「李伯元と劉鉄雲の盗用事件」の謎を解く


樽本照雄


 「李伯元と劉鉄雲の盗用事件」とよばれる1件は、清末小説研究の分野において比較的広く知られている。
 人の目を引く理由は、李伯元の「文明小史」が、劉鉄雲の「老残遊記」から文章を盗用、ことばをかえていえば無断借用している、という内容だからだ。あからさまで、ほかに例を見ない。
 1961年3月25日、この事実を指摘した魏紹昌の文章「李伯元与劉鉄雲的一段文字案」*1が、『光明日報』に掲載された。彼は、それにくわえて関連する疑問3点を提出してもいる。
 すでに長い時間が経過した。その間、研究が進み、新しい事実が発掘されている。「文明小史」と「老残遊記」を掲載した雑誌『繍像小説』そのものについて、ある定説がくつがえった。立論の前提が変化しているということだ。
 前提の変化をふまえて、私は以下のことを指摘した。
 すなわち、盗用問題だけでおさまらないこと、『繍像小説』の発行遅延問題がからんでいること、などだ。
 前提が変わったことを知れば、魏紹昌の掲げた論文名「李伯元与劉鉄雲的一段文字案」に誤りが含まれていることに気づく。
 しかし、魏紹昌は、生前、私が提起した問題に答えることはなかった。また、のちの研究者は、問題が存在していることを理解しない。
 立論の前提を含めて、魏紹昌のいう疑問全体をあらためて検討する。

◎1 魏紹昌論文
 論文の主旨は、つぎのとおり。
 李伯元の「文明小史」と劉鉄雲の「老残遊記」は、どちらも李伯元が主編をつとめる『繍像小説』(商務印書館出版。1903年)に連載された。しかし、「老残遊記」は、第13回で中断する。その原因は、『繍像小説』の編集者が、著者の劉鉄雲に相談することなく該原稿の第11回を没書にし、つづく3回を1回ずつくりあげたからだ。つまり『繍像小説』第18期に掲載された「老残遊記」第13回は、実は、第14回の原稿だった。劉鉄雲は、『繍像小説』のやりかたに立腹して原稿執筆を中止した。翌年(1904ママ)、「老残遊記」は、『天津日日新聞』に発表の場所を移す。第1回から掲載をはじめて、第11回の原稿をおぎなったから、それ以後に出版された単行本は、原状を回復している。
 没書になった「老残遊記」第11回の内容は、申子平がのべる神秘的な議論と「北拳南革」をののしるものだ。これは、北方の義和団と南方の革命党に対する劉鉄雲の反動的政治観点を暴露しており、『繍像小説』がこの回を没書にしたのには道理がある。しかし、『繍像小説』第55期に掲載された「文明小史」第59回に、李伯元ママは劉鉄雲がののしった「北拳南革」など約1,500字あまりをそのまま盗用している。
 このあとに、魏紹昌は疑問3点を掲げて、それらが解決不能であることをのべる。それに触れる前に、上に紹介した文章について補足説明しておく。
 劉鉄雲「老残遊記」の執筆と『繍像小説』誌上での連載中止のいきさつ、および『天津日日新聞』に発表の場所を移動したことは、魏紹昌が記述するとおりだ。彼は、劉大紳「関於老残遊記」(『文苑』第1輯1939.4.15)の説明をそのまま下敷きにしている。
 「老残遊記」は、なぜ連載中止になったのか。その理由は、1904年以降の長い期間、いっさい不明のままだった。ゆえに、読者の目には2種類の「老残遊記」が存在しており、不可解の印象をあたえていた(後述)。連載中止から数えてほぼ35年後に、劉大紳は、「老残遊記」の『繍像小説』連載について複雑な経緯があったことをはじめて明らかにする。劉鉄雲の息子だからこそ説明することができた。
 注目されるのは、魏紹昌が指摘した次の事実だ。
 没書になった劉鉄雲「老残遊記」第11回の文章が、のちの李伯元ママ「文明小史」第59回に盗用されている。
 魏紹昌がのべる文章には、正確でない箇所がふたつある。「ママ」を付けて示した。
 ひとつ。「老残遊記」が『天津日日新聞』に連載の場所を移した時間を「翌年(1904)」と書いているのは、正しくない。彼は、先行研究、すなわち、阿英が「1904年」とのべている*2のをそのまま取り入れ、結果として間違った。
 とはいえ、それは無理のないことなのだ。阿英の説明を否定できる研究者は、魏紹昌を含めて中国にはいなかった。
 ふたつ。文章を盗用したのは、誰か。被害者は、いうまでもなく劉鉄雲である。問題は、盗用した人物のほうなのだ。
 「文明小史」に盗用部分があるのだから、その作者が盗用した。李伯元である。魏紹昌は、なんの疑問もいだかずにそう考えた。だからこそ、論文の題名を「李伯元与劉鉄雲的一段文字案」とした。現在でも、盗用したのは李伯元だ、とほとんどの研究者が信じている。しかし、それは違うのだ。
 説明の順序から、魏紹昌が提出した疑問をつぎに示しておく。
 彼は、李伯元と劉鉄雲に盗用関係があること指摘して、次の3点が説明できないという。

1.李伯元は『繍像小説』の主編であったが、みずからが没書にした劉鉄雲の原稿をなぜ自分でもういちど使用したのか。
2.劉鉄雲は、盗用についてなぜ抗議をしなかったのか。
3.「文明小史」と「老残遊記」は、当時すでに流行していたが、読者はこの盗用になぜ気がつかなかったのか。

 魏紹昌は、疑問を提起しただけだ。答えようがないし追究するつもりもない、とわざわざ書いている。
 それゆえか、あえてこの謎の解明にのりだす研究者は、ほとんどいなかった。今にいたるまで、いわば「謎」として残っている。
 魏紹昌がみずからの疑問に答えることができなかったのには、理由がある。立論の前提が間違っているからだ。ほかの研究者も同じ前提によっている。魏紹昌と結論を共有するのも当然ということになる。

◎2 謎を解く
 疑問3点を検討していくが、それぞれの前提も明らかにしておこう。

 1.李伯元は『繍像小説』の主編であったが、みずからが没書にした劉鉄雲の原稿をなぜ自分でもういちど使用したのか。
 前提:『繍像小説』は、李伯元の死去によって3年分全72期を発行して停刊した。

 ここにかかげた「前提」は、魏紹昌の論文には書かれていない。書く必要がないほどに研究者にとっては常識だとの認識がある。なにしろ研究界の権威阿英が、そう書いているのだ。異論など、とんでもない。
 『繍像小説』は半月刊を維持していたが、主編李伯元の死亡によって刊行を中止した。李伯元が死去したのは、光緒三十二(1906)年三月十四日だ。『繍像小説』の終刊号である第72期の発行日は同年三月十五日だから、まさに李伯元の死去と一致する。
 『繍像小説』の刊行に関する「定説」でもある。「定説」だからこそ、わざわざ書くこともない前提なのだ。
 阿英を先頭にして、研究者のほとんどがそう信じて疑わない。魏紹昌も例外ではなかった。
 だが、この間違った前提にたつ限り、うえの謎を解くことはできない。
 では、正しい前提とはなにか。
 『繍像小説』の発行が遅れていた。李伯元の死後も『繍像小説』は発行を継続していた、という事実だ。これを『繍像小説』発行遅延説という。
 『繍像小説』は第13期より発行年月を明記しなくなる。雑誌の原物を見ればわかる。『繍像小説』第72期のどこにも「光緒三十二年三月十五日」などと書かれてはいない。発行年月日は、空白になっている。
 阿英が、李伯元の死去と『繍像小説』の停刊を推測によって結びつけた。それを後の研究者が、検証ぬきで信じこんでいるだけだ。
 私は、雑誌が実際にいつ発行されたのか、客観的な資料にもとづき探索をつづけてきた。
 私が手がかりにしたのは、雑誌の発行元である商務印書館が新聞に掲載した『繍像小説』発行遅延のおわび広告、および『世界繁華報』、天津『大公報』、『中外日報』、『申報』、『東方雑誌』、『消閑録』などに見られる出版広告である。
 商務印書館の手になる発行遅延広告は、光緒三十一年二月初六日付『中外日報』、同年十二月初一日付『中外日報』、および光緒三十二年二月十五日付『世界繁華報』に掲載された。
 それらを総合して別表の「『繍像小説』刊行一覧」を作成したので参照してほしい。
 結論をいえば、発行が全体的に予定よりも遅れていた。発行元の商務印書館が、その事実を認める新聞広告を出している点に注目すべきだ。
 『繍像小説』の発行がどれだけ遅れていたか。遅延の状況は、以下のようになる。
 第1年全24冊は、光緒三十(1904)年年末に、第2年第25-48期は、光緒三十一(1905)年年末に、第3年第49-72期は、光緒三十二(1906)年年末にずれ込んで発行されている。全体からいえば、予定を約十ヵ月ほど遅れての停刊である。
 注目すべきは、光緒三十二年になってからだ。
 『繍像小説』は、第3年分を発行しはじめる。第52期を発行した後に事件が発生した。李伯元が、『世界繁華報』(光緒三十二年二月十五日付)に自らの「肺病宣言」を掲載したのだ。
 「肺病宣言」から一ヵ月後に、李伯元は死去する。
 つまり、李伯元が『繍像小説』の編集と著作に関係していたのは、第52期あたりまでにすぎない。
 李伯元の死後、四月、閏四月、五月という約三ヵ月半の間、『繍像小説』は発行されなかった。空白期間をへて六月より第55期以降を刊行しはじめる。年末に第72期を発行して刊行を停止する。
 以上が正しい前提である。
 李伯元の死後も『繍像小説』は刊行を継続していた。それまでの「定説」――李伯元の死去と『繍像小説』の停刊が同時である、は事実ではない。
 正しい前提にもとづけば、魏紹昌が提起した疑問はどうなるか。
 盗用した「文明小史」第59回は、『繍像小説』第55期に掲載されている。その発行時期は、李伯元の死後約三ヵ月半である。ゆえに、盗用関係は、劉鉄雲と死者である李伯元のあいだには発生しえない。盗用したのは、その後を継いだ欧陽鉅源である。正確に表現しようとすれば、「李伯元と劉鉄雲の盗用事件」ではなく「「老残遊記」と「文明小史」の盗用事件」と書かなければならない*3。これが魏紹昌の論文名にある誤りだ。
 没書にされたのは、劉鉄雲「老残遊記」第11回の原稿であった。原稿は、『繍像小説』の編集部に保存されていた。李伯元の死後、それを欧陽鉅源が利用して「文明小史」第59回に取り込んで継続執筆した。
 くりかえす。李伯元が没書にして、欧陽鉅源が利用(盗用)した。「文明小史」の署名南亭亭長が、李伯元と欧陽鉅源の共同筆名であると私がいう根拠でもある。
 李伯元みずからが没書にしたものを、またなぜ盗用したのか、というのが魏紹昌の疑問だった。疑問それ自体が成立しない。

 2.劉鉄雲は、なぜ盗用について抗議をしなかったのか。
 前提:劉鉄雲は、自分の文章が盗用された事実を知っていた。

 魏紹昌は、盗用の事実を知ってこの論文を発表した。当事者である劉鉄雲も、当然、盗用された事実を知っていたはずだ。魏紹昌は、疑いもなくそう思いこんだ。
 盗用されたと知っていれば、抗議するのしないのという問題が発生する。しかし、盗用の事実を知らなければ、抗議が出てくる余地はないのではないか。
 はたして、劉鉄雲は、自分の文章が「文明小史」に盗用された事実を知っていたのだろうか。これこそが、問題だ。
 劉鉄雲は、執筆した「老残遊記」を、直接、自らの手で『繍像小説』の編集部に届けていたわけではない。「老残遊記」が掲載された『繍像小説』は読んでいる。劉大紳の証言がある。雑誌も手元に置いていただろう。しかし、原稿が没書になった時、執筆を中止して抗議の意思を表明した。それ以後、『繍像小説』とは関係を絶っている。自分の作品が掲載されていない『繍像小説』について、劉鉄雲が興味を示すはずもない。まさか、没書になった原稿が「文明小史」に盗用されるとは想像もしていなかったのではないか。
 さらにいえば、光緒三十二年の正月と八月に劉鉄雲は、日本を訪問している。そのほか坤興織布工場の経営に失敗するとか、いくつかの実業に手をとられて各地をとびまわっている。上海の『繍像小説』に掲載された「文明小史」を見る機会などなかったと考える。
 劉鉄雲は、「文明小史」に自分の文章が盗用されたことを知らなかった。私がそう判断する主要な根拠は以下にある。
 すなわち、劉大紳「関於老残遊記」のどこにも「文明小史」に盗用された、とは書かれていないのである。該文は、『繍像小説』において没書にされたいきさつを詳細に記述しているにもかかわらず、盗用を問題にはしていない。普通に考えて、奇妙である。没書のほかに盗用までも、と大書していい事柄なのだ。劉鉄雲が盗用を知っていれば、息子の劉大紳に告げないはずがない。
 「老残遊記」と「文明小史」の本文を比較対照する人もいなければ、盗用の事実に気づいた人物も、光緒三十二年当時はいなかった。
 結論は、ひとつだ。劉鉄雲は盗用の事実を知らなかった。ゆえに、抗議をするわけがない。
 魏紹昌は、盗用に関する自分の知識を無意識のうちに劉鉄雲に投影してしまった。ありえない疑問を作り出した。ここでも、彼の疑問は成立しない。

 3.「文明小史」と「老残遊記」は、当時すでに流行していたが、読者はこの盗用になぜ気がつかなかったのか。
 前提:「文明小史」と「老残遊記」は、当時すでに流行していた。

 魏紹昌のいう「当時」というのは、「文明小史」第59回が発表されたころを指すと思われる。光緒三十二年だ。
 彼は、1960年代の感覚でこの疑問を提出している。60年代であれば、「文明小史」も「老残遊記」も広く知られた作品となっている。だが、光緒三十二年の「当時すでに流行していた」とおおざっぱにいうことはできない。
 劉鉄雲の『老残遊記』初集20回は、『天津日日新聞』連載が完結したのちに単行本として発行された。
 しかし、読者の前には長い間にわたって2種類の「老残遊記」が存在した。
 ひとつは、『繍像小説』に連載されていた「老残遊記」だ。理由も明らかにされず第13回(実は第14回)で中断している。
 もうひとつは、『天津日日新聞』連載のもの。初集20回本として多数の出版社から単行本が刊行された。
 両者の本文の違いを調査したのが、阿英だ。
 阿英がなぜ調査することになったかといえば、その前に趙景深の文章がある。
 趙景深が書いているのは、こうだ。彼の父親が、『繍像小説』から抜いた「老残遊記」を見せて、出回っている単行本とは第9回から第11回の部分が異なるという。今、『繍像小説』本は手元にないので、それを所蔵している阿英に答えてもらいたい*4。
 それを受けて、阿英は、『繍像小説』連載と亜東図書館本を使用して対照した。その結果を「老残遊記校勘記」*5と題して発表したのが、ようやく1941年になってからだ。亜東図書館本には見える第11回が、『繍像小説』には掲載されていない事実を指摘している。内容が異なるというだけで、その理由までは説明しない。
 「老残遊記」は、多数の出版社が刊行するほどの有名作品であった。しかし、その初出誌『繍像小説』で連載中止になった経緯を、1941年の阿英は、知らなかった。その経緯を公表した劉大紳「関於老残遊記」(1939)を読んでいなかったらしい。
 専門家の趙景深、阿英においてすら、そういう状況である。2種類の「老残遊記」のどちらが本物か、判断をつけかねている。「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係にいたっては、趙景深は、まったく気づいていない。また、1941年の阿英も、知らないのは同様だ。盗用関係があることが、一般に知られていなかった証拠といえる。
 もうひとついうならば、出版の様子が異なる。
 「文明小史」は、『繍像小説』で連載を終了した直後の丙午年十月九日(1906.11.24)に商務印書館から2冊本で発行された。しかし、その後、1955年になるまで単行本で出版されたことはない。ほとんど忘れ去られた作品だったのだ。楊世驥も1945年において、読むのがむつかしい、と書いている*6。
 それをわざわざさがしだして文章にした楊世驥すら、「文明小史」に「老残遊記」からの盗用部分があることには言及しない。気づかなかったとわかる。
 ここでも、魏紹昌の疑問は成り立たない。
 結局のところ、彼の提出した疑問3点は、前提が間違っていた。疑問は、的はずれであったということだ。

◎3 誤りをさかのぼる
 「文明小史」と「老残遊記」の盗用関係に最初に気づいたのは、1955年の阿英だと私は見ている。魏紹昌は、自分の論文のなかで阿英の名前を出すことはなかった。阿英が「盗用事件」と明確にのべていないから、触れなかったのかもしれない。
 だが、阿英が『文明小史』(北京・通俗文藝出版社1955.7)の出版を機会に書いた「叙引」*7に興味深い部分がある。

 彼(注:李伯元)は劉鉄雲と同様に「北拳南革」に反対していた。「文明小史」第59回のなかで1,500字を用いて「革命党は天理国法人情を破壊するものだ」とののしり、義和団は「妖怪をよそおって俗人をおどかし」「国家の命をほとんどほうむりさった」という(他和劉鉄雲一様,反対「北拳南革」,在文明小史第五十九回裏,就用一千五百言詆「革命党是破壊天理国法人情」的,説義和団「装妖作怪,駭俗驚愚」,「幾乎送了国家的性命」)4頁

 「北の義和団と南の革命党」に対して、「李伯元」は、劉鉄雲と同じ見解を抱いていた、という。ではなぜ、阿英は、その約1,500字を『文明小史』から削除したのか。偶然に同じ意見だったというだけならば、削除する必要などない。文章そのものが一致していた。「李伯元」が劉鉄雲の文章を盗用した、と阿英は考えた。これが削除した理由である。
 阿英こそが、誤った前提にたって盗用問題をとらえていたのだ。後の研究者が、「定説」から抜け出すことができず、謎を解明することに失敗したのも無理はない。

【注】
1)初出以外に、つぎの文集に収録されている。『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12/『中国近代文学論文集』(1949-1979)小説巻 中国社会科学出版社1983.4/晩清小説大系『文明小史』台湾・広雅出版有限公司1984.3/魏紹昌『晩清四大小説家』台湾・商務印書館1993.7
2)阿英「関於老残遊記二題」『小説二談』上海・古典文学出版社1958.5。つぎのように書く。「刊載時期,在商務輟刊之翌年,即甲辰(一九〇四年)」61頁
3)参考:樽本「「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係を論じる」『中国文芸研究会会報』第57号 1986.1.30/『清末小説論集』日本・法律文化社1992.2.20
4)趙景深「老残遊記及其二集」『小説閑話』上海・北新書局1937.1。258-259頁
5)魏如晦(阿英)「老残遊記校勘記」『文林月刊』第6期1941.11/「《老残遊記》校勘記」『小説四談』上海古籍出版社1981.12
6)楊世驥「文明小史」『文苑談往』上海中華書局1945.4/1946.8再版。79頁/『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12/晩清小説大系『文明小史』台湾・広雅出版有限公司1984.3/『中国近代文学論文集』(1919-1949)小説巻 中国社会科学出版社1988.5
7)また、阿英「《文明小史》叙引」『小説四談』上海古籍出版社1981.12。154頁