漢訳アラビアン・ナイト(9)


樽 本 照 雄



5-9 四色魚 The Further Adventures of the Fisherman 4色の魚
 奚若の漢訳は、この物語をタウンゼンド版に拠っているようにみえる。
 なぜなら、漢訳ではここで話の区切りをつけており、上記の表題を掲げているが、サグデン版では、表題もなければ、区切りもつけないからである。
 たとえば、漁夫が4色の魚を王様に進呈すると、王様は、魚を料理人のところに持って行くようにいい、漁夫に金400を与えたとする箇所を見られたい。
 漢訳と一致するのは、タウンゼンド版のみである。

【説部叢書】有異色必有嘉味。以魚付庖人。賚漁父金幣四百。(異なる色をしていてうまいにちがいない。その魚を料理人にわたし、漁夫には金貨400を与えよ)30頁
【レイン】Give these fish to the slave cook-maid. This maid had been sent as a present to him by the King of the Greeks, three days before; and he had not yet tried her skill.(それらの魚を料理奴隷にわたせ。その召使いは贈答品としてギリシア王から3日前におくられてきたものだったが、彼女の腕前をまだ試していなかったのです)88頁
【タウンゼンド】Take these fish, and carry them to the cook; I think they must be equally good as they are beautiful; and give the fisherman four hundred pieces of gold.(それらの魚を料理人のところへ持っていけ。その美しさと同じくらいうまそうだ。漁夫には金400を与えよ)30頁
【サグデン】Take these fish and carry them to that excellent cook which the emperor of the Greeks sent me;(それらの魚を、ギリシア王からおくられてきたあのすばらしい料理人に届けろ)37頁

 レイン版、サグデン版に見られるギリシア王は、漢訳には出てこない。また、金400は、サグデン版では、別の箇所にでてくる。ゆえに、漢訳は、タウンゼンド版に拠っていると思う。自然で合理的な判断であるといえよう。これについては、またあとで問題にする。
 料理人が魚を料理しようとするたびに、不思議な人物が出てきてじゃまをする。これをくりかえし、とうとう漁夫に質問すると、聞いたこともない湖が出現しており、その探索に王様は出かけることになった。
 平原に現われたのが黒色の大理石で造られ、鉄でおおわれた宮殿であった。
 中にはいると、豪華な造りの宮殿ではあるが、人がいる様子がない。そこに、悲しげな声が聞こえてくる。見れば、上半身は人間で、下半身が「黒石」になって動けないでいる若者がいる。
 レイン版は、ただの石 stone とするが、タウンゼンド版とサグデン版は、ともに black marble として漢訳と一致する。
 下半身が黒大理石の若者が、不思議な身の上話をしはじめた。

5-10 涙宮記 The History of the Young King of the Black Isles 若王と黒島の話
 黒島国の若王は、父王の死後、従妹と結婚して5年間は仲睦まじかった。だが、なぜだかその頃から妻の態度が冷たくなる。妻は、若王の飲み物に草の汁を入れて眠らせたあと外出するのだ。漢訳の「某草汁」(34頁)は、タウンゼンド版の「ある草の汁 the juice of a certain herb」(35頁)に対応する。
 ある晩、眠りをよそおって、外出した妻のあとをつけていくと、妻は歩きながら男に話しかけている。

【説部叢書】当於朝暾未上。使此殷繁都会。悉化為墟。巍垣巨宮。置諸漠野。諒君所雅願者。(朝日がのぼるまえに、この繁栄する都会を、ことごとく廃墟にし、大きな建物を砂漠におきましょう。あなたがお望みならばね)34頁

 漢訳には、男とあるだけで、具体的な説明はない。

【タウンゼンド】I perceived that she was walking with a man, with whom she offered to fly to another land.(妻が男と歩いているのに気がつきました。妻は、別の土地に逃げようとそいつに提案しているのです)35頁

 漢訳は、あきらかにタウンゼンド版とは異なる。どうなっているのだ。漢訳の底本は、タウンゼンド版ではないのか。
 レイン版は、もっとグロテスクで、会話をしているどころではない。

【サグデン】I will, if you wish it, before the sun rises, chang this great city and this beautiful palace into frightful ruins, (お望みならば、朝日がのぼるまえに、この大都会とこの美しい宮殿をぞっとするような廃墟にしてみせましょう)45頁

 漢訳は、完全一致とはいえないがサグデン版に近い。さらに、サグデン版では、その男は黒いインド人であると描写しており、奚若は、あとの部分では、それも取り入れている。では、漢訳の底本は、サグデン版なのか。
 若王は、妻の愛人の首にすばやく切りつけた。死んだものと思った。しかし、妻の妖術によって、男は命はとりとめたものの植物人間になる。悲しんだ妻は、宮殿のなかに建物を造りたいと若王に願いでた。
 その建物とは、漢訳で「円頂閣」(35頁)という。注がついていて、「土耳其俗,恒於墳上築一円頂閣,以別於尋常屋宇(トルコの風俗では、墓のうえに丸屋根を築いて普通の建物とは区別する)」と説明する。
 丸屋根、すなわち cupola だとするのは、タウンゼンド版しかない。当時の英漢辞典では、cupola には「円形頂、円屋頂」の語を当てている。
 タウンゼンド版にも注釈があって、「トルコの墓地では普通 Usual in Turkish cemeteries.」と記述している。漢訳の注は、英文のままではないが、注のある場所からして同じであることをいっておく。
 参考までに、各版の原語とその英漢辞典の記載を掲げておこう。
 レイン版は、tomb「墳、墳墓」、サグデン版は、mausoleum「陵」である。
 この建物は「涙宮 Palace of Tears」と名付けられた。妻が、そのなかで嘆き悲しみ、植物人間になった愛人を住まわせる宮殿というわけだ。
 結局、妻の妖術で、若王は半身が大理石に変えられた。おまけに、動けない若王を妻が毎日鞭打つ。都は湖となり、住民も魚に変身させられた。イスラム教徒 Mussulmans は白色に、ペルシア教徒 Persians (注には、Magicians とある。また、レイン版では、マギ教徒 Magians)は赤色に、キリスト教徒 Christians は青色に、ユダヤ教徒 Jews は黄色に分けられた。
 以上が、4色魚の謎である。
 黒島王、すなわち若王に同情した王様は、愛人を斬り殺し、彼になりすまして黒島王にかけた妖術を解くように若王の妻に要求する。そうなった。さらに、都、住民に対しても同様にするよう求めた。そうなった。王様は、黒島王の妻を殺した。王様は、黒島王を自分の息子にして、めでたしめでたし。
 奚若訳の結末は、こうだ。

【説部叢書】以黒島王獲救。実由於漁父之進魚。廼復召漁父。以金帛厚賚之。(黒島王が救われたのは、実に、漁夫が魚を献上したからでした。そこで、ふたたび漁夫を呼ぶと、財宝をたっぷり与えたのです)39頁

 上のような漢訳の簡潔さを見れば、レイン版がどれくらいくどくどと説明しているのが理解できよう。

【レイン】So he sent to this fisherman, who had been the cause of the restoration of the inhabitants of the enchanted city, and brought him; and the King invested him with a dress of honour, and inquired of him respecting his circumstances, and whether he had any children. The fisherman informed him that he had a son and two daughters; and the King, on hearing this, took as his wife one of the daughters, and the young prince married the other. The King also conferred upon the son the office of treasurer.(中略)And as to the fisherman, he became the wealthiest of the people of his age; and his daughters continued to be the wives of the Kings until they died.(魔法にかけられた都市の住人を甦らせた原因となった、あの漁夫をつれてきました。王は、漁夫に名誉の服を着せると、なんにんの子供がいるかなどと彼の暮らし向きをたずねます。一男二女だとお答えすると、王は、長女を自分の、次女を若王の妻にしたのです。王は、同じく漁夫の息子を出納官にもしました。(中略)漁夫は、もっとも裕福なものとなり、彼の娘たちは、死ぬまで王の妻でありました)102-103頁

 話の運びをゆがめないように、すっきりと記述するためにタウンゼンド版、あるいはサグデン版などの後版が出現する理由である。

【タウンゼンド】The sultan did not forget the fisherman, and made him and his family happy and comfortable for the rest of their days.(王は、漁夫のことを忘れず、彼と彼の家族を末長く幸福に安楽に過ごさせたのでした)40頁

 タウンゼンド版は、あっさりしすぎている。黒島王救助と漁夫の関係すらも省略してしまった。

【サグデン】With regard to the fisherman, as he had been the first cause of the deliverance of the young prince, the sultan overwhelmed him with rewards, and made him and his family happy and confortable for the rest of their days.(漁夫が、若王の救出の最初の原因でした。王様は、褒美で彼を感動させ、彼と家族を一生幸福に快適に過ごさせたのです)52頁

 ここを見れば、漢訳は、サグデン版を参照していることがわかる。
 それにしても底本か参照か、判断はますます乱れるのである。