【資料】


呉〓人の手紙2通


沢 本 郁 馬


 呉〓人が積極的に参加した「アメリカの中国人移民排斥法に反対する運動(反美華工禁約運動)」に関係する手紙を2通紹介する。
 該運動に関連して、呉〓人が書いた手紙で有名なものは、曾少卿あての3通がある。
 最初、呉沃堯名で「致曾少卿書」と題して阿英編『反美華工禁約文学集』(北京・中華書局1960.2/1962.11上海第二次印刷。
666-668頁)に収録された。もともとは、民任社輯『中国抵制禁約記』(1905)と蘇紹柄編『山鍾集』(覚覚社1906)に掲載されているという(両書ともに未見)。
 この3通の手紙は、くりかえし資料集に収録されている。
 阿英にはじまり、魏紹昌編『呉〓人研究資料』(上海古籍出版社1980.4。328-330頁)、盧叔度校注『我仏山人文集』第8巻(広州・花城出版社1989.5。104-106頁)、海風主編『呉〓人全集』第8巻のなかの裴效維学鈞校点「文」(哈爾濱・北方文藝出版社1998.2。213-215頁)などだ。
 この4種類とも収録した3通の手紙は、語句は同じである。当たり前だと考えられるかもしれないが、実は、一部分は、当時の新聞で公表されたものと異なる。
 上に述べた文学関係ではなく、別の系統、すなわち歴史関係で呉〓人の書信が引用されている。
 朱士嘉編『美国迫害華工史料』(北京・中華書局1958.12)には、「呉研人致曾鋳函」と呉〓人の名前を間違って収録する。『曾少卿伝』という書物からの引用だ。
 張存武『光緒卅一年中美工約風潮』(台湾・中国学術著作奨助委員会1965.8)は、運動全体の推移を述べるなかで呉〓人の行動も追跡する。その拠った資料は、主として『新聞報』だ。これに掲載された反美華工禁約運動の書信をたんねんに収集し利用しているのだ。
 張存武その他の書をもとにして、林健司「呉〓人と反華工禁約運動」(『〓唖』
第20号1985.3.10)が書かれた。林は、そのなかで「呉〓人の反華工禁約運動活動状況表」を掲載し、呉〓人の詳細な行動日程表を示している。講演活動、上海の商会への列席、あるいは演説などを一覧表にするのだ。曾少卿あての第1書簡が、光緒三十一年六月13日(1905.7.15)付『新聞報』に掲載されたことも明記する。
 林健司「呉〓人と反華工禁約運動」を参照して、つまり「呉〓人の反華工禁約運動活動状況表」のほとんどそのままを取り入れたのが王俊年「呉〓人年譜」(『我仏山人文集』第8巻。344頁/『呉〓人全集』第10巻。33頁)だ。王俊年自身、注でそのことを記している。彼が以前に発表した「呉〓人年譜」(『中国近代文学研究』第2輯1985.9)と比較してみれば、一目瞭然だ。
 林健司の作成した「呉〓人の反華工禁約運動活動状況表」には、興味深い箇所がある。1905年7月22日の『新聞報』には、商会あての呉〓人の書簡が掲載されているという。
 ここに紹介するのは、『申報』に掲載された呉〓人の手紙2通である。

1「呉〓人函」「彙録各埠致曾少卿籌抵制禁約函」『申報』光緒三十一年六月十三日(1905.7.15)
 曾少卿にあてた手紙は、資料集に収録されている。容易に見ることができる。それと比較対照すると、『申報』掲載のものは、冒頭部分が、省略されていることがわかる。だが、注目に値するのは、すでに知られている文章と字句が一部分異なる点だ。
 阿英をはじめとする資料集は、すべて、「然僕竊有慮者,近日側聞有禁阻此挙之意」とする。ところが「有禁阻此挙之意」部分は、実は、「我国政府頗有干預此挙之意然其所藉口者」なのだ。
 もう一箇所、資料集所収の文章では削除したところがある。[]内に原文をおぎなう。
 「又可弭患無形,[更可免政府之藉口]此於交渉上先事……」
 原文の「政府」を省略していることがわかる。
 阿英を始めとして各種資料集の編集者が拠ったのは、初出の新聞ではなかった。のちに編集出版された蘇紹柄編『山鍾集』などの書籍を再利用した。たぶん、その時には、原文の「政府」関連部分はすでに削除、書き換えられていたと予測する。

(複写省略)


2「呉〓人致商会函(為華工禁約事)」『申報』光緒三十一年六月二十日(1905.7.22)
 張存武の該書には、部分的に引用される。
 全文を公表するのは、これが最初だろう。全文を掲げるだけにとどめる。

(複写省略)