漢訳アラビアン・ナイト(6)


樽 本 照 雄


                  

 前述したいくつかの箇所について、漢訳を中心に英訳3種類との対応をみてみよう。(レイン版/タウンゼンド版/サグデン版の順。○:一致、×:不一致、無:該当する箇所が存在しない)

漢訳
――レイン版/タウンゼンド版/サグデン版
#1 撤森尼安(ササン王朝)
――×無/○Sassanian/○Sassanians
#2 十年(10年間)
――×twenty years/○ten years/○ten years
#3 忽念后不置(妃をおもう)
――×he had left in his palace an article/○once more to see his queen/×無
#4 奴(奴隷)
――×a male negro slave/○a slave/×無
#5 自?棄屍溝中(窓から死体を溝になげすてた)
――×slew them both in the bed/○he threw their dead bodies into the foss or great dithch/×無
#6 俄婢十人各弛服。黒奴如婢数(下女10人と同数の黒人奴隷)
――△twenty females and twenty male black slaves/×hold secret conversation with another man/×無
#7 美蘇得(メスード)
――○Mes'ood/×無/×無
#8 計九十有八(指輪98個)
――○ninety-eight seal-rings/×無(魔神と美少女部分そのものを省略する)/×無
#9 縛后
――×caused his wife to be beheaded/×to death his unhappy sultana/×無
#10 手殺諸婢奴(下女奴隷を殺し)
――△in like manner the women and black slaves/△the unworthy accomplice of her guilt/×無
#11 3年間は漢訳にもない
――×無/×無/×無

 サグデン版は、冒頭部分が似ているだけだ。兄弟王の重要な部分を削除する。底本検討の対象からはずしたいところだが、後にのべるように、部分的に漢訳がよっている箇所がある。必要に応じて参照することにする。
 上記11ヵ所について比較をすれば、漢訳は、異なる部分があるにしても、しいて言うならば、タウンゼンド版に近いような印象が得られる。「近い」であって、完全に一致していない。だから、底本とすることには躊躇する。決定するにはいたらないから、問題は複雑なのである。
 とりあえず、物語の最初部分は、タウンゼンド版に主として拠り、部分的にレイン版とサグデン版を参照したのかと推測しておく。
 タウンゼンド版が漢訳の底本であろうかと考える理由は、ほかにもある。漢訳された作品自体から考えてみる。
 タウンゼンド版に見え、レイン版には収録されない作品を以下に示す。参考のためにサグデン版、ガラン版とバートン版の題名もかかげておく*28。

1.ザイン・アル・アスナム王子と魔神の王の話(九つめのダイヤのおとめ)
「魔媒記」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第3冊 上海商務印書館 丙午4(1906)/1913.12再版 説部叢書1=54。以下、同じ。
「魔媒記」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊 上海・商務印書館1924.8。以下、同じ。
【タウンゼンド】The History of Prince Zeyn Alasnam and the Sultan of the Genii.
【サグデン】THE HISTORY OF PRINCE ZEYN ALASMAN AND OF THE KING OF THE GENII
【ガラン】Histoire du Prince Zeyn Al-asnam et du Roi des Genies.
【バートン】The Tale of Zayn Al-Asnam.
2.フダダッドとその兄弟の話
「殺妖記」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第3冊
「殺妖記」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊
【タウンゼンド】The History of Codadad and his Brothers. The History of the Princess of Deryabar.
【サグデン】なし
【ガラン】Histoire de Codadad et de ses freres.(including La Princesse de Deryabar)
【バートン】Adventures of Khudadad and his Brothers.
3.ふしぎなランプの話(アラジン)
「神燈記」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第4冊
「神燈記」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊
【タウンゼンド】The Story of Aladdin; or, the Wonderful Lamp.
【サグデン】THE HISTORY OF ALADDIN, OR THE WONDERFUL LAMP
【ガラン】Histoire de la Lampe merveilleuse.
【バートン】Aladdin; or, The Wonderful Lamp.
【レイン選集】The Story of 'Ala-ed-Din and the Wonderful Lamp
−4.教主の夜の冒険
「加利弗挨力斯怯得軼事」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第4冊
「加利弗挨力斯怯得軼事」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊
【タウンゼンド】The Adventures of the Caliph Haroun Alraschid.
【サグデン】THE ADVENTURES OF THE CALIPH HAROUN ALRASCHID
【ガラン】
【バートン】以下の456を一括して収録する
4.盲のババ・アブズラーの話
「盲者記」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第4冊
「盲者記」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊
【タウンゼンド】The Story of Baba Abdalla
【サグデン】THE HISTORY OF BABA ABDALLA, THE BLIND MAN
【ガラン】Histoire de I'Aveugle Baba Abdalla.
【バートン】Story of the Blind Man, Baba Abdullah.
5.シディ・ヌウマンの話
「記虐馬事」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第4冊
「記虐馬事」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊
【タウンゼンド】The Story of Zidi Nouman.
【サグデン】THE HISTORY OF SIDI NOUMAN
【ガラン】Histoire de Sidi Nouman.
【バートン】History of Sidi Nu'uman.
6.縄作りのフワジャー・ハサンの話。または、フワジャー・ハサン・アル・ハッバルの話
「致富術」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第4冊
「致富術」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊
【タウンゼンド】History of Cogia Hassan Alhabbal.
【サグデン】THE HISTORY OF COGIA HASSAN ALHABBAL
【ガラン】Histoire de Cogia Hassan Alhabal.
【バートン】History of Khwajah al-Habbal.
7.アリ・ババと、ひとりの女奴隷によって殺された四十人の盗賊の話。
「記瑪奇亜那殺盗事」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第4冊
「記瑪奇亜那殺盗事」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊
【タウンゼンド】The History of Ali Baba, and of the Forty Robbers killed by One Slave.
【サグデン】THE HISTORY OF ALI BABA, AND OF THE FORTY ROBBERS KILLED BY ONE SLAVE
【ガラン】Histoire d'Ali Baba, et de Quarante Voleurs extermines par une Esclave.
【バートン】Story of Ali Baba and the Forty Thieves.
【レイン選集】The Story of 'Ali Baba and the Forty Thieves
8.アリ・フワジャーとバグダッドの商人の話(子供の裁判)
「橄欖案」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第4冊
「橄欖案」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊
【タウンゼンド】The Story of Ali Cogia, a Merchant of Bagdad.
【サグデン】THE HISTORY OF ALI COGIA, A MERCHANT OF BAGDAD
【ガラン】Histoire d'Ali Cogia, Marchand de Bagdad.
【バートン】Story of Ali Khwajah and the Merchant of Bagdhdad.
9.アーマッド王子と仙女ペリ・バヌの話(空とぶ絨毯)
「求珍記」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第4冊
「求珍記」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊
【タウンゼンド】The Story of Prince Ahmed, and the Fairy Perie Banou.
【サグデン】THE HISTORY OF PRINCE AHMED AND THE PAIRY PARI-BANOU
【ガラン】Histoire de Prince Ahmed et de la fee Peri-Banou.
【バートン】Adventures of Prince Ahmad and the Fairy Peri-Banue.
10.妹をねたんだふたりの姉の話(しゃべる鳥と歌う木と金の水)
「能言鳥」奚若翻訳、金石校訂『(述異小説)天方夜譚』第4冊
「能言鳥」奚若訳述、葉紹鈞校註『天方夜譚』下冊
【タウンゼンド】The Story of the Three Sisters.
【サグデン】THE STORY OF THE TWO SISTERS WHO WERE JEALOUS OF THEIR YOUNGER SISTER
【ガラン】Histoire de deux Soeurs jalouses de leur Cadette.
【バートン】Tale of the Two Sisters who Envied their Cadette.

 以上は、レイン版には作品そのものが収録されていないにもかかわらず、奚若の漢訳があるものだ。
 複数の原本を手元において、こちらから数編、あちらから数編を選択して漢訳するばあいも、ないことはないだろう。可能性としては、考えられる。可能性があるとすれば、漢訳の底本を決めるためには、各作品の文章をこまかく比較検討する必要がでてきた。あらためて、やっかいなことになったと思う。
 とりあえず得られる結論は、漢訳が主としてもとづいたのは、すくなくともレイン版(選集本も含む)ではないということだ。
 「序」では、レイン版にもとづく(原於冷氏)と明らかに説明していた。ゆえに、漢訳の底本はレイン版だと私は理解した。だが、事実がそれを否定する。
 「序」に、直接関係のないレイン版をなぜ出しているのか、不可解だとしかいいようがない。
 不可解のままにほっておくわけにはいかないから、以下のように考えてみる。
 商務版「天方夜譚」、すなわち奚若版は、漢訳に際してラウトレッジ社本を底本に使用した。ただし、レイン版そのものではなかった。つまり、「序」において述べた「レイン版にもとづく(原於冷氏)」という説明は、英文原本についての根拠のない勝手な推測でしかないのだ。
 以上のように考えるよりほかに、「序」の解釈のしようがないではないか。
 今の段階では、漢訳の底本はタウンゼンド版である可能性が高いと予想をつける。
 今後、商務版「天方夜譚」は、タウンゼンド版の本文を主として比較対照することにしたい。あわせてサグデン版を見る。必要があれば念のためレイン版も参照しよう。
 前述したように、検討の順序も、英文原本の順番にしたがう。ゆえに、漢訳の発表時間を無視して、のちに出版された単行本の作品からはじめて、さかのぼって『繍像小説』『東方雑誌』掲載作品の順になる。
 ただし、奚若が漢訳の際によった英語原本が特定できた時点で本稿は終了する。ご注意いただきたい。

5-2 鶏談 The Fable of the Ass, the Ox, and the Labourer ロバと牡牛の寓話
 レイン版では、「序 introduction」のなかに表題なしで組み込んでいる物語だ。
 タウンゼンドは、上記のように表題をつけており、表題があるという点では、漢訳もそれにならう。ただし、原題通りの漢訳にはなっていない。

【説部叢書】昔有賈者。事畜牧致富。能通獣語。人詰獣何言。則結舌秘不道。以道則不利。且死。距郭有田廬数所。以豢諸畜。一日偶以牛若驢共一廐[割注]。(昔、商人がいて、牧畜に従事して金持ちになった。獣の言葉を理解することができたが、獣がなにをいっているのか人が問い詰めても、話そうとはしなかった。しゃべれば不利になるし、死ぬのである。田舎に数箇所の田地と家屋を所有して、家畜を飼っていた。ある日、偶然、牛とロバを同じ畜舎にいれた)7-8頁
【タウンゼンド】A very rich merchant had several farm-houses in the country, where he bred every kind of cattle. This merchant understood the language of beasts. He obtained this privilege on the condition of not imparting what he heard to any one, under the penalty of death. /He had put by chance[1] an ox and an ass into the same stall and ……(大金持ちの商人がいて、田舎にいくつかの農家を持ち、多くの種類の牛を飼っていた。この商人は、獣の言葉を理解した。彼が聞いたことを誰にも話さない、話せば死の罰を受けるという条件でその特権を得たのである。/彼は、偶然、牡牛とロバを同じ畜舎に入れて……)5-6頁

 漢訳は、英語原文のほとんどそのままだといってもいいだろう。
 興味深いのは、タウンゼンド版の by chance に注釈がつけられていることだ。しかも、漢訳にも、同じ場所に注釈がほどこされている(注釈の句読点は、初出にはほどこされていない。重版によっておぎなう)。

【説部叢書】東方風俗,牛驢異待,牛作苦,驢則供王侯官吏駆馳,顧慮甚至。近埃及副王曾以白驢贈威爾士親王,副王維嘉爾因此驢得優賞。一千[八百]六十四年秋,伊斯林頓開農学博覧会,此驢与焉。(東方の風俗では、牛とロバでは待遇が異なっていた。牛は苦役に使われ、ロバは王侯官吏の走りに提供され、とてもよい世話をしてもらっていた。最近、エジプトの副王が白いロバをウェールズ親王に贈った。副王ヴィカーは、このロバによって優秀賞をえて、1(8)64年の秋、イスリントンで農学博覧会が開催されたとき、このロバも参加したのである)6頁
【タウンゼンド】The ass and the ox in the East were subject to very different treatment; the one was strong to labour, and was little cared for―the other was reserved for princes and judges to ride on, and was tended with the utmost attention. Even in these days the Pasha of Egypt sent a white ass as a present to the Prince of Wales. He was named “Vicar,”and received a prize at the Donkey Show held in the Agricultural Hall, Islington, in the autumn of 1864.(東方において、ロバと牡牛は、とても異なった扱いを受けていた。一方は労働に強く、片方は少し気を使われて――君主と裁判官が乗るために用意されていて、最高の世話を受けていたのである。最近も、エジプトの高官が皇太子に白いロバをプレゼントした。それは「ヴィカー(教区牧師)」と名付けられ、1864年秋にイスリントンの農業会館で開催されたロバ展覧会で受賞した)6頁

 漢訳に示した「一千[八百]六十四年」の「八百」部分は、初出にはない。重版されたとき訂正された。
 漢訳の前半は英文原作のままでよろしい。だが、後半は、なにか誤解をしている。
 誤解部分はさておいて、重要なのは、レイン版、サグデン版ともに、上のような内容の注釈はついていないことだ。この事実には注目せざるをえない。タウンゼンド版にのみ注釈があって、それが漢訳に反映されている。決定的であるといってもいいのではないか。漢訳は、タウンゼンド版を底本にしていることが明らかである。

5-3 棗核弾 The Story of the Merchant and the Genie 商人と魔神の物語
 「ロバと牡牛の寓話」によって、お節介な助言はなんの役にも立たないことを教えたつもりの父親だった。
 だが、シャーラザッド(希罕拉才得 Schehera-zade)は、聞き入れない。妹ドゥニャザッド(定那才得 Dinar-zade)をともなって兄王のもとに嫁いだ。こうして「アラビアン・ナイト」がはじまる。
 最初の物語の「商人と魔神の物語」については、以前、簡単に触れた。身におぼえもないのに、魔神の子供を殺したと責められる商人の話だった。
 漢訳は、文中にみっつの注釈をほどこす。
 摩薩門 Mussulman、懲悪(英文原作は genie につける注釈。genies, peris, ghouls について)、礼祷後(信条を Imana<信仰> と Din<実行> のふたつに分けることをいう)の3ヵ所にある。ただし、2番目の注釈位置は漢訳のばあい適切ではないし、3番目の解釈を漢訳では分派に誤解している。
 大事なことは、ここでもタウンゼンド版にのみ見られる注釈が、漢訳にほどこされているという事実だ。漢訳が底本にしたのは、レイン版ではなくタウンゼンド版だということがこれでも確認できる。
 物語の途中で夜が明ける。兄王は、結末を知りたくてシャーラザッドを殺さず、翌晩、物語が再開される。この順序をくりかえす。レイン版がそうだ。しかし、タウンゼンド版は、この決まりきったくりかえしを煩わしいと考えてか、のちには省略してしまう。漢訳は、タウンゼンド版を底本にして翻訳しているから、のちには、くりかえしは出現しない。
 1年の猶予をもらった商人は、帰国して身辺整理をした。魔神との約束を守ってもとの場所にもどってくると、牝シカをつれた老人がやってくる。さらに、2匹の黒犬をともなった老人も登場する。漢訳では、3人目の老人が出てくる。奇妙である。タウンゼンド版では、ふたりだからだ。記述が一致しない。
 こうして、確認したはずの漢訳の底本問題に関して、早くも揺れが生じるのである。これでは、「確認」ということはとてもできない。
 物語のなかでは、主としてふたつの話が語られる。

5-4 鹿妻 The History of the First Old Man and the Hind 一番目の老人と牝シカの話
 漢訳の書き出しが、英文原作のタウンゼンド版とは、微妙に異なる。

【説部叢書】叟曰。此鹿為予中表妹。当髫歳。即帰予為室。凡世閲卅寒暑。無所出。予雖不弛愛。不能無念嗣続(老人は語った。この鹿は私の従妹です。幼い頃、私の家に嫁ぎました。30年をすごし、なにごともなかったのです。私は愛してはいましたが、跡継ぎがいないのを残念に思わないわけにはいきませんでした)15頁
【タウンゼンド】The hind, whom you, Lord Genie, see here, is my wife. I married her when she was twelve years old, and we lived together thirty years, without having any children.(魔神さま、ごらんになっておりますこの牝シカは、私の妻でございます。12歳の時に結婚いたしまして、子どもなしで30年間をいっしょにすごしてまいりました)14頁

 英文にあるものを漢訳する際に省略することは、よくあることだ。「12歳 twelve years old」を「幼い頃 当髫歳」と書き換えるのは、正確ではないが、許容範囲内だとはいえよう。
 逆に、翻訳するとき、原文にないものを特別に漢訳でつけくわえるというのは、それほど簡単なことではないと考える。
 こまかいところだが、タウンゼンド版の wife(妻)を漢訳でわざわざ「中表妹(従妹)」とする必要があるのだろうか。
 ところが、英文では、そうする版が別にあるのである。

【レイン】THEN said the sheykh, Know, O 'Efreet, that this gazelle is the daughter of my paternal uncle, and she is of my fresh nad my blood. I took her as my wife when she was young, and lived with her about thirty years; but I was not blessed with a child by her; 42頁

 関連する部分のみを指摘すると、the daughter of my paternal uncle がその箇所である。「父方の伯父の娘」だという。すなわち従妹だ。このちいさな部分についてのみ、漢訳がレイン版を参照して導入するのもおかしなことだ。疑問に感じる時は、サグデン版を見る。

【サグデン】The hind, whom you see here, is my cousin; nay, more, she is my wife. When I married her, she was only twelve yars old, and she ought, therefore, not only to look upon me as her relation and husband, but even as her father.(ごらんになっておりますこの牝シカは、私の従妹、というよりも、私の妻でございます。彼女がわずか12歳の時に結婚いたしまして、ですから、私を親族、夫と見ているばかりか、父親とも思っておりました)11頁

 レイン版のような複雑な表現をしておらず、サグデン版は、そのものずばり「従妹 cousin」を使用している。ただし、そのあと、漢訳にはない記述がしてあり、そうすると、漢訳の底本となったのは、タウンゼンド版であって、サグデン版を参照したのかと思える。
 細かなところといえば、商人と奴隷(slave。漢訳:婢、妾)のあいだに生まれた子が「10歳」のときに、商人は長旅に出たと漢訳はしている。タウンゼンド版には、「10歳」という表現はない。サグデン版は、漢訳と同じ「10歳 ten years old」。レイン版では、「15歳 the age of fifteen years」とする。
 この旅行中に、嫉妬にかられた妻が、妖術を使って妾と息子を牛に変身させ、商人である夫には、妻は死亡、息子は行方不明だと告げる。
 「8ヵ月 eight months」が経過したが、息子は帰ってこない。これがタウンゼンド版だ。サグデン版は、「2ヵ月 two months」、レイン版は、「1年 a year」とする。しかし、漢訳は、なぜかしら「3ヵ月 三月」(15頁)になっており、しかも、のちの重版では「1ヵ月 一月」(14頁)に変更している。その理由をしらない。
 ほんの1,2例を示した。英文原作タウンゼンド版と漢訳には、小さな異同があることを指摘しておきたい。このいくつかの小さな異同が、まさに、タウンゼンド版底本説を揺るがすのである。
 妖術で牛となった母は、祭の生け贄にされた。息子も犠牲にされかけて、情けをかけた商人に救われる。事情を知っている人間によって、息子は妖術を解かれ、結局、商人の妻は牝シカ(レイン版では、カモシカ gazelle)に変えられたという話である。
 あまりに不思議な話に魔神は、うなった。それに免じて約束の殺しを手加減してやろうという魔神のセリフに注目する。

【タウンゼンド】I grant to you a half of the blood of this merchant.(この商人の血を半分お前にやろう)16頁

 その意味は、殺される予定の商人を半分だけ助けてやろう、ということだ。なぜ、半分なのか。それは、黒犬2匹をつれたもうひとりの老人の話が控えているからだ。ふたりあわせて、商人の命が助かる、という伏線でもある。
 ところが、サグデン版は、「この商人の3分の1を許してやろう。I grant a third of my pardon to this merchant.」(15頁)とする。同じく、レイン版でも「そいつ(商人)の血の3分の1をお前にやろう。I give up to thee a third of my claim to his blood.」(46頁)となっている。
 なぜ、3分の1であるかの理由は、ご賢察通り、レイン版では、話をする老人は、タウンゼンド版のふたりとは異なり3人だからだ。つまり、タウンゼンド版は、登場する老人を3人から2人に減らした。それにともなう原文の書き換えである。前出周桂笙の漢訳は、タウンゼンド版が底本だから、当然、半分と翻訳している。
 ところが、同じタウンゼンド版に拠っているはずの奚若訳は、なんと、「商人の罪の3分の1を許してやろう。当為汝宥賈罪三之一可矣」(17頁)とするのだ。
 なぜ、わざわざ原文を無視してしまうのか。部分的に別版を参照したのか。それよりも、タウンゼンド版に異版があるのか。また、タウンゼンド版でもなくサグデン版でもない、まったく別の版本が漢訳の底本なのだろうか。タウンゼンド版だけに見える注釈を漢訳が拾っている事実があるにもかかわらず、底本についての疑惑を消すことができないのだ。

5-5 犬兄 The History of the Second Old Man and the Two Black Dogs 二番目の老人と二匹の黒犬の話
 つぎも変身譚だ。なぜ兄弟が黒犬に変わったのか、そのいきさつが語られる。
 兄弟3人には、父の死後、ひとりにつき金貨1,000枚(left us one thousand sequins each)が残された。
 英文原作では、ひとりに1,000セキンづつだが、合計すれば3,000セキンになる。だから、漢訳では、あっさりと「三千西?[袞]司」にしてしまい、さらに注をほどこして「アラブの金貨の名称。亜剌伯金貨名」と説明する(重版では、(西袞司 Sequins)為亜剌伯金貨名、と誤植を正して表記する)。この注釈は、タウンゼンド版には存在しない。レイン版の原文では“three thousand pieces of gold”とだけ表現しており、これにつけられた注も、セキンには言及しない。奚若独自の注だと考えてよいだろうか。
 誠実な弟が、自堕落な兄ふたりに船から海に放り出され、殺されかかったところに、妻である妖精に助けられた。兄ふたりは黒犬に変身させられる。
 タウンゼンド版は、ふたつの話で商人は死を免れることになる。
 前述したように、漢訳では、3人の老人が登場している。かといって、3人目の老人が、最初のふたりと同じように自分の話を詳細に、また具体的にのべるかといえば、それは、ない。単に、魔神を驚かせる話をしました、で終わる。話の内容が、まったく示されていないである。中途半端であるといわざるをえない。そうならば、タウンゼンド版のままに、老人はふたりで十分であるはずだ。
 奚若は、タウンゼンド版のほかに別の版本も手元にあることを示したかったのか、と疑ってみたりする。
 漢訳には、物語のなかにふたつの話と中途半端な切れ端があるだけだ。レイン版ではみっつの物語が展開されているのを見れば、漢訳の上の箇所は、タウンゼンド版に主として拠りつつも、レイン版を少し参照していると考える。

【注】
28)バートン「巻末論文」大場正史訳『バートン版千夜一夜物語』第7巻 河出書房1967.5.25。347-348頁