漢訳アラビアン・ナイト(5)


樽 本 照 雄


4-6 漱石文庫所蔵の『アラビアン・ナイト』――サグデン版(ラウトレッジ社)
 夏目漱石が、当時、購入した洋書は廉価本であったという。

 漱石文庫の大部分は、今日でいえば文庫や新書にあたるような廉価本で占められている。この時代安い洋書といえば、文庫本サイズ「カッセル本」の名で親しまれたカッセル社ナショナル・ライブラリー、そしてラウトレッジ、ハイネマン、ニュウンズなど数社から刊行されていた六ペンス叢書あたりが代表格といえよう。*24

 なにはともあれ、「天方夜譚序」に見えるラウトレッジ社の刊行物だ。漱石文庫のものが、はたしてレイン版かどうかわからない。いろいろ想像することができるにしても、版本に関しては、見るまでは、なにも書くことができない。
 勤務校の図書館を通じて複写を申し込むと、混んでいるから時間がかかるという返答である。読むことができれば、いい。いくらでも待ちましょう。
 それでも、8ヵ月が経過してみれば、忘れられたのではないかとさすがに心配になる。再度、問い合わせて、ようやく届いた複写を点検してみれば、該書は、上に引用したような廉価本ではない。本文501頁もある精裝本だ。
 「K. Natsume. March 1898」と署名がある。となると、目録にある1901年という記述は、間違いだとわかる。購入したのが1898年3月なのだから1901年に発行されるわけがない。
 1898(明治31)年といえば、漱石は、熊本の第五高等学校で同僚の長尾雨山に漢詩の添削を求めていたころだ*25。
 さて、書名は、“THE ARABIAN NIGHTS' ENTERTAINMENTS”とあり、ARRANGED FOR THE PERUSAL OF YOUTHFUL READERS BY THE HON. MRS. SUGDEN と注記されている(以後、本稿ではサグデン版とよぶ)。レイン版にもとづいてサグデン夫人が改編したという可能性はあるにしても、そうならば、そう説明があってもいい。だが、ない。レイン版とは、直接の関係はないとしておく。
 挿絵は、クーパー A.W.COOPER の手による。刊年は印刷されていない。ものの本によると、1875年版であるらしい。
 後日、もう1冊、ラウトレッジ社発行サグデン版の原本を入手したので、こちらも紹介しておきたい。
 布表紙の地は赤色をしている。両者の表紙デザイン、挿絵は、異なっている。こちらの扉には挿絵師の名前が書かれていない。刊年は、同じく明示されていない。しかし、本文の組版は、両者は完全に一致している。ゆえに、本文は501頁だ。
 この青年向きに書きなおされた本は、最初から大幅な変更を行なっている。レイン版でくりひろげられている兄弟王のそれぞれの妻が淫行する部分を完全に削除するのである。
 ラウトレッジ社の発行ではあっても、まず、内容が異なる。あっさりと、『天方夜譚』の底本候補から脱落してしまう。……というわけにはいかない。
 冒頭の書き出し部分だけは、このサグデン版と漢訳の両者は、とても似ている(のちにのべることになるが、漢訳と一致する箇所が、いくつも出現するのだ)。
 くりかえす。「序」には、「今所據者為羅利治刊行本,原於冷氏(いまよったのは、ラウトレッジ Routledge 社の刊行した版本で、レイン氏のものにもとづいている)」と書いてあったではないか。にもかかわらず、サグデン版と一致する部分もあるのか。
 「序」の説明を見て、奚若はレイン版にもとづいて漢訳したのだと私は考えた。私にかぎらず、上の文章を読めば、研究者は、そのように理解するだろう。
 ところが、「序」の説明を裏切る事実がいくつも出てくる。
 ひとつは、ラウトレッジ社出版のレイン訳本は、ない。
 ふたつは、漢訳は、レイン版の本文とは基本的に異なる。
 みっつは、漢訳作品のいくつかは、レイン版には収録されていないものだ(後述)。
 とても奇妙なのである。
 レイン版を主な底本にし、部分によって、あるいは作品によっては、他の版本を参照導入しているのだろうか。だが、この可能性は、とても少ない。漢訳は、ほとんどレイン版とは別物なのだ。疑問に思う気持ちが自然と大きくなる。
 少し先を急ぎすぎたようだ。その前に、まだ、説明しなければならないことがある。

5 商務印書館版奚若訳「天方夜譚」の検討
 『繍像小説』連載の漢訳とのちの単行本の関係について書いておこう。
 私は、「『繍像小説』に連載された「天方夜譚」は、商務印書館から単行本として発行された『天方夜譚』とほぼ同一訳本だ」と書いた。
 「ほぼ同一」という意味は、雑誌初出とのちの単行本(全50話収録)では、題名が異なっていたり、語句に異同があることをいう。
 さらに、『繍像小説』連載は、冒頭の10話を掲載せず、第11話からはじまっている事実がある。
 どういう順序でどの漢訳を考察の対象とするのか、まず、これが問題だ。
 やや変則的ながら、私は、発表の時間的順序を無視したいと考える。つまり、「天方夜譚」のもともとの順序通りに、すなわち冒頭の10話は単行本の説部叢書版『天方夜譚』に拠り、第11話から『繍像小説』の連載に切り換える。その時には、単行本の漢訳も参照する。
 もとの物語の順序通りに見ていかなければ、英文原本の特定がむつかしいと考えるからだ。底本をさぐりつつ漢訳の質を検討するというのだから、記述が変則的にならざるをえない。これまで誰も奚若訳「天方夜譚」の底本を特定していなのだから、しかたがないのだ。
 参照する英文原本は、レイン版(3冊本)、タウンゼンド版、サグデン版の3種類とする。

5-1 縁起 INTRODUCTION 序――英文原本の探求2
 冒頭部分を比較対照してみよう。必要だと判断した部分に日本語をつけた。

【説部叢書】上古時波斯国跨大陸。據島嶼。東渡恒河。達支那之西部。並印度諸部隷焉。其幅員至遼闊。撒杜尼安歴史。載当時有主波斯者。英武好兵。威??鄰国。(古代、ペルシアは、大陸をまたぎ、島々をおさめ、東はガンジス川からシナの西に達し、インド諸部はつき従っており、その地域ははてしもなかった。ササン朝の歴史には、当時、勇ましく軍事を好み、威光で隣国をおびえさせるペルシアの支配者がいたことを記録している)
【レイン】In the name of God, the Compassionate, the Merciful.(以下、神をたたえる言葉がつづくので省略)/It is related (but God alone is all-knowing, as well as all-wise, and almighty, and all-bountiful,) that there was, in ancient times, a King of the countries of India and China, possessing numerous troops, and guards, and sevants, and domestic dependents:

 レイン版は、神をたたえる文章が、かなり長く続く。漢訳するに際して省略したと考えるよりも、よった英文原作にもともとなかったと推測するほうがよかろう。そうすると、漢訳の底本がレイン版である可能性は薄れる。ゆえに日本語訳をつけない。

【タウンゼンド】IT is written in the chronicles of the Sassanian monarchs, that there once lived an illustrious prince, beloved by his own subjects for his wisdom and prudence, and feared by his enemies for his courage, and for the hardy and well-disciplined army of which he was the leader.1頁

 タウンゼンド版も、レイン版と同じ理由で日本語訳を省略する。

【サグデン】IT is written in the chronicles of the Sassanians−those ancient monarchs of Persia, who extended their empire over the continent and islands of India, beyond the Ganges, and almost to China−that there once lived an illustrious prince of that powerful house, who was as much beloved by his subjects for his wisdom and prudence, as he was feared by the surrounding states, from the report of his bravery, and the reputation of his hardy and well-disciplined army.(ササン朝の年代記において、その帝国をインドの大陸と島々をまたぎ、ガンジス川を越えて、ほとんど中国にいたるまでおしひろげたペルシアの古代の君主たちのなかに、かつて強力な一族の輝かしい君主が存在し、その聡明さと思慮分別によって自国民から愛され、勇敢だという評判と彼の強力で訓練のいきとどいた軍隊の世評によって隣国から恐れられていた、と記録されている)

 レイン版、タウンゼンド版、サグデン版の3種類を比較する限り、ガンジス川の出てくるサグデン版が、漢訳にもっとも近い。だが、冒頭部分だけを見て結論を急いではならない。
 兄王シャーリヤル(史加利安)と弟王シャー・ザマン(史加瑞南)が遭遇した不幸な物語がはじまる。

【注】
24)飛ヶ谷美穂子「漱石の愛蔵書」『図書』2001年10月号2001.10.1。29-30頁
25)荒正人『漱石研究年表』集英社1974.10.20初版未見/1978.8.20四刷。125頁