた。すべて正解との回答がある。では、職業はなにか。人のものを盗むことができるのは、大盗賊である。よく見ろよ、といわれて目をやれば、下に軍服を着ている。「華生偵探案」はウソだということが、今わかった。職業の推理は間違ったかもしれないが、あんたの状態については当たっていたじゃないか、とワトスンが抗議する。軍人が、答えて、格闘、盗み、アヘンは、軍人の三資格だから、三尺の子供でもわかるわい、と。
(9)妓女歟?女学生歟?
 (2)で妓女のような女学生が出てきたが、今度は、その反対である。
 桃花橋を渡る十五歳ばかりの美女がいる。右手に傘を、左手に本を持っている。迎えの人との会話から、学校からの帰り、英語を勉強していたので遅くなったらしい。美女のうしろにいたホームズは、女学生に違いないと滑稽生に話しかける。滑稽生は、答えない。予想が当たっているかどうか、あとをつけて行くことにした。入っていった城外の家には、「趙香玉書寓」と看板がかかっている。妓楼だったのだ。ホームズが不思議がるのにむかって、滑稽生は、「妓女で優秀なものが学ぶし、学んで優秀だから妓女なんだよ。普通のことだよ」と教える。
 ここでは、ホームズが中国の事情について何も知らないことをいう。だから、「あんたの見方は、殊に浅いんだよ(汝見殊浅哉)」とまで滑稽生に言われてしまうのだ。
(10)結子
 西呉で失敗を喫したホームズは、上海にもどっていった。三人は、することもなく、雑談でひまつぶしだ(なにもやることがないのならロンドンに帰ればいいようなものの、それもしない)。ホームズは、ワトスンにむかって、西呉のことを英語の探偵事件に書くんだろうな、滑稽生には、漢語の探偵事件にするんだろうな、と言う。
 英語の物語は題名を「華生偵探案」といい、漢語のは「滑稽偵探」という。漢語の「滑稽偵探」は、すなわち本書である。英語の方は、『華生包探案』と区別して「華生偵探案」と命名するところが、芸が細かいといえば、そうだ。『華生包探案』は、本物のホームズ物語だから、それを使うわけにはいかない。道理は、一応、わきまえている。
 結末は、ホームズが、両書をくりかえし読んだうえでのセリフになる。「ああ、失敗だ。上海で失敗、西呉でまた失敗。一度が二度、二度が三度。今後、私は中国の探偵にはようならんな」
 一冊まるまる、ホームズの失敗物語である。
 煮夢生が手本としたのは、『時報』連載の陳景韓と包天笑の贋作ホームズ物語だった。陳、包の連作は、最初こそ、人物観察を題材にしていた。しかし、連作の途中から、短篇であるにもかかわらず、モルヒネをめぐる話にしたり、アヘンのガン首をからめたりと物語らしくなるような工夫を加えている。
 これに対して、『滑稽偵探』は、同じくホームズを主人公にし、舞台を中国においてはいるが、人物観察術に終始する。事件が発生して、それを解決するという筋運びにはならない。人物観察術の短篇を寄せ集めた内容なのだ。ただし、これがつまらないというわけではない。妓女のような女学生、盗みをする警察、役者とみまがう男子学生、女郎買いの学生、若旦那のような馬丁、盗人にみえる軍人、女学生そのものの妓女などなど、現実社会の各場面を切り取ったスナップ写真ということも可能なのだ。部分を集合させることによって、西呉の現状を浮かび上がらせる手法だといえないこともない。西呉が、一般的な田舎だとすれば、それを中国全体に拡大解釈してもよい。
 著者は「小引」で社会の現状に対する怒りがあることを明らかにした。書かれた内容を見ていけば、その怒りとは、主として新しい事物についてのものであることが理解できる。だから、社会に出現した新しい事物に積極的な側面を認めようとはしない。負の部分のみを見て、怒りを感じている。その意味において、著者は保守的な考えをもっている、といわねばならない
 本書は、作品としては、それほど高い評価を与えることはできない。社会の現状とはいっても、表面的なスケッチに終わっている。贋作ホームズ物語としても、ホームズ自身の作りが小柄でありすぎる。読者の気を引くためには、ホームズという名前でなくてはならないのかもしれないが、べつにホームズである必要のない設定なのが、最大の弱点だ。笑い物にするためにだけ作りあげたから、重みがなくかえって作品自体を軽いものにした。軽くするために題名が『滑稽偵探』だというかもしれない。しかし、それにしても薄っぺらすぎる。
 小説手法として新しいと思うのは、ホームズという異物を投入するやりかただ。社会にたいする怒りをどのように発見するか、あるいはどのように表現するか、問題のひとつだ。第三者の視点で、直截に書いてしまえば、告発の書になってしまう。中国社会に、背負う文化の異なるホームズを導入することにより、視点を複数化することが可能になった。自分たちが普通だと思い、なにも違和感を持たない事物でも、ホームズがそこにいて発言すれば、常とは違う視点を得ることができる。
 異文化の視点といっておく。この視点を、著者が意識していたかどうかは、わからない。単に陳景韓と包天笑のやり方を模倣しただけかもしれない。だが、作品には、たしかにそれがある。

【注】
1)樽本照雄「中国におけるコナン・ドイル(1)――附:コナン・ドイル漢訳小説目録(初稿)」『清末小説』第24号2001.
12.1予定
2)参考までに以下の文章をあげておく。
樽本照雄「贋作漢訳ホームズ」『清末小説論集』法律文化社1992.2.20
平山雄一「ホームズパスティッシュ史における中国作品」『清末小説から』第61号2001.4.1
樽本照雄「贋作ホームズ失敗物語――陳景韓、包天笑から劉半農、陳小蝶へ」『大阪経大論集』第52巻第1号(通巻第
261号)2001.5.15
3)常兆儒「中国近代警察制度的形成」中国社会科学院法学研究所法制史研究室編著『中国警察制度簡論』北京・群衆出版社
1985.10
朝廷竜、蘇亦工等著『中国近代警察史』上下 北京・社会科学文献出版社2000.1