雑誌の黄帝紀年
――旧暦新暦問題 


樽 本 照 雄



 清末民初小説目録を編集するとき、私が頭を悩ませたのは、旧暦新暦問題である。
 辛亥革命によって中華民国が成立する。旧暦宣統三年十一月十三日を新暦1912年1月1日に切り換えた。これが原因となる。
 清朝末期におびただしく創刊された雑誌群は、その発行年月を当然ながら旧暦で表示していると考えてよい。
 ただし、中華民国初期には、旧暦を守って奥付に発行年月日を印刷するものがある。1、2ヵ月の時間的ズレは、文学研究には直接の関係がないと思われる。ゆえに、そこまで問題にする人はいない。
 しかし、より正確な小説目録をつくることを目標にしている私には、これは小さくない障碍となる。
 旧暦と新暦が混在しているから、両者併記を編集方針にする。正確に記述しようとして私があらためて遭遇したのは、黄帝紀年なのだ。

1 『清末民初小説目録』の編集方針
 新編とか増補とかいちいちつけるのはわずらわしい。以下、『清末民初小説目録』と称する。
 『清末民初小説目録』を編集するにあたっての方針のひとつは、できるだけ多くの小説作品を収録することだ。創作ばかりでなく、翻訳も含んでいる。外国小説の翻訳が急増するのも清末小説界の特徴のひとつであるからだ。もし、外国小説だという理由で小説目録から排除してしまうと、清末小説界の新しい流れを無視した貧弱なものにしかならないだろう。
 編集には2次資料を利用している。ゆえに、小説ではないものも収録してしまう可能性がある。作品を原物で確認できないことが原因だ。
 収録の基準はゆるめに設定する。より多くの作品を収録しておいて、実際に利用する研究者の独自の判断にまかせている部分があることによる。
 『清末民初小説目録』は、あくまでも調査の手掛かりを提供しているにすぎない。日本で主として2次資料によっている限り、作品を厳密によりわけることは不可能だ。だから、不足している作品をご教示してくださる人がいるのは、とてもうれしい。また、より正確な記述になるようにご指摘くださるのも大歓迎だ。
 中国から、これもあれも小説ではないとたくさんのご指摘をくださる人がいた。ありがたい。詳細に点検いただいて恐縮に感じる。ご教示は目録にすべてを反映させるように注釈を加える。
 なんども同じことを書くのは気がひける。しかし、日本で清末民初小説を原物で確認することは、むつかしい。まったく不可能ではないにしてお、ほとんどの原本がないのだ。
 私がしかたなく採用した苦肉の策が、上にいう2次資料を利用することだった。
 日本にもととなる原物がないにもかかわらず、清末民初小説の目録を作成するのは、無謀なことに違いない。だから、中国以外の外国で、清末小説目録はおろか、それに民初を含めた小説目録を編集した人は、過去において存在しなかった。
 だが、阿英の「晩清小説目」だけにいつまでも頼っているわけにもいかないではないか。なにしろ、1950年代に刊行されたままで、すでに内容が古くなっている。古いというのは、阿英目録が単行本主義を採用しており、雑誌からの採取が不十分だという意味だ。意識を改革して雑誌を編集の中心にすえなければ、清末民初時期における小説界の実態は見えてこないだろう、という考えが私にはあった。だいいち、阿英目録は「晩清小説目」と題するところからもわかるように、民国初期は対象外なのだ。民初が空白となって埋めようがない。
 なによりも、研究のために私自身が、清末民初小説目録を必要としている。ひとつの作品について、その雑誌初出から単行本が一覧できれば便利だと思った。さらに、最近の版本にいたるまでを網羅すれば、現在、読むことができるかどうかもわかる。
 以上は、過去に説明したことがある。そういういきさつで『清末民初小説目録』はくりかえし、といっても3回だけだが、作り直して発行した。現在も、増補訂正作業をつづけている。
 原物によるだけで小説目録が作成できればいうことはない。それが、日本ではできない、と幾度いっても自分ではあきることがない。見ていない書物を収録するならば、書名には「稿」をつけるべきだというご意見もあろう。変則的であることは十分承知している。だが、ないよりマシという考えがなければ、作業は進まない。
 『清末民初小説目録』の使用限界についても、かさねて表明している。あくまでも原本をさがす手掛かりにしてほしい。文章を書くときは、原本を入手してから、その原本にもとづくことが重要だ。原本をさがさず、目録だけにたより、それで記述を誤ったとしても、利用者に責任がある。はっきりいっておきたい。
 2次資料を利用して目録を編集するのには、正負ふたつの側面がある。
 直接、自分が手にしない版本も目録に取り入れることができる。ほかの研究者が自分にかわって調査してくれていると考えればよい。多くの目録、論文が書かれただけ、それを参照して取り込むのだから、私の目録は自然と内容が豊富になる。
 その反面、これで終了ということが、ない。
 原本を見れば、それで記述は終わる(いうのは簡単だ。だが、清末民初の小説は、数が多い。実際の作業はそれほど軽くはないと容易に想像できる)。
 2次資料にたよっている分、小説目録が出版されるたびに、『清末民初小説目録』を点検しなおすことになる。ほかの研究者による発見があるかもしれない。それを知るためには、ひとつひとつを比較対照して確認する必要がある。もうひとつ、自分の書き間違いを訂正する機会にもなる。私が勘違いしている箇所も少なくない。記述が不一致であれば、どちらが正しいのか、調査する必要がでてくる。
 阿英の「晩清小説目」をはじめ、中国で発行された近代小説の目録は、入手できるかぎりのものを利用して点検している。備考欄に略号をつかって追記しているから、それをたどって原本に到達できる可能性も生まれる。
 点検をくりかえすことによって、同時にそれら2次資料の信頼性をあぶりだすことになろうとは思いもしなかった。意外だった。
 中国のある目録は誤植が多いとわかる。また、ある目録は、厳密に記述されており編集者の姿勢を強く感じるのだ。別の目録から多くをマル写しという目録もないではない。ただし、これらのことがわかったのは副産物である。私は、ほかの目録のよしあしを見ようとしているわけではいない。利用しようと考えているだけだ。

2 『中国近代期刊篇目彙録』のこと
 『清末民初小説目録』を最初に編集したとき、大いに利用したのが上海図書館編『中国近代期刊篇目彙録』全6冊(上海人民出版社1965.12/1980.7-1984.8。@1857-99年分1965.12/1980.7第2次印刷A1900-11年分1979.10B1900-11年分1981.6C1900-11年分1982.2D1912-14年分1983.8E1915-18年分、補編1984.8)だった(以下、彙編と称する)。
 この大部の彙録が出版されるまえに、清末民初に発行された小説専門雑誌8種類の目録を作成した経験が、私にはある。雑誌目録だから、原本を手元においての作業となる。当時、清末民初の小説雑誌目録など、世界のどこにもなかった。そのときの経験にもとづけば、小説目録を編集しているつもりなのに、それとは関係のない作品の確認にてまどり、まことに効率の悪いことであった。
 そのご、私の目の前に出現した彙録は、雑誌の原物をもとにして作成されており圧倒的である。作品のすべてを雑誌の掲載通りに記述する。しかも、小説専門雑誌に限定していない。一般雑誌をも採取対象にしてある。手間とヒマのかかったこの彙録は、利用するだけの信頼性があることは誰もが認めるだろう。だからこそ、中国で編集される多くの資料に利用されることになったのもうなずける。彙録の発行を見て、私は自分が進めていた小説雑誌の目録編集をやめることにしたのだ。
 私は、この彙録を信用していた。まさか不都合な箇所があるなどとは、思いもしない。
 全面的に信頼していたし、それだけの価値があると今でも考えている。ただ、ある部分には少し違った考えを感じたことも書いておこう。
 たとえば『繍像小説』だ。彙編Aの1103-1115頁に収録されている。
 『繍像小説』第13期から発行年月日を記載しなくなる。私は、原物で確認して目録を作成したから間違いはない。そのとき、刊年不記とだけ書けば、正確だが味気ないと私は思った。当時、『繍像小説』の発行遅延説などとなえられてはいない。阿英の説明通り、李伯元の死去によって『繍像小説』も停刊したという定説を私も信じていた。だから、半月刊が守られたとしたら、という仮説にもとづいて推測の発行年月日を示しておいた。今から考えれば、余計なことだった。
 彙編はそれをどう処理したかというと、私とほぼ同じ方法によっている。すなわち、第13期には、「1903年11月〔癸卯十月〕」と特別なカッコを使用して区別したのだ。
 ただし、解説で第13期より刊年を記載しなくなるとは書かなかった。これが説明不足のひとつ。
 私が説明不足だと書けば、彙編の編集者は怒るだろう。なぜなら、「編例」で説明していると考えているはずだからだ。「編例」を注意深く読んでいれば、()でくくった箇所が雑誌の原載通りの刊年であると書いてある。だから、『繍像小説』第13期よりそのカッコがなくなるのだから、利用者は、刊年の記載はなくなったと理解しなければならない。しかし、不注意な読者のほうが多い。「1903年11月〔癸卯十月〕」という記述を見た利用者は、原本にそのまま印刷されているという間違った印象をほとんどがいだいてしまう。
 もうひとつ、彙編は、定説通りに「至1906年4月(光緒三十二年三月)停刊」と解説した。間違いだが、これはやむをえない。異説がとなえられる以前のことだからだ。
 彙編の説明と記述を見て、『繍像小説』第72期には「1906年4月〔丙午三月〕」と記載されていると考える研究者がでてきても、不思議ではなかろう。事実、原物を確認せず、彙編だけを見て該誌第72期には「1906年4月〔丙午三月〕」と印刷してあると書く専門家がいる。すこし驚いたが、そういうものだ。誤った記述が、中国の研究界に定着している原因のひとつである。

3 陳大康『中国近代小説編年』のこと
 さて、のべたように小説目録による点検作業は、現在も継続している。
 最近、利用のしがいがある著作がでてきた。陳大康『中国近代小説編年』(上海・華東師範大学出版社2002.12)である(以下、編年と称する)。
 1840-1911年間の小説年表だ。『清末(あるいは晩清)小説編年』と題してもおかしくはない。
 月日まで記入し詳細である。しかも、旧暦と新暦を併記するという周到さをあわせもつ。雑誌連載作品については、その初出と途中、完結を示している。単行本は、初版だけでなく再版なども記述する。読む要素があるというのは、作家、刊行物に関連する説明もしているからだ。また、翻訳作品も収録しているのが特徴のひとつとなる。ただし、唯一残念なのは、原作品、原著者を明らかにしない。『清末民初小説目録』を参照したと書いてあるのだから、引用してもらってもよかったのだ。「近代小説作者及其作品一覧表」「近代小説出版状況一覧表」「近代小説篇名索引」があって便利だ。
 原作品の「序」などから適宜引用しているところからも、原本を確認していることがわかる。こういうところが、記述の信用性を高める。
 編年を使用して私がどのように作品を点検しているのか、例をひとつおめにかけよう。
 『中国近代小説編年』284頁の宣統三年三月二十日(1911.4.18)には、『小説時報』第9期掲載の作品が集めてある。
 そのなかのひとつに「無線電話」がある。問題は、この作品名なのだ。
 私は、『小説時報』の目録を作成したことがある。1975年のことだった。
 『清末民初小説目録』を編集するときも自分がつくったこの目録から作品を採取した。その後、いくつかの2次資料で点検しているから、それらを備考として追記している。
 『清末民初小説目録』の記述は、以下のようになる。

w0622 無線電話 笑(包公毅)、呆(徐卓呆) 『小説時報』9期 宣統3.3.20(1911.4.18)
[大典214][史索一408][系目51]宣統三年三月三ママ十日とする。

 作品の初出が『小説時報』であることが、これを見ただけでわかる。宣統3年部分は旧暦を、1911年部分は新暦を意味する。以下の資料も、上とおなじような記述をしている。略号とともにかかげる。

[大典]陳鳴樹主編『二十世紀中国文学大典』(1897-1929)上海教育出版社1994.12
[史索一]祝均宙、黄培〓「中国近代文藝報刊概覧」魏紹昌主編『中国近代文学大系』第12集第29巻史料索引集 上海書店1996.3
[系目]王継権、夏生元編『中国近代小説目録』南昌・百花洲文藝出版社1998.5 中国近代小説大系80

 点検の段階で、記述に異なる箇所がでてくることがある。その時は、原物で確認している作品については、2次資料の間違いであると注記する。確認できないものは、各資料でこのように記述しているという意味で「ママ」と表記することにしている。
 該作品は、のち、叢書に収録された。

w0623 無線電話 笑(包天笑)、呆(徐卓呆) 南昌・百花洲文藝出版社1996.12 中国近代小説大系78 短篇小説巻(上)
選自《小説時報》第9号,上海小説時報社 宣統三年(1911)四月版。校点者:晏海林。責任編委:王継権

 この備考を見れば、叢書に入れるとき初出雑誌から復刻したことが理解できる。備考欄の「選自《小説時報》第9号,上海小説時報社 宣統三年(1911)四月版」は中国近代小説大系にある説明からそのままを引き抜いた。もし四月が旧暦であるならば、間違い。新暦であるなら例の旧暦新暦混用の例となる。
 それはさておき、作品名が「無線電話」であることにかわりはない。
 さらに、別のSF関係の単行本にも収められている。冒頭に作品番号がついていないのは、本を入手したのが目録発行後だったからだ。つまり、増補したという意味である。

無線電話 笑(包天笑)、呆(徐卓呆) 葉永烈主編『大人国』福州・福建少年児童出版社1999.12 中国科幻小説世紀回眸叢書第1巻
葉永烈「総序」、「第一巻説明」、「代序:中国科幻小説発展簡史」

 作品名「無線電話」でなにも問題はなさそうに思える。
 ところが、陳大康の編年284頁に掲載されているのを見れば「無線電語ママ」になっているではないか。「話」が「語」だからまぎらわしい。「語」とするのは編年だけだから、最初は、該書の誤植だと単純に思った。
 ところが、念のため彙録Cを調べてみると、なんと「無線電語ママ」なのである(2701頁)。
 編年と信頼している彙録が同じ記述だ。それらが『清末民初小説目録』とは異なるから、にわかに不安になる。
 [史索一]の408頁をあければ、これまた「無線電語ママ」である。彙録と同一だ。以前、点検したときはその違いを見逃したらしい。
 私は、原物の雑誌によって目録を作成した。にもかかわらず、記述が異なる事実を前にしては自信がゆらぐ。注意したつもりで、間違いを避けることができないのが実状だ。私の誤記かもしれない。確認したつもりで間違うのは、私のばあい、よくあることだ。疑いがふくらむ。
 あらためて『小説時報』第9期を見てみる。
 目次も本文も「無線電話」であった。「語」ではない。つまり、「無線電語ママ」としたのは、彙編のめずらしい誤植のひとつだといえる。
 彙編の誤植は、のちの各種目録がよった資料源を暗示する。彙編をもとにして[史索一]がその誤りを踏襲し、編年も引用してまちがったということだ。
 『清末民初小説目録』では、なぜ、彙録の間違った「電語ママ」を引き継がず、正しい「電話」になっているのか。
 理由は簡単だ。私は『小説時報』の原物を見て目録を作ったからだ。日本には原物がない、といいながら、例外的に原物で確認できる雑誌のひとつであった。つまり『小説時報』については、彙録を参照していない。ゆえに、彙録の誤植を引き写すことを免れた。原物を見ることの重要さが、ここにある。
 というような手順で、作品のひとつひとつを点検する。採録もれの作品を見つけたり、私の勘違いで間違って記述していることに気づいたりする。といっても、それほど多くはない。大多数は、確認するだけである。[編年]という略号を追加するのは、検索の便宜を考えてのことだ。

4 旧暦新暦問題
 点検作業をつづけていて、ある作品でひっかかった。旧暦と新暦が一致しない。「1907.11」と書いて、1907年が新暦、11月が旧暦というような単純な混用ではない。ひっかかった部分は、私は彙録にもとづいて記述していた。

4-1 中国開国紀元
 清朝も末期になれば、いろんな情況が出現する。黄帝紀年もそのなかのひとつだ。印刷物の刊年に光緒宣統という元号を使用しないところに、政治的な意味を持たせる風潮が発生したのである。
 陳旭麓、方詩銘、魏建猷主編『中国近代史詞典』(上海辞書出版社1982.10)には、黄帝紀年についての説明がある。1903年に革命的刊行物が使用しはじめたもので、1905年を黄帝紀元四千六百三年と推定したという(636頁)。
 黄帝紀年が実際に使用された例を見れば、おおきくわけて黄帝紀元と中国開国紀元がある。
 まず、中国開国紀元から紹介しよう。

○『復報』のばあい
 作品名をあげると理解しやすい。『復報』の記述によって、その奇妙な事実を知った。
 『復報』は、日本東京で創刊されたという。

w0577 無情弾 恋華 『復報』7-9期 中国開国紀元4604.10.30-4605.3.30(1906.12.15-1907.3.30)
[大典104][史索一299][系目52]は掲載誌を掲げない。

 『復報』第7期の「中国開国紀元4604.10.30」は旧暦だ。だから新暦になおせば「1906.12.15」になる。なぜ旧暦だとわかるかといえば、彙録Bの該誌第2期に「中国開国紀元四千六百四年閏四月二十五日」(1832頁)と表示しているからだ。閏月があるのは、旧暦に決まっている。
 ところが、彙録を見れば『復報』第9期の「3.30」も旧暦であるはずなのに、新暦での表示が「1907.3.30」となっており同一なのだ。
 はじめは、気づかなかった。旧暦と新暦が一致することがあるのか、と感じたくらいだ。彙録が間違っているとは少しも思いはしない。誤植があるとはいっても、その数は彙録では圧倒的に少ない。
 編年で点検していると、該当箇所を見比べてみて記述が一致しない。だいいち編年には、中国開国紀元などはどこにもみえない。だから、私の目録の備考欄に「[編年178]光緒33.2.17ママ(1907.3.30)とする」といったんは書いて追加とした。ただし、このように書けば編年の記事に問題があるような印象を与える恐れがある。いかがしたものか。
 だが、考えてみれば彙録の記述も納得しがたい。なぜ旧暦と新暦が同じ日付になるのか。
 彙録Bの『復報』部分をもういちど開いてみる。
 疑いの目で見れば、奇妙な記述になっている。
 『復報』第7期の発行年月日は、「1906年12月15日(中国開国紀元四千六百四年十月三十日)」だ。
 『復報』第8期の発行年月日は、「1907年1月30日(中国開国紀元四千六百五年一月三十日)」と書かれている。
 ()のなかは原載のままという「編例」の説明であった。
 前者の「十月三十日」が旧暦表示であり、それを新暦になおせば「12月15日」であるというのは、すでに見たとおり、これで、あっている。
 問題は、後者だ。第7期までのやり方に従えば、旧暦「一月三十日」が新暦「1907年1月30日」に相当するという意味に違いない。
 だが、『復報』の中国開国紀元四千六百五年、すなわち光緒三十三年には、旧暦「一月三十日」は存在しない。
 ならば、この「一月三十日」というのは新暦のことなのか。
 旧暦では「正月」と表記するのが普通だ。旧暦を「一月」とは書かないと思いもする。
 彙録の編者は、そのあたりの説明を『復報』については一切おこなっていない。わずかに、第11期について、奥付で「四千六百四年」と誤っているので「四千六百五年」に訂正したというだけだ(1839頁欄外)。
 『復報』について解説している何炳然も、雑誌が表示する暦についてはなにも言っていない*1。
 上の例でいえば、『復報』は、創刊号から第7期までは、中国開国紀元を使い内実は旧暦だ。しかし、第8期から以降は、同じ中国開国紀元でありながら、新暦に切り換えたことになる。
 問題の該誌第9期に話をもどす。
 彙録にある中国開国紀元四千六百五年三月三十日は、したがって新暦の「1907年3月30日」となる。
 では、編年178頁の「二月十七日(3月30日)」は間違っているのかといえば、そうではない。
 これは、中国開国紀元を省略して、新暦3月30日を旧暦に換算した二月十七日を表示したにすぎない。
 旧暦と新暦を併記することを編集方針としたから、あくまでもそれに忠実に従った処理であろう。
○『民報』のばあい
 『民報』も『復報』とおなじく、日本東京で創刊している。1905年11月26日の創刊号より中国開国紀元を使用し(西暦、明治、光緒を併用)、しかもそのすべてが新暦となっている。『復報』第8期のように1907年から新暦に切り替わったようでもない。
○『漢幟』のばあい
 これも日本東京の出版である。彙録の1907年1月25日付創刊号には、ごていねいに「中国開国紀元四千六百零五年陽暦一月二十五日」と書いてある。『民報』と同じく西暦、明治、光緒を併用し、しかも「陽暦」であることを明示している。
 以上の3種類を見れば、中国開国紀元といっても、旧暦から新暦に切り換えたり、最初から新暦だったり、すべてが一致しているわけではない。

4-2 黄帝紀元
 もうひとつの黄帝紀元を途中から採用するのは、『広益叢報』と『江蘇』だ。

○『広益叢報』のばあい
 彙録で見る限り、重慶の『広益叢報』は長期にわたって刊行されつづけた。1903年から1912年までの9年間に287号を数える。小説に関していえば、その多くが再録であるが、長寿雑誌であったことにかわりはない。
 年号を採用しているから、最初は光緒で、つづいて宣統にかわるのは当たり前だ。
 変化を見せるのは、辛亥革命直後である。いよいよ宣統ではなくなるという時代の動きがあったのであろう。『広益叢報』第278号(第9年第23冊 1911.10.31)より宣統を廃止して黄帝紀元(旧暦)を使用しはじめる(彙編A1072頁)。
 ただし、黄帝紀元ではあるが、1911年を四千六百九年とし、これは中国開国紀元と同じになる。
 編年も『広益叢報』掲載の作品を採取している。旧暦だから、「黄帝紀元」という表示をはずしているだけ。
 黄帝紀元にはもうひとつの数字があって、それは『江蘇』で使われている。
○『江蘇』のばあい
 『江蘇』は、1903年に日本東京で発行された。最初は光緒を使用し、第3期より黄帝紀元あるいは紀元に変更している。それには、「黄帝紀元四千三百九十四年閏五月一日」と書かれており、旧暦であることがわかる。
 編年は、こちらも紀元あるいは黄帝紀元を書いていない。もともとが旧暦だから、元号を示さなくても問題はないという判断だろう。

 以上を見れば、黄帝紀年といっても、表わしかたには、いくつかの種類がある。しかも、それらの年数は、かならずしも一致していない。
 そのほかに、孔子降生あるいは、孔子を使用するものもある。こちらは、黄帝紀年ではない。特に、日本で発行された『清議報』は、光緒と併記していることを参考までに記しておく。
 あるいは、支那漢族黄中黄(章士サ)著『沈〓』(支那第一蕩虜社)には、「共和二千七百四十四年」(1903)などと見える。黄帝紀年ばかりではなさそうだ。
 前出『中国近代史詞典』には、附録4「辛亥革命期間所用黄帝紀年対照表」がついている。この附録では『民報』『黄帝魂』『江蘇』の名前があげられ西暦と対照されている。これをもとにして、私の知るいくつかを追加して以下のような対照表を作成した(旧は旧暦を、新は新暦を表わす)。
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中国開国紀元 黄帝紀元*2 黄帝紀元 孔子隆生、孔子 共和
『民報』新 『黄帝魂』旧 『江蘇』旧 『清議報』旧  『沈〓』
『漢幟』新 『国民日日報』旧 『祖国文明報』旧
『広益叢報』#1旧 『醒獅』#2旧
『復報』旧新
『東莞旬報』#3旧
1901 2452
1902
1903 4614 4394 2744
1904 4615 4395
1905 4603 4616 4396
1906 4604 4617 4397 2457
1907 4605 4618 4398 2458
1908 4606 4619 4399 2459
#1 黄帝紀元4609(1911)より
#2 一年のズレがある
#3 黄帝紀元を使用
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 上の分類に一致しないものもある。
 日本東京で発行された『醒獅』第1期は、黄帝紀元四千三百九十七年九月一日(1905.9.29)とする。しかし、『江蘇』などが表示する四千三百九十六年に比較すると、それよりも一年遅れた年数になっている。
 というようなわけで、清末雑誌の刊年表記は、光緒宣統のほかに、中国開国紀元と黄帝紀元(または紀元)が使われていることが理解できる。
 中国開国も黄帝も意味するところは異ならないはずだが、実際の数字が違う。フィクションだといってしまえば、西暦も同じことだ。約束事にすぎない。重要なのは、黄帝紀年を使うことであって、その数字が一致しようがしまいが、それは問題ではなかったようだ。
 その使用例は、外国である日本に多いといえよう。
 いくつかの数字が使用されている事実がある。結局のところ、それを小説目録にどのように反映させるか、という問題になる。

5 編年の処理
 編年の著者陳大康は、中国開国紀元、黄帝紀元などという黄帝紀年の表記を採用しなかった。編年の記述を見れば、それらが見えないのだから、そういう編集方針にしたのだと理解できる。
 黄帝紀年を省略して、新暦であれば別に換算して旧暦を掲載した。記述の統一を考えての処置だろうと推測する。黄帝紀年の数字そのものが一致しないのであれば、それをいちいち提示するのは、なんの意味もないという考えか。
 結果として、編年には、旧暦の月日に対応させた新暦がある。旧暦を漢数字であらわし前面に押し出す。カッコ内に新暦をアラビア数字で表示する。全体を見れば、まことにスッキリとした印象を受ける。
 だが、原文の言葉を省略した分、当時の雑誌が持っていた雰囲気を失うことになったのではないか。
 前述したように、黄帝紀年を使用するのは、雑誌編集者たち、あるいは成員の政治的思想的立場を明確にする方法のひとつであったからだ。
 『清末民初小説目録』では、たとえば、以下のように記述している。

m0739 明日之瓜分 瓜子 『江蘇』7期 黄帝紀元4394.9.1(1903.10.20)
[大典55][系目246][編年108]

 もとのままがよろしい、という判断である。これを見れば、『江蘇』は、黄帝紀元と旧暦を使用する雑誌だ、とすぐに把握ができるだろう(本来ならば、旧暦は漢数字で表示したい。しかし、目録のばあいは、そうしていないと凡例でことわっている。印刷空間の節約のためだ)。
 結論としては、彙録の刊年についての記述は、基本的に原本に忠実であることを確認できた。
 また、編年の刊年の表示も、誤りではないことがわかった。原文通りではないにしても、刊行月日については、わざわざ新暦を旧暦に換算するという手間をかけている。
 点検作業をつづけることが、問題を発見することにつながる。


【注】
1)中国社会科学院近代史研究所文化史研究室丁守和主編『辛亥革命時期期刊介紹』第2集 北京・人民出版社1982.10
2)黄帝子孫之多数人『黄帝魂』(黄帝紀元四千六百十四年十二月六日)所収の「黄帝紀年説」には、「黄帝降生四千六百十四年閏五月十七日書」と記してある。旧暦だとわかる。また、「黄帝降生後大事略表」の四千六百十一年が義和団事件になっている。該当年が1900年にあたる。
参考文献:
島下美喜「清末留日学生と「黄帝紀元」」『千里山文学論集』第60号1998.9.1
竹内弘之「中華民国年号の成立に関する一考察」『町田三郎教授退官記念中国思想史論叢』九州大学中国思想史研究室1995.3.11