漢訳アラビアン・ナイト(1)


樽 本 照 雄


1 中国における『アラビアン・ナイト』
 日本では、『アラビアン・ナイト』あるいは『千(夜)一夜物語』という。
 中国で翻訳される場合も、題名は同じくふたつある。ひとつは『天方夜譚』と漢訳し、別のひとつは『一千零一夜』となる。
 二つの書名を持つ理由は、それらが拠った英語原題が、ふたつあるからだ。
 『天方夜譚』の原題は、普通“The Arabian Nights' Entertainment” だし、『一千零一夜』は“The Thousand and One Nights”(又は、The Thousand Nights and One Night)である。「天方」は、アラビアを意味する。
 実際には、きれいに分けて呼ばれてはいない。混同して使用されているのが本当のところだ。

2 ふたつの訳題
 ある英訳本を見れば、表紙には、大きく“The Thousand and One Nights”と書いてある。扉の上部にも“The Thousand and One Nights”と表示しながら、その下に「普通には「アラビアの夜のもてなし」とよばれる commonly called the Arabian Nights' Entertainments」と大きく説明する。おまけに Arabian Nights' Entertainments の部分は、赤色で印刷されているからよほど目立つ。
 欧州では、ガラン Antoine Galland のフランス語訳(1704-17)が、最初の翻訳にして、同時に重要な役割をはたした。『アラビアン・ナイト』は、ガラン版によって全ヨーロッパに知られることになったからだ。これが元本になり、各国語に重訳されて普及していった。英語訳、ドイツ語訳、イタリア語訳、オランダ語訳、デンマーク語訳、ロシア語訳などなどがある。
 英訳で知られているのは、ガラン版を再編したスコット Jonathan Scott の6巻本(1811)がある。
 一方、原典からの直接訳も出版されはじめる。
 レイン Edward William Lane の3巻本(1839-41)、ペイン John Payne の最初の完訳13巻本(1882-84,1889)、リチャード・バートン Richard Francis Burton の10巻プラス補遺6巻(1885-88)などが、必ず言及される訳本といえる。マルドリュス Joseph Charles Victor Marudrus のフランス語訳16巻本(1899-1904)も有名だ*1。バートン版とともに、日本語訳があるから知っている人も多い。
 以上のように、一応、主要な訳本について簡単に説明したとしても、ここに漢訳本を関連づけようとすると、とたんに情景がぼんやりとしてくる。どういうことかといえば、漢訳がもとづいた原本の特定がむつかしいという意味なのだ。
 原本の特定が、なぜむつかしいのか。
 ガラン版をもとにして英訳された本が、それも、上にあがっているような有名ではない本が、多数発行されているからだ。この事実には、それほど触れられることがない。
 元本の全部を翻訳したもの、一部分の作品を選択したもの、原文に忠実なもの、原文から大きく離れて再話したものなど、多種類が存在する。児童向けに改作された作品を考えると、その多さはとてもではないが数えることが困難となる。
 ガラン版以降に出版された英語重訳本で、そのなかのほんの一例をあげてみよう。
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのアンドリュー・ベル Andrew Bell,1713,1718,1717-22
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのオズボーンとロングマン J.Osborne & T.Longman,1725,1721-26
 重訳者不記、出版社は、ダブリンのリスク、エイウインとスミス George Risk, George Ewing, & William Smith,1728
 重訳者不記、出版社は、ダブリンのホワイトストーン W.Whitestone,1776
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのハリソン Harrison & co.,1785
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのピグニット C.D.Piguenit,1792
 重訳者不記、出版社は、モントローズのブキャナン D.Buchanan,1793
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのロングマン T.N.Longman,1798
 重訳者不記、出版社は、エディンバラのショウ D.Schaw,1802
 フォースター Rev.Edward Forster 重訳、出版社は、ロンドンのミラー William Miller,1802
 ボーモント G.S.Beaumont 重訳、出版社は、ロンドンのマシューズとレイ Mathews & Leigh,1811
 ジョナサン・スコット Jonathan Scott 重訳、出版社はロンドンのロングマン、ハーストなど Longman,Hurst,etc.,1811
 重訳者不記、出版社は、リバプールのナットール、フィッシャーとディクソン Nuttall,Fisher & Dixon,1814
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのブッカー J.Booker,etc.,1819
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのリヴィングトン F.C. & J.Rivington,1821
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのドウヴ J.F.Dove,1826
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのリンバード J.Limbird,1832
 重訳者不記、出版社は、ハリファックスのミルナー William Milner,1839
 フォースター重訳、出版社は、ロンドンのトマス Joseph Thomas,1839
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのロイド E.Lloyd,1847,48
 フォースター重訳、出版社は、ロンドンのウイロビー Willoughby & Co.,1852-54
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのカーショウ G.Kershaw & Son,1853
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのラウトレッジ G.Routledge & Co.,1854
 重訳者不記、ダルジール Dalziel 兄弟の挿絵本、出版社は、ロンドンのワード、ロックとタイラー Ward,Lock & Tyler,1864,65
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのラウトレッジ G.Routledge & Sons,1865
 重訳者不記、出版社は、エディンバラのニモ W.P.Nimmo,1865
 タウンゼンド Rev.Geo.Fyler Townsend 改訂、出版社は、ロンドンのウォーン F.Warne & Co.,1866
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのグリフィン C.Griffin & Co.,1866
 重訳者不記、出版社は、エディンバラのギャルとイングリス Gall & Inglis,1867
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのディックス John Dicks,1868
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのテッグ William Tegg,1869
 メイソン James Mason 改訂、出版社は、ロンドンのキャッセル、ペッターとギャルピン Cassell,Petter & Galpin,1874,75
 重訳者不記、出版社は、ロンドンのブラックウッド J.Blackwood & Co.,1877
 などなど、これでもほんの一部分にすぎない。
 ガラン版その他の重訳英語版がいかに多いか、以上を見れば理解できる。
 問題は、英訳本の数の多さだ。
 よく似た例に、シャーロック・ホームズ物語をあげてもよい。ホームズ物語の版本も多数にのぼる。だが、その英文そのものは、ほぼ全部が同じものだと考えてかまわない。コナン・ドイルの著作なのだ。

3 漢訳の原本
 だが、『アラビアン・ナイト』は、ホームズ物語とはちがう。そもそもの成り立ちが異なるから、原典は同一ではありえない。訳者が同じでなければ、訳文も当然違ってくる。もとづいた原本が特定できなければ、漢訳の質を検討することもできない。
 さらに、英文原書の中国への輸入というやっかいな事柄が残っている。イギリスで多数の関連本が出版されたとして、そのすべてが中国に持ち込まれたと考える人はいないだろう。伝えられた出版物によって漢訳がなされた。この筋道を考えにいれて、探索の路頭に迷うのは、漢訳に手掛かりが示されているのかどうか、不明であるからだ。
 漢訳は、それら多数の重訳本のうちのどれに基づいているのか。つきとめるのは、手間のかかる作業だ。労力を要する仕事だと理解するのは容易だろう。いくら電子網の時代とはいえ、現在のところ、インターネットを利用して解決できる種類の問題ではない。
 実例を示したほうがわかりやすい。
 中国において「アラビアン・ナイト」は、どのように翻訳されたか。〓溥浩によって概説が試みられている*2。多数の漢訳を掲げる。だが、これを見ても、漢訳が拠った原本については、一言も説明しない。
 ほかも似たりよったりだ*3。
 全8巻の大部な李唯中訳『一千零一夜』(石家荘・花山文藝出版社1998.6)がある。「訳序」には、1900ママ年の周桂笙『新庵諧訳・上巻』から1982年の納訓『一千零一夜』まで漢訳を14種類列挙する(34頁)。だが、納訓の翻訳がアラビア語からの直接訳以外は、多くが英訳本からの翻訳、あるいはロシア語訳本からの重訳であることを述べるだけだ。それ以上、深く説明するわけではない。
 概説だから、詳しく触れる必要はないという判断だろうか。どのみち、説明していないことにはかわりがない。
 杜漸「《天方夜談》的版本与翻訳」(『書海夜航』北京・生活・読書・新知三聯書店1980.3)という文章がある。
 日本語訳本と英語訳本からの挿絵各1枚をかかげて、文字通り版本と翻訳について解説したものだ。
 ガラン、レイン、バートンの翻訳など、およびアラビア語原典に言及し、当然ながら漢訳にも触れる。後ほど述べることになる周桂笙からはじめて『繍像小説』連載作品、さらに奚若訳本など、発表時間順にその翻訳について説明する。
 だが、書名をかかげるだけで、それらの内容がどのようなものか、もとづいた原本がなにかについては、何もいっていない。専門論文ではないからだろう。
 『繍像小説』に連載された漢訳には、訳者名が明記されていなかった。それは事実だ。だが、のちの奚若訳『天方夜譚』を示しているのにもかかわらず、それが同一訳本であることを言わない。杜漸は、漢訳本を比較対照することには興味がなかったようだ。
 中国における翻訳についての研究論文目録がある。「中国当代翻訳論文索引」(1914-95)(『中国翻訳詞典』1207-1278頁)だ。この目録は、翻訳についての論文を中心に収録している。だからからか、『天方夜譚』に関する文献は、見つけることができなかった。
 中国の研究者にとって、原典問題は、意識にのぼらないのだろうか。あるいは、問題に接近するための研究条件が整っていないのだろうか。確かなところは、不明である。専門論文がないところを見れば、よほど、むつかしい問題だと考えてよいのかもしれない。
 詳細な解説がどこにもない、と負の方面だけを数えあげるのは気が重い。指摘するたびに自分の責務が増える気がするからだ。それほど言うなら、自分でやってみろ、という声が聞こえる。当然です。
 本稿では、清朝末期に発表された漢訳を中心に見ていく。原本にも、わかるかぎり言及する。
 さて、中国で漢訳が発表されたのは、清末の1900年代、あるいは可能性として
1900年のちょっと前だと考えられる。どちらにせよ、日本語翻訳の『(開巻驚奇)暴夜物語』(1875)よりもだいぶあとのことだ。
 『アラビアン・ナイト』の漢訳は、不思議なことに、1903年に集中して刊行されている。意図的なものではないだろう。偶然、そうなった。

開巻
 『アラビアン・ナイト』は、周知のごとくシャーラザッドが語る約170篇の物語によって構成されている。レイン版は、約130篇を収録する。バートン版は、本巻169篇、補遺巻93篇の合計262篇である。
 シャーラザッドが、それらを1001夜にわたって語りつぐことになったのには、経緯があった。(固有名詞を含んで、物語の紹介には、日本語のバートン版を使用する。#印は、樽本の注)
 昔、インドと中国の島々にササン王朝#1があり、二人の王子がいた。兄の名はシャーリヤルといい、弟はシャー・ザマンという。20年間#2、それぞれが自らの領土を統治していたが、兄王は弟王の顔が見たくなり、使者と手紙をやって、会いに来てくれるようにたのんだ。弟王は、兄王に会いにいくために王宮を出発したが、忘れ物#3をしたことに気がつく。こっそり王宮にひきかえすと、王妃が黒人の料理人#4を両腕に抱いて絨毯の寝床に眠っていた。弟王は、怒りのあまり太刀をぬいて二人を切り捨てると、死体は絨毯の上に残したまま#5旅を続ける。
 兄王は、弟王に会えておおいに喜んだが、弟王は妻の淫行を胸にひめたまま顔色がすぐれない。王宮に逗留中も、弟王のぐあいはよくならない。気晴らしに、と兄王が計画した狩猟にも参加せず、弟王は王宮に残った。そこで弟王シャー・ザマンが目撃したのは、兄王の妻妾10人が10人の白人奴隷#6と、またそれにくわえて兄王の妃が黒人奴隷サイード#7と淫欲を満たす姿だ。妻の淫行を経験したのは自分だけではない、と弟王は気が楽になって食事をとる気になる。元気になった弟王を見て、兄王シャーリヤルはその理由をたずねたのも無理はない。弟は、すすんで妻の淫行を、渋りながらついには秘密を守りきれずに話さないつもりだった兄王の妃の行為を告白する。
 狩猟に出かけたとみせかけ、兄王は、自らの目で妻の淫行を確かめると、弟王とともに不幸な人を探しに旅立つ。旅の途中でふたりが目撃するのが、頭に櫃を載せた魔神だ。魔神は、櫃から美少女をとりだした。その美少女は、婚礼の夜にさらわれて魔神のものになっている。だが、美少女が行なったことは、魔神が眠っているすきに兄弟王を脅かし誘って彼らと交わることだった。交わった記念として男の印形を570個#8も所有している。魔神でさえも女性に騙されていることに気づいた兄弟王は、あきれかえると同時に、自分たちの不幸よりももっと大きな不幸を魔神がなめていることに納得した。
 王宮にもどったシャーリヤル王は、妃を死罪#9に処する。後宮の妻妾と白人奴隷#10をすべて切り捨ててしまった。それ以後、シャーリヤル王は、女性の貞節を信じず、夜半に処女を奪い、あくる朝には切り殺すことを3年間#11つづけた。都には、ついに若い娘がいなくなる。残ったのが、大臣の娘シャーラザッドと妹ドゥニャザッドのふたりだ。シャーラザッドが王に嫁ぎ、毎夜、妹を伴って王のために物語ることがはじまる。
 以上が、長い物語の冒頭部分である。シャーラザッドが物語る、という物語全体の枠を提示する箇所なのだ。児童向けの話とは、大いに異なることに気づかれるだろう。
 文中に #印で示した箇所が、マルドリュス版とレイン版ではどのようになっているのか、見てみよう。(マルドリュス版は日本語訳を、レイン版はロンドンのチャットとウインダス Chatto & Windus,1912 の3巻本を使用する)
 #1 ササン王朝――マルドリュス版も同じ。レイン版では、意図的に削除されている。
 #2 20年間――マルドリュス版、レイン版も同じ。
 #3 忘れ物――マルドリュス版、レイン版も同じ。
 #4 黒人の料理人――マルドリュス版は、黒人奴隷。レイン版も、黒人奴隷。
 #5 死体は絨毯の上――マルドリュス版、レイン版も同じ。
 #6 10人の兄王の妻妾と10人の白人奴隷――マルドリュス版は、20人の女奴隷と20人の男奴隷。レイン版は、20人の女性と20人の黒人奴隷。
 #7 黒人奴隷サイード Saeed――マルドリュス版は、黒人奴隷マサウド。レイン版は、黒人奴隷メスード Mes'ood。
 #8 印形570個――マルドリュスは570個。レイン版は、98個。
 #9 死罪――マルドリュス版も、レイン版も、首を刎ねさせる。
 #10 妻妾と白人奴隷――マルドリュス版は、女奴隷と男奴隷。レイン版は、女性と黒人奴隷。
 #11 3年間――マルドリュス版、レイン版も同じ。
 こまかな違いがあるにしても、比較した3者は、大筋でほぼ同じ様な記述になっていることがわかる。
 この冒頭部分について、いくつかの箇所を指定したのは、漢訳と比較がしたいからだ。
 具体的な比較対照をする前に、触れておかなければならないことがある。中国で最初の漢訳『アラビアン・ナイト』は、なにか。

4 最初の漢訳
 漢訳された文章を読むことができる(復刻を含む)というのであれば、周桂笙訳「一千零一夜」がある。1903年四月に発行された『新庵諧訳初編』上巻に収録されていて、時期的に見て早い刊行物だといえる。
 紫英(蒋紫儕)「新〓諧訳」*4によると、劉志沂が『一千零一夜』の原本を入手して周桂笙に翻訳してもらったと書いている。『采風報』に掲載していて中断したとも述べているから、1903年以前のことだ。『采風報』の創刊は1898年だという。だから、1903年以前といっても、時間的な幅が生じる。新聞、雑誌に連載されたあと、単行本になる例は、清末時期では珍しくない。周桂笙訳「一千零一夜」もそういう例のひとつだろう。ただ、『采風報』に掲載された部分を見ることができないので、1903年以前のいつかを確認することはむつかしい。一説には、1900年掲載だという*5。周桂笙の漢訳が、最初の翻訳だと考えてもよさそうだ。
 同じく紫英は、連孟青の主宰する『飛報』にも抄訳が一二掲載されたと指摘している。こちらは、実物を見る機会がない。

【注】
1)佐藤正彰「解説」『千一夜物語』世界文学大系73 筑摩書房1964.1.15
2)〓溥浩「《一千零一夜》在中国」林煌天主編『中国翻訳詞典』武漢・湖北教育出版社1997.11。832-833頁
3)郭延礼『中国近代翻訳文学概論』漢口・湖北教育出版社1998.3。馬祖毅『中国翻訳史』上巻 漢口・湖北教育出版社1999.9。717-722頁。熱扎克・買提尼牙孜主編『西域翻訳史』烏魯木斉・新疆大学出版社1994.9/1997.4第二次印刷。233-234頁。『西域翻訳史』は、『一千零一夜』の漢訳には触れないが、こういう書物もあるということで示す。
4)紫英「新〓諧訳」「雑録二説小説」シリーズ『月月小説』第5号 光緒丁未正月(1907)
5)連燕堂「開闢翻訳新途徑的周桂笙」『中国近代文学百題』中国国際広播出版社1989.4。384頁