漢訳アラビアン・ナイト(7)



樽 本 照 雄



5-6 記漁父 The History of the Fisherman 漁夫の話
 貧しい漁夫が、海底から引き上げた瓶を開けると、なかから出てきた煙が魔神の姿になった。
 魔神が、最初に口にした言葉を下に示す。これが、さらに私に首をひねらせることになるのである。

【説部叢書】所[蘇]羅門*29,上帝之先知,今後当服従汝,不敢跋扈矣。(ソロモンは、神の預言者である。今後は、あなたに従う、逆らうつもりはない)21頁

 魔神の言葉は、昔、ソロモンに反抗して瓶に閉じ込められたことに由来している。2度と逆らいません、瓶に入れないでください、という意味である。
 奚若の漢訳は、基本的にタウンゼンド版に拠っていると私は考えている。だから、次にタウンゼンド版の該当箇所を見てみる。

【タウンゼンド】“It is,”replied the genie,“to permit thee to choose the manner of thy death.……”(魔神が答えて「お前に死に方を選ばせてやろう……」)20頁

 明らかに奚若訳とは、異なっているではないか。タウンゼンド版の該当箇所には、漢訳にあるソロモンなど書かれてはいない。どういうことか。
 漢訳には存在し、底本のはずのタウンゼンド版にないのだから、別の版本を比較する必要が出てきた。

【レイン】There is no deity but God: Suleyman is the Prophet of God. O Prophet of God, slay me not; for I will never again oppose thee in word, or rebel against thee in deed!(アラーのほかに神なし。スライマンは神の預言者である。オオ、神の預言者よ、どうかわしを殺さないでくれ。本当のところ、言葉のうえでわしはあなたに反対したり、反抗したりはしません)72頁

 言葉の内容は、レイン版に近い。ただ、レイン版のスライマン Suleyman は、呼びかたが違うだけでソロモン(Solomon)のことではあるが、それが漢訳の「蘇羅門」になるかといえば、なりそうでならない。

【サグデン】“Solomon, Solomon,”cried the Genius,“great prophet, pardon, I pray, I never more will oppose thy will, but will obey all thy commands.”(「ソロモンよ、ソロモンよ」魔神は叫んだ。「偉大なる預言者よ、許したまえ、お願いする。あなたの意志に反抗することはしない。すべての命令に従います」)22頁

 漢訳は、タウンゼンド版ではないし、レイン版とも少し異なる。上に示したサグデン版に一番近い。以前にも似た例があった。ここだけを、サグデン版から引きぬいたことになるのか。
 魔神は、なぜ瓶のなかに閉じ込められることになったのか、漁夫にむかって、話しはじめた。

【タウンゼンド】Solomon, the son of David, the prophet of God, commanded me to acknowledge his authority, and submit to his laws. I haughtily refused. In order, therefore, to punish me, he enclosed me in this copper vase;(アラーの預言者、ダヴィッドの子ソロモンは、わしに彼の権威を認めて彼の法に従うように命令した。わしは傲慢にもそれを拒否した。そこで、懲らしめるためにわしを銅の壷に閉じ込めたのだ)20頁
【説部叢書】蘇羅門者。乃大衛王子。為上帝先知。神皆稟其令。罔敢踰越。予与撤加素桀〓。不服法。王震怒。命首相巴拉加耶子阿寒甫。逮予至。命設誓永服従。予倔強不聽。王迺以銅瓶錮予。……(ソロモンはダヴィッド王の子、アラーの預言者であるため、神はみなその命令を受け入れ、逸脱することをしない。わしとサカルは、もとから傲慢で、法に従わなかった。王はひどく怒り、首相バラヒヤの子アサフに命じてわしを捕らえさせ、永遠に服従すると誓わさせようとしたのだ。わしは聞き入れなかったため、王は銅瓶にわしを閉じ込めたのだ……)21-22頁

 漢訳には、タウンゼンド版に見ることのできないサカル、バラヒヤの子アサフなどという固有名詞が出てくる。これほど具体的な名詞は、原文になければ、漢訳者が勝手に補充できる種類のものではなかろう。タウンゼンド版が底本、という説がここでも揺らぐのだ。
 そこでレイン版のページをくってみる。

【レイン】I rebelled against Suleyman the son of Daood: I and Sakhr the Jinnee; and he sent to me his Wezeer, Asaf the son of Barkhiya, who came upon me forcibly, and took me to him in bonds, and placed me before him: and when Suleyman saw me, he offered up a prayer for protection against me, and exhorted me to embrace the faith, and to submit to his authority; but I refused; upon which he called for this bottle, and confined me in it, ……(わしはダウィッドの息子スレイマンに反旗をひるがえしたのだ。わしと魔神のサフルだがな。するとバルヒヤの息子アサフという大臣を送ってきて、無理矢理捕らえて彼の目の前につれていった。スレイマンは、わしを見て、わしに対する防御のために祈りを捧げ、信仰を受け入れ、さらに彼の権威に服従するようにすすめたのだ。しかし、わしは拒否した。そうしてこの瓶にわしを閉じ込めた……)72頁

 レイン版では、前出のようにソロモンではなくてスレイマンとする違いはある。だが、奚若訳は、そのほかの固有名詞がレイン版の該当部分によく似ている。
 それでは、サグデン版と比較対照してみよう。

【サグデン】I am one of those spirits who rebelled against the sovereignty of Heaven. All the other Genii acknowledged the great Solomon, and submitted to him. Sacar and myself were the only ones who were above humbling ourselves. In order to revenge himself, this powerful monarch charged Assaf, the son of Barakhia, his first minister, to come and seize me. This was done: and Assaf took and brought me, in spite of myself, before the throne of the king, his master. / Solomon commanded me to quit my mode of life, acknowledge his authority, and submit to his laws. I haughtily refused to obey him, and rather exposed myself to his resentment than take the oath of fidelity and submission which he required of me. In order, therefore, to punish me, he enclosed me in this copper vase; ……(わしは天の支配に叛旗をひるがえした魔神のひとりだ。ほかの魔神は、みな偉大なるソロモンを認めて服従していた。サカルとわしだけが高姿勢だったのだ。復讐をするために、この強力な王者は、バラヒヤの息子アサフという大臣に託してわしを捕まえにこさせた。そうしてそうなった。アサフは、わしを王の前に連れて行った。ソロモンは、わしにそれまでの生きかたをやめて、彼の権威を認めて法に従うように命令したのだ。わしは、傲慢にも彼に従うことを拒否した。忠誠を誓う、あるいは彼がわしに要求している服従を受け入れるよりも、わしは、ますます彼の怒りをあらわにさせたのだ。そうして、彼は罰としてわしをこの銅壷に封じ込めた)22-23頁

 「ダヴィッドの息子ソロモン」という表現は、ない。だが、そのほかの固有名詞は、漢訳の表記を見れば、こちらのサグデン版に近いように思える。
 もともと、タウンゼンド版が、サフル、バルヒヤの子アサフなどの人名を省略したのは、それらがなくても物語の進行には支障がないという判断があったからだろう。私も、そう思う。だが、奚若は、なぜこの部分だけ、ただでさえわかりにくい人名を、サグデン版も参照しながら補充して漢訳しなくてはならないのか。わけがわからないから、私は首をひねるのである。
 タウンゼンド版に見られない部分も漢訳しているかと思えば、その反対に、英文原作を無視する箇所もある。
 瓶に閉じ込められた最初の100年間、救い出してくれた者を金持ちにしてやる、と魔神は考えていた。次の100年間は、救い出してくれる者に地球の宝をつかませてやろうと考えた。3回目の100年間には、最も強力な君主にして、毎日みっつの願いをかなえてやろうと決めた。だが、300年が過ぎ去り、誰も現われない。怒りのあまり、逆に、救ったものは殺してやる、と魔神の決心は変化するのである。
 最初の100年部分を下に示す。

【タウンゼンド】During the first century of my captivity, I swore that if any one delivered me before the first hundred yeas were passed, I would make him rich.(わしが監禁されて最初の1世紀のあいだ、100年が過ぎる前に、誰かわしを自由にしてくれる者がいれば、そいつを金持ちにしてやろうと誓った)20頁

 サグデン版も、ほとんど同様に記述する。レイン版は、400年が経過したとする。
 さて、奚若版は、100年を「世紀 century」とくくることに慣れないのか、原文で100年単位で魔神の考えが変わることを、記述のままの100年ごとには漢訳しない。

【説部叢書】凡錮禁者。期多以三百年。予当日誓言。有能出我者。必有以報。初願報以富。継願報以盡得大地宝蔵。終願使其人作最強之君主為報。(閉じ込められるのは300年以上のようだった。わしは、当時、誓ったのだ。わしを出すことができる者には、必ず報いる。はじめは、富を報いたい。つづいては、大地の宝をことごとく得させてやることで報いたい、ついにはその者を最強の君主にすることで報いたい)22頁

 のべている内容は、英文原作も漢訳も、結果的にはそれほど隔たったものではない。だが、漢訳のように、まとめて300年にしてしまっては、やはり、原文に忠実な翻訳ということはできないと考える。奚若の翻訳についての考えが、私のものとは異なるのだろう。ただし、奚若がよった英文原作が確定できないのだから、このように結論づけてしまうことは、あきらかに危険である。
 魔神に殺される運命にあった漁夫だったが、窮地にあって智慧をしぼりだした。大柄な魔神が小さな瓶に入っていたとは信じられない、ウソでしょう、という例の頓知である。
 もとどおり瓶に魔神を封じ込めることに成功した漁夫が話して聞かせるのが、ドゥバン医師の物語である。

5-7 記竇本 The History of the Greek King and the Douban the Phystician ギリシア王と医者ドゥバンの話
 漢訳は、冒頭からややこしいことになっている。底本であるはずのタウンゼンド版とは、内容が異なるからである。

【説部叢書】乍門者。為国至小。属波斯。民皆希臘産。王病癩。歴謁医。不能已其疾。(ズゥマンは小さい国で、ペルシアに属し、国民はみなギリシア出身でした。王は癩を病んでおり医者をめぐりましたが病気を治すことはできなかったのです)23頁

 漢訳の底本はタウンゼンド版だと考えているから、当然、それを見る。すると、漢訳本とは違っているのだ。ア然とするし、また、悩みもする。

【タウンゼンド】There once lived a king, who was sorely afflicted with a leprosy, and his physicians had unsuccessfully tried every remedy they were acquainted with, ……(昔、王がいて、癩病にひどく苦しんでいました。彼の医者たちは知っているあらゆる治療法を試しましたが、ことごとく失敗したのです。……)22頁

 ここには、ズゥマンもペルシアもギリシアも出てこない。そうであれば、漢訳は、この部分はタウンゼンド版以外のものに拠ったとしか思えない。

【サグデン】IN the country of Zouman, in Persia, there lived a king, whose subjects were originally Greeks. This king was sorely afflicted with a leprosy, and his physicians had unsuccessfully tried every remedy they were acquainted with, ……(ズゥマンというペルシアにある国に、王がひとりいました。その国民はもともとはギリシア人でありました。その王は癩病にひどく苦しんでおり、彼の医者たちは知っているあらゆる治療法を試しましたが、ことごとく失敗したのです。……)25頁

 レイン版とも異なるこのサグデン版にのみ、ズゥマンなどという固有名詞が使われている。さらに、サグデン版は、医者ドゥバンが精通している各国語について説明して、Greek、Latin、Persian、Arabic、Turkish、Syriac、Hebrew を挙げる。漢訳も、順序は違うが、臘丁、希臘、波斯、亜拉伯、土耳其、叙利亜、希伯来と英文に対応する。だが、レイン版は、ancient Greek、Persian、modern Greek、Arabic、Syriac などを示してこれらとは微妙に異なる。タウンゼンド版は、もともとそれらの言語に言及しない。
 ドゥバンの処方と彼のすすめたポロのような運動によって王の病気は治った。王は、ドゥバンを手厚く遇するが、それを嫉妬したある大臣は、ドゥバンは、王を暗殺しにやってきたのだと讒言した。王が物語るのは、「亭主と鸚鵡の話 The History of the Husband and the Parrot」だ。
 物語のなかに組み込まれたこの話は、英文原作各種では、表題をつけて独立させている。だが、話としては短いためか、漢訳では、表題を省略して医者ドゥバンの話のなかにまぜいれた。
 ある男の妻が浮気をしていると本当のことを話した鸚鵡が、ウソを言っていると誤解したその男に逆に殺される。すなわち、王を助けてくれたドゥバンを暗殺者だと考えることは、鸚鵡を殺すのと同じこと、つまり無実の罪だ、という意味である。ドゥバンをかばう王に対して、反論をするのが嫉妬深い大臣だ。彼が反論するために持ち出してきた話というのが、狩猟をしていて道に迷い、食人鬼にのためにあやうく命を落としそうになった王子のことだった。物語には物語をぶつけて説得しようというのだから、長くなるはずだ。


【注】
29)重版では、初出にはない注釈をつけている。「蘇羅門(Solomon),耶蘇紀元前第十世紀之以色列王,以多智著称」21頁。本文の内容とは違うのではないか。