漢訳アラビアン・ナイト(3)


樽 本 照 雄


6 「一千一夜」佚名訳『大陸報』6-10期 光緒29.4.10-7.10(1903.5.6-9.1)
 現在、私が目にしているのは、該誌第6期1903の「《一千一夜》序」、および第8期1903.7.4の「漁翁故事」だけだ*10。復刻されているから読むことができる。それ以外の作品が何であるのか、『大陸報』そのものを見ることができないから、不詳とせざるをえない。
 「《一千一夜》序」において、物語全体の枠組みを解説するその手際が、よい。
 兄王シャーリヤル(解利亜)は、妃が奴隷と淫行したのでこれを殺した。夜毎、美人に伽をさせ、あくる朝に殺害することをくりかえす。シャーラザッド(翕海拉才徳)が、自ら望んで嫁ぎ、1001夜にわたって物語る。その間、三児を得て、ついに死を免れた。こうまとめて、物語の冒頭部分のかわりとした。
 もうひとつ興味深いのは、訳本について説明している箇所がある。漢訳人名のうしろに原語を補い、かいつまんで紹介しよう。
 「アラビアン・ナイト」がヨーロッパに輸入されたのは、1704年、フランス人谷蘭徳 Galland によってフランス語に翻訳されたことにはじまる。その後各国であらそってそれが翻訳された。1811年、英国にはじめて流入し、斯谷徳 Scott 氏が英訳し、のちに福斯多 Rev.Edward Foster 氏版、倫 Lane 氏版があり、いずれもよい本だ。今翻訳したのは、党孫 Geo.Flyer Townsend 氏版である。フォスター氏版にくらべれば簡潔であり、レイン氏版よりも平易であって、かの地での普及本なのである。
 めずらしく原本を明らかにしている。タウンゼンド版だという。周桂笙訳と同じだ。
 まず、「漁翁故事」の冒頭から検討しよう。

【タウンゼンド】There was formerly an aged fisherman, so poor that he could barely obtain food for himself, his wife, and his three children. He went out early every morning to his employment ; and he had imposed a rule upon himself never to cast his nets above four times a day.(昔、年おいた漁夫がひとりいました。彼自身と妻、3人の子供をかろうじて養うことができるくらいに貧しかったのです。毎日、早朝より生業とする漁に出ましたが、自ら規則をつくり、1日に4回をこえる網は投げないときめていました)19頁
【大陸報】昔有一人,以捕魚為業,妻単子只,年老貧乏,不能自存。性喜早起,捕魚海濱,立約自限,毎日捕魚不得過四網。(昔、魚捕りを生業とする者がいた。妻一人子一人で、年老いて貧乏、生きていくのもむつかしい。早く起きて浜辺で魚を捕らえるが、自ら制限をもうけ、1日に4回を越えてはならないと決めていた)

 漢訳では、子供の数が原文と一致しない。細かな違いである。それを除けば、漢訳は、ほぼ英文原作に忠実な翻訳になっている。
 イスラム教による礼拝をいう箇所を見れば、漢訳が、原文にきわめて忠実であることがわかる。

【タウンゼンド】The day now began to break,1 and having, like a good Mussulman, finished his prayer,……(その日が明けようとしていました。よきマホメット教徒として、彼の祈りを終わると、……)19頁
【大陸報】時東方已白、翁遂祷祝畢(回教教典載:毎日回教徒当祷祝五次……)(時に東方はすでに明け、漁夫は祈りを終えた(回教の教典につぎのように載っている。毎日、回教徒は5回祈らなければならない……))

 英文原作には数字「1」を使用して注釈をつけている。すなわち、「コーランでは、一日5回の祈りをくりかえすように命じている……。 The Koran commands prayers to be repeated five times a day;……」とある。漢訳では、これを忠実に翻訳した。日本語翻訳の永峯版が、この部分を無視したことに較べれば、その忠実さの度合いがわかるだろう。
 漁夫の網にかかるのは、ロバの死骸、泥砂のつまったカゴなどでしかなかった。4度目にしてようやく手ごたえがあると感じたものの、あがってきたのは古瓶である。封印をといてみれば、中から煙がわきだし、それが凝縮して魔神が出現した。その魔神のセリフである。

【タウンゼンド】Humble thyself before me, or I will kill thee.(目の前にかしこまっておれ、殺してくれよう)20頁
【大陸報】其善視我、否当殺爾。(わしを見よ、さもなくば殺すぞ)

 ほとんど逐語訳といっていいほどの文言による漢訳である。
 魔神は、漁夫に助けられたにもかかわらず、殺すという。ただ、選択の余地がある。

【タウンゼンド】“It is,”replied the genie,“to permit thee to choose the manner of thy death.……”(魔神が答えて「お前に死に方を選ばせてやろう……」)20頁
【大陸報】魔答曰:“当聴汝自択死所。……”(魔神が答えて「お前に死に場所を選ばせてやろう……」)

 周桂笙訳のところで指摘したように、英文原作の「死に方」と漢訳の「死に場所」では、意味が異なる。なぜ漢訳は、同じ箇所を間違うのか。誤訳は、漢訳には少ないから、そのひとつとなる。
 魔神は、ダビデの息子ソロモンに反抗して古瓶に閉じ込められた。最初の百年に魔神が考えたのは、助けだしてくれたら金持ちにしてやるということだ。次の百年に考えたのは、……というように話がすすむ。
 タウンゼンド版では、当然のごとく最初の百年を first century と書く。それを漢訳では、「第一期」とする。間違いではない。一期が百年という意味だ。当時、百年で区切る考え方――「世紀」が中国にはなかったのかと想像する。そういえば、周桂笙訳の同一箇所では、「当第一世時(一百年為一世)」とわざわざ説明している。これを見れば、やはり「世紀」という考え方は、当時、なかったらしい。
 魔神に殺されるというキワに立った漁夫は、まさに「必要は創造の母である。Necessity is the mother of invention.必然者創造之母!」。漢訳が、原文にぴったりと合致している。
 巨大な魔神が小さな古瓶に入っていたとは、とても信じられない。もう一度、入ってみろ、というのが漁夫の機知である。まんまと、漁夫の策略にはまった魔神であった。
 命の恩人を殺そうとするのは、ギリシア王と医者のドウバン(Douban 杜笨)の物語とおなじではないか。聞きたいか、というところで次につづく。
 『大陸報』に続いているのだが、残念ながら原物を見ることができない以上、ここで触れるわけにはいかない。
 簡潔な文言で、タウンゼンド版を逐語訳にしたのが、この『大陸報』の漢訳であるということができる。
 〓溥浩は、1903年の出版物に、大陸書局が無名氏訳の『一千零一夜』と『天方夜譚』の二書を出版したと書いている*11。
 この二書と上の『大陸報』掲載訳文とどういう関係があるのか不明だ。
 上に紹介したものは、いずれも短いものである。短いというよりも、全体のうちの、最初のほんの数話といったところだ。
 長い翻訳が出てくるのは、『繍像小説』連載の「天方夜譚」を待たねばならなかった。

7 「天方夜譚」『繍像小説』第11-55期 癸卯9.1-[乙巳7.1](1903.10.20-[1905.8.1])
 『繍像小説』は、発行年月を記載しなくなってからは、発行が遅れ気味になる。[1905.8.1]は、カッコで示してあるように、半月刊が守られたとしたら、という仮定の年月だ。実は、連載が終了した第55期の発行年月は、現在の資料から推測すれば、1906年になってからとなる。約三年間の長期連載だ。
 漢訳の本文を検討する前に、訳者と元本について解説しておこう。

7-1 訳者――奚若のこと
 『繍像小説』連載のときは、訳者名も原書名も書かれていなかった。
 連載をはじめるにあたり、作品についてごくわずかな説明がつけられている。
 「本作品は、アラビアの著名な小説で、欧米の各国はみなこれを翻訳している。本館(注:商務印書館)は、特に名手を招いてこれを重訳し、同好の諸氏におおくりする。最初の10話は、すでにほかの刊行物に見えるので、ここではとくに未刊の作品を選び、まずおひろめする。……」
 ほかの刊行物の最初の10話というのは、なにか。
 10話という数からいえば、周桂笙訳しかありえない。タウンゼンド版でいえば、序文を含めると全11話だが、しかし、周桂笙訳は、そのうちの2話を削除している。全9話となる。これを指しているのだと推測される。
 ほかの刊行物にわざわざ言及されているところから、周桂笙訳の「一千零一夜」は、注目を集めていたことがわかる。
 周桂笙とは別の翻訳者を立てて、未訳の作品を『繍像小説』に連載していくと読める。
 別の翻訳者とは、誰か。
 『繍像小説』連載が終了したのち、版元の商務印書館は、雑誌には掲載しなかった冒頭部分を含めてそれを単行本にした。『(述異小説)天方夜譚』全4冊(説部叢書初集第五十四編)である。この奥付には、「繙訳者元和奚若 校訂者紹興金石 上海商務印書館 丙午(1906)年四月/中華民国二(1913)年十二再版」と書かれている。
 ここではじめて、訳者が奚若であることが明らかとなった。
 奚若については、詳細がわからない。巨冊といってもいいあの『中国翻訳詞典』にも記述は、ない。
 奚若は、本名なのか筆名なのか。それさえ、今では、はっきりしていないことになっている。
 奚若を筆名だとする説が、3種類ある。これから紹介していこう。

7-2 奚若筆名説
 ひとつは、伍国慶が、奚若の姓は張だという。「訳者奚若,即張奚若」と書いているのがそれだ*12。
 今まで、指摘されたことのない新説だといえる。ただし、張奚若の略歴について紹介しない。
 張奚若という名前の人物は、実在する。
 陳玉堂編著『中国近現代人物名号大辞典』(杭州・浙江古籍出版社1993.5)の466頁に収録されており、生没年が1889-1973年だ。陜西朝邑の人。その略歴を見れば、辛亥革命に参加し、そののちアメリカに留学、コロンビア大学を卒業している。その後、北京法政大学、中国大学、清華大学、中央大学、西南聯合大学の教授を歴任している。新中国成立後は、全国政協委員、中国人民外交学会会長、教育部長などをつとめた。
 張奚若は、橋川時雄『中国文化界人物総鑑』(北京・中華法令編印館1940.10.25初版/名著普及会復刻1982.3.20)にも収録される(411頁)。ただ、著述に「社約論考」などとあるだけで、『天方夜譚』をあげない。これほど著名な翻訳に言及しないのも不思議な話だ。
 奚若が、張奚若ならば、『繍像小説』に「天方夜譚」を連載しはじめた1903年は、数え年で十五歳だ。早熟で翻訳に手を染めた可能性は、なくはない。
 ただし、決定的な不都合がある。
 前出、『(述異小説)天方夜譚』全4冊(説部叢書初集第五十四編)の奥付に見える「繙訳者元和奚若 校訂者紹興金石」を見てほしい。
 奚若の出身地は、蘇州府元和県なのである。張奚若が、陜西朝邑の人であることを見れば、明らかに、同一人物ではない。
 校訂者が金石というなら、奚は姓で、若は名となろう。残念ながら、伍国慶の新説は成立しない。
 ふたつめは、北京図書館編『民国時期総書目(1911-1949)』外国文学(北京・書目文献出版社1987.4。番号0313)だ。収録された『天方夜譚』の上海・商務印書館本に注して「訳者奚若原名伍光建」(28頁)と書いている。該書自体にそのような記載があるわけではない。書目編者による注記だろう。だが、この著名な翻訳家・伍光建の出身は、広東新会県であるから、これまた奚若ではありえない。
 みっつ目は、前出の陳玉堂編著『中国近現代人物名号大辞典』だ。よりにもよって周桂笙の筆名だとする。
 「又別署奚若(訳《福爾摩斯再生案》)」(606頁)と書かれている。
 しかし、まず、周桂笙は、上海人だから、奚若の元和とは一致しない。
 この誤解が生じたのは、楊世驥「周桂笙」(『文苑談往』所収)に、そう書かれているからだ(11頁)。「福爾摩斯再生案」は、奚若と周桂笙の連名で示されているらしい。それが、そもそもの誤解のもとになったのだと推測する。
 日本でもはるか以前に、奚若は、周桂笙ではないか、という説が示されたことがあった。私は、それを否定している。
 ハガキで発行していた『清末小説研究会通信』第42号「漢訳シャーロック・ホームズ物、呉〓人の『情魔』」(1985.11.1)に書いている。

 中島利郎氏は、「周桂笙著訳目録初稿」(『〓唖』第20号1985.3.10)において、「奚若=周桂笙の筆名の可能性もある」とのべられるが、これは間違いだろう。阿英編『晩清戯曲小説目』に見える奚若訳の『福爾摩斯再生案』(シャーロック・ホームズの帰還 Return of Sherlock Holmes)4冊はあとで合本にされたらしい。『図書月報』第1冊(光緒三十二年五月十五日)に掲載された小説林広告によれば、『福爾摩斯再生後探案』一至五および同名書六至十の2種類が出版されている。前者は、元和奚若訳・武進蒋維喬潤辞と記され、後者には元和奚若訳・上海周桂笙訳と書かれる。奚若と周桂笙は、明らかに、別人である*13。

 これだけでも、奚若が周桂笙ではない証拠とするには十分だと思う。
 それでも疑問を持たれる人には、翻訳の実物をあげれば納得してもらえるだろう。
 さきに紹介した周桂笙の漢訳「一千零一夜」と「漁者」は、奚若の『天方夜譚』とは、別物である。
 冒頭部分をならべる。

【周桂笙】亜洲西南有賽生国者,其歴代帝皇本紀中載有賢君焉。君聡明叡智,士庶帰心,威武英明,鄰邦懾服。
【奚若】上古時波斯国跨大陸。據島嶼。東渡恒河。達支那之西部。並印度諸部隷焉。其幅員至遼闊。撒杜尼安歴史。載当時有主波斯者。英武好兵。威〓〓鄰国。

 見ればわかる。両者は、異なる。これほど異なる漢訳を、同一人物が提出すると考えることは、むつかしい。

7-3 奚若は、本名
 奚若は、筆名ではなく、奚姓だと考えるのは、前述したように、『天方夜譚』の奥付に「繙訳者元和奚若 校訂者紹興金石」とあるからだ。金と奚が対応する。
 決定的な資料のひとつは、写真である。
 『東方雑誌』第3年第1期(光緒三十二年一月二十五日1906.2.18)の冒頭に、「光緒三十一年十二月十六日/本館創設速成小学師範講習所第一次畢業時撮影」と題する写真が掲げられる。その教員に、厳保誠、長尾〓ママ太郎(シルクハットをかぶった洋装)、奚若、蒋維喬、徐念慈、徐傅霖、杜亜泉、蔡元培、徐球の姿が見える*14。
人物の姿は小さすぎて、顔を判別することはできない。だが、その名前のならびを見れば、奚若だけが筆名であろうはずがない。つまり、奚若は、本名である。
 もうひとつ、奚若は、1909年、商務印書館編訳所に勤務していた。職員名簿に彼の名前がある*15。
 「奚若 伯綬」*16とする筆名録がある。
 奚伯綬ならば、『張元済日記』*17に名前があがっている。日記といっても張元済の業務日誌のようなものだ。「編訳」の項目に見え、いずれも『英華大辞典』増補の仕事に関係している。
 1912年6月3日に奚伯翁の名前で(2頁)、同じく5日と7日には、奚伯綬としての記録がある(3頁)。
 奚伯綬は、『英華大辞典』を増補する仕事に、毎週5日間、毎日3時間、合計15時間従事して月に100元だという。
 奚若は、1906年には、商務印書館速成小学師範講習所の教員だった。1909年は、編訳所の職員だ。中華民国になってからも、編訳所の職員だったのだろうか。1912年、『英華大辞典』の増補という仕事に月給を100元支給するというのは、どういう意味だろうか。編訳所職員としての仕事ではなかったのか。職員ならば、給料のうちに数えるだろう。それとも、通常の編訳の仕事とは別に、『英華大辞典』の増補を考えているのか。詳細は、不明だ。
 英語に堪能だった奚若だから、商務印書館の『英華大辞典』に関係するのも不自然ではない。
 1912年6月8日に開催された商務印書館株主総会において、新しい理事が選出された。鮑咸昌、印有模、張元済、夏瑞芳、鄭孝胥、王之仁、奚伯綬の7名だ*18。
 奚若(伯綬)は、編訳所の職員から理事に就任したことになる。
 1919年5月15日の『張元済日記』「財政」には、奚伯綬の普通預金が824元9角1分あることを記録する。張元済の忘備録だから、詳細は不明。少なくとも、奚若は、1919年当時、商務印書館に勤務していたとわかる。
 わずかな資料しか残されていない。つづりあわせると以下のようになろうか。
 奚若は、「天方夜譚」の漢訳を『繍像小説』に掲載する。英語が堪能だったところから、商務印書館の速成小学師範講習所教員に就任した。その関係で編訳所の職員となり、民国後には理事に昇任する。あるいは、最初から編訳所の職員であったかもしれない。ゆえに『繍像小説』に連載した「天方夜譚」には、訳者名が掲げられなかったものか。
 中村忠行は、奚若を紹介して次のように書く。

 訳者奚若は、江蘇省元和の人、初め商務印書館編訳部に、後には小説林社出版部に在つて、翻訳に従事した人と覚しいが、氏姓・閲歴共に詳らかでない*19。

 郭延礼は、奚若を紹介して次のように書く。

 奚若、字は伯綬、江蘇元和の人。はじめ商務印書館編訳所で仕事をし、のちに小説林社にはいった。彼の生涯については、現在、以上が知られるだけだ*20。

 奚若は、小説林社から翻訳を多く出版しているから、上のような記述になったらしい。
 その訳書の関係からいうと、1906年ころまでは圧倒的に小説林社出版のものが多い。だから、中村忠行、郭延礼が書くのとは反対に、まず、小説林社に在籍(?)ののち、商務印書館編訳所に入社したものと考えられる。
 奚若については、以上のほかは不明のままにしておく。

【注】
10)『中国近代文学大系』第11集第28巻翻訳文学集3(施蟄存主編) 上海書店1991.4。355-359頁
11)『中国翻訳詞典』832頁
12)伍国慶「(天方夜譚)前言」『天方夜譚』長沙・岳麓書社1987.1。宋斐夫標点。3頁
13)樽本照雄『清末小説きまぐれ通信』清末小説研究会1986.8.1。43頁。ちなみに、前出の連燕堂「開闢翻訳新途徑的周桂笙」には、「前二冊与奚若合訳」(385頁)として、奚若と周桂笙を分けている。当然だ。
14)利波雄一「李伯元と商務印書館――『繍像小説』をめぐって」(早稲田大学中国文学会『中国文学研究』第10期1984.12。注30)の指摘によって知った。念のため、該誌第4年第1期(光緒三十三年正月二十五日1907.3.9)にも見える「光緒三十二年十二月本館創設速成小学師範講習所第二次畢業時撮影」に示された教員は、長尾雨山、章東泉、蒋竹荘、韓静庵、杜亜泉、徐念慈、呉書箴、孫雨蒼、厳練如である。
15)鄭貞文「我所知道的商務印書館編訳所」『文史資料選輯』53輯 1964.3/1981.6第二次印刷(日本影印)。143頁。同じく、『(1897-1987)商務印書館九十年――我和商務印書館』北京・商務印書館1987.1。204頁
16)張静廬、林松、李松年「戊戌変法前後報刊作者字号筆名録」『文史』第4輯 1965.6。230頁
17)張人鳳整理『張元済日記』上下 石家荘・河北教育出版社2001.1。北京・商務印書館1981.9もある。
18)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』北京・商務印書館1991.12。105頁
19)中村忠行「清末探偵小説史稿(一)」『清末小説研究』第2号 1978.10.31。30頁
20)郭延礼『中国近代翻訳文学概論』漢口・湖北教育出版社1998.3。355-356頁