「劉鉄雲と中根斎」補遺
――附:中根斎年譜

周  力


 この度、新刊された『日本清末小説研究文献目録』には、中根斎に関する論文が収録されている。樽本照雄氏による「劉鉄雲と中根斎」(通し番号0488)と「劉鉄雲と日本人」(0698)である。ここでは、樽本氏が指摘されていない新しい事実について若干の補足をしたい。主な資料としては、後掲の中根斎に関する関係資料および中根斎の親族による証言である。

@大倉組北京支店長に就任したかどうかについて
 樽本氏「劉鉄雲と中根斎」の冒頭に今関天彭の話が「……劉鉄雲は大倉組北京支店長みたいな役をしてゐた中根斎が兄弟分の交りをしてゐまして、……」と引用されている。さらに樽本氏は『続対支回顧録』の記載に基づき、中根斎の経歴を紹介した上で、次のように述べている。「今関は「北京支店長みたいな役をしてゐた中根斎」と言っているが、上記の経歴を見れば、正しくは大倉組奉天支店長ということになるだろう」。しかし、実は中根斎が大倉組北京支店長をしていた事実を示す資料が二つ存在している。一つは満蒙資料協会1942年発行の『中国紳士録』の中にある中根斎の項である。「明治四十一年大倉組を代表して泰平組合主事に就任次で大倉組北京支店長に就任大正三年辞職同時に貿易商天津中根洋行を開設す」と記されている。もう一つは谷サカヨ編・発行『大衆人事録』第14版(1943年、帝国秘密探偵社)「外地・満支・海外篇」中根斎の項である。中に「大倉組奉天北京各支店長」という記述が見える。つまり、今関天彭による「北京支店長みたいな役をしてゐた中根斎」の話は事実だったのである。

A中根斎の日本引き揚げと没年について
 樽本氏「劉鉄雲と日本人」の中で、劉鉄雲と交流があったという重要な十四人の日本人について詳しく紹介されている。そのうち、没年が不明な人物は中根斎を含む四人だけである。中根斎の甥である宮村勇の話によれば、中根斎は1946年に中国から日本に戻り、その後は熊本の宮村家で隠居生活を送り、1952年10月12日午前9時頃心臓マヒのため死去、享年83。遺骨は熊本市にある本妙寺中根納骨堂に納められていたという。

B中根斎の家族について
 1896年7月29日、中根斎は熊本県熊本市蔚山町、中根熊次の三女武免と結婚し婿養子となり、1899年妻武免との間に長男、不覊雄(一人息子)をもうけた。不覊雄は1923年、東京大学経済科、1924年同政治科卒業。立教大学教授を経て「満州国」司法部司法学校教授、中華民国駐在、「満州国」通商代表などを歴任。『満州紳士録』第三版(1940年 満蒙資料協会)と谷サカヨ編・発行『大衆人事録』第十四版「外地・満支・海外篇」(1943年 帝国秘密探偵社)に中根不覊雄の経歴が見える。
 中根斎は1932年頃、中国人女性彭振韜(1915-2000 日本名清子)と出会い、長女玲子と次女珠子が生まれている。1946年、中根斎は彭振韜氏と二人の娘を中国に残したまま、単身で日本に帰国した。

C劉鉄雲についての中根斎の人物評とか、印象とかは、なにも残っていないようだ。ただ、中根斎の趣味は「書画金石彫刻」(谷サカヨ編・発行『大衆人事録』第14版)というから、書画金石の愛好家として劉鉄雲と共通点がある。
 特に中根斎は天津でたくさんの古書画金石を購入した、と親族から聞いている。
 「文革」中、それらの金石は北京の紫竹院公園(今の中国国家図書館の裏)の川に捨てられたという。
 中根斎のことに詳しい人はほとんどなくなったので、劉鉄雲と中根斎はなぜ「兄弟分の交りをしていた」かは謎のままになるかもしれない。


附:中根斎年譜

 この年譜は関係資料と中根斎の親族の証言をもとに作成したものである。関係資料は下記の通りである。

1.奥古貞次・藤村徳一編『満州紳士録』1907年
2.『続対支回顧録』東亜同文会編 1941年
3.中国紳士録 満蒙資料協会 1942年
4.谷サカヨ編・発行『大衆人事録』第14版 1943年 帝国秘密探偵社
5.宮村勇1981年4月6日中根玲子宛の手紙

1869年(明治2)11月7日熊本県八代郡鏡町宮村勇八の四男として生まれる。
1884年(明治17)熊本県立医学校に入学、途中退学。
1886年(明治19)長崎高等医学校に入学、翌年退学。
1889年(明治22)近衛歩兵に入隊。
1893年(明治26)近衛歩兵より満期除隊。
1894年(明治27)日清戦役に応召、大寺混成旅団に編入され、山東省栄成湾に上陸。
1896年(明治29)召集を解かれ、同7月29日熊本県熊本市蔚山町中根熊次三女武免と婿養子縁組となる。同年再び威海衛占領軍の通訳を務める。
 在職中、清国子弟を集め、私塾同文舎を開き、日本語の教授を従事。
1898年(明治31)遼東半島の還付に伴い威海衛守備隊も撤退、帰国。
 同年大阪商船会社に入社、宇品支店から本社支那部に転じた。
1899年(明治32)6月長男中根不覊雄が生まれる。
1900年(明治33)1月、大阪商船会社重役の杉山孝平に随行して上海に行き、上海支店、埠頭、倉庫に要する土地家屋の買収にあたった。
 2月、日支合弁日豊輪船公司を組織し、社長に推され、義和団の排外熱が高まり、同年6月解散。
1901年(明治34)日支英露合弁山東汽船会社を設立、社長となる。
1902年(明治35)天津から河南省に通ずる運河に曳船業を始める目的で天津に赴き、方若から劉鉄雲に紹介された。
1906年(明治39)大倉組奉天支店を新設、支店長となり、奉天商業会議所第一期の会頭も兼任。
1908年(明治41)三井、大倉、高田を一団とし、武器売込を専業とする泰平組合が成立、組合の主事に就任。次いで大倉組北京支店長に就任。
1911年(明治44)辛亥革命にあたって、清国政府に兵器の供給を行なう。
1914年(大正3)袁世凱に日中両国が同一口径の銃砲を使用するよう働きかけに成功、日本側の資金調達問題が難航し、実現できなかった。同年11月泰平組合に辞表を提出。大倉組北京支店長辞職。
1915年(大正4)天津中根洋行を開店し、電機販売業を始めた。
1923年(大正12)北京の国民政府農商部諮議となる。
1932年(昭和7)「満州国」の建国に伴い、奉天に行く。実業部総長張燕卿に商標法実施の重要性を説き、同部嘱託となる。法規の設定を委任され、翌年実施に至った。
1933年(昭和8)6月「満州国」特許弁理士となる。
 長春で長女の玲子が生まれる。
1934年(昭和9)「満州国」実業部嘱託を辞職。
 同年北京で中根特許事務所を創業。
1935年(昭和10)次女の珠子が生まれる。
1946年(昭和21)敗戦のため、日本に引き揚げ、熊本で隠居。
1952年(昭和27)10月12日午前九時頃心臓マヒのため、熊本の自宅で死去。享年83。