李伯元は死後も『繍像小説』を編集したか


樽 本 照 雄


 南亭亭長李伯元は、商務印書館から特に招かれて『繍像小説』の編集をまかされていた*1。
 半月刊の雑誌を編集し、同時に作品を長期間にわたって連載しつづける。全72冊を単純計算してもまる三ヵ年の長きにわたる。知力体力の双方が要求される苛酷な作業だ。健康な人間でさえ、維持するのは並大抵のことではなかろう。李伯元は、肺を病んでいたといわれる。期日を守って雑誌の発行を継続することは、むつかしかったに違いない。
 さらに問題を複雑にしているのは、李伯元の死去がからんでくるからだ。しかし、学界では『繍像小説』の発行については、なにの問題もないかのように扱われている。
 さて、そこで表題である。李伯元は死後も『繍像小説』を編集したか。表題への解答は、決まりきっている。死者が『繍像小説』を編集することなど、できはしない。
 死者が雑誌の編集をすることができないならば、李伯元が死去した時点で『繍像小説』は停刊したに違いない。普通は、こう考える。

1 李伯元死去=『繍像小説』停刊説
 李伯元が上海で客死したのは、光緒三十二年三月十四日(1906.4.7)であった。
 『繍像小説』が光緒二十九年五月初一日(1903.5.27)に創刊して、半月刊を守って全72冊を出したとすれば、計算上、その終刊は光緒三十二年三月十五日(1906.4.8)となる。一日のずれがあるだけで、まさに、李伯元の死去と『繍像小説』の終刊は重なる。これほど見事な一致はない。
 ゆえに、阿英が『晩清文藝報刊述略』(上海・古典文学出版社1958.3)において「始刊於光緒癸卯(一九〇三)年五月,至丙午(一九〇六),因伯元逝世休刊,共行七十二期」(17頁)と書けば、誰でもそれが事実だと思う。李伯元が死去して『繍像小説』が停刊した。これが定説だ。
 たとえ、『繍像小説』が第13期より発行年月日を記載しなくなったとしても、月2冊の発行は守られた。阿英は清末小説研究の権威であるから、間違えるはずがない。ゆえに、研究者は、信じた。ほとんど信仰になってしまう。私自身、そう信じて疑わなかった。
 のちの専門書も、それを認めている。
 魏紹昌編『李伯元研究資料』(上海古籍出版社1980.12)において、「《繍像小説》半月刊,癸卯(一九〇三)年五月創刊,至丙午(一九〇六)四月停刊,共出七十二期」(17頁)と阿英の言葉をくりかえす。新旧暦の混同もそのままにまねをする。
 それどころか、『繍像小説』終刊の時期について、該書に収録した畢樹棠「繍像小説」の文中の語句を、魏紹昌は書き換える。原文は、「停刊年月不明、約在光緒三十二三年之間(停刊の年月は不明。たぶん光緒三十二年から三十三年の間だろう)」となっている。学術的態度というのは、このように正確に記述することだ。だが、魏紹昌は、これを「停刊於光緒三十二年(丙午)三月(光緒三十二年(丙午)三月に停刊した)」に変更した。魏紹昌に悪意はなかったのだろう。「丙午停刊」だと阿英が書いているのだから、三月停刊に間違いはない。畢樹棠は、停刊について「勘違いしている」から、正しておこう、というくらいの気持ちだったと善意に解釈できる。だが、それは、余計なお世話であった。資料集に収録した文章に、編者が勝手に手を入れる行為は、研究の世界では許されない。
 以後、『繍像小説』の停刊時期について、光緒三十二(1906)年三月説は、ゆるぎないものとして学界では共通の認識になっている。
 辞典類は、研究成果を抽出したものだから、ひとつの例外も、ない。羅列すれば、以下のようになる。
陳旭麓、方詩銘、魏建猷主編『中国近代史詞典』上海辞書出版社1982.10。607頁
『中国現代文学詞典』上海辞書出版社1990.12。761頁
史和、姚福申、葉翠〓編『中国近代報刊名録』福州・福建人民出版社1991.2。300頁
祝均宙「繍像小説」馬良春、李福田総主編『中国文学大辞典』天津人民出版社1991.10。5182頁
秦亢宗主編『二十世紀中華文学辞典』北京・中国国際広播出版社1992.1。827頁。「1906年停刊」として月を示さない。
魏紹昌、管林、劉済献、鄭方沢主編『中国近代文学辞典』河南教育出版社1993.8。402頁
祝均宙執筆「繍像小説」孫文光主編『中国近代文学大辞典』合肥・黄山書社1995.12。848頁
銭仲聯、傅〓j、王運煕、章培恒、陳伯海、鮑克怡総主編『中国文学大辞典』上海辞書出版社1997.7。1525頁
熊月之主編『老上海名人名事名物大観』上海人民出版社1997.12。490頁
王広西、周観武編撰『中国近現代文学藝術辞典』鄭州・中州古籍出版社1998.5。922頁
李瑞山「繍像小説」劉葉秋、朱一玄、張守謙、姜東賦主編『中国古典小説大辞典』石家荘・河北人民出版社1998.7。141頁
伍杰編『中文期刊大詞典』北京大学出版社2000.3。1909頁

 1例を除いて、以上のすべては、光緒三十二年三月あるいは1906年4月を停刊の時期とする。
 罪深いのは、祝均宙、黄培〓輯録「中国近代文藝報刊概覧(一)」(魏紹昌主編『中国近代文学大系』第12集第29巻史料索引集1 上海書店1996.3。248-274頁)に収録された「繍像小説」の総目録だ。
 まず、解説欄に「1906年4月停刊,共出72期」と書く。そればかりか、第72期の箇所には、ごていねいに「1906年4月〔丙午三月〕」と明記する。あたかも、発行年月が記載されているかのように見える。
 第12期までは刊行年月日が記載されているから「1903年11月3日(癸卯九月十五日)」のように、カッコを使って正確に記録している。ここまでは、よい。編者は、発行年月が記載されていない第13期からは、カッコの形を変えて〔 〕によって推測であることを示したつもりだ。だが、その違いをどこにも説明していない。利用する読者は、発行年月が記載されていると誤解するのである。
 誤解を助長するものとして、同書に収録されている管林、鍾賢培、陳永標、謝飄方、汪松濤「中国近代文学大事記」(1840-1919)をあげよう。1903年5月の項目で『繍像小説』が上海で創刊されたことをいう。ついでに「1906年4月停刊,共出72期」(64頁)と書く。かさねて、1906年4月7日の李伯元死去の箇所でも、「由他主編的《繍像小説》也因此停刊,共出72期」(70頁)と念おしする。
 専門の資料集、主要工具書が、全部こうなのだ。ある意味では、見事というよりほかない。全員が、すべて同じ方向を向いている。研究者の誰でもが、例外なくそうだと考えるのも無理はなかろう。
 学界が一致して、李伯元の死去=『繍像小説』の停刊だと認めている。だが、新説が提出されていることを見逃すことはできない。当然のように、この新説は、学界では、ほとんど無視される。

2 新説=『繍像小説』発行遅延説
 新説とは、李伯元の死後も『繍像小説』は出されていた、予定よりも発行が遅れていたという主張だ。
 『繍像小説』発行遅延説は、今にはじまったものではない。指摘されてから長い時間が経過している。しかるに、学界では、あまり話題にならない。なぜか。
 研究者が、新説の存在に単に気づいていない、定説と異なるから取り上げる気にならない、資料が手元にないから通説を信じている、「文明小史」の著者が別人になる新説など、とても信じるに足るとは思われない、何も知らない外国人が主張しているだけ、たとえ雑誌の発行時期が遅れていたとしても、小さい問題にすぎない、などなどの理由が考えられる。
 しかし、事実は事実だとしかいいようがない。『繍像小説』発行遅延説を無視する研究者は、ことの重大性に気づいていないことを重ねて指摘しておく。
 1980年代に、張純が『繍像小説』発行遅延問題をはじめて指摘し、樽本照雄がそれを追認した。
 樽本は、一歩進めて、全体の遅延状況を推測している。全72期は、光緒三十二年年末ころには完結していると具体的に指摘する。さらに、その延長線上に、いままで李伯元の作品だと考えられてきた「文明小史」の一部分は、欧陽鉅源が書いたものだとも問題提起したのだ。
 のちには、王学鈞が「李伯元年譜」(薛正興主編『李伯元全集』第5巻 南京・江蘇古籍出版社1997.12)において、樽本が示す発行遅延説の大筋を認めた*2。
 さらに、郭浩帆は、「《繍像小説》創〓、刊行歴史追溯」(『清末小説』第23号 2000.12.1)において、発行遅延問題を追求し、樽本説と同じ結論に到達している。
 まとめてみれば、『繍像小説』の停刊時期について、現在は、見解がふたつにわかれている。
 ひとつは、学界の大多数の認識である。李伯元の死去と同時に『繍像小説』は停刊したというもの。一点の疑いもなく、これ以外に事実はない、というように各種の論文にくりかえし記述されている。学界の権威の意見を引用しつづけるのだ。
 もうひとつは、ごく少数の研究者がとなえている新説だ。李伯元が死去したあとも、『繍像小説』は発行されつづけていたというもの。

3 『繍像小説』発行遅延の証拠
 『繍像小説』創刊号は、光緒二十九年五月初一日の日付をもって発行された。
 雑誌に記載された期日通りに、ほぼ創刊されたと考えるのは、光緒二十九年五
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年     光緒31 光緒32   閏
月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 1 2 3 4 4 5 6 7 8 9 10 11 12
日 14
       李伯元死去
繍像小説 25 32 34 35 39 41 43 44 45 49 52 5354 55 58 60 62 65 6972
文明小史 29 36 38 39 43 45 47 48*49 53 56 5758 *5960
活 地 獄 14 1516 17 18 19 23 26 2728 29 32 33 3537 3943
醒 世 縁   7              8  9 1011 12 14

*49『繍像小説』第45期「文明小史」第49回←「老残遊記」第12回恃強拒捕的肘子、臣心如水的湯
*59『繍像小説』第55期「文明小史」第59回←「老残遊記」第11回原稿/第10回月の満ち欠け
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月初七日(1903.6.2)付『同文滬報』に商務印書館より贈られた『繍像小説』創刊号を受領した、という記事が掲載されているからだ。創刊より一週間後の新聞記事だ。
 『繍像小説』第13期より、発行年月日が記載されなくなった。しかし、なかには、それがただちに発行遅延とは結びつかない、と考える人もいよう。
 だが、最初からその発行は順調ではなかった。ずるずると遅れはじめる。

3-1 第1年分――第1-24期
 九月初三日『世界繁華報』には、商務印書館の広告で『繍像小説』第7期が発行されたこと、第1期が再版されたことが告知される。九月初一日といえば、雑誌の記載年月日によれば第11期が出ていなければならない。予定よりも二ヵ月も遅れている。一方で、第7期が出るという初期の段階で、早くも創刊号が再版されるということは、よほど好評を博したとわかる。
 遅れていることに加えて、発行元の商務印書館は、日本の金港堂と合弁会社になる大事件があった。十月初一日のことだ。予定通りならば、ちょうど発行年月日不記の『繍像小説』第13期が出るころだ。外国資本との合弁で商務印書館は、ごたごたしていた。それがはたして李伯元に影響をおよぼしたのかどうかはわからない。だが、事実として、そのころから『繍像小説』の発行は、ますます遅れてくる。
 光緒三十年四月初五日付『世界繁華報』は、『繍像小説』が第15期までを発行したことを広告する。予定より五ヵ月遅れだ。
 十一月初十日付『世界繁華報』では、『繍像小説』第23期までを発行したという。八ヵ月も遅れている。
 十二月初四日付『中外日報』に、『繍像小説』第24期を発行したと広告が出る。本来ならば、第1年の24冊をとっくに発行しおわり、第2年の終わり、冊数でいえば第41期を出していてもいい。ところが、第1年分は、遅れて光緒三十年年末にようやく出そろった。
 新聞に掲載された商務印書館の広告によって『繍像小説』の発行状況を推測することは、有効な手段だと考える。しかし、それは間接資料にすぎない、決定的な証拠が必要だと主張する研究者もいるだろう。
 ならば、商務印書館が出した出版遅延広告であれば、証拠として充分ではなかろうか。それを示そう。
 八ヵ月もの発行遅延は、商務印書館に事情説明の広告を出さざるをえなくさせた。

光緒三十一年二月初六日(1905.3.11)付『中外日報』
上海商務印書館繍像小説第廿五九期至止均出版
本館第一年繍像小説全〓二十四冊去夏即応出斉嗣以作者因事耽閣兼之此項小説皆憑空結撰非俟有興会断無佳文有此原因故直至去冬始行竣事致令閲者多延数月之久本館不能無歉於心今接出第念五号至四十八号是為第二年全〓幸積稿已多加工排印念五念六念七念八念九等五期均已一律出版即日発売各埠預定処均五冊全寄以慰先覩為快之心以後蝉聯而下決無愆期凡購一冊価洋二角預定全年二十四冊者価洋四元外埠〓加郵費五角代定五〓九折十〓八折価帰一律空函不覆有欲補購第一年全〓者仍售洋四元外埠郵費照加零售仍毎冊二角特此布告惟希 雅鑑
上海棋盤街北首商務印書館啓

 説明にあるように、第1年分の全24冊は、月2回の発行を守っていたならば、本来、光緒三十(1904)年三月には出ていたはずだ。だが、作者に事情があって、昨年は雑誌の発行が遅れた。二月の段階で、『繍像小説』第25-29期の合計5冊をまとめて発行してしまう。
 5冊同時発行というのも、いってみれば乱暴なやり方だと思う。定期雑誌は、期日通りに発行してこそ意味がある。商務印書館の首脳陣から注意はなかったものか。そのあたりの状況は、はっきりしない。
 引用した広告文で興味深いのは、文中にでてくる「作者」である。『繍像小説』の発行遅延について説明しているのだから、この「作者」は李伯元にほかならない。李伯元が書いた広告文ということになる。
 光緒三十年四月に第15期が発行されたとして、第24期までの全10冊を九ヵ月かけて出した計算になる。作者の事情で発行が遅れたというのだ。そのころの李伯元の行動を見れば、二月に『官場現形記』続編12回の単行本を出版している。四月には、『時報』に「中国現在記」を連載しはじめる。七月に『官場現形記』第三編の単行本を出す。『世界繁華報』に「官場現形記」を連載しながらのことだから、忙しかったのは確かだろう。
 多忙のほかに、李伯元が引き起こしたトラブルで私が思いつくのは、劉鉄雲の「老残遊記」をめぐってのものがある。
 劉鉄雲「老残遊記」は、『繍像小説』第9期から掲載がはじまり、第18期で連載が中断している。その理由は、文章の改竄と没書である。
 『繍像小説』第15期に掲載された「老残遊記」第10回の終り部分が、著者に断わりなく書き改められた。つづく第16期では、わたしていた原稿第11回が没にされた。劉鉄雲と商務印書館の間に立って原稿を届けていた連夢青が、商務印書館に抗議する。商務印書館は、原稿の内容が迷信打破の方針にあわなかったからだと説明した。その処置に怒った劉鉄雲と連夢青は、執筆を中断した。連夢青の作品は、「鄰女語」だ。
 このゴタゴタが発生したのが、ちょうど『繍像小説』の発行が遅れていた時期に当たる。なんらかの影響を与えたのかもしれない。
 しかし、広告主の名義は「商務印書館」だ。李伯元は、当然ながら商務印書館の責任ある地位にはいない。しかし、『繍像小説』の発行については責任を持っていた。その発行遅延についての弁明であるから、内容は李伯元の筆になるものであってもその名義は商務印書館となる。

3-2 第2年分――第25-48期
 『中外日報』と『申報』に掲載された商務印書館の出版広告を拾う。発行状況がわかる。25-29期の数字が表わしているのは、すでに発行された号数である。

 『中外日報』 『申報』
光緒三十一年
 二月初六日 25-29期
 二月十八日 30,31期
 三月初九日 32期
 四月十七日 34期
 六月初五日 35期
 六月初十日 35期
 六月二十一日36-38期
 七月初八日 39,40期
 八月十一日 41,42期
 八月十二日 41,42期
 九月二十七日 43期
 九月二十八日43期
 十月初七日 44期
 十月初九日 44期
 十一月初五日 45,46期 45,46期
 十二月十五日 49,50期
 十二月十九日 49,50期

 『中外日報』と『申報』の広告は、期日が一致する場合もあるし、一致しないものもある。だが、ほぼ、おなじ時期に同じ広告を掲載していることが見て取れる。上を見れば、第2年分の全48冊は、光緒三十一年十二月には発行されたことがわかるだろう。
 商務印書館自身が、ふたたび発行遅延を認める広告を出しているから紹介しよう。

光緒三十一年十二月初一日(1905.12.26)付『中外日報』
商務印書館繍像小説両年全〓出斉第三年続〓広告
本館所出之繍像小説趣味〓 詞旨顕豁両年以来極為社会所歓迎自第二十五号起至四十八号止第二年全〓今已一律出斉以後接印第四十九期至七十二期共念四冊是為第三年全〓 如預定全〓者本埠照旧四元外埠加郵費五角外洋加郵費一元零售照旧毎冊大洋弐角批発〓有章程所有各省代派処積次以前報資務望即日数付清以便績定再此第三年凡前両年編撰未完者皆依次逐漸結束成書並増添新著多種捜羅東西洋新奇小説延聘通人翻訳以餉閲者尚祈 大雅速臨購閲為幸 
上海棋盤街商務印書館謹啓

 予定を大幅に遅れて第2年全48冊を発行するから、第3年もよろしく、という広告である。
 遅れるたびに、商務印書館は、広告を打っている。
 第2年分は、光緒三十一年年末に発行しおわったとわかる。
 問題は、第3年分だ。やっかいなことに、李伯元の死去がからんでくる。

3-3 第3年分――第49-72期
 注目点は、ふたつある。
 大きな注目点は、李伯元が死去したのち『繍像小説』の第何期より発行が再開されたかというもの。べつの言い方をすれば、李伯元が死去する前は、『繍像小説』は第何期まで発行されていたか、だ。
 もうひとつの注目点は、『繍像小説』第72期は、いつ発行されたか。終刊時期については、意見が分かれているから、ここで決着がつくものならば、解決したい。
 ひきつづき『中外日報』と『申報』に掲載された商務印書館の出版広告を見る。

  『中外日報』 『申報』
光緒三十二年
 正月二十九日  49-52期
 二月初二日  49-52期
★三月十四日  李伯元死去
 三月二十五日 53,54期
 三月二十八日 53,54期
 六月初二日  55,56期
 六月初八日  57,58期
 六月初十日 57期
 七月二十二日 58,59期
 八月初二日  60,61期
 八月二十日  62-64期
 九月初一日 62-64期
 十月二十六日 65-67期
 十月二十七日 65-67期
 十二月初二日  69期
 十二月初六日 69期
 十二月十八日  72期
 十二月二十一日 72期

 李伯元死去の前後が、重要である。すなわち、李伯元が死去する前の約一ヵ月以上は、52期を出したまま動きが明らかに止まっている。李伯元の死後十一日たって、『繍像小説』第53期が発行された。
 くりかえす。死去する前は、『繍像小説』第52期までが出ていた。分かれ目は、第53期なのだ。
 李伯元死後の『繍像小説』に注目していた人物がいる。呉〓人である。
 呉〓人は、『繍像小説』の主編であった李伯元が死去したからには、雑誌そのものも停刊するものだと考えていた(と推測する)。李伯元死去の十一日後に発行された第53、54期を見て、疑問を感じただろう。
 その後、しばらく空白時間がある。これで、予想通りに李伯元の死をもって『繍像小説』が停刊した、と呉〓人は思ったはずだ。
 ところが、四月、閏四月、五月と三ヵ月と少し経過したところで、突然、第55期が出てくる。それ以後、不定期に発行されはじめたのを見て呉〓人は驚いたに違いない。李伯元の筆名である南亭亭長、謳歌変俗人名義の作品が、なんの注釈もなく知らぬ顔をして、まるで李伯元が生存しているかのように連載を続けているからだ。
 呉〓人は、怒った。だからこそ彼は、いわゆる「李伯元伝」のなかで言及したのだ。『月月小説』第1年第3号(光緒三十二年十一月望日)に李伯元の写真を掲げ、その裏に書かれている。写真をのせるばかりか伝記を書いているくらいだから、李伯元と呉〓人の親密さも理解できようというものだ。
 呉〓人の文章のなかに「町の商人のなかには、他人の書いた小説を君の名前で出版するものさえいる。社会で重要視されていることが想像できる(坊賈甚有以他人所撰之小説、仮君名以出版者、其見重於社会可想矣)」とある。なにげない表現だ。しかし、李伯元が死去して九ヵ月後に発表されたこの追悼文と、彼の死後もまだ発行されつづけている『繍像小説』を重ねてみた時、呉〓人の言葉は重要な意味を持つ。
 文中の「町の商人」とは、商務印書館の人間を指していると考えられる。李伯元の死後も、あたかも李伯元が執筆しているかのように筆名を使用した作品を発表しつづけていることを非難したのである。李伯元の死亡の事実と彼の筆名での作品の関係を知っていなければ書けない内容だといえよう*3。
 光緒三十二年十二月中旬に第72期を発行し、「来年の大改良」を予告する。

光緒三十二年十二月十八日(1907.1.31)付『中外日報』
商務印書館繍像小説第七十二期 毎冊大洋二角是書三年届満現擬停刊明歳大加改良届期再行布告
上海棋盤街商務印書館

 李伯元の死後も、十ヵ月にわたって全20冊の『繍像小説』が発行されつづけていた事実がここにある。20冊といえば、ほとんど1年分の冊数だといってもいい。
 『中外日報』には、その後、同じ広告が継続して掲載された。誌面改良を予定しています、またお知らせします、とくりかえしながら、それが実現されることはなかった。

丁未正月十一日(1907.2.23)付『中外日報』
繍像小説 零售毎冊大洋二角/全年廿四冊洋四元/外埠〓加郵費五角/存書不多幸速購取/現満三年七十二期/以後改良再行布告

 これと同じ広告が、新聞の広告欄にこのあとも延々と掲載されつづけるのだ。『繍像小説』の改良復刊計画は、自然に消滅してしまったのである。

4 李伯元の死後
 李伯元が死去したのちも『繍像小説』は発行されていた。
 すると、研究者の誰も考えなかった、想像もできなかった新しい問題が発生する。
 『繍像小説』に連載していた南亭亭長名義の作品「文明小史」「活地獄」あるいは謳歌変俗人名義の作品「醒世縁弾詞」は、その一部が李伯元の作品ではなくなる。

4-1 「文明小史」の場合
 『繍像小説』第53期が分かれ目となる。「文明小史」第57回が掲載されているから、この第57回より第60回(『繍像小説』第56期掲載)までの4回分が李伯元の執筆ではなくなる。
 「文明小史」の一部分でも、李伯元の死後に発表されているのならば、それを書いた人物は誰なのか。李伯元の親密な協力者だった欧陽鉅源しか可能性は残らない。
 「老残遊記」と「文明小史」には、盗用関係があった。「老残遊記」のなかから一部の表現を「文明小史」が盗用したのだ。それも2回ある。
 「文明小史」第49回(『繍像小説』第45期)が、「老残遊記」第12回(『繍像小説』第17期)から「恃強拒捕的肘子、臣心如水的湯」を無断使用する。これは、李伯元が生きていた時だから、李伯元自身がやった。
 もうひとつは、「文明小史」第59回(『繍像小説』第55期)が、「老残遊記」第10回(『繍像小説』第15期)の月の満ち欠け部分と、「老残遊記」の原稿第11回から大幅に「北拳南革」部分を盗用する。こちらは、李伯元の死後だから、李伯元ではありえない。欧陽鉅源だ。
 『文明小史』は、連載終了後、単行本になって商務印書館から発行された。奥附には、「丙午年九月十三日印刷/十月九日初版」とある。「文明小史」の連載終了が、『繍像小説』第56期で、おそくとも六月には該号が発行されている。六月に連載が終了し、九月に単行本の印刷がなされるならば、時間的につじつまがあう。矛盾したところはない。

4-2 「活地獄」の場合
 「活地獄」は、最後の4回が、呉〓人と欧陽鉅源によって書き継がれている。つまり補作ということだ。
 第70、71期掲載の「活地獄」第40-42回が繭叟、すなわち呉〓人によって、第72期掲載の第43回が茂苑惜秋生、すなわち欧陽鉅源によって書かれた。
 「文明小史」では、南亭亭長のままで、最後の4回は、実質、欧陽鉅源の執筆であった。同じ南亭亭長名義の「活地獄」では、なぜ、同様なことにならなかったのか。
 考えるに、呉〓人を補作者に引っ張り込んだから南亭亭長の看板を掲げることができなくなったのだ。
 そもそも南亭亭長、南亭というのが、李伯元と欧陽鉅源の共同筆名であったというのが私の持論だ。呉〓人を加えると、共同筆名を使うわけにはいかない。とてもではないが、南亭亭長の幽霊執筆者になってくれませんか、とあの有名な呉〓人に頼む度胸は欧陽鉅源にはなかっただろう。
 案の定、呉〓人は、その間の事情をにおわせる文章を発表した。それも李伯元の追悼文においてである。ここでは、くりかえさない。
 欧陽鉅源から、李伯元の「活地獄」を補作するよう呉〓人は依頼された。その際、当然のことながら自分の筆名である繭叟を使うことを要求する。それと同時に、李伯元の死後も「文明小史」が南亭亭長という筆名で発表されている事実をにらんでいる。南亭亭長が李伯元と欧陽鉅源の共同筆名だとは知らなかった呉〓人は、南亭亭長=李伯元の名前をかたって発表していると商務印書館を批判したわけだ。
 呉〓人の記述は、李伯元の死後も『繍像小説』が発行されている事実を反映しているとわかる。
 「活地獄」がいったん繭叟名で発表されてしまうと、それを継続させてもとの南亭亭長名をふたたび使うわけにはいかない。しかたなく茂苑惜秋生=欧陽鉅源名をあらわにしたということだ。

4-3 「醒世縁弾詞」の場合
 第10-14回が、李伯元の執筆ではないことになる。

 さて、以上の問題提起に対して、研究者は、どう答えるのだろうか。
 いままで長年にわたり無視してきたのだから、急に返答ができるとも思えない。期待しないで待っている。

【注】
1)樽本照雄「『繍像小説』編者問題の結末」『清末小説から』第62号2001.7.1
2)216頁でつぎのように書いている。「本月(注:光緒三十二(1906)年三月)、李伯元は逝去したため『繍像小説』は停刊し、第72期を出してとまった。第72期は丙午三月と書いている。しかし、書かれた日付はかならずしも
『繍像小説』が停刊した本当の日付とはかぎらない。事実上は、出版が遅れていた可能性がある」。王学鈞は、なにか勘違いしている。『繍像小説』の原物には、「丙午三月」などという記載はない。ないからこそ論争になっているのだ。
3)樽本照雄「『繍像小説』の刊行時期」『清末小説論集』法律文化社1992.2.20