漢訳アラビアン・ナイト(10)


樽本照雄


5-11 三〓稜達五幼婦(二黒犬)The Three Calenders, Sons of Kings, and of Five Ladies of Bagdad 三人の托鉢僧、王の息子、およびバグダッドの五人の娘たち
 『繍像小説』第11期(癸卯九月初一日(1903.10.20))より連載がはじまっている。これより、しばらく『繍像小説』掲載の漢訳を検討する。
 ここから複雑になる理由のひとつは、漢訳が、『繍像小説』初出と後の「説部叢書」単行本所収のものとでは、語句が異なっているばあいがあるからだ。
 まず、題名からして違っている。
 「〓稜達」には、「トルコ、ペルシアなどに住む托鉢僧。一名ダーヴィシュ Dervish といい、貧しさを楽しむことを主旨とする(突厥波斯等處遊僧一名徳惟虚以甘貧楽道為旨)」と注釈をつける。漢訳には、表題に注がついているから、タウンゼンド版にも同じ場所に注があるのかと思う。だが、ちがう。さがしてみれば、タウンゼンド版の本文44頁にある注から部分的に引用していることがわかった。そうでなければ、「徳惟虚」が Dervish の音訳であることなど、私に指摘できるわけがない。
 「二黒犬」は、単行本の際に改題されたもの。物語に2匹の黒犬がでてくるところから題名にしたのだ。
 例として冒頭の数行をあげてみよう。

【繍像小説】当加利勿哈龍愛勒司乞特時。柏格特有担夫某。秉性聡慧。善解人意。(カリフのハルゥン・アル・ラシッドの時代です。バクダッドにある荷担ぎがいまして、天性から賢く、人の気持ちがよくわかったのです)1丁オ
【説部叢書】当加利弗赫侖挨力斯怯得時。報達有業負荷者某甲。雖窶賎。而性敏。善解人意。(カリフのハルゥン・アル・ラシッドの時代です。バグダッドにある荷担ぎがいまして、貧しいとはいえ、性格が機敏で人の気持ちがよくわかったのです)39頁

 両者は、固有名詞に当てる漢字が異なるくらいで、意味からいえば、非常に近い。別物というわけではない。
 英文原作の探索をかねて英文を比較対照してみる。

【レイン】THERE was a man of the city of Bagdad, who was unmarried, and he was a porter;(バクダッドに男がいて、結婚はしておらず、荷担ぎ人でありました)120頁
【タウンゼンド】In the reign of Caliph Haroun al Raschid, there was at Bagdad a porter, who was a fellow of infinite wit and humour.(ハルゥン・アル・ラシッド教主の支配される時代のことでございます。バグダッドに荷担ぎ人がおりまして、無限の才覚をそなえてよい性格でありました)40頁
【サグデン】DURING the reign of the Caliph Haroun Alraschid there lived at Bagdad a porter, who, notwithstanding his low and laborious profession, was nevertheless a man of wit and humour.(ハルゥン・アル・ラシッド教主の支配される時代のことでございます。バグダッドに荷担ぎ人がおりまして、低く骨のおれる仕事ではありましたが、無限の才覚をそなえてよい性格でありました)53頁

 ハルゥン・アル・ラシッドの名前が出ているところは、レイン版と異なる。ただし、『繍像小説』版、あるいは「説部叢書」版が、タウンゼンド版かサグデン版のどちらに拠っているかは、あいまいである。おいおい詰めていくことにしよう。
 すこし先に読み進んだところで、英文原作3種と漢訳の文章の違いにぶつかってしまった。今まで検討して来たタウンゼンド版、サグデン版、さらにはレイン版とは決定的に異なる箇所が出現する。絞りこむどころではない。別の版本をさがすことになるかもしれない事態が、またも発生する。これが、底本をとりまく情況を複雑にする原因なのだ。
 決定的に違うのは、一見なんでもなさそうな箇所である。
 荷担ぎ人は、ある美女にやとわれて買い物の荷物を運ぶことになった。果物、香辛料、肉、乾物、菓子など、それも大量に買うのを、つぎつぎと籠に入れて運ぶのが仕事だ。
 肉を購入する場面から引用しよう。

【繍像小説】又至一肉肆。購鮮肉二十五磅。復至菜市購白花菜。太勒貢(菜名)胡瓜。芹菜等。浸以醋。(さらに肉屋にいくと新鮮な肉を25ポンド購入しました。また野菜市場では、酢につけるためにケイパー、タイラゴン(野菜の名前)、キュウリ、セロリなどを買いました)1丁オ
【説部叢書】復至屠肆。購二十五磅肉。而白花菜。太勒貢(菜名)。瓜芹之類。所買亦称是。(また肉屋に行って25ポンドの肉を買いました。さらに、ケイパー、タイラゴン(野菜の名前)、キュウリ、セロリの類を購入して、それをかつぐのです)40頁

 両者は、同じ漢訳ではあるが、微妙に異なる。ケイパー、タイラゴンはあるのだが、「酢につける」が後になると抜け落ちる。
 問題は、「太勒貢」なのである。「太勒貢」が、はたしてタイラゴンなのかどうか不確実だ。漢字の音訳から想像できるのは、そのほかにタルラゴンとか、タルゴンあたりか。
 タイラゴン、タルラゴン、タルゴンなどなど、これを出してくる英文原本が、今まで言及してきたもののなかには、ない。

【レイン】Cut off ten pounds of meat;(肉を10ポンド切ってください)121頁
【タウンゼンド】Passing by a butcher's shop, she ordered five and twenty pounds of his finest meat to be weighed, which was also put into the porter's basket. /At another shop she bought capers, small cucumbers, parsley, and other herbs;(肉屋の前を通ると、彼女は25ポンドの極上肉を量らせ、それを荷担ぎ人のカゴに入れるのです。/別の店では、ケイパー、小さなキュウリ、パセリ、ほかの香草を買いました)41頁
【サグデン】Passing by a butcher's shop, she ordered five and twenty pounds of his finest meat to be weighed, which was also put into the porter's basket.(肉屋の前を通ると、彼女は25ポンドの極上肉を量らせ、それを荷担ぎ人のカゴに入れるのです)53頁

 レイン版は肉の量が10ポンドで、漢訳の25ポンドとは異なる。
 サグデン版は、タウンゼンド版の前半だけを流用しているだけだ。野菜の名称を出さない。
 そうなるとタウンゼンド版が、漢文にいちばん近いように見える。だが、肝心の酢漬けにするタイラゴン(?)が、存在しない。
 アンドリュー・ラング Andrew Lang 編集だという新装版も見たが、問題にしているタイラゴン(?)は影も形もないのである。
 野菜、香草の類は、奚若が勝手に考えて訳文に挿入することは、かなりむつかしいだろう。だいいち、加筆しなければならない理由がない。原文通りに翻訳するのが、いちばん確実だし手間もかからないことは、容易に想像できる。
 驚いたことに、タイラゴン(?)を出している訳文が私の手元にある。日本語訳ではあるが、有力な資料である。
 それは、井上勤『アラビヤンナイト物語』*30なのだ(総ルビは省略する)。

【注】
30)井上勤訳述、渡辺義方校正『全世界一大奇書』広知舎1883.7.7版権免許。国会図書館所蔵マイクロフィルムで見た。のち表題のように改題したという。今、大倉書店1908.2.13改訂、および岡村書店1910.6.7譲受印刷、19204.5三版による。