李伯元の肺病宣言
――『繍像小説』発行遅延に関連して


樽本照雄


●1 李伯元の死因
 李伯元の死因は、肺病すなわち肺結核であった。
 これは、周知のことだ。あらためて証明を必要としないようだから、定説であるといっていい。
 現在にいたるまで、この定説にたいして、疑問、異議が提出されたとは聞いていない。
 文学史的事実を探るうえで証拠とされるもののひとつは、本人の記述、友人、親戚の証言などである。
 李伯元の死因について、本人が書き残した文章の存在が明らかにされたことはない。それどころか、客観的に証明する資料が提出されたこともない。
 李伯元の死因が肺病であったことについては、友人たちの証言が有力証拠となっている。
 ただし、それに触れない重要資料もある。李伯元の友人であった呉〓人の証言が、それに該当する。李伯元の死後、彼を追悼して書かれた短いものだ*1。
 呉〓人は、李伯元の死因について何ものべていない。
 触れていないといえば、李伯元が『繍像小説』を編集したことにも言及しない。ゆえに、親しい友人である呉〓人が李伯元の『繍像小説』主編をいわないのだから、李伯元は該誌の主編ではなかった、と立論する研究者も出てくる。
 あらかじめ断わっておく。私は、本稿において李伯元の死因が肺病であったことを否定するつもりはない。ご安心いただきたい。
 私が言いたいのは、次のことだ。
 すなわち、定説になっている事柄について、あらためて万人を納得させる具体的な証拠――物的資料を提出しようとすれば、そこには大きな困難が存在する。
 さきほどあげた李伯元の『繍像小説』主編問題が、よい例だ。
 定説であった李伯元『繍像小説』主編説を、物的資料を示してあらためて証明するために、約17年の時間が必要だった。
 『繍像小説』の編集に李伯元を招聘した、という商務印書館自身が新聞に掲載した広告こそが、決定的な証拠となる。
 この資料が出てくるまでに、それくらい長い期間を待たなければならなかったということだ。
 まず、李伯元のわずらった肺病について、呉〓人以外の同時代人がどのように証言しているのかを見ておきたい。

◎1-1 同時代人たちの証言
 李伯元の死後に書かれた追悼の対聯集が、『李伯元研究資料』に収録されている。ただし、写しのようで、これらがいつ、どこに発表されたのか、細部にわたる説明はない。
 これらの対聯を書いた人々は、全員が李伯元と面識があったと考えていいだろう。
 そのなかのひとり文廷華(文芸閣の弟)は、対聯の語句に「数月間労〓病祭}以死」と織り込んだ。「癆〓病祭}」は肺病のことだから、これが死因となる。
 肺病は、長期間にわたって病状が徐々に悪化する。「数月間」というのは、病床に臥して身動きが取れなくなった期間のことを表現しているのだろう、と私は考える。
 死後、約九ヵ月後に、先にあげた呉〓人の李伯元伝が公表された。ただし、前述のように死因までは言及がない。
 すこし時間がくだり、1924年以降に、李伯元に言及する文章が重なって発表された。
 魯迅は、『中国小説史略』の「第二十八篇 清末之譴責小説」において、「三十三年三月以〓病祭}卒,年四十(一八六七−一九〇六)」*2と記述している。
 魯迅の記述に見える光緒「三十三年」は、「三十二年」の誤植だ。魯迅は、李伯元の死因が病とだけ書いている。肺病であったと知っていたかどうかはわからない。
 顧頡剛が李伯元の親族に聞き取りをしたのは、胡適の依頼をうけたからだ。
 『小説月報』に発表した文章の中で、「宝嘉以癆〓病祭}卒。時光緒三十二年丙午,年方四十」*3と記録した。親族の証言でも、死因は肺病になっている。
 孫玉声も李伯元の友人のひとりだから、彼の証言も信用することができる。李伯元を思い出して、「無何,李患〓病祭}疾,卒於億〓金3}里旅邸,時年猶未四十」*4と書く。死去した場所を特定して詳しい。
 李伯元の死因が肺病であることについて、友人、同時代人の証言は一致しており例外がない。
 以上のようなわけで、李伯元の肺病死因説は、定説となった。

◎1-2 魏紹昌の文章
 阿英も、以上の記述をもとにして李伯元が肺病で死去したことをのべる。
 魏紹昌は、さらに、李伯元をとりまく当時の情況について彼自身の考察をつけくわえた。
 李伯元の病状と当時の執筆情況をからめて、魏紹昌は詳細に記述していて他の追従を許さない。
 原文のままを引用する。

〔(注)一七〕李伯元卒於光緒三十二年丙午三月十四日,當年二月初一出版的第六十九期《繍像小説》半月刊上,還在連載他的長篇小説《活地獄》第三十九回,至二月十五日出版的第七十期上,才改由呉〓人続写第四十回,可見李伯元當年正月間尚在動筆,他得病至故世不過一個半月光景。李伯元原来患的是慢性〓病祭}癆症,因長期積労成疾,便一発不可収拾,只活了四十歳。……(李伯元は、光緒三十二年丙午三月十四日に死去した。その年の二月初一日に出版された『繍像小説』第69期誌上では、まだ彼の「活地獄」第39回を連載しており、二月十五日出版の第70期で、ようやく呉〓人が変わって第40回を続作した。李伯元は、その年の正月までなお執筆していたことが理解できる。彼が病気になって逝去するまで一ヵ月半にすぎない。李伯元は、もともと慢性の肺病をわずらっていた。長年にわたる過労のために病気になり、収拾することができず、四十歳を生きただけだった。……)*5

 『繍像小説』は光緒二十九(1903)年に創刊して、月2回の刊行を維持していれば、3年全72期を出すのが、ちょうと光緒三十二年三月になる。しかも李伯元の死去は、同年同月なのだ。
 李伯元の死去と『繍像小説』の停刊は、両者ともに光緒三十二年三月に発生した。時間が、まったく重なっている。
 主編の李伯元がいなくなったのだから、『繍像小説』が停刊するのが普通であるし、また当然である。そう理解して不自然なところは、どこにもない。誰しもがそう考えた。
 阿英が指摘して以来、中国の研究者は、以上のように説明してきている。魏紹昌も例外ではなく、阿英の記述を疑うことなく忠実になぞった。
 ゆえに、光緒三十二年正月まで李伯元は執筆を続けていた、と魏紹昌が想像したのも、理解できないわけではない。
 これに対して、研究者はひとりとして異議をとなえていないから、定説の一部となっているのだろう。
 だが、現在、『繍像小説』の発行が遅れていたという事実を、私たちは知っている。李伯元の死後も『繍像小説』は、刊行されつづけていたのだ。
 『繍像小説』発行遅延説をもとにすれば、李伯元の死去に関連して、魏紹昌の記述には、不十分なところが出てくる。魏紹昌がおこなった説明の問題点をふたつ指摘しておく。
 問題点1:『繍像小説』の発行時期について、魏紹昌は誤認をしている。
 『繍像小説』は、期日を守られて半月発行であった、と長らく考えられていた。
 魏紹昌のこの文章が発表された1980年ころは、『繍像小説』発行遅延説は提出されていない。1985年まで待たなくてはならない。
 重要な点だからくりかえす。該誌の停刊と李伯元の死去は、同年同月で重なるように見える。李伯元の死去によって『繍像小説』は停刊せざるをえなくなった、と誰でもが考えて納得する。
 だからこそ、魏紹昌は、光緒三十二年正月ころまで、『繍像小説』の第3年全72期が完結する直前まで、すなわち李伯元が死亡する直前まで、彼は原稿を執筆していた、と推測した。
 しかし、李伯元の死後も『繍像小説』が刊行されていたとなると、「文明小史」「活地獄」などの終わり部分が、李伯元の著作ではなくなる。
 中国と日本において提出された新しい見解――『繍像小説』発行遅延説について、魏紹昌は、生前、とうとう一言も反論しようとはしなかった。また、関連する文章も書こうとはしなかった。『繍像小説』の主編問題については、いくつか発言したにもかかわらずだ。
 『繍像小説』発行遅延説は、魏紹昌にとっては、どうしても承服しがたい問題だったのではないか。しかし、反論できない部分があったため、文章を発表するには至らなかった、と私は考えている。
 問題点2:魏紹昌の記述に、あいまいな点がある。
 「病気になって(得病)」から死去するまで一ヵ月半にすぎない、と魏紹昌は書く。それと、その直後にのべられる「李伯元は、もともと慢性の肺病をわずらっていた」というのは、矛盾する。
 好意的に解釈すれば、病状が悪くなって、という意味を魏紹昌は持たせているのだろうか。
 ふたたび強調しておきたいのだが、私は、李伯元の死因が肺病であったことを否定するつもりは、まったくない。
 それどころか、李伯元自身が肺病であることをのべた文章を見つけた。新発見である。ゆえに、ここで公表したい。この記事により、李伯元の病状と執筆状況について、より一層深めた考察が可能になる。

◎1-3 李伯元肺病の新出資料
 李伯元がわずらった肺病について、今まで、彼の友人たちの証言しか見ることができなかった。
 まさか、李伯元が、自分が肺病であることを告白する新聞広告を出していたとは、思いもしない。私は実物を発見して、おどろいた。
 新出資料である。かつ、重要資料であるから、以下に全文を引用する。

『世界繁華報』光緒三十二年二月十五日(1906.3.9)

告我良朋
鄙人夙有肺疾春
寒即□入夜尤甚
医云非静攝不可
故自今年正月起
 諸公招飲一概
心領敬謝容俟賎
躯全愈再當照旧
追陪敬布区区伏
希愛察 南亭啓

 『世界繁華報』の原物は、上海図書館に所蔵されている。現在は、マイクロフィルムで読むことができる。ただし、1901年から1907年までのうち68日分しか残っていない。しかも、その状態は、決して良好というわけではない。破損している箇所もあるし、新聞の印刷そのものが鮮明ではなく、裏写りが激しく、ほとんど読むことができない部分もある。
 問題の文章は、比較的鮮明に印刷されているのが幸いした。
 「私の良友へ告げる」と題されており、南亭、すなわち李伯元の署名がある。その内容から、私は該文を「肺病宣言」と名付ける。
 李伯元の肺病宣言は、新聞第1面の題字の下に日本のタバコの広告などにまざって掲載されている。見落としてしまうほどのちいささというわけではないが、決して大きなあつかいではない。自分の主宰する新聞だから、社主が出した広告ということになろうか。
 肺病宣言によれば、李伯元は、自分が肺を病んでいたことをはやくから知っていた。春の寒さが身にこたえ(一字不明)、夜は特にひどい。医者は、安静にして摂生するようにという。そこで、今年の正月から、みなさまのご招待には、ご好意だけをうけて、お断わりしている。全快いたしましたら、またよろしく。
 内容としては、病気による招宴辞退だけのように見える。
 だが、この広告自体が奇妙なものだ。自分の肺病を広く宣言するのは、なんのためか、と不思議に思う。奇妙というよりも、いろいろと考える手掛かりをあたえてくれるといった方がいいか。
 だいいち、招宴の謝絶ならば、個別に対応できそうなものではないか。それをわざわざ新聞広告で知らせているところから、逆に考えれば、当時、李伯元は、かなり頻繁に宴会に招かれていたと想像できる。
 李伯元は、正月から友人たちの宴会を謝絶していると説明する。正月とは、この宣言から約一ヵ月半まえのことだ。招宴を断わりはじめてから肺病宣言まで、約一ヵ月半も経過している。
 この部分から推測できるのは、この一ヵ月半の間に、ひきもきらず招待が続いていたから、個別に対応するのがあまりに煩わしく、たまりかねて新聞広告を出したということか。ただし、現在見ることのできる『世界繁華報』は、二月十五日(1906.3.9)以前が欠落している。所蔵されない新聞に李伯元の動静をうかがう記事があるにしても、今、それを知ることができない。
 この新聞広告から、ちょうど一ヵ月後の三月十四日(1906.4.7)に、李伯元は死去した。
 欧陽鉅源は李伯元のことを称して「花柳界の管理役」といったことがある*6。多忙であったという意味だ。それと彼の持病である肺病だ。
 問題になるのは、病身の李伯元に原稿執筆の余裕があったのかどうかである。
 進行中の肺病をわずらっているが、病状が軽微である時期は「花柳界の調停役」をつとめながらも新聞、雑誌を編集し原稿を書くことはできたであろう。李伯元には、欧陽鉅源という協力者がいた。大いに欧陽を頼りにしたはずだ。肺病持ちの身では、協力者が存在しなければ、原稿執筆などできはしなかった、ということではないか。
 特に注目されるのが、光緒三十二年正月からのことだ。
 宴会に出ることをやめれば、その分、作品を執筆する時間が、李伯元には生じたはずだ、という見方もありうる。
 その反対に、宴会に出席するだけの気力もない李伯元に、創作の筆を執り続ける精神力が残っていただろうか。大いに疑問だということもできる。魏紹昌がいう「その年の正月までなお執筆していた」は正しくなく、正月には執筆をやめていた、と考える。
 では、李伯元の「肺病宣言」と『繍像小説』の刊行状況をからめるとどうなるか。
 発行遅延説をあつかえば、必然的に前稿「李伯元は死後も『繍像小説』を編集したか」*7と重複する部分がでてくる。ご了解をいただきたい。

●2 『繍像小説』発行遅延の状況
 『繍像小説』の発行が遅延していた具体的な状況は、各種新聞に掲載された出版広告を追跡することで詳細に見ることができる。だから、いままで(天津)『大公報』、『中外日報』、『申報』あるいは雑誌『東方雑誌』の広告に注目してきた。
 以上に加えて、『繍像小説』の発行が遅れていた事実を、商務印書館自身が広告を出してみずから認めている証拠も、私は、すでに提出している。
 ひとつは、光緒三十一年二月初六日(1905.3.11)付『中外日報』の「上海商務印書館繍像小説第廿五九期至止均出版」だ。
 本来は光緒三十年三月には刊行されていなければならない第1年全24期である。それが、作者に事情があって発行が数ヵ月も遅れている。刊行がようやく同年年末になったことが、この広告からわかる。
 ふたつめは、光緒三十一年十二月初一日(1905.12.26)付『中外日報』「商務印書館繍像小説両年全〓人分}出斉第三年続〓ban広告」である。
 前の広告からほぼ十ヵ月後に、商務印書館がふたたび出した『繍像小説』の発行遅延広告だ。
 光緒三十一年の年末に第2年度分第48期までを刊行完了した、第3年も継続発行します、という。ただし、こちらには発行遅延の原因について説明はしていない。
 『繍像小説』第2年度も、初年度の発行遅延をそのまま引きずっている。全体として、予定よりも、ほぼ、九ヵ月の遅れだ。
 このふたつの広告を見ると、光緒三十年年末に第1年度分が、第2年度分が同様に遅れて光緒三十一年年末に刊行を完了していることが明らかだ。発行遅延が日常化しており、年度の終わりに、そのつど商務印書館がおわび広告をだしていることになる。
 みっつめの発行遅延広告を見つけたので、紹介する。
 光緒三十一年年末に第49、50期を出版しているから、すでに第3年度分の刊行をはじめていたことになる。
 光緒三十二年正月二十九日付『申報』の広告では、第49-52期の出版が見える。つまり、第51期と第52期の2期分を刊行して、かろうじて半月刊の形を整えたということだ。しかし、同年二月、三月は、それ以上新しい刊行がない。
 そこに李伯元の肺病が宣言された。彼の肺病宣言が掲載された同じ日の新聞に、商務印書館が『繍像小説』第52期を出版したという広告が出ている。

◎2-1 『繍像小説』発行遅延を証明する新出資料
 いままで公表されたことのない資料である。

『世界繁華報』光緒三十二年二月十五日(1906.3.9)
上海商務印書館繍像小説第五十二期出版
                  本館第一□□□小説□□□
                  □□去夏即□出□□□□□
                  因事耽閣□之此項小説□□
                  空結撰非俟有興会断無佳文
有此原因故□□去冬始行□事致令閲者多延数月之久本館不能無歉□
心今□出第念五号至四十八号是為第二年全〓人分}□□稿已多加工排印四
十八期現已一律出版即日出売各埠定□均五□全□以慰先睹為快之心
以後蝉聯而下決無愆□凡□一□(後略)

 新聞の印刷そのものが不鮮明である。活字が原因なのか、それともインクの問題なのか、組みの技術が未熟なのか、それともたまたまこの日のものだけがそうなのか、とにかく読むことのできない部分が多い。
 どうにか判別できそうな箇所の一部を上にかかげた。
 読めない箇所を埋めていくのは、パズルを解くようなものだ。とりかかってみると、この字面をどこかで見たような気がしてきた。記憶をたどると、つい先日発表した「李伯元は死後も『繍像小説』を編集したか」に思いいたる。光緒三十一年二月初六日(1905.3.11)付『中外日報』に掲載された商務印書館の『繍像小説』発行遅延広告にほかならない。比較対照してみれば、両者の字句は、ほとんど同一である。
 判読不明の箇所に字をおぎない、あらためて全文を下にかかげる。

上海商務印書館繍像小説第五十二期出版
                  本館第一年繍像小説全〓廿
                  四冊去夏即応出斉嗣以作者
                  因事耽閣兼之此項小説皆憑
                  空結撰非俟有興会断無佳文
有此原因故直至去冬始行竣事致令閲者多延数月之久本館不能無歉於
心今接出第念五号至四十八号是為第二年全〓幸積稿已多加工排印四
十八期現已一律出版即日出売各埠定処均五冊全寄以慰先覩為快之心
以後蝉聯而下決無愆期凡購一冊価洋二角預定全年二十四冊者価洋四
元 〓加郵費五角代定五〓九折十〓八折価帰一律空函 欲補購第一
年□全〓者有仍售洋四元外埠郵費照加零售仍毎冊二角特此布告惟希
雅鑑上海英租界棋盤街北首商務印書館啓

 確認しておく。光緒三十一年二月初六日(1905.3.11)付『中外日報』に掲載した『繍像小説』の発行遅延広告を、そのまま『世界繁華報』光緒三十二年二月十五日(1906.3.9)に流用している。
 書き換えたのは、わずかだ。主として、第25-29期の5冊を一度に刊行します(念五念六念七念八念九等五期均已一律出版)という箇所を、48期(四十八期現已一律出版)にしただけにすぎない。
 ただし、つじつまのあわない文面になっている箇所がある。
 冒頭の「本館第一年繍像小説」部分は、もとの広告の文面のままだ。広告が掲載された時期を考慮すれば、昨年の夏ではなく、一昨年の夏でなくてはならない。
 第25-29期の5冊を一括して発行した、というのがもとの文面だった。そこを、48期を全部発行したと書き換えたのはいい。だが、そのあとの5冊をそのままにして訂正していないから、期数が合わなくなって矛盾する。
 広告主は、商務印書館という名称にはなっている。だが、以上の文章の不備を見れば、文面を詳しく検討する余裕もなかったようだ。

◎2-2 『繍像小説』発行遅延広告の意味
 そんな記述間違いのほかに、とりわけ私が重視するのは、この『繍像小説』第52期刊行広告――発行遅延広告なのだが、李伯元の肺病宣言と同じ日の『世界繁華報』に掲載された事実なのだ。
 『繍像小説』の主編である李伯元が、肺病のために病気治療に専念する。それと同時に『繍像小説』が第52期を刊行して、続刊を案内する。一般読者にとっては、『繍像小説』が李伯元(南亭)の編集者であったとは、その時点では周知の事実ではなかったかもしれない。しかし、南亭は『繍像小説』の主要執筆者なのだから、その彼が病気で休むとなれば、『繍像小説』が続刊されるかどうかに疑問を抱いても不思議ではなかろう。
 三月十四日、李伯元は死去する。
 三月二十日付『中外日報』では、あいかわらず『繍像小説』第49-52期の出版広告をくりかえしている。
 二月より『繍像小説』の刊行が停滞していることが、以上から理解できる。
 李伯元は、前年の年末まではかろうじて原稿を執筆していた。その原稿が、正月二十九日の『繍像小説』第51、52期に掲載された、と読める。招宴を断わった正月から、『繍像小説』の刊行はこの第52期どまりなのだ。
 以上のような『繍像小説』の刊行状況を見れば、李伯元は招宴謝絶と同時に原稿執筆も中止していたと考えたほうがいいのではないか。同時に、李伯元が『繍像小説』の編集にかかわったのも第52期までだった、との結論に到達する。

◎2-3 李伯元死後の『繍像小説』刊行
 李伯元が死去した三月には、月末に『繍像小説』第53、54期が出ている。死後約十日前後である。
 正月末に第51期、第52期の2冊を出版していて、二月は、空白だ。そして李伯元の死去直後に2冊を刊行する。なにやら、無理矢理の感じがする。
 無理矢理でも、それでは、その後も引き続いて雑誌を刊行したのかといえば、違う。
 これまた不思議なことに、四月、閏四月、五月と三ヵ月も休止しておいて、六月初二日に第55期、第56期の出版広告を出すのである。
 読者の側から見ればどうなるか。
 『繍像小説』主編の李伯元が死去したその直後に2冊が発行されるが、それも途絶える。同時代人は、『繍像小説』はこれで停刊したと思ったのではないか。四月、閏四月、五月と雑誌が出てこないのだから、停刊はほとんど既定の事実のように受け止められたと推測される。
 ところが、驚いたことに、李伯元死後の約三ヵ月半が経過した時点で、第55期が、突然、姿をあらわすのである。
 『繍像小説』が、李伯元の死後も刊行されはじめた。しかも、「文明小史」「活地獄」といった掲載作品は、李伯元の筆名である南亭亭長を使用したままである。
 李伯元の筆名を知っている人にとっては、狐につままれた気がしただろう。あるいは、ひそかにうなずいたかもしれない。なかには、南亭亭長の名前をかたったニセモノだと感じた人もいた。
 そう思った人物が、ほかならぬ呉〓人である。

◎2-4 呉〓人の非難
 呉〓人の追悼文、いわゆる李伯元伝のなかで、彼は、「町の商人のなかには、他人の書いた小説を、君の名前をかたって出版している(坊賈甚有以他人所撰之小説,仮君名以出版)」*8と書いた。私は、この箇所に注目するように従来から主張しつづけている。
 当時、李伯元の名前を使用した翻訳作品が出版された。李伯元訳『冰山雪海』(科学会社 光緒三十二年八月)というのが、それだ。
 しかし、呉〓人がいう「君の名前をかたって出版している」というのは、この『冰山雪海』をさしているのではない。なぜなら、当時、李伯元の筆名が南亭亭長であることは、周知の事実ではないからだ。あくまでも、南亭亭長、あるいは南亭という筆名が広く知られている。李伯元といっても、当時の読者にしてみれば、見知らぬ人物であるにすぎない。無名人の名前をかたっても、作品の販売促進にはなんの効果もないだろう。出版社が、わざわざ無名である李伯元という名前を使う理由がない。
 南亭亭長の名前をかたって作品を出版しているというのであれば、李伯元の死後に刊行されている『繍像小説』誌上に連載中の「文明小史」「活地獄」などのほかにはありえない。
 呉〓人の非難にもかかわらず、『繍像小説』は、光緒三十二年の六月から年末までの約七ヵ月に、ほとんど1年分を刊行してしまう。
 どういう事情があったのか不明だが、しまいには呉〓人をひっぱりだして『繍像小説』第70-71期掲載の「活地獄」第40-42回を繭叟名で続作させている。
 『繍像小説』を李伯元の死後も編集できるのは、彼の協力者であった欧陽鉅源をおいてはいない。これも、従来からの私の見解である。

◎2-5 『繍像小説』主編の後継者
 『繍像小説』の編集は、商務印書館が李伯元にすべてを依託するかたちで発行されてきた。まとまった編集費用を渡してまかせる、いわば下請け発注である。
 商務印書館側は、李伯元の肺病宣言、死去という事態に直面し、その後の『繍像小説』のありかたについて議論を行なったであろう。残念ながら、それを伝える資料は、現在、見つかっていない。
 しかし、『繍像小説』が実際に発行されつづけている事実を見れば、主編を誰かが担当したとわかる。それは欧陽鉅源である、と私はいっている。主編交代の時期は、当然ながら李伯元の死去前後である。
 商務印書館と欧陽鉅源が協議して、『繍像小説』の継続発行を決定し準備するのに、約三ヵ月がかかった。
 前述のように、光緒三十二年年末までに第72期までを刊行した。
 見逃すことができない重要な記録がある。
 すなわち、同年十二月初一日に、蒋維喬が談小蓮と『繍像小説』の改良について相談している*9。
 外部の人間である談小蓮の名前がでてきた。相談というのは、『繍像小説』の主編に就任することを蒋維喬が談小蓮に依頼したのではないか。
 李伯元死後、『繍像小説』は、とりあえず欧陽鉅源の編集で第72期という区切りのいいところまで刊行できそうだ。その後は、どうするか。誰かに主編を交代してもらおう、くらいの相談は商務印書館内部で首脳陣がおこなったであろう。外部の人物がでてくるということは、首脳陣の相談の結果、新しい主編人事になったと考えるのが自然だ。つまり、商務印書館首脳陣による欧陽鉅源排除の動きである。
 しかし、談小蓮は、結局のところ主編就任を承諾しなかったようだ。
 外部にむけては、誌面改良をうたい、決まりしだいお知らせします、と広告をうちながら、『繍像小説』は再び刊行されることはなかった。欧陽鉅源を排除し、新しい主編を見つけることができなかった結果である、と私は判断する。

●3 結論
 まとめるとこうなる。
 商務印書館が出した『繍像小説』発行遅延広告が、以下のように3種類存在している。

 1.光緒三十一年二月初六日(1905.3.11)付『中外日報』「上海商務印書館繍像小説第廿五九期至止均出版」
 2.光緒三十一年十二月初一日(1905.12.26)付『中外日報』「商務印書館繍像小説両年全〓人分}出斉第三年続〓ban広告」
 3.光緒三十二年二月十五日(1906.3.9)付『世界繁華報』「上海商務印書館繍像小説第五十二期出版」

 1は、第1年度分が遅れており、その原因は、「作者の事情」によるという。
 2は、第2年度分が出そろったという広告で、発行遅延の理由はのべない。
 3は、1の文章を一部分のみ改変して流用し、第2年度分がでたことをいう。表題は、『繍像小説』第52期を刊行した、という意味だ。1と同じ文面で、遅延の原因は、「作者の事情」である。
 光緒三十一年二月、光緒三十二年二月と一年の間をあけて、雑誌発行遅延の理由が、同じく「作者の事情」による、であることに注目する。
 この「作者」とは、以前指摘したように、李伯元を指す。李伯元の事情とは、なにか。
 第1年度の場合は、商務印書館と金港堂の合弁が背景にあるとしても、光緒三十二年にまで尾を引かないだろう。
 『世界繁華報』に掲載された李伯元の肺病宣言を商務印書館の『繍像小説』発行遅延広告3種類に関連づけて考えれば、該誌の恒常的発行遅延は、主編・李伯元の肺病が主な原因であったという結論になる。

【注】
1)呉〓人「李伯元」『月月小説』第1年第3号 光緒三十二年十一月望日(1906.12.30)/魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。10頁。「李伯元伝」と称される。
2)『中国小説史略』下巻 北京・新潮社1924.6。328頁
3)「官場現形記之作者(読書雑記)」『小説月報』第15巻第6号1924.6.10/『李伯元研究資料』17頁
4)孫玉声「一一 李伯元」『退醒廬筆記』上海図書館1925.11初出未見/民国筆記小説大観第1輯 太原・山西古籍出版社1995.12。109頁/『李伯元研究資料』18頁
5)『李伯元研究資料』7頁
6)包天笑「晩清四小説家」(初出は「清晩四小説家」)、「釧影楼筆記」7『小説月報』第19期1942.4.1。34-35頁。『李伯元研究資料』28頁
7)樽本「李伯元は死後も『繍像小説』を編集したか」『清末小説から』第64号2002.1.1
8)『月月小説』第1年第3号 光緒三十二年十一月望日(1906.12.30)/『李伯元研究資料』10頁
9)汪家熔選注「蒋維喬日記選」『出版史料』1992年第2期(総28期)1992.6。44,45-62頁