編集ノート集――清末小説研究会の紹介にかえて






●第1号 1977.10.1
 文学作品あるいはその作家を研究する際、資料の信憑性が問題となる。作品の場合は版本というかたちで表われる。版本間で異同が見られることが少なくない。その異同にも、作者の意識の変化で自らが手を入れた場合と、出版者が改変した場合とがあり、その二者は当然区別しなければならない。作者自身の手になるものならば、それはそれで別の問題にすることができる。しかし、出版者が校訂という名で作業を行ない、しかも具体的な注記をほどこさない時、やっかいな事になってしまう。どこまでが原文のままで、どこに校訂者の筆がはいっているのか見分けがつかないからだ。枯れたススキをつかまえて、これが幽霊だ、ということになればおもしろいのだが。
 本誌発行の目的にはふたつある。その1、清末小説およびこれに関することを研究する私たちのために、文章を発表する誌面を作ること。その2は、基礎的な資料の整理である。基礎的資料の整理には、上述版本についての整理が含まれる。そのほか、著作目録、内外の研究文献目録、ある場合には作家の年譜も必要だ。第1号は劉鉄雲に関しての資料を特集したが、最初の計画では重要と考えられる評論(中国語)を10数篇再録する予定であった。しかし、頁数の都合で附録として2篇を収録するにとどめるほかなかった。次号以下、曾孟樸、劉半農、呉趼人の資料を予定している。この顔ぶれを見ただけで、また例の4人か、魯迅・阿英の枠を一歩も出ていないではないか、という批判の声が聞こえる。そうだ、私たちも、一刻も早く批判する側にまわりたい。
 論稿については、各自が現在行なっている清末小説に関するものを単に集めるという体裁に、今のところならざるを得ない。
 私たちの学力と金力には限りがあるため、年1回10月発行の予定で、4号までは発刊するつもりだ。それからのことは、またその時考える。
 本年3月10日、竹内好氏葬儀において増田渉先生が急逝された。本誌創刊を準備中の昨年夏、原稿依頼に泉北のお宅をうかがったことがある。その時の、「君たちを応援する意味で、書くよ」という先生の言葉が忘れられない。(たるもと)

●第2号 1978.10.31
 昨年(77年)北京大学を訪問した際、竣工後間もない図書館に案内された。文科第一閲覧室とその書庫に入ってみたが、文学関係では単行本のみで雑誌はここには収められていなかったようだ。ただ、最近創刊されたらしい『魯迅研究』という雑誌が無造作に置かれていたのが目についた。阿英編「中国近代反侵略文学集」シリーズのうち『中国近代反侵略文学集補編』は日本に入って来なかったが、実際にはすでに発行されている、という話を聞いたことがあるのでさがしたが、ここの書庫にはなかった。清末関係の図書にしてもそれほど完備しているようには見うけられなかった。しかし、私たちが案内されたのは第一閲覧室のみであり、その他の書庫には雑誌を含めて清末関係の書物は相当にあるはずなのだ。図書の閲覧を主目的とした旅行がしてみたい。
 阿英が昨年6月17日北京で死去したという記事が『朝日新聞』(大阪版夕刊77.8.26)に載った。彼の死去は、『人民文学』78年第1期の「陳毅同志与蘇北的文化工作」と題する文章の署名に下線が施されていることによって裏付けられる。この文章は註によると、阿英の日記と生前に口述した材料をもとに編纂したものだという。しかし、誰が中心となって編纂したものか明記されておらず、あたかも阿英の筆になるもののように彼の名を冠する編集態度に疑問を感じる。それにしても、彼の蔵書はどうなったのだろう。
 蔵書といえば、増田渉先生の旧蔵書が関西大学図書館に入り、整理が進められていることが報告されている(谷沢永一「涙をふるって空間確保」『本』講談社78年6月号)。「目配り細やかな蒐書態度を偲ばせる有用本位の充実」と表現されているが、清末関係書の豊富さも特筆されるべきは言うまでもない。帙にはいった李伯元『海天鴻雪記』全4冊(世界繁華報館光緒甲辰<1904>立夏前三日茂苑惜秋生の序がある)等の貴重書を、書斎の書棚から気軽に見せて下さったことを思い出す。蔵書目録の完成が待たれる。
 魏紹昌は『老残遊記資料』(中華書局62.4 采華書林影印70)、『〓海花資料』(北京・中華書局62.4未見)等の編集で知られているが、呉趼人史料を編纂中であったことが、「晩清小説家呉趼人墓在宝山県発現」(『光明日報』62.9.7)によって知られる。四人組批判後、魏の仕事を含めて清末小説に関する研究発表が行なわれる日はいつのことか。(樽)

●第3号 1979.12.1
 魏紹昌氏の論文に掲げた『冰山雪海』の書影および参考資料として収録するよう要請のあった楊世驥「冰山雪海」(『文苑談往』所収)は、いずれも魏氏よりいただいた電子コピーによる。該書は、故増田渉先生も所蔵されていたが、表紙の意匠がより簡素というわずかな違いがある。『文苑談往』は香港より影印本が、台湾より復刻本(「晩清文学史話」1篇を附す)が出版されており容易に見ることができるようになった。
 中村忠行先生には無理を言い、御用意下さった原稿の前半部分(300字詰156枚)のみを掲載させていただいた。申しわけなく思っている。
 『阿英文集』(全2冊生活・読書・新知三聯書店香港分店1979.6)が出版された。1927年から77年までの171篇の文章を収め、写真多数と李一氓、柳亜子、夏衍、于伶の序文、阿英著作目録を附す。呉泰昌のあとがきによると、阿英の生前の構想を遵守するよう努めたという。創作と比較的長い研究著作は収録せず、すでに出ているか将来出そうな文集にあるものは少なめにし、散逸した新聞の短文とか絶版になった書物のものに重点をおき、未発表の文章を少し入れた、というのが呉の説明である。上巻は解放以前の文章を集め、約半数が『夜航集』『小説閑談』『海市集』『小説二集』『剣腥集』からの再録で、下巻は解放後の新聞、雑誌から採集したものをまとめる。1963年分9篇に続くのが77年の1篇で、異常に長い空白が目を引く。太陽社の論客銭杏邨としての論文がほとんど採録されておらず、それ故『銭杏邨文集』ではなく『阿英文集』であるのかと思ってみたりもする。あるいは単に通行名をとっただけなのかも知れない。単行本を主とした著作目録が附録にあるが、細目まであげるべきだろう。それよりも初出、再録等を明記した論文目録が是非ともほしいところだ。それがあれば『晩清小説史』についても、もう少しわかるのではないか。今回の選集ではない、本来の文集がほしい。
 千冊でも五百冊でも在庫がふえるだけで、どうでもいいようなものの、本誌は一応八百冊を印刷している。そのうち書店で扱ってもらっているのは百冊前後だ。売れれば次号の印刷費にまわせてうれしいが、正直なところ、売りたくないという奇妙な矛盾をたのしんでいる。はたして、この楽しみを4回だけで終わらせることができるかどうか、私自身おぼつかない。(樽本)

●第4号 1980.12.1
 よその雑誌が気にかかる。それも、お上の発行ではない、また、親方日の丸的にお金の心配のない雑誌ではないやつにだ。中国では最近、発行されているとか、発行禁止になったとか、いわゆる地下出版物があることを聞く。文芸誌、理論評論誌はさておき、研究同人誌のようなものがはたして存在しているのかどうか、出版、印刷の自由とあいまって興味を感じていた。そこに魏紹昌氏より『文教資料簡報』100期記念号をいただく。「私達のは学校の自主刊行物で、自分で紙を調達し、自分で印刷の問題を解決し、自ら損益を負担しなければならなかった……」とあるところからも、どうもこれが日本でいう同人誌に当るような気がする。誌名からもわかるように資料を中心とした雑誌だ。当誌は、「文化大革命」の第6年目1972年9月、大字報形式で資料を大学の廊下に掲示したことに始まる。大字報では保存に不便だという意見が出て、『文教動態』と名付けたガリ版刷りの小冊子を3期発行したところ好評を得、同年12月活版印刷に改め『文教動態簡報』と改名、15期を出版して『文教資料簡報』に再度改題し現在に至っている。中国でも資料編集の仕事は軽視されているらしく、それへの反発が編者たちを雑誌発行へ駆り立てたらしい。100期記念号には浩然らの祝辞のほかに、1960年に行なった左聯メンバー(蕭三、楼適夷、王学文、王蕾嘉、張庚、杜宣)の聞き書き、夏衍「回憶“左聯”」など、興味深い記事で埋められている。最近、自主刊行物取り締まりの方針がだされたというが、研究の基礎は資料にあり、該雑誌の行方が中国における研究の健康度をはかるひとつの目印であると、大げさではなく、私は考えるのだ。
 毎号不充分ながら資料目録を特集してきたが、本号は、ない。李伯元の資料目録を作成するつもりで材料を収集していたのだが、魏紹昌編『呉趼人研究資料』(上海古籍出版社1980.4)を見てから考えが変わった。当書には、氏の以前の資料集と異なり研究文献目録がつけられている。日本における中国文学関係の資料収集の限界をある意味で知らされたということだ。氏の『李伯元研究資料』が出版されるのを待って、それを充分に利用させていただいた上で、あらためて文献目録を作ろうという虫のいいコンタンなのである。
 ハガキ通信を出している。第7号は年賀に替えて発行する。申込有次第即郵送。(たる)

●第5号 1981.12.1
 本号は、李伯元を特集してみました。と書けたら格好がいいのだが、それほどの実力があるわけではない。偶然、集まってこうなったのだ。
 珍しい写真とともに、「亜東破佛伝略」を寄せられた彭長卿氏は、現在、上海市第56中学で教鞭をとっていると聞く。周旋して下さった魏紹昌氏に確かめてはいないが、彭長卿氏は亜東破佛彭兪と同姓であり、子孫ではないかと推測している。
 呉泰昌氏は、1937年生まれ、安徽の人。1955年、北京大学中国文学系入学。1960年卒業。1964年、北京大学文芸理論批評研究生として業をおえ、現在、中国作家協会会員であるとともに、『文芸報』で編集の仕事についている。氏のお手紙によると、清末小説に興味を持った経緯は次の通り。北京大学中文系文学専門化1955級集体編著『中国文学史』(北京人民文学出版社1958)近代小説部分の執筆に参加したのが始まりで、次いで『中国小説史稿』(北京人民文学出版社1960)にも参加する。その過程で当時、病を得て北京香山で療養していた阿英と知り合い、熱心な指導を受けるとともに貴重な資料をも借りたという。以来、交際が続く。60年代初め、阿英が「晩清文学叢鈔」を編集したおり、呉氏も資料調査の手伝いをした。阿英の死後、『阿英文集』上下巻(香港三聯書店1979)を編集、「阿英著作目録」を作成、「編後記」を書く。その他の編集本に、阿英『小説三談』(上海古籍出版社1979)、阿英『晩清小説史』(校訂。北京人民文学出版社1980)、李一氓『一氓題跋』(北京三聯書店1981)がある。近現代文学研究の論文集『藝文軼話』(安徽人民出版社1981)は専著だ。夫人・銭小雲氏の父はほかならぬ阿英である。
 ハガキ通信を出して14号。以下はその内容。第1号呉趼人「還我魂霊記」の発見。第2号曾孟樸『〓海花』初期版本間の異同。第3号游戯主人選定『庚子蘂宮花選』。第4号『新小説彙編』のマイクロフィルム。第5号魏紹昌『呉趼人研究資料』。第6号中華書局に独立された商務印書館。第7号「曾孟樸先生年譜」に見える日本人・金井雄。第8号劉鶚遺著『鉄雲詩存』など。第9号憂患余生連夢青という人。第10号陳季同−ロマン・ロラン−陸樹藩。第11号呉趼人「還我魂霊記」の広告主・黄磋玖。第12号『官場現形記』増注本の系統。第13号日本吉田太郎『官場現形記』。第14号清末文悪雑誌5種影印版の発行。無料で送る。樽

●第6号 1982.12.1
 極たまに、清末小説研究会に入会したい、とおっしゃる方がいる。ありがたいことだ。しかし、残念ながらご希望にそうことができない。なぜならば、清末小説研究会という組織は存在しないからだ。組織がない以上、会則もなければ定例研究会も行なっていない。雑誌『清末小説研究』は機関誌を装ってはいるが、その実体は樽本の個人雑誌なのである。個人雑誌であるから、編集、校正、発送、集金、印刷費支払いをすべて一人で行なう。いわば、たった一人の研究会だ。だから、清末小説研究会という名称は、私の筆名であるといってもいい。
 創刊当時、またそれ以降も個人的に御祝儀をいただいたことがあり、うれしく感じた。他人との関係で自己が規定されるとすれば、『清末小説研究』に対して他の人々がどういう反応を示すか、それを知ることは自分が自分であることの証明に役立つ。これが文章(片言隻語を含めて)で公表されていればなおさらのことだ。
 1977年10月1日付の創刊号を出してから最初に反応を示したのは日本国内ではなく、香港であった。黎活仁「日本新出版的『清末小説研究』」(『天地叢刊』創刊号1978.9.20)は、『清末小説研究』の目次を紹介したあと、樽本照雄の『繍像小説』『月月小説』などの総目録、中島利郎「雑誌所収清末小説関係文献目録」を例にあげ、「日本の学者が清末小説という領域にとりくむ方法と興味をうかがわせるに足る」と評する。また、「劉鉄雲研究資料」についても、「この種の仕事は日本の学者が重視するもので、しかも『老残遊記』研究上のひとつの進展であることは疑いない」と述べた。
 中野美代子「<阿英『晩清小説史』翻訳>解説」(阿英著、飯塚朗・中野美代子共訳『晩清小説史』平凡社1979.2.23、395頁)では、本誌の創刊に触れる。
 1978年に香港で出版を開始した月刊雑誌『開巻』があった。書評、作家訪問、出版情報、読書談、作家と作品研究などを主たる内容とし、1979年5月号(総第7期)まではA5判、各160頁の大冊、第2巻第1期(総第8期)よりほぼA4判に誌面を拡大し各50-60頁(1980年8月号第3巻第3期総第20期まで所有)。写真を多数掲載し、内容ともに読みごたえのある雑誌で、資料的な価値も高く郵送されてくるのをいつも心待ちにしていたもののひとつであった。その1979年8月号(総第8期)で心田が「《清末小説研究》(日文)第2号出版」と題して、曾孟樸の珍しい写真が掲載されていることを紹介した。すでに停刊しており、さびしい。
 1980年12月、中国文芸研究会訪中団の一員として、上海、杭州、紹興、広州を回り香港に出て帰国という、書物探求の旅行を行なった。中国の雑誌類は書店には置いていない。郵便局か街のところどころに設置された「書亭」というスタンドで売られている。呉趼人の筆名我仏山人でなじみのある広東省南海県仏山市の祖廟を訪れた時、入り口に書亭があった。のぞくと『書林』の1980年第5期(総第7期1980.10)が目につく。『書林』隔月刊は今でこそ定期購読ができるが当時はまだ日本へは輸入されていなかったし、『読書』月刊と同じく1979年創刊の書評誌で、以前から注目していた雑誌である。同誌に掲載された許文煥「晩清翻訳偵探小説一瞥」が、中村忠行「清末探偵小説史稿」を紹介している。ただ、許の文章についてはのちに馬泰来が同誌1982年第1期(総第15期1982.2)に書いた「林訳閑談」において、「資料は主として中村忠行の文章から引いている」と評した。
 「清末小説研究会通信」というハガキ通信を気ママに発行している。その題目は本号の表二をごらんいただくとして、その第8号が翻訳された。漢祥訳「日本学術界関注蒋逸雪等的劉鶚研究活動」(『揚州師院学報<社会科学版>』1981年第2期1981.6)というのがそれで、コピーを香港大学の黎活仁氏よりいただいた。劉鉄雲に関する文章が中国で再び発表されるようになった事をいくつかの論文名をあげて紹介する内容なのだが、それにしても「日本の学術界」とは恐れ入る。
 本誌第4号には中村忠行氏ご提供の新出史料「秋瑾遺墨」を掲載した。この「秋瑾遺墨」を中国の読者に紹介した徐培均「関於秋瑾的一首佚詩」(『学術月刊』1981年8月号未見)があるということを横山弘氏から教わった。
 馬泰来「林紓翻訳作品全目」(『林紓的翻訳』北京・商務印書館1981.11)には参考書目に中村忠行「清末探偵小説史稿」があげられる。李翰「説刪書」(『羊城晩報』1981.11.13初出未見。『新華文摘』1982.1、259-260頁)、姜徳明「《〓海花》及其他」(『書辺草』浙江人民出版社1982.1、278頁)あるいは、本誌第5号所載、入谷仙介「永井禾原と李伯元」を紹介した王延齡「李伯元和日本詩人」(『新民晩報』1982.7.28)などがある。
 日本における古典文学研究紹介の一環として清末小説研究に言及した徐允平「日本近年中国古典文学研究述略」(『文学評論』1981年第5期1981.9.15)は注目にあたいする。「日本の学界は中国清末文学について相当重視しており、近年、『清末小説研究』のような専門定期刊行物も出現した」と書き始められる清末文学研究の章では、中村忠行「清末探偵小説史稿」について、「十万余字の長さに達し、主として清末の翻訳探偵小説に関して詳細な研究を行なっている。文中に収められた内外の関係資料は豊富で、専著である」と述べている。中島利郎「写情小説『恨海』」(『〓唖』第12号)の分析を詳しく紹介し、麦尾登美江「《〓海花》二十回本と三十回本との字句の異同について」(『野草』第25号)を手際よく要略する。樽本照雄「劉鉄雲の友人たち」(『野草』第17号)、「曾孟樸の青春」(本誌第2号)、「天津日日新聞版『老残遊記二集』について」(『野草』第18号)についても触れている。うれしかったのは、資料目録にわざわざ紙幅を割いていることだ。「清末文学資料がかなり散乱している情況にねらいを定め、日本の学者は資料整理の面で一貫して気を配ってきた。近年の成果には、中島利郎「呉趼人研究資料目録」(『野草』第20号)、清末小説研究会「曾孟樸研究資料目録」(本誌第2号)、同会「劉鉄雲研究資料目録」(本誌第1号)などがあり、それらはかなり全面的に集められた総合資料である。特にその資料の来源には国際性が備わっており、これは我が国の同類資料が一般に国内に限定されているだけという欠陥を補うことができる」清末小説に関して、日本で資料目録を作るなどという、いわばおこがましい事を行なっているのは、必要に迫られての無鉄砲でしかない。それを「総合資料」だ「国際性が」と書かれると、当然のことながら自尊心を傷つけられる人も出てくる。前出、李翰「説刪書」には、「ただ、清末の何人かの著名作家、たとえば呉趼人、曾孟樸、劉鉄雲などについては収録された研究資料は比較的完備している。私はみだりに卑下するわけではないが、中国人の聡明な才知は決して日本の友人に劣るものではないと信じる」と書かれており、心中察するにあまりある。研究の基礎は原資料を収集し、それを整理することにあることを氏は充分に認識している。だからこそ、なぜその作業が中国においてなされないのか、といういらだちが引用文の言葉になったものと想像される。
 本誌の編集方針はただひとつ、私の読みたい文章を掲載することだ。好きにやっていることだから、本誌の発行は、私にとっての盆であり、正月であり、年に一度のお祭りだ。

●第7号 1983.12.1 中文版 編集ノートなし

●第8号 1985.12.1(誌名を『清末小説研究』から『清末小説』に改める)
 おまた。1983年に中文版を出してから1年ぶりの発行である。
 中国文芸研究会『野草』第33号は清末小説特集(その2)だった。編集を担当し、日本中国アメリカの研究者から原稿をいただいた。中国語論文は翻訳して掲載したのだが、そのままにしておくのは惜しい。そこで『清末小説研究』中文版として中国語原文を発表したのだ。『野草』の副産物だから市販はせずじまい。
 去年、本誌を発行しなかったのは私の天津留学のためだ。天津図書館で『天津日日新聞』は見ることが出来なかった。しかし、天津日日新聞版『老残遊記』初集に巡り合えたのは幸運といえるだろう。長年の胸のつかえがおりた(樽本「天津で見つけた『老残遊記』初集」『中国文芸研究会会報』第48号1984.9.15)。図書館には二つの機能がある。保存と利用、だ。中国の図書館は、保存の方に力点が置かれているように思える。書籍を簡単に見せてもらえない。中国人研究者の不満が新聞に載るくらいだ。そういう状況のもとで本誌にも紹介したいくつかの本に出会えたのはうれしかった。
 毎日のように通ったのは煙台道の古籍書店だ。私が買う本の傾向をいちはやく察した店員が、ほら、と差し出したのが中山大学中文系編『中国近代文学研究』第1輯である。毎年、数冊出すとあるが、あれから1年半、第2輯はまだらしい。
 勧業場斜向いの喫茶店「康楽」3階で、飲物としては一番高いマックスウエルのインスタント・コーヒ8角を飲みつつ読んだのが、汪家熔「《繍像小説》及其編輯人」(『出版史料』第2輯1983.12)。汪家熔氏との討論は、私の留学生活に彩りを与 えてくれた。
 帰国してみると、台湾で晩清小説大系全37冊が出版されている。雑誌では清末小説研究が特集される(中島利郎「台湾における晩清小説研究」『中国文芸研究会会報』第53号1985.6.30) 張純氏が『晩清小説研究通信』を発行する。いやはや、数年前には想像もつかなかった、うれしい事態が出現している。やる気が出ようというものだ。フフッ

●第9号 1986.12.1
 いま、清末小説研究の分野で、大きな問題がもちあがっている。あの『繍像小説』が、従来いわれていた光緒三十二年(1906)三月よりもずっとおくれて停刊していたというのだ。単なる、雑誌の発行遅延に見えるかも知れない。ところが、これに李伯元の死去がからむことに気がつくと、その問題の重要性がわかる。つまり、李伯元の死後も、『繍像小説』が出ていたことになれば、彼の作品とされていた「文明小史」は、後半が他人の作となるのだ。作品の確定は、研究の基礎である。他人の作品かもしれぬ「文明小史」をもとに李伯元論を展開したこれまでのすべての論文は、その根拠をゆすぶられているといえる。張純氏によって口火を切られ(『晩清小説研究通信』1985.4.17)、私も油を注いだ(「『繍像小説』の刊行時期」『中国文芸研究会会報』第55号1985.9.30)。火の手のあがりようが、小さく、遠方であったためか、あるいは、従来の研究を根底からくつがえすほどに、問題があまりに深刻であるためか、中国の研究者も口をつぐんだままである。しかし、張純氏の詳論「関於《繍像小説》半月刊的終刊時間」(『徐州師範学院学報(哲学社会科学版)』1986年第2期総46期)が発表されたからには、もう沈黙は許されなくなった。今後の動向を注目している。
 本号に劉鉄雲に関する論稿が集まったのには、理由がある。新資料が出てくるからだ。劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』(四川人民出版社1985.7)は、その代表である。巻頭にあげた劉鉄雲の「老残遊記」手稿は、同資料にも写真が掲載されるが、「文明小史」の関連部分との対照は、本号が最初である。張純氏の紹介する「竜川夫子年譜」もめずらしい。麗澤生(中村忠行)氏の論稿は、氏ならではのものだ。日本での探求の余地が残されている、と強く感じる。時萌氏の「李伯元年譜」は、既出の材料を全部使ったはじめての李伯元年譜だ。中国第一線研究者の論文は、中国研究界の水準を示している、と私は受けとっている。

●第10号 1987.12.1
 江蘇省淮安にある劉鉄雲の故居とお墓を参観したことについては、別に報告することがあるだろう。
 淮安で会った研究者との話のなかで、私の興味をひいたのは、中国の研究界における変化の兆しである。中国近代文学研究にもっと力をいれようという動きだ。これまで古典に含めていた近代文学を独立させる。つまり、古典、近代、現代、当代に区分しなおすのだ。近代では、アヘン戦争から文学革命前夜の間に発表された作品をあつかうというものである。
 研究誌『中国近代文学研究』、『中国近代文学評林』、さらに『近代文学史料』といった雑誌にうたってある「近代文学」が、以上の考えにそったものであることは言うまでもない。
 清末小説雑誌の影印出版、清末小説の復刻、研究誌の発行、近代文学学会の創設準備など、中国において、事態はすでに動きだしている。今回の劉鶚生誕 130周年紀念学術討論会開催も、当然、この流れの中に位置付けることができる。この種の催しが、今後、増加するに違いない。
 本誌を創刊したのは、1977年である。10号目の節目を迎え、さらに中国学界の動向を見るにつけ、いささかの感慨もない、とは言わない。
 今回も、中国から多くの原稿をいただいた。お礼を申し上げる。日本語の文章をもっと読みたいのはヤマヤマながら、その実力がないのなら、いたしかたない。
 校正刷りを中国から返送してもらったなかに、日本の植字工は優秀である、とおほめの言葉をいただいたものがある。うれしいことだ。だが、本誌には植字工は、存在していない。私が、植字工を兼ねていることを申し添えておく。
 本誌を発行しているのは、義務感からではない。あくまでも、私個人の楽しみのためである。私がいやになるまで、本誌は発行され続けるだろう。お気の毒サマ。
 『清末民初小説目録』を近く発行する。こちらの方もヨ・ロ・シ・ク。      

●第11号 1988.12.1
 銀杏の果肉をよけながら、特有のカオリを楽しみつつ、国会図書館への道を行くのもいい。そうすると、地下鉄・丸ノ内線の国会議事堂前で下車だ。しかし、近いのは、有楽町線・永田町の方だ。などと、東京に行くたびに、交通網が充実していることに感心する。
 国会図書館では、ようやく電脳が動き出している。といっても、閲覧者が直接電脳端末を操作すると、本が自動的に出てくるわけではない。カードに図書記号、書名、著者名を記入するのは、今まで通り。閲覧者からいうと、目立った変化は、各所に設置されたモニターに、呼び出し番号が表示されることくらいか。それでも、請求した図書がいつ出てくるのかわからず、呼び出されるのを待つ必要がなくなっただけでも助かる。本が出てくる時間を利用して、他所で調べものができるからだ。
 資料の整理に電脳を使うことが多くなっている。国会図書館に納本された単行本は、最近数年分が、オンラインで検索できる(JMARC)。京都大学人文研究所の「東洋学文献類目」も、電脳化資料庫におさめられた(CHINA3
樽本「京大電脳化資料庫に接触する」『中国文芸研究会会報』第75号1988.2.29を参照)。それぞれの図書館が蔵書を電脳で整理し、それがオンラインで結ばれることになれば、将来は、いながらにして書籍の検索が可能となる。ただし、情報を入力するのは、人手をわずらわせなくてはならない。また、これが一番やっかいなのは言うまでもない。
 本年3月に発行した『清末民初小説目録』も、規模は小さいが、一応、個人電脳を利用して作成したものだ。現在、改訂増補作業を進めている。原稿用紙に記入するのも、鍵盤を叩くのも同じといえばおなじだが。因果なことに首を突っ込んだものだ。この作業には終わりというものが、ない。かといって、いまさら、電脳のない生活なんて考えられないんよ。ああ、指が。

●第12号 1989.12.1
 本号を「第12号発行記念特大号」としたのには、理由がない、などといえば怒る人もいるだろう。まじめにやれ、と言われそうだ。しかし、あまりまじめにやりすぎると、しんどい。いつも息抜きしていてもいいではないか。
 しいていえば、本誌は、6号で終刊になりそうだったのが、はからずもその倍に長らえたというのが、記念号の由来である。ついでだから、あとは力の続くかぎりヤリマス、という意味もこめてある。正面切って宣言すると、義務が生じるような気がして、いやなのだ。いつつぶれるかわかりませんよ、といいながら、しぶとく続けるというのが、私のやり方なのである。
 本誌の誕生から現在までのいきさつをかいつまんで記録しておく。手短に述べるつもりだが、10年以上あるから、長くなるかもしれない。私個人の事柄に触れることが多くなるだろうが、ご寛容をおねがいする。過去をふりかえって、今後の方針がほの見えてくればいいのだが。(→印は、関連文章を示す。ただし、すべてを掲げているわけではない)

1975年
★6月より「文明小史」の輪読会をはじめる
 場所は、上本町8丁目にあった大阪外大である。参加メンバーは、ときに変わったが、中島利郎、名和又介、樽本などが中心となる。輪読は、月1回の会合で実質的にはどれほども進行しなかった。今から考えれば、もっぱら研究情報の交換についやしたようにも思う。
★清末小説専門雑誌発行のはなしが、冗談のように出る
 11月、輪読会の帰り、喫茶店で雑談をするのが常であった。上本町6丁目にある喫茶店「スワン」で、中島氏が清末小説研究専門の雑誌を発行できないかと言った。私は、言下にムリだろうと答える。当時(も今も)、中島氏は『〓唖』の発行に力を注いでいたし、私の生活は『野草』を中心に動いていたといってもいい情況だったからだ。時間をとられているうえに、論文を定期的に書けるほどの自信はなかった。清末小説研究を続けたいと考えてはいたが、勉学上の実力、印刷費用の点から考えても、専門雑誌を発行するなどできることではない、と一瞬の判断がそう言わせた。
 このころ天津日日新聞版『老残遊記』二集を見つける。昔からいわれている二集偽作説は根拠がないばかりか、さらには、二集1905年執筆説も誤りであることに気がついた(→「天津日日新聞版『老残遊記二集』について」『野草』第18号1976.4.30)。

1976年
★1月 雑誌発行へ気持がうごく
 清末小説に関する専門雑誌を発行することの可能性について、くりかえし考える。継続して発行できるだろうか。出すからには3号雑誌にはおわらせたくない。年1回の発行として、掲載できる論文が書けるだろうか。印刷方式とその費用はどうする。一方で、組版の体裁、表紙の意匠などを練っていた。気持がまよったということは、雑誌発行へ決心を固めたことを意味する。
★6月 編集計画案を作成する
 雑誌名は『清末小説研究』ときめる。雑誌の柱は、論文と資料の2本立てにする。論文は、それぞれが進めている研究成果を発表し、資料は、著作目録、文献目録、資料再録を考えた。B5判週刊誌大、80頁、活版9ポイント、刷数 500部を予定する。5号までの計画案を作成するが、論文欄はすべて空白、資料欄は順に、劉鉄雲資料、李伯元資料、呉趼人資料、曾孟樸資料と記入し、5号は資料名もない。実際は、活字の9ポこそ変化しなかったが、A5判に判型を小さくしたし、ページは 100頁近くにふくらむ。資料特集のほうも、順序が変更されることになる。また、資料再録についても分量がふえそうで、計画通りにはすすまない。
★7月 筆者をさがす
 同世代の研究者で、毎号論文を書いてもらえそうな人物として麦生登美江氏の名前があがる。手紙で論文執筆の承諾をもらった。夏休みを利用し、私は博多に出向き、新幹線の駅喫茶店で細かな打ち合せをした。以来、初期はほとんど毎号のように寄稿してもらう。また、雑誌の販売にも協力いただく。1989年、学会の前夜祭で13年ぶりで再会し、なつかしく感じた。増田渉先生には、『野草』2号清末小説特集(1971.1.15)で原稿をもらったことがある。 本誌創刊号にもぜひ、と依頼し、快諾してもらう。ただし、翌年3月、急逝され願いはかなわなかった。

1977年
★7月 原稿を印刷所にいれる
 巻頭には、澤田瑞穂「清末の小説」を復刻することにし、資料には、新発見の新聞記事を「劉鉄雲の慈善事業」と題して収録する。朝日新聞の記事だから、一応、大阪本社に連絡して再録許可をもらう。連夢青「鄰女語」の蝶隠評を劉鉄雲のものだとして復刻したのも、本誌が最初だ。印刷は、3ヵ所から見積書をとり、最終的に勤務先の論集を印刷している京都の真美印刷所に依頼する。
★『清末小説研究』創刊号を発行する
 10月15日、創刊号800部がとどく。総112頁。資料は、劉鉄雲研究資料目録。費用 571,920円を支払う。雑誌を発行するに当って問題になる最大のものは、印刷費用である。同人組織にする、会員をつのる、方法はいくつかあるだろう。だが、同人誌がつぶれるのは、往々にして印刷費用の分担がうまくいかないのが原因だ。会員組織にしようにも、清末小説のみの専門誌では会員が集まらないのはわかっている。そうなれば、個人が負担するほかない。「編集ノート」に、「私たちの学力と金力には限りがあるため、年1回10月発行の予定で、4号までは発刊するつもりだ。それからのことは、またその時考える」と書いたのは、まったく私の家庭の事情からであった。中村忠行先生より、また中島氏をつうじて伊藤漱平先生からご祝儀をいただく。
 この年の12月、はじめて中国を旅行する機会を得た。約2週間、北京、西安、洛陽、上海をかけめぐる。「文革」後間もないこともあってか日本側団体の自己規制を強く感じた。そういう私も、北京大学、復旦大学訪問のおりに『清末小説研究』創刊号を贈呈するなどつゆ思いもしなかった。自分でも自己規制をしていたのである。中国の研究者と個人的な連絡がつくようになったのは、これから約1年もあとのことだ。
1978年
★2月 印刷所を変更する
 早稲田大学印刷所に見積を依頼し、創刊号と同じものを約13万円も安く印刷できそうだとわかる。6号および中文版(7号に相当する)まで印刷をお願いする結果となった。
★3月 曾虚白氏にお会いする
 台北に曾虚白氏がご健在であることを知り、会いにいく。本誌第2号の巻頭を飾った曾孟樸の貴重な写真6枚は、帰国後、虚白氏よりお送りいただいたものだ。
★9月 本誌の反響が海外である
 当時、無視されることに慣れていたとはいえ、注目されるとやはりうれしい。黎活仁「日本新出版的『清末小説研究』」(『天地叢刊』創刊号1978.9.20)を目にした時である。黎活仁氏は、現在も香港大学で教鞭をとっていらっしゃる。『清末小説研究』6号の編集ノートに、これ以降1982年までの本誌に対する反響をまとめておいたのでここではくりかえさない。
★『清末小説研究』第2号を発行する
 12月4日、第2号の800冊がとどく。総114頁。資料は、曾孟樸研究資料目録。印刷費の請求は 584,490円。見積とかけはなれたので53万円に値切ってしまった。ゴメン。

1979年
★中国から原稿をもらう
 第2号の編集ノートに、「四人組批判後、魏(紹昌)の仕事を含めて清末小説に関する研究発表が行なわれる日はいつのことか」と書いた。おもいきって魏紹昌氏に直接手紙をだしてみる。2月、送られてきたのが「《氷山雪海》是冒名李伯元編訳的一本仮貨」である。今でこそ中国の研究者から原稿が送られてくるのは珍しくないことかもしれない。しかし、「文革」後、中国から、直接もらった原稿を掲載した研究誌としては本誌が最初ではなかったか。
★「清末小説研究会通信」を創刊する
 11月、思いついてハガキ通信を発行することにする。簡易和文タイプライタを使用し、縮刷印刷。こまぎれの話題をメモ形式で掲載した。不定期で合計51号、足掛け8年、実質6年間つづくことになる。のち、小冊子にする。
★『清末小説研究』第3号を発行する
 12月1日、800冊印刷出来。総136頁。資料は、呉趼人研究資料目録を中島氏が担当する。未製本200冊を頼んでいたのに全部が製本されている。200冊はあとで合冊する計画だったのだ。手違いがあったので、印刷費請求は 653,942円だが、60万円を支払い、あとは値切る。また、ゴメン。

1980年
★2月 資料収集をつづける
 目録でアメリカのスタンフォード大学に『新小説彙編』が所蔵されているのを知る。マイクロフィルムにしてもらう。京都で李伯元編『庚子蘂宮花選』を発見する。きわめて珍しい資料だ。紙面で紹介するのは、やや遅れ、本誌5号に影印を掲載する。
★ウツ症がでる
 病気なのだからどうしようもない。2,3月に動きすぎたのが原因か。4−6月頃まで活字を見ることができない。『野草』のほうで訪中を計画しており、参加できるかどうか不安であった。8月ころにはどうにかもちなおし、4号を編集する。
★『清末小説研究』第4号を発行する
 12月10日、印刷出来。800冊、総126頁。資料の特集は、ない。中村先生からの提供で秋瑾遺墨「滬上有感」をかかげるが、のちに中国で秋瑾の作ではないという文章が発表された。印刷請求は、 710,986円。訪中に間に合わせるため印刷所には急いでもらったし、値切る理由がないので、全額を支払う。
 中国文芸研究会主催の中国旅行(上海−杭州−広州−香港)を実施。上海に長く滞在し、資料収集を楽しむ。

1981年
★3月 ウツ症がでる
 今回も6月まで、ダメ。くりかえすのでつらい。気のあう仲間ばかりの中国旅行が、有意義かつ楽しく、つい動きすぎたのが原因だろう。ハガキ通信が3月から8月へとんでいるのもこれが理由である。
★11月 『清末小説研究』第5号の編集がおくれる
 原稿全体の印刷所入りがずれこむし、遠方へ校正ゲラをおくったりして、年内発行はできない。5号では、中国からの原稿が2本ある。呉泰昌氏へは私が執筆を依頼し、彭長卿氏の原稿は魏紹昌氏からの紹介である。本誌の存在が中国でも知られてきたらしく、以後、私のところへの直接投稿がふえる。
★「官場現形記」の重要版本を発見する
 世界繁華報館増注本である。この版本の存在は、「官場現形記」が李伯元と欧陽鉅源の共作である可能性を強く示している。本誌6号の文章で述べた(→『官場現形記』の初期版本『中国文芸研究会会報』第31号1981.12.1)。なお、1989年現在にいたるまで、中国を含んで、この版本に言及した研究論文を知らない。

1982年
★『清末小説研究』第5号を発行する
 2月5日、印刷出来。800冊。総106頁。資料は、李伯元研究資料目録。印刷費用は、538,777円。伊藤漱平先生よりご祝儀をいただく。
★総目録シリーズ作成がおわる
 1973年5月に『繍像小説総目録』を発表して以来、『月月小説総目録』(1974、75)、『小説林・競立社小説月報総目録』(1974)、『小説時報総目録』(1975)、『小説月報総目録(改革以前部分)』(1976)、『游戯世界総目録』(1981)、『新小説総目録』(1982)と作成してきた(すべて『大阪経大論集』に掲載)。研究上の必要にせまられての作業である。以上で清末の主要雑誌はカバーしているだろう。さらに、中国でも『中国近代期刊篇目彙録』全6冊(上海人民出版社1979-1984)という大部なものが出た。私の総目録シリーズは、とりあえずおわることにする。

1983年
★『清末小説研究』第6号を発行する
 1月20日、800冊がとどく。総118頁。資料は、四作家研究資料目録補遺1。印刷費用は、625,399円。活版印刷での経済的負担に耐えられなくなる。800冊を印刷しているが、書店売りでは 100冊を越えないだろう。在庫が空間を圧迫する。数字をだすのも恐ろしい。編集ノートに、「本誌の編集方針はただひとつ、私の読みたい文章を掲載することだ。好きにやっていることだから、本誌の発行は、私にとっての盆であり、正月であり、年に一度のお祭りだ」と書く。だが、年に一度のお祭りに息が切れはじめていた。これまでか、と思ったので、やや長目の編集後記を書き、本誌に言及した中国の評論をまとめたのである。
★「老残遊記」外編残稿の執筆時期について討論する
 時萌氏より通説に対して疑義が提出されたので、私の考えを発表した(→「関於《老残遊記》外編残稿的写作年代──与時萌先生商」「文学遺産」第582期『光明日報』1983.4.12)。
★『清末小説閑談』を発行する
 9月20日、大阪経済大学研究叢書]Tとして、出版してもらった。
★『清末小説研究』中文版を出す
 11月8日、印刷出来。 800冊、44頁。本誌中文版については説明が必要だろう。この年の2月に、高健行「日本学者研究劉鶚及《老残遊記》簡況」が『光明日報』(1983.2.2)に掲載された。これを読まれた盛成氏が、私に手紙をくださったのだ。盛成氏は、太谷学派の関係者である(といってもいいだろう)。『老残遊記』をフランス語に翻訳したのも、それゆえであるという。資料とともにもらったのが「関於老残遊記」という姑についての論文だ。気力的にも経済的にも7号を発行する力がなかった。しかし、貴重な文章だからこのままにしたくはない。一方で編集を進めていた『野草』(清末小説特集その2。1984.2.10)で、中国から5篇、アメリカから1篇の原稿があった。これらは日本語に翻訳するから、中国語の原文が未使用となる。盛成氏の論文とあわせれば、中国でも読んでもらえると考えた。各著者に了承を得て、本誌中文版とし、ページ数が少なくても発行したのである。

1984年
★秋瑾の来日年月日を考証する
 従来、秋瑾の来日についての正確な日付、到着地などは、不明だった。当時の新聞で確認し、まず、調査結果だけを短文で報告する(→「秋瑾東渡小考」「文学遺産」第629期『光明日報』1984.3.13)。のち、偶然、郭長海・李亜彬編『秋瑾事跡研究』(長春・東北師範大学出版社1987.12)を読むと、秋瑾の東京到着日に関して、私を名指しで間違っていると書かれている。私ではなく、郭長海・李亜彬両氏のほうが誤りだ、と反論(→「秋瑾来日再考」『清末小説から』13号1989.4.1)。掲載誌を東北師範大学へ送ったが、1989年10月、宛名人がいない、と返却されてきた。(のち郭長海と連絡がついたのは、本号に氏の論文がある通り)
★本誌の将来を考える
 4月より1年近く天津で学生生活をおくることになる。天津図書館でふぞろいの図書カードをめくりつつ雑誌をどうするか思案する。雑誌を継続発行するための最大の問題は、印刷費用だけである。活版印刷は費用がかさみすぎてむりだ。かといってタイプ印刷では、漢字の面で荷が重い。なにしろタイプ活字では、呉趼人の「〓」がないのだ。留学前に東京で東芝のワープロを見たことがある。液晶1行、プリンタ一体型で画期的にも70万円を切っていた。もうひとつ日立のブラウン管、プリンタ内蔵型が50万円というのも出てくる。雑誌発行の可能性があるとすれば、ワープロ採用の方向しかないように感じる。帰国後にはもっと新しくて安い機種が発売されているだろうから、それを見てからのことにする。天津で胃カイヨウをわずらう。
 天津で天津日日新聞社版『老残遊記』初版を発見したのは、収穫であった(→「天津で見つけた『老残遊記』初集」『中国文芸研究会会報』第48号1984.9.15)。
★『繍像小説』の編者について討論する
 汪家熔氏が、李伯元編者説に疑義を提出した。それに対して批判文を書く(→「誰是《繍像小説》的編輯人」「文学遺産」第653期『光明日報』1984.9.4)。編者問題は、「老残遊記」と「文明小史」の盗用問題に発展し、私の帰国後は、さらに、張純氏の『繍像小説』刊行遅延説をまじえて、ダイナミックに展開することになる。この問題に関して、日本の『中国文芸研究会会報』、『大阪経大論集』、『〓唖』、『清末小説から』、および本誌がはたした役割は、小さくないと考える(→沢本香子「ワクドキ清末小説」『清末小説』8号1985.12.1)。
★山東・済南に旅する
 私は、もともと旅行好きではなかったことを中国で発見した。寒くなると身動きがとれなくなりそうなのであわてて済南にいく。「老残遊記」を体験するためだ(→「『老残遊記』紀行──済南篇」『野草』第38号1986.9.10)。

1985年
★清末小説目録作成の準備をはじめる
 帰国後の5月、中村先生のお宅で、中島、山内一恵、樽本が会合をもつ。おおまかな編集方針、カード採取基準を決め、とりあえずカードをとることにした。清末だけではなく、空白部分の民国初期を対象に含めることにする。民初をいれても、阿英の「晩清小説目」のせいぜい二倍、3000件くらいではないかと予想をたてる。2年後には、それが1万件にもふくれ上がろうとは思いもしなかった。
★雑誌発行の「救世主」をさがしあてる
 7月3日、リコーのワープロ、リポート2600を購入する。選択の条件は、印字したときの字体のきれいさである。有名メーカーの製品でも、見るに耐えない字体を採用しているものがあり、まだまだ未成熟の業界であるようだ。定価50万円に近かったものを値切り、附属品あわせて 416,250円。活版印刷であれば1号分の費用である。これで最低5年間、使用するつもり(当時はそう考えていた。実際は、3号分を出して、個人電脳に切り換える)。とすれば、組版代ぬきの印刷、製本費用のみで雑誌を発行することができる。いってみれば、印刷で一番費用のかかる組版部分を私がかわって行なうということにすぎない。なんのことはない、「救世主」とは青い鳥だったのだ。ついでにつけくわえれば、本誌では原稿料は支払っていない。できないのだ。外国からの原稿についても同じ。一律、掲載号を5冊(8号以降は10冊)送ることで勘弁してもらっている。中村忠行、中島利郎、麦生登美江の各氏に案内を出し、原稿をお願いする。
 このころ、呉趼人「電術奇談」の原作をさがしあてる(→「呉趼人『電術奇談』の原作」『中国文芸研究会会報』第54号1985.7.30)。
★『清末小説』と改題し第8号を発行する
 10月4日、300冊が邦文社より送られてくる。総96頁。 印刷製本費用は、10万円。ワープロ印字したものをページ割りし、柱は縮小コピーして所定の位置に貼り込む。ノンブルはインスタントレタリングを押し貼りする。印刷所は、そのまま印刷、製本すればよい状態の完全版下を、こちらが用意するのだから上記の費用におさまるのは当たり前といえばいえる。版型を週刊誌大に変更したついでに、誌名も『清末小説研究』から『清末小説』にかえた。「研究」をやめたわけではなく、誌名はよりシンプルにするほうが格好よく思えたからだ。改題したが、中文版を第7号とし、通して第8号とよぶことにする。

1986年
★『清末小説きまぐれ通信』を印刷する
 2月14日、 200冊が印刷出来。総52頁。ハガキ通信をまとめたもの。発行日付は8月1日になっているが、ハガキ通信の最後の方は、この小冊子をまとめるために書いたので、実際には郵送していない。それで、日付にズレが生じたのだ。日付のソゴは、つぎの『清末小説から』にも現われる。
★季刊誌『清末小説から』第1号を印刷する
 3月12日、第1号を 200部印刷。ハガキ通信では情報が収まりきらず、小冊子形式であらたに創刊する。当時、担当していた『中国文芸研究会会報』からはずれて、時間の余裕ができたこともある。情報量が多くなるだろうから、季刊と決めた。ハガキ通信の後継なので、発行の日付は8月1日にする。ところが、3月に印刷してしまい、黙って抱えておればいいものを、がまんできず(気持がせいたのだ)、配付してしまった。しようがなく、第2号でおわびし、第1号の発行日を4月1日に訂正した。ま、気が短いのですな。(1989年10月現在、『清末小説から』は、季刊をまもって15号を発行している。)中村忠行先生からご祝儀をもらう。
★個人電脳を導入、清末小説目録の整理に使用する
 6月、勤務先に日立のホストコンピュータが導入されたのを機に、個人電脳を使ってみることにする。スイッチを入れれば使えるワープロと異なり、日立2020は各部品を接続し、動く状態にするのがひと騒動。ほかの個人電脳を知らなかった。日立2020独特の使い勝手の悪いのには気がつかず、こんなものかと納得していたのはおめでたい。8月、データベースソフトのTIMSUを購入(138,000円)、清末小説目録のカードを入力しはじめる。ときおりブラウン管が万艦飾にハレツする。おかしなことがあるものだと、感じはした。問い合せてみると、開発元のミスなのだ。暴走もバグも知らなかったほどの素人である。これ以後、1年以上にわたって、ひたすら書名を入力、にゅうりょく、ニュウリョク!の生活。一方で、『清末小説』の原稿を入力。なんという生活なのだ。
★『清末小説』第9号を発行する
 11月12日、300冊印刷出来。総116頁。印刷費用12万円。「新出資料で劉鉄雲特集」とうたうが、結果的にそうなったというのは、いつものことである。

1987年
★個人電脳と悪戦苦闘がつづく
 清末小説目録の入力とそれにともなう騒動のかずかず。ハードディスクの領域割り当てが最初の2メガバイトでは少ないので、初期化をやりなおすとか、データの退避(バックアップ)に数時間かかるとか(この話をしても誰も信じてくれなかった。いま使用しているエプソンなら数分だ)、などなど。それにくわえて資料の再点検、とりこぼしの補充追加、いつ終わるか見当がつかない。いつかは作業が終了するはずだ、終わらないわけがない、と自らを励ますよりしかたがないではないか。
★劉鉄雲学術討論会がひらかれる
 11月、淮安で開催されるというので訪中する。開催会場で宿泊し、中国の研究者と同じ食事をしたが、会議そのものへの参加は許可されなかった。いまもってなんだったのだろうと不可解である、ということにしておく(→「劉鉄雲故居訪問日記」『清末小説から』第8号1988.1.1)。
★『清末小説』第10号を発行する
 12月9日、300冊、総114頁。印刷費用は12万円。中国にいっていたので発行が遅れた。11本の文章を掲載するが、そのうち7本は中国からのものだ。日本語の論文が読みたい。伊藤漱平先生からご祝儀をいただく。

1988年
★『清末民初小説目録』を発行する
 3月1日、200部ができあがる。印刷費用は、総額1,235,000円。こちらで完全版下を作成したから、この金額で収まった。仮に、諸設備、入力代金など試算すると総額1000万円以上は軽くかかっている仕事である。約1200頁にわたって柱とノンブルを張り付ける作業を想像してもらえれば、おおよその実態が理解できるのではないだろうか。中国文芸研究会と共同出版なので、印刷費用の半額を支払う。休む間もなく、目録の増補訂正作業にはいる。中村忠行、伊藤漱平両先生よりご祝儀。たびたびで心苦しい。ただ感謝。リコーのワープロ専用機では能力不足のため、エプソンPC-286Vを購入、ワープロソフト「新松」を使うことにする。
★部数を減らして『清末小説』11号を発行する
 11月10日、印刷部数を50冊減らして250部とする。総104頁。印刷費用は10万円。部数を削減しても 100部以上在庫が残る。中国語の論文を翻訳せずそのまま掲載しているところからもわかるように、本誌は研究者と大学院生以上を対象とした専門誌である。書店扱いが約70冊、日本国内で直接郵送(贈呈を含んで)が約30冊、中国、欧米への寄贈(個人が主)が約50冊。寄贈の数は、経済上の理由で、数回にわたってしぼりこんである。約 150部というのが世界の現状なのかもしれない。配偶者が、このワープロ画面を覗いて、なんで、個人でそんなに奉仕しなくちゃいけないの、というております。

1989年
★ン、日立、私は嫌いです
 3月31日、いつものように日立2020を動かして増設ハードディスクに清末民初小説目録のバックアップをとっていたら、突然、停止してしまった。目録のデータが一瞬にしてパアだ。パア、パア、パア ……。ユルサンッ。日立のアホ。あーん。気をとりなおし、生き残っているデータをエプソンに移す。エプソンと日立の外字の定義が異なっているため、その確認と訂正に2ヵ月を必要とした。
★『清末小説』第12号の発行
 □月□日、印刷部数 300冊、総178頁、印刷費用□□万円。

 本誌は、ふりかえれば「文革」とは無縁のところから出発している。
 思い出して欲しい。1950年代後半から「文革」中にかけて、中国での清末小説研究がいかなる状態であったか。清末のおおかたの作家は、否定さるべき存在であった。否定的に研究するもの以外は、研究することじたいが反動であるといわんばかりであったのを。中国での研究文献目録を見ていただければ理解できよう。てっとり早く知りたい方に、袁健・鄭栄編著『晩清小説研究概説』(天津教育出版社1989.7)を紹介しておく。
 「普通」に考えれば、中国で白目をむいている分野をなにもより好んで日本で研究する必要はない、といえるかもしれない。さいわい、私のまわりには、中国での評価をそのまま日本に持ち込み、性急に適用しようとする人はいなかった。
 現在、中国では、清末小説研究が白眼視されていたのは、すでに過去のことになっている。最近の研究の盛りあがりを見るにつけ、時代は音をたてて、きしみながら変化していることを痛感しないわけにはいかない。
 本誌は、創刊以来、年1回の発行をほぼ維持し、当初、予定していたよりも多くの号数を重ねることになった。原稿をよせてくださった研究者に感謝したい。私たちが何をしたのか、本誌の総目録を見ていただければおおよその想像はつくはずだ。
 1989年6月4日の血塗られた天安門事件は、悲しむべき事件である。しかし、あの事件があったからといって、日本にいる私の研究方法が変わるということはありえない。

 進歩しているかどうかはわからないが、いままで通りのやりかたで、あせらず、好きなようにやらせてもらう。
 発見、情報、継続、交流を主旨とし、本誌は年1回のペースで、『清末小説から』は季刊で、発行を続けるであろう。これは、あくまでも、私のひとりごとである。 (樽本)

●第13号 1990.12.1
 本誌は、第3号(1979年)より外国からの論文を掲載し始めた。数えてみれば、もう10年前のことになる。「プロレタリア文化大革命」中は、中国人研究者との交流など思いもよらなかった。半信半疑の原稿依頼に応じてもらったことを喜んだものだ。当時の日本では、中国からのオリジナル原稿を掲載した雑誌などほとんどなかった。
 最近は、依頼原稿のほかに、小誌にも中国からの投稿が増えている。発行部数三百にも満たない、おまけに原稿料ナシの超小規模雑誌に外国から論文が寄せられるのは、編集者としてこの上もない名誉だと考えている。だが、思わぬ問題が発生しているのも事実だ。論文の二重投稿である。
 本年の始め、中国のある研究者から論文の投稿があった。『清末小説』は第12号を出版したばかりで、次の発行まで1年近く待ってもらわなくてはならない、中国で発表されるなら、そちらでどうぞ、と連絡した。それに対して、時間がかかってもよいから本誌に掲載してほしい、との返事だった。そこまでおっしゃるのなら、とワープロに入力し(比較的長い論文で漢字もいくつか作成した)、ゲラを郵送し、著者校正をすませ、版下を作成していた。数ヵ月後、その研究者から手紙がきて、投稿した原稿を取り下げたいという。中国で学会があり、本誌に投稿した論文が「選読」された(特に選ばれたというのは、それだけ優秀な論文なのだ)。そこまでは、どこにでもある話だろう。ところが、学会での発表原稿は、学会終了後に出版する論文集に収録することになった。その人は、日本の雑誌(つまり本誌である)に掲載する予定になっているので、学会論文集への収録を辞退したい旨を表明。ところが、指導者は、日本での二重発表をさまたげない、と答え研究者の原稿辞退を拒否したということだ。
 ゆえに、本誌にはその人の論文は掲載されていない。事情を説明する手紙を出すところに、その人の誠実さを感じる。本誌あるいは『清末小説から』に発表された文章が、中国で別の刊行物に掲載されているのを見かけることがあったから、なおさらだ。
 中国語原文とその日本語翻訳は、別物として考えてもいいだろう。日本語翻訳が先に発表され、もとの中国語論文が中国の刊行物に掲載されることは、たまにある。また、研究雑誌に発表された論文を、自らの論文集に収録される場合もある。速報的に本格論文の精髄部分を先に発表することもあるだろう。これらの例は、当然のことながら二重投稿とは言わない。言うまでもなく、同一内容、同一言語の論文を同時に複数の刊行物に投稿することが二重投稿なのだ。中国の研究雑誌にも「二重投稿おことわり」の文面を見るようになったから、中国国内でも重複は困るという認識はあるようだ。だからこそ先の研究者は、私に手紙をくれて、自分の論文を取り下げたのだ。
 問題なのは、おなじ論文を中国と外国にまたがって投稿する場合だろう。外国での二重発表は、よろしい、という考え方があるのは、上にのべたとおりだ。それも、指導的立場にある人が、そう考えているらしい。私は、オリジナル論文はひとつ、研究に国境はない(言葉の壁はあるけど)、と考えているから、中国と外国を分ける思考法があることを意外に感じる。
 そういう時、興味深い文章が目にはいった。題名を「原稿不足」という(署名は燕。「窓」『朝日新聞』大阪版夕刊1990.10.17)。中国の文学雑誌が合併号を出したり、ページ数を減らしているのは原稿不足が原因なのだそうだ。ただし、読んでみれば、ここでいう原稿不足とは、保守派編集部のメガネにかなう原稿がないというだけのこと。
 雑誌の経営がむつかしいとは、聞いている。停刊に追い込まれたり、発行回数が減らされたり等々、経済上の問題だとばかり思っていたが、内容の問題もあったとは。文芸雑誌と学術雑誌とは、事情が違うようでいて、高水準の文章はいずれの場合も多くはないということか。それにしても人材豊富な国のはずだがねぇ。
 そうしてみると、上に述べた二重投稿許諾の学会は、原稿に不自由していたのだろうか。日本国内だけに限定した雑誌ならば、二重投稿に関する共通の認識が期待できる。悩む度合いは少ない。お国が違えば、考えかたも異なるのだな。などなど、心を悩ませる今日このごろだが、考えてみれば交流に摩擦はつきものなのだ。本誌を媒介にして、いわば、交流の輪が外国にまでひろがっているということを逆に証明していると言っていいのかもしれない。広いようで狭いのが研究の世界なのだ。

●第14号 1991.12.1
 今年は、私にとって国際学会の年だった。1990年夏、中国文芸研究会の会員(家族を含む)と香港に行ったのがひとつのきっかけである。複数の会員が、香港、台湾の中国文学研究者と会合をもち、その結果が1991年8月末の「二十世紀中国文学――台湾、香港、日本三地学者学術交流」開催となった。一方、10月に上海で中国近代文学研究関係の国際学会を催すという連絡も入っており、こちらにも参加することになる。さらには、5月末、台湾の中央研究院主催で国際学会を実行すると責任者の呉宏一氏より参加をうながされる。しかし、前述の予定がありその準備のため、こちらは見送らざるをえなかった。1年に2回の海外学会参加ということになったのだ。
 本年に国際学会が集中したのは、偶然のことだろう。だが、各国各地の研究者が、政治の壁をこえつつ一堂に会する機会が持てるようになったのは、明らかに、ここ数年来の顕著な変化のあらわれである。加えて、「清末民初」(中国では近代文学)時期の小説研究が、以前に比較して重視されつつあるのも、私にとってはうれしいことだ。
 世界の研究の潮流は、好ましい方向に動いている、と私には感じられる。ひるがえって日本ということになると、いささか異なる。清末民初小説に関する「日本語の論文が読みたい」と書いたことがある。本号をご覧いただければわかるように、私の願望はかなえられていない。すこし残念に思う。
 「研究に国境はない」という私の編集方針からすれば、日本語にこだわるのは、矛盾しているといわれてもしかたがない。まあ、しょうがないか。なるようにしかならない。 本誌は、日本語、中国語(編集、印刷の都合上、この二言語に限る)の区別なく、発見のある論文を歓迎する。原稿料は支払えない。掲載誌を10冊、著者に送りお礼にかえる。原稿締め切りは、毎年8月末日。二重投稿はご遠慮願いたい。

●第15号 1992.12.1
 書籍文献は、機会があるときにはとりあえず入手しておきたい。一瞬の躊躇が、長年にわたる悔やみの種となる。
 20年近く前、新聞広告で「老残遊記」の名前を見かけた。文芸誌に掲載された文章だ。その足で電車に乗り、奈良市内の書店に出向いた。当時、郊外の団地に住んでいて、文芸誌が置いてある書店は、奈良市内にしかなかったのだ。さいわい該当文芸誌がある。ページを繰る。たしかに「老残遊記」と題する文章だ。しかし、目を通すと劉鉄雲の作品とはなんの関係もない。単に中国の「老残遊記」という題名に触発されて書かれたというだけのことらしい。これではしようがない、と書棚にもどした。これが悔やみの元である
 その後、妙に気になる。日本の作家が「老残遊記」という作品を書いたことは、事実だ。しいていえば劉鉄雲の「老残遊記」の影響とも考えられるかもしれない、と思うようになった。なにかの折りに、日本の作家が書いた「老残遊記」、という文句が頭に浮ぶ。
 『彷書月刊』第8巻第5号(1992.4.25)を見ていると頁のすみに「老残遊記」という書名がある。中谷孝雄の作品集という。取り寄せる。
 中谷孝雄『無名庵日記』(朝日書林1991.12.20)
 手に取れば、確かに「老残遊記」が収録されている。書きだしは、こうだ。

 私はこの十月一日で満八十一歳になつた。仁者は寿(いのち長し)といふが、私はかりにも仁者を以つて任じてゐるわけではさらさらない。敢ていへば、いささか放逸な老人にすぎない。中国の古い本に『老残遊記』といふのがある。私はもうずつと前、三十五、六の頃からなぜかその本の題名にひかれ、一度読んでみたいと思ひながら、まだその機会を得ずにゐる。私はそのやうな、のろまな男であるが、中味を知らないその本の題名を暫く無断借用して、私の老残遊記を書いて見たいと思ふ。

 中谷孝雄は、1901年生まれであるという。上の満81歳ということは1982年の執筆ということになる。今から10年前のことにすぎない。私が、20年近く前、と記憶していたのは間違いだった。
 書名ともなっている作品「無名庵日記」は、雑誌発表時は「老残日記」と題していたという。老いぼれて生き長らえる、という日本語の語感に作者が引かれているのがわかる。ただし、劉鉄雲の「老残遊記」は、そのような日本語の意味合いとは、無関係だ。誤解をするのは読者の権利だから、別にかまわない。
 著者「あとがき」によれば、「本書に収めた五篇はすべて現代物の私小説であ」るという。芭蕉の墓があることで有名な義仲寺が出てくる。義仲寺の近所に住んでいる私には、その部分が興味深かった。
 長年のつかえがおりた気分だ。
 逃した書籍は、なかなか入手できないことが多い。私の家に2冊、3冊と中国語の同一書が集まることになったのも、この時の後遺症なのかもしれない。ただでさえ狭い部屋に、書籍が生え立っている原因である。

●第16号 1993.12.1
 最初におことわりから。本号に掲載を予定していた抽絲主人『海上名妓四大金剛奇書』(下)は、紙幅の関係で次号以降の掲載としたい。
 さて、変化は、突然、展開される。それも同時進行形でくりひろげられるから、目をみはる。
 上海・商務印書館と東京・金港堂の合弁問題は、これまで研究者のごく一部に知られていたにすぎない。商務印書館に勤務していた朱蔚伯自身が、「この合弁について商務は宣伝することはしなかったから、外部で詳しい事情を知っている人も多くはなかった」(「商務印書館是怎様創辧起来的」『文化史料(叢刊)』第2輯1981.11)と述べているくらいだ。中国で「自力更生」が叫ばれる時代に、この合弁問題を研究する研究者がいることなど想像することはできなかった。
 時はめぐる。「改革開放」がとなえられ、外国資本の導入が大いに奨励される現在ではどうなったか。商務印書館と金港堂の合弁が、大いに注目される。商務印書館が外資を利用し、しかもそれに成功したと積極的に評価し直されるわけである。
 「歴史学をある種の政策の注釈としてはならない。しかし、歴史研究活動は、ある時空の背景のもとに進むものであり、改革開放の現実は、商務印書館と金港堂の合資の歴史に対して我々が新たに評価を加えることに影響を及ぼさないわけにはいかない。外資を利用することは、近代中国の対外関係のなかでの重要な内容であり、外資を利用することに成功したという実践は、中国近代史の貴重な財産となるべきものである」(鄒振環「商務印書館与金港堂」『出版史料』総第30期1992.12)。
 現代中国では、相変わらず政治と研究が直結しているのがうかがえる。ともあれ、これを機会に中国での史料発掘が活発になれば、研究にどれだけ益するかわからない。本当に。

●第17号 1994.12.1
Q『清末小説』雑誌ができるまで。
 清末小説研究会という名前がついていますが、具体的には誰が、どういう手順で雑誌を作っているのですか。
A清末小説研究会は名前だけです。その実体は樽本一人ということになります。これは『清末小説研究』創刊号を発行した頃と何の変更もありません。年1回の雑誌発行には多くの人手はいらないのです。ひとりで充分。何人もの手を煩わせる必要はありません。だいいち清末小説というせまい分野のことですから、日本で研究会を組織して、月例会だとか総会だとか規模の大きいことができるとは思いませんでした。今でもそうです。中国では事情が違い、1993年の劉鉄雲国際学術討論会には百人単位で集合するのは、やはりそれだけ研究者層の厚みがあるということでしょう。日本ではとても想像することはできません。研究誌の編集とはいっても、複雑なものではありません。送られてくる原稿に目を通し、掲載の判断を下し、自分でワープロに入力したあと著者校正に出します。版下を作成して印刷所で印刷製本する、というだけのことです。できあがった雑誌は、日本の書店へおろし、個人購入分には郵送し、諸外国研究者あて少しばかり贈呈します。書店関係もそれほど数はありません。取扱い書店は10社、部数はわずかに50冊ですから、代金請求、回収にしたところでなにほどの手間がかかるというわけでもありません。この作業にあきたらいつでもやめるつもりでいます。といいながら、すでに17年間続けているわけですが。

Q中国からの原稿はどのようにして入手しているか。
 中国語の原稿がほとんどで日本語の論文はわずかなようですが、その理由はどこにあるのですか。中国に原稿執筆を依頼していますか。
A本誌第3号より中国人研究者(中国大陸在住とは限らない)の論文を掲載しはじめました。すべて本誌が初出のオリジナル論文です。すでに発表したものを再度掲載したものは、原則としてありません。本誌第7号は「中文版」と銘打っているように、ほとんど全ページが中国語です。日本語の論文が少ないというのは、雑誌を開いてみた感じが漢字で埋っているところからくるものでしょう。調べてみると、資料を勘定に入れないで全ページに占める中国語論文の割合は、16号まで平均して25%でした。意外に少ない数字です。しかし、実情は見ての印象通り、日本語の論文の本数が少ないのは事実です。その理由は、日本語の書き手がいない、ということしかありません。
 中国からの論文は、最近ではすべて投稿です。うろ覚えですが、10号くらいまでは、こちらから依頼して原稿を書いてもらったことがありました。原稿料も出せない雑誌ですから、気の毒で執筆依頼することをやめているのです。掲載誌を10部お礼に贈るだけにもかかわらず、投稿くださる研究者には、本当に感謝しています。感謝ついでにお願いです。中国語原稿は、なるべく短いものをお送りください。せいぜい5千字くらいまで。中国語のワープロ入力は、日本語の3倍くらい労力が必要です。ダラダラと長い文章より、主張の明確な短い論文を下さい。これは、日本語論文でも同じことです。

Q論文採用の基準はどこにあるか。
 日本語論文、中国語論文にかかわらず、雑誌に掲載する基準をどこに置いているのか明らかにしてください。
Aまず研究範囲から述べましょう。『清末小説』という誌名からわかりますように、研究対象は「清末小説」です。ただし、時期区分については諸説あり、いまだに確定的なものはないと思っています。本誌があつかうのは、ほぼ1900年前後から文学革命あたりまでです。1911年の辛亥革命からは「清末」ではない、とおっしゃるのは当然ですが、そのように切り捨ててしまって、その結果文学革命前の文学を研究する人がいない、あるいは出てこなくなりました。中国では1840年のアヘン戦争以後を近代文学と考える人もおり、私から見ればだいぶ古典よりの研究論文を投稿くださることもあります。場合によっては返却申し上げることがありますが、悪しからずご了承ください。それから本誌には商務印書館関係の論文も掲載されます。出版研究は「清末小説」と何の関係があるのだ、と疑問を呈する人もいないわけではありません。しかし、作者が書いた作品は、雑誌に掲載されて読者に読まれる、という過程を考慮するならば、雑誌を発行する出版社それ自身を研究することも重要な意味を持つのです。論文の内容に新しい発見があるかどうか、これのみが掲載の基準です。新資料であれば、それだけで掲載する価値があると考えています。二番煎じの長い論文よりも、新資料を短く紹介した文章を歓迎します。

Q中国語原稿が簡体字ではない理由。
 雑誌に掲載された中国語原稿は、一見、繁体字のようです。しかし、よく見ると日本の漢字もあるようですし、それよりも簡体字を採用していない理由はなんでしょう。
A簡体字を使っていないのは、政治的な理由ではありません。単純にワープロの問題です。中国語ワープロソフトも購入して試用したことがあります。しかし、日本語ワープロソフトに比較して操作性はあきらかに劣っていました(値段は高いのに)。とても実用にはならないと数年前に感じたのです。なによりも日本語ワープロと中国語ワープロでは、データの共有ができないのが最大の理由であるといってもいいでしょう。ご存知のように、日本語ワープロで定められた漢字の第1、2水準JIS規格には、とぼしい漢字数にもかかわらず、日本語簡体字と繁体字が混在しています。あるものを使わない手はありません。繁体字なら全世界で通用します。あらかじめ日本語で入力しておいた中国語(この場合は単純に漢字)原稿を、繁体字に変換します。その場合、一字一字漢字を確認して変換するわけではありません。そのための電脳なのですから、一瞬で電脳自身が作業をするようにセットしてあります。あらかじめ、たとえば「国」を「國」にしなさいなどというふうに決めておき、それを電脳に実行させれば自動的に作業は終わります。ない漢字は外字としてそのつど作成しています。『清末民初小説目録』製作時より蓄積して今まで約1千字たらずの外字を作りました。それでもまだまだ不足していますから、漢字問題は電脳の世界ではやっかいなのです。

Q『清末小説から』は市販しているか。
 『清末小説』雑誌を見ると季刊誌『清末小説から』が発行されています。これは書店で入手できるのでしょうか。
A季刊誌『清末小説から』は、現在まで第35号を発行しています。1995年1月には第36号を出す予定にしていますから、小冊子ながら満9年にわたって継続することになりそうです。書店で入手できるかというご質問には、残念ながらできません、と答えるほかしかたありません。ただし、直接購読は可能です。郵送料を含めて1号200円となっていますから、第何号からと明記のうえ前もって郵便振替でご送金ください。在庫のない号もあります。その時はご容赦ください。

●第18号 1995.12.1
 炎暑の大阪を飛び立つと韓国ソウルは連日の雨であった。市内の交通渋滞は、某宗教団体の合同結婚式が関係しているのではなく、漢江の水が溢れて通行できない場所が発生したのが原因という。
 本年(1995)8月、韓国ソウルで開催された第15回中国学国際学術大会に参加する。この15年間、毎年国際学術討論会を開いていると聞き、そのエネルギーに感心した。事前に郵送した論文は、「発表論文要旨」と表紙のついた分厚い冊子となって配付される。この事を見るだけで運営に慣れていることがわかる。
 台湾、中国大陸からの研究者、あるいはソウルの大学で教鞭を取っている中国人研究者の参加をまじえ、文学関係は、古典から現代文学史まで範囲は広い。
 たくさん名刺をもらった。博士号取得者が7割をこえている。中に、「『待遇』助教授」と印刷してあるものがあり、聞くと博士号を取れば教授が約束されているという。韓国では、現在、研究職につこうと思ったら欧米並みに博士号を持っていなければ無理なのだそうだ。その留学先は主として台湾で、中国と国交が樹立された3年前からは中国大陸に留学する学生が多い。そういえば昨年、北京大学で、留学生数は、韓国人が日本人を上回っていると聞いた。時間的に見れば、そろそろ大陸で博士号を取得する人が出現するころだ。
 以前、外国からの文科系留学生が日本を希望しない理由は、博士号が取得できないからだ、という新聞記事を読んだことがある。日本の博士号についての考え方が、欧米とは異なる。欧米では、文科系の博士号は、研究する基礎能力があることを認めるものだ。韓国では、すでに欧米の習慣が定着しつつあるのだろうか。
 などと今さらながらの感想をいだいたのも、はじめてのソウルを体験した副産物であるのかも知れない。

●第19号 1996.12.1
 本誌は、年1回発行で第19号にもかかわらずなぜ創刊20周年かといえば、私が中国に留学したことがありその年だけ刊行がなかったからだ。年数と雑誌の数が一致しないが、20年はたしかに経過した。本号は、だからといって特別な企画をしたわけではない。ただ、ひと区切りとして『清末小説(研究)』『清末小説から』の総目録を掲載しておく。従来と変わらぬ編集としたのも、発行を今後とも続けていくつもりだからだ。
 創刊の動機は、中島利郎、森川(旧姓麦生)登美江各氏たちと自分たちの論文発表の場を持つことと資料の発掘整理を行ないたいということだった。3人で発行計画を立てたのが1976年だ。中国大陸では「文化大革命」が続いていた。中国旅行は、一般に認められておらず、ましてや学術交流など想像することすらできない状況だった。将来もこの状態が続くのだろう、という予想しかできないから、清末小説関係資料の整理といってもせいぜいが各作家の資料目録あたりしか案が出てこない。私が、劉鉄雲の『老残遊記』二集原本が京都大学人文科学研究所に所蔵されているのを発見したのは、1975年の秋だった。これはまったく偶然のことで、新資料の発掘などが日本でできると考えるほうがおかしなことだ。中国での研究再開は、夢のまた夢。日本での研究者は多くない。どこを見回しても、清末小説専門の研究雑誌を発行するための積極的な状況は存在していなかったといってもいいだろう。創刊する私たちにも一大決心というほどのものはなかった。4号は、最低発行する、その後はまた考える、くらいの軽い気持ちだったのが本当のところだった。小人数が出す雑誌は、その多くが印刷費用の分担で発行停止となる。それを避けるため、私個人が印刷費を出すことにする。編集も私の責任となった。
 本誌の性格が異なってきたのは5号あたりからだと思う。今から考えるとそうなので、当時は、性格が違ってきたと感じたわけではない。その前兆は、第3号の魏紹昌論文にあった。1977年12月、私ははじめて中国大陸を旅行した。北京と上海で大学の研究者とも会合がもたれたが、その時の印象では、「文革」の痛手が大きすぎ、とても清末小説研究の再開など口にできる雰囲気ではなかったのだ。『清末小説研究』は、すでに創刊していた。だが、これを持参して贈呈するなどという発想そのものが私にはなかったのが正直なところである。外国人との交際があるというだけで、中国の研究者には批判の原因になる。そういう事実をさんざん聞かされていたのだ。当時の常識が私にしみついていた。「文革」終結後であったにもかかわらず、だ。意識の転換などそうすぐにできるものではない。ようやく1978年になって、ものは試しと魏紹昌氏に手紙を書いてみると、返事があった。状況は、変わった、と実感した。厚かましいとは思ったが、本誌への原稿を依頼した。中国人研究者の原稿が日本の雑誌に掲載されるなど、当時、類を見なかったはずだ。それ以来、多くの中国人研究者から原稿をいただいている(蛇足ながらつけくわえれば、原稿料は出していない)。その頂点は、中国語だけの第7号(1983)であろう。『野草』の「清末小説特集」を編集していて、中国語原稿はすべて日本語に翻訳して掲載する予定だった。原文をそのままにしておくのはもったいないと考え、『清末小説研究』中文版として出版した。ページは少ないものだったが、これが私の中国留学前の仕事となる。
 天津では、図書館に通うのが日課となった。図書カードを引いて、閲覧請求を出す。カードにはあって実物がないことがある。そうすると実物はあってもカードがない場合も存在するのだろうが、こちらはどうしようもない。また、複写を依頼すると昨日までできていたものが、突然、新しい規則で複写できないことになった、と言われたこともある。今はどうなのか知らない。図書館へはバスを利用したが、歩くことのほうが多かった。道すがら気がついてみると、『清末小説研究』の将来を考えている。日本の研究者を中心とした執筆陣はそのままとしても、それまでの活版印刷は、我が家の家庭経済を圧迫しており続けることはできない。突破口は、留学前に日本で見かけた個人用ワープロ専用機にあった。すべての原稿を私がワープロ専用機に入力し、印刷製本だけを印刷所に依頼するというやり方に変更するのだ。つまり、印刷所がやっていた一番お金がかかる部分をこちらで代行してしまおうというのである。ワープロ専用機に初期投資すれば、あとはそれほどの経費はかからないと計算したのである。経済的にはうまく行きそうだが、論文となるとどうか。集まるかが問題だ。しかし、こちらもなんとかなりそうな予感がした。第3号から中国人研究者の原稿が掲載されている。それ以後も投稿がある。原稿料なしにもかかわらず、航空郵便料金を負担してまでも本誌に投稿してくださる人がいるのであれば、なんとかなるのではないか、とあまり深く考えないようにした。こうしていつのまにか、依頼原稿は原則的になくなってしまったのである。つまり、すべての原稿が投稿によるのだ。原稿は、依頼すれば出てくるというものではない。出てこない時は、出てこないのだ。ジタバタするのは、やめた、ということである。第一、出てこない原稿を待つのは、精神衛生上よくない。
 中国大陸での清末小説研究の変化を象徴するものは、『中国近代文学研究』の発行であろう。それまでも、大学紀要、『光明日報』の「文学遺産」欄(現在はなくなっている)などには清末関係の文章が発表されはじめていた。だが、専門雑誌となるとその発行維持がむつかしいのか、実現はしていなかった。天津で『中国近代文学研究』創刊号を見つけたので余計印象に残っているのかもしれない。論考と資料を掲載した該誌を見て、研究の本格的再開と継続が宣言されたものと私は受け止めたのだ。中国大陸で専門誌が創刊されたからには、日本で『清末小説』雑誌を出す意味があるのか、考えなおしたかといえば、それは障害にならなかった。今から思えば、不思議かもしれないが、中国は中国、私はわたし、と考えていたのかもしれない。よし、こっちもガンバロウくらいのことだったのか。あまり昔のことで覚えていない。清末小説専門誌が創刊されたからには、当然、資料が発掘されるはずだし、新しい研究者も輩出するだろうと、該誌に対しては大きな期待を抱いた。しかし、これは期待外れに終わった。第3号を出して以後、あとが続かなかったのだ。そのほか、数種類の専門雑誌が出ているが、いずれも長続きしていない。学術雑誌は、採算が取れないのが原則である。1980年代の「改革開放」政策が、学術面においては負の現象を発生させているのだろう。残念なことだ。
 うれしい状況変化も当然ながら、ある。専門雑誌は、継続発行がされないとはいえ、これで研究が衰退しているというわけではまったくない。いちいち書名と固有名詞はあげないが、清末小説を含んだ専著が多く出版されている。「文革」後、大学を卒業した新しい世代の研究者が次々と誕生している。その質量ともに以前を上回っているのは確実にいえる。日本と較べものにならないのだ。本誌、あるいは中国語で書かれた論文に見える研究者は、ほんの一握りであるかもしれない。しかし、私の目につかぬ場所に、多くの研究者がいるのは事実であり、その層は日本では想像がつかないくらい厚い。大陸での学会に参加してみて、研究者の多さにびっくりするのが本当の所だ。自国の文学研究である、と言われればそうかもしれない。日本で清末小説研究をする方が、特別だという見方も成り立つ。日本での研究者の数を言う方が間違っているのだろう。
 この20年間の変化といえば、中国旅行が自由になったことだ。大学図書館などの閲覧も以前よりは便利になった。ただし、本格的に調査しようと思えば、時間がかかることを覚悟しなければならず、今の私にはその余裕がない。旅行の自由にともなって、大陸での国際学会に参加する機会があったのも変化のひとつだ。学会の運営のしかたも、日本の学会と異なる部分があり、参加した限りでは興味を感じる部分もあった。日本の学会でも、それぞれによって発表形式が違う。発表後、それに対して短い評論を加える評論員を置くもの、司会者が兼ねるもの、いろいろだ。私が最初に国際学会に参加したのが、1991年の台湾におけるものだった。中国語での発表と、質疑応答であるから緊張していた。発表後の評論は、必要以上に激しいものがあり、しかも、発表内容を充分理解したうえのものでないように思った。日本にも何がなんでも否定する、という人がいる。論評者の性格によるのかもしれないが、自分の存在を際立たせるためにだけ発言をする部類だ。その舌鋒の鋭さを欧米流の見本としてありがたがる傾向がなきにしもあらずだ。しかし、舌鋒の鋭さは、内容のある発言に伴うものであれば説得力を持つ。ただの大声は、討論の後味を悪くするだけだろう。数日、長時間にわたる学会で、発表内容とは関係なく持論を滔々としゃべる人、非難するためにだけ参加した人、発表内容を吟味して適切な評論をする人、いろいろな類型が出そろったかたちだった。それを経験していたから、のちに大陸、香港、韓国と一通りの国際学会に参加してみて、やはり結論は、その評論員の性格であるというところに落ち着いたのだった。
 これまで20年間19号を発行してきた。『清末小説から(通訊)』も11年目に入っている。両誌ともに、もうしばらく発行を続ける。「もうしばらく」と言いながら、長くなる予感もする。両誌を支えてくださった人々に心からの感謝をし(本当です。お名前はいちいちあげません。お気を使われるのを恐れるからです)、将来も変わらぬご愛顧をお願いする次第である。

●第20号 1997.12.1
 本誌20号の発行を祝って原稿をくださった方々に感謝します。
 紙幅の関係で分割掲載にせざるをえない論文が、複数出ることになった。漢語原稿は、日本語に比較して2倍以上の手間がかかるのが主な理由である。分載にするからには、次号も必ず発行することを約束したようなものだ。安心してほしい。
 20号だからといって、今までと異なる紙面構成にはなっていない。ページ数が160頁を超えたのが、20号記念号らしいか。それだけでは愛想ないので、『清末小説(研究)』と『清末小説から』の著者別総目録を作成した。参考になればさいわいだ。
 『新編清末民初小説目録』の発行については、どうしても言及しないわけにはいかない。「新編」とあるように、旧版『清末民初小説目録』を発行したのが1988年のことだった。あれから約10年になる。在庫はなくなり、研究者の要望に添えない情況がつづいている。その間、増補訂正作業を継続しながら、清末は、やはり雑誌の時代であることを再確認した。定期刊行物に掲載された小説の出現は、それ以前の中国には、ほとんど見られなかった形態のものである。新しい時代を反映する小説目録には、新しい編集方針が必要であることは、いうまでもない。旧小説の目録が、広い意味での単行本を主体としたものになるように、清末小説からは、雑誌に重点を置いた目録になるのは、必然なのだ。雑誌掲載の小説を網羅する。これが、雑誌主義である。雑誌主義を目録の編集方針とし、入手できるかぎりの資料にもとづいて『新編清末民初小説目録』を編集した。雑誌初出から最近の復刻まで、創作と翻訳を合わせて約1万6千件のデータを収録する。本文二段組で約1千頁である。旧版よりも収録件数が大幅に増えているにもかかわらず、ほぼ同じくらいの頁数におさめることができたのは、二段組にしたからだ。清末民初小説の履歴書となるよう意図したし、結果は、その通りになった。日本での編集作業は、不充分なものにならざるをえないが、今後の研究にお役に立ちたいと願うのみだ。
 増補訂正作業が、これで終了したというわけではない。中国大陸で清末小説の大型叢書を出版するという広告を見かけた。今まで同様、今後も復刻出版があるだろう。これらはできるかぎり収録する。ただ、個人の力には限界があり、誤りをおかすのを避けることができない。
 たとえば。曼殊室主人という筆名を持つ人物は、梁啓超、梁啓勲、麦孟華の三人がいる。『新小説』に掲載された「俄皇宮中之人鬼」(アップワード著、徳冨蘆花訳「冬宮の怪談」『外交奇譚』1898)には、この曼殊室主人が使用される。1982年に「新小説総目録」を作成したとき、三人の名前を併記して特定しなかった。その後、どういうわけか曼殊室主人を麦孟華だと思い込み、『清末民初小説目録』にそう注記する。『新編清末民初小説目録』でもそれを踏襲した。本誌掲載の森川登美江論文は、曼殊室主人を梁啓超だとする。改めて調べると、なるほど森川氏の拠った文章およびその他の文献にそう書かれている。訂正表が必要になるのだ。いくつかの資料があるにもかかわらず、思い込みが誤りを引き起こす。現在も訂正作業を続けている。ご教示をお願いしたい。
 清末小説研究会は、本誌(年1回発行。市販あり)および『清末小説から』(年4回発行。直接購読のみ)を発行している。はじめて目にする人のために、編集方針と投稿について説明しておく。
◎編集方針は発情継交である。
 「発見」のある文章を掲載し、
 「情報」交換を重視しながら、
 「継続」発行をめざししつつ、
 「交流」は双方向でありたい。
◎清末小説を中心に民国初期小説も含む。
◎投稿された原稿を返却することがあるが悪しからず。
◎原稿料は、支払うことができない。
◎論文資料の掲載誌10冊を贈呈する。
◎論文の二重投稿は、遠慮されたい。
◎論文を転載する場合は、初出が本誌であることを明記してほしい。
 『清末小説』は、1万2千字前後、『清末小説から』は、4千字前後の原稿が適当だ。
 インターネットに清末小説研究会のホームページを設置している。『清末小説』と『清末小説から』の既刊号のいくつかを掲載する。そのほか研究論文目録、研究ガイドなども掲げているから、興味のある人には役立つだろう。
 21年続いたものならば、今後、同じ時間はすぐに経ちそうだ

●第21号 1998.12.1
 はじめにおことわりから。前号につづく郭延礼「中国近代俄羅斯文学的翻訳」(下)は、ちかごろ発行された同氏の『中国近代翻訳文学概論』に収録されているため本誌での掲載を中止した。同様に、本号に発表する予定で著者校正まですませていた論文があった。著者から手紙が来て、本人の知らないうちに大学紀要に登載されてしまったという。残念ながら、こちらも取り下げることになった。本誌の編集方針は、未発表論文を掲載するところにある。ご理解いただきたい。なお、樽本照雄「劉鉄雲「老残遊記」と黄河」は、紙幅の都合で本号は休載とする。
 本誌は、意識をしないうちに国境を越えてしまっている。海外に郵送しているし、執筆者は日本に限定していない。本誌第20号の著者別総目録を見たらしい人から、台湾の研究者の論文は掲載されないのか、という質問を受けた。それはまるで30年前の思考法ではないかと自分の耳を疑ったのだ。私は、研究には国境がないと考えている。言葉の壁があるだけだ。過去において台湾の研究者に原稿を依頼したことがある。送られてきた論文は、すでに出版された論文集に収録されているため掲載を断念したのだ。それ以後も、台湾からは投稿がない。本誌は、現在、投稿を主として編集発行する。門戸は開かれていると強調したい。
 『新編清末民初小説目録』についていくつかの書評が書かれている。ありがたい。日本でそのすべてを原本で見ることができるとは限らないのではないか。『清末小説から』に再録を続けているのも記録として残しておきたいからだ。お気のついたものをお知らせいただけるとうれしい。
 研究会ホームページの住所が下記のように変更される。orがneになるだけだが、改めていただければさいわいだ。

●第22号 1999.12.1
 『清末民初小説年表』を発行した。
 これには前作業がある。1997年出版の『新編清末民初小説目録』がそれだ。目録は、清末民初に発表された小説のすべてを収録することを目標とする(目標を実現するのはむつかしい)。雑誌初出から単行本までを記録し、作品ごとのいわば履歴書だ。さいわいに学界の一部の歓迎を受け、いくつかの書評が公表された。『清末小説から』に、主として中国大陸と台湾で発表されたそれらの書評を再録しているからご覧いただきたい。
 このたび発行した年表は、『新編清末民初小説目録』のデータを基礎にしている。小説を創作と翻訳に二分し、発行順に配列しなおす。見開きにした効果がある。創作と翻訳の発行件数の変化が、目に見える形となった。雑誌初出と単行本はカッコを使用することで区別する。作品索引と人名索引を作成したから検索が容易だ。作品記号は、目録と共通にしている。年表は、たしかに目録の姉妹編だ。
 当然、目録と違うこともある。たとえば、年表は収録期間を1840-1919年に定めた。目録の収録範囲を超えて広がる。変更にともない新しく作品を追加入力しなければならなかった。当然、中国で出版された目録も使用する。原物を目にすることができない日本で編集するのだ。しかたのないことだと弁解する。
 年表は、清末小説研究会の自主出版だ。目録が、文部省の刊行助成費を受けたのとは異なる。印刷部数も抑えざるをえなかった理由は、それだけではない。研究に必要な工具書ではあっても、必要とする人は少ないだろう。本誌を発行し続けて23年の経験が、私にそう告げている。季刊誌『清末小説から』は14年をもうすぐ迎える。こちらの発行数は150部を下回る。それくらいの必要数だろう。国立国会図書館にすら贈呈する余裕は、ない。年表を贈呈することは、一層、困難になっていることをご理解いただきたい

●第23号 2000.12.1
★2000年を記念して本号は、大増ページになった
★王学鈞論文は、昨年いただいたものだ。著者校正にゲラを送ったが連絡がとれなくなり、1号ずらしての発表となっている。また、李慶国論文も同じく昨年にはできていた。残念ながら原稿の締め切りをすぎていたため、これも本年の掲載となった
★中国の清末小説研究は、最近、ますます盛んになっている。貴重な成果が、出現しつづけているのだ。本誌で出版予告がなされていた范伯群主編『中国近現代通俗文学史』上下巻(南京・江蘇教育出版社2000.4)がある。ジャンル分けにして清末から民国までの大衆文学を記述する。まさに空前の大著というにふさわしい。曲折を経て、50年目の成果というべきだ。また郭延礼氏が、『中国近代翻訳文学概論』(1998)に引き続き『中西文化〓撞与近代文学』(済南・山東教育出版社1999.4)、『近代西学与中国文学』(南昌・百花洲文藝出版社2000.4)を上梓した。翻訳文学研究は、外国語の問題があって、ただでさえ困難がともなう。今までこの分野に着手する研究者が少ない理由だ。だが、郭延礼氏の著作があるこれからは、状況が変化するのではなかろうか。手がかりをもとに、研究にこころざす人が出てこないともかぎらない。参考書目に『新編清末民初小説目録』があがっている。少しはお役に立ったかとうれしく感じる
★概説から詳説に、という方向があれば、その逆に詳細から概説に反射する行程もあろう。たとえば、コナン・ドイルの著作が中国でどのように翻訳紹介されたのか、詳細を知るための目録など、私は、見たことがない。存在しないからこそ『新編清末民初小説目録』が利用されるわけだ。やるべき仕事は、いくらでもある
★樽本『初期商務印書館研究』を刊行した。日本・金港堂との合弁をめぐる謎を解明したもの。本書は、中国の商務印書館関係者からは無視されるはず。

●第24号 2001.12.1
★昨2000年の7月14日、父魏紹昌は病気のため亡くなった、とご家族からお手紙をもらった。驚いた。それらしい消息をどこからも聞いていなかったからだ
★本誌と魏氏との関係は、第3号に原稿執筆を依頼したのにはじまる。1978年のことだ。「文化大革命」終結後まだ間もないころで、中国から原稿が送られてくることは、半分、期待していなかった。それ以前、研究者との交流が10年間も途絶えていたのだから、その後も同じ情況が続くものだと思っていた。魏氏から原稿が送られてきたことによって、中国の研究情況が決定的に変化したことを知ったのだ
★長年にわたり本誌に関心をよせてくださったことに対してお礼をのべたい。ご冥福をお祈りいたします
★新世紀を迎えたのを記念したわけではないが、大増ページになってしまった。コナン・ドイルの漢訳目録が、思ったよりも紙幅を占めたのが増ページの理由のひとつでもある。こういう資料は、分載すれば利用する場合、不便である。一挙掲載したら50ページを越えた。小さな活字にしてもページを節約することは、できなかった
★中国で近代翻訳小説の研究が進んでいる。関連する研究書も出版されて、この分野が、まさに注目を集めていることが肌身に感じられる。だが、概説的な文章が多く、より一歩の深化を求めようとすると、すぐに立ち往生する。考えなくてもその理由は、わかる。基礎資料がないのだ
★あるべき個別の翻訳目録が、作成されていない。ドイルのホームズ物語について、どの研究論文も書名だけは掲げる。だが、内容に立ち入った研究は、ほとんどない。自分で体験して、その理由が、わかった
★本号に掲載した私のドイル原稿は、準備したものの4分の1である。漢訳目録が増えたので、掲載する分量を縮小するしかなかった。原稿執筆の過程で、できるだけ原本を探したが、原物がない。驚くべきことだ。上海図書館では、それでもいくつかを見ることができたのは、さすが蔵書量の豊富さを誇るだけのことはある
★いくつかの重要な翻訳書をさがして、中国の研究者に捜査を依頼した。煩わせるのはいやだったがしかたがない。日本には、まったく所蔵されていない書籍である。私は、楽観していた。どんな研究書、論文でも、必ずといっていいほど言及している超有名翻訳書だ。簡単に結果がでるものとばかり思っていた。しばらくして回答をもらう。その返答は、私を吃驚させるのに十分であった。中国国内の主要図書館にまで手をのばして調査したが、原物を見つけることはできなかった、というのである。あれれ、研究書に言及されているあれらの翻訳書は、それでは、どこにあるのだろうか。個人で所蔵していて、それで論文が書かれているというのか。翻訳小説研究の概説書では、未見既見の区別までは書き込まないことが多いから、判断がつかない。謎は深まるのである
★結果として私が理解するのは、翻訳文献の整理、目録作成といった地道な作業は、むつかしい、ということだ。中国においても、長年にわたり指摘されてきている。今さら、くりかえしてもしかたがない。資料を整理した結果を公表して共同で利用できるように工夫する時間があれば、自分で論文を書く方が楽しいに決まっている
★一般の資料整理でさえ、困難がともなう。翻訳小説の場合は、これに外国語がからんでくるからやっかいだ。ドイルなら英語だから、まだなんとかなる。資料についても、ドイルの著作は、復刻を含めて、今でも大量に出版されている。研究書も多い。しかも、最近のインターネットの発達は、とても心強い。専門サイトがあって、ホームズ物語の初版を入手しようと希望すれば、価格さえ度外視すれば手に入れることは可能である。便利になったものだ
★ホームズ物語は、まだ、いい方だ。これがアラビアン・ナイトになると、大変。なにしろ英訳版は、あの有名なバートン版だけではないからだ。タウンゼンド、レインその他多くの版本が存在する。そのほかに書き換え版が作成されていたりする。漢訳がいずれの原典に依拠したのかを確定することが、まず、むつかしい。なるほど、今までアラビアン・ナイトの漢訳について専門論文が書かれない理由がわかったような気がした。漢訳の原本が入手しにくいのに加えて、英文原典の種類の多様さを目の前にすれば、研究者は、まず二の足を踏む。躊躇して当然だ。膨大な熱量と時間をかけて研究しても、評価されるとは限らない。そうだろうな。誰も着手しないならば、私が……と思

●第25号 2002.12.1
★「何をすんねン」知人の言葉である。出せば赤字に決まっている刊行物を、新しく、性懲りもなく出版することにたいして、経済的危惧を察知し、思わず口にしたというところだろう。おっしゃるとおりです。しかし、そうでもない
★「清末小説研究資料叢書」の刊行を開始した。第1集は、『日本清末小説研究文献目録』である。1901年から2001年までの100年間に、日本で発表された研究論文を1460点収録する。第2集は、『搨濠ッ場現形記』だ。失われた環ともいうべき世界繁華報館の搨獄{を、部分だが(部分しか入手できなかった)、影印した。中国での所蔵を聞かない。それくらい珍しいものだ。影印刊行は、資料を保存する意味でもある。第3集は、『樽本照雄著作目録1』という。樽本が約30年間に発表した文章の総目録だ。これには以前刊行した『清末小説きまぐれ通信』を復刻収録している
★ずっと前のこと、魏紹昌氏が私に問われたことがある。「『清末小説』を刊行するのは、赤字ではないか」「当然です」と答えるほかしかたなかった。事実だからだ。専門研究誌、ことに清末小説関係の雑誌を継続発行することの経済的困難について、中国でよくご存知だからこその魏紹昌氏の質問だ。その魏紹昌氏は、今は、ない
★年刊『清末小説』、季刊『清末小説から』だけでも経済的に収支はあっていない。『新編清末民初小説目録』は別として(出版助成があった)、加えて『清末民初小説年表』と『初期商務印書館研究』を出版した。さらに今度の「清末小説研究資料叢書」シリーズだ。経済の法則をまったく無視しているといわざるをえない。資金の回収を計算に入れず、出せばだすだけ赤字が増えるのだ。もし、中国だったら、このような赤字事業に対して実施の許可がおりるわけがない。許可を出す経営者がいるとすれば、それは経営者として失格の烙印を押されるのが関の山だ
★だから日本で私という個人が手掛けている。私に言わせれば、経済の法則ですべての物事が動くと考えるほうが間違っている。赤字であろうと、研究に必要であれば、行なわなくてはならない種類の事業がある。清末小説に関する研究出版活動は、まさにそれに属する
★「清末小説研究資料叢書」は、今後とも必要に応じて刊行する予定だ。印刷部数は、少なく設定している。今までの経験からいって、再版ということにはならないと考える。清末小説研究会の刊行物は、いずれも研究には不可欠ではあっても、一般読者が必要とするものではないからだ。機会を失うと、入手できなく恐れがある。おはやめにご注文ください
★『新編増補清末民初小説目録』(済南・斉魯書社2002.4)が出版された。郭延礼氏が、清末民初小説目録を中国で出版することの意義を強調されて、私と出版社の橋渡しをしてくださった。これも経済の法則とは無関係の出版だ。300部という印刷部数の少なさをみれば、理解できよう。2001年は、私にすこし時間の余裕があった。集中的に仕事をしたから、従来から蓄積していたデータを、比較的短期間に整理し、増補することができた。原稿を作成して、それをもとにあらためて中国で入力することも考えたことはある。しかし、いくら優秀な中国の技術者でも、1千ページの原稿を誤植なしで入力することは不可能だろう。さらに校正にかかる時間を考慮すれば、この種の工具書の出版は、ますますむつかしくなる。考えた結果、本文の版下は、私が作成して出版社に提供することにした。ゆえに本文は日本語のままである。序文、使い方、あとがきは、中国語に翻訳する。まさに、文字通りの日中共同作業である。せいぜいご利用ください。小説目録については、今まで、多くの研究者がご教示くださった。あらためてお礼を申し上げる。今後とも、増補訂正作業を継続していく
★本誌前号で触れたアラビアン・ナイトについては、『清末小説から』で論文を連載している。予想した通り、英語原本の特定にはてこずる。先行論文が存在しない理由を再確認することになった。商務印書館発行の『天方夜譚』にレイン版のように書いてある。そのつもりで漢訳を英文原作と対照してみると、一致しない。レイン版には存在しない作品が漢訳には収録されている。おかしいじゃないの。というようなわけで、インターネットを活用し、タウンゼンド版をアメリカとイギリスから各1種類、レイン版を東京の書店で購入した。サグデン版を東北大学の漱石文庫から複写を取り寄せたり、手間がかかる。その過程が楽しいといえば

●第26号 2003.12.1
★「老残遊記」が『繍像小説』に掲載されて本年で100周年をむかえた。ということは『繍像小説』創刊100周年でもある。商務印書館と日本の金港堂が合弁してこれも100周年になる。『新小説』が日本で創刊されて、昨年で100年目だった。これと同じく特別に特集などは組まない。本誌が刊行されつづけていることが、清末小説研究全体にとっては記念のようなものだ。だからこそ毎号「発行記念」とうたっている
★本号には翻訳関係の論文が2本掲載される。紙幅を取っているように見えるかもしれない。だが、翻訳小説研究は、今まで研究者の視野にはほとんど入っていなかった。ただし、例外はどこにもある。香港中文大学には専任研究者のいる研究機関がある。日本文学の分野から探求を続けていた中村忠行氏の一連の論文は、今でも色あせていない。郭延礼氏の概説も刊行されており貴重だ。しかし、清末民初時期に発表された翻訳小説は、数が多い。すこしの専門家では、とてもカバーはしきれない。重要作家、作品が埋もれたままになっているというのが現状だ。すこしでもそれを発掘したいと考えている。手間ヒマがかかるから気長にすすめるよりしかたがない
★「清末小説研究資料叢書」は、4『官場現形記資料』、5劉徳隆著『清末小説過眼録』、6『老残遊記資料』を出版した。貴重な資料ばかりを収録している
★中国の斉魯書社から出版された『新編増補清末民初小説目録』が再版となった。広く利用できる環境が整ったということだろう
★日本・汲古書院から拙著『清末小説叢考』が出た。「劉鉄雲「老残遊記」と黄河」、「劉鉄雲は冤罪である」などを収録している。新しい知見もつけくわえたので参考になればさいわいだ
★本年3月にはイラク戦争があった。つづいて、中国発の新型肺炎がこれほど流行しようとは誰も想像はしない。予定の変更を強いられたことだった

●第27号 2004.12.1
★商務印書館と金港堂の合弁解約書が発見されたことは、最近の出版研究界における珍しい事件のひとつだ
★中国と日本の合弁企業なのだから、解約書がそれぞれの会社に保管されていても不思議ではない。かりに、日本の金港堂から出てきたのであれば、普通のことだといえるかもしれない。ところが、そうではなかった。だいいち、金港堂そのものが消滅している。ここから文書の現物が出現する可能性はほとんどゼロだ。では、商務印書館にあったのかといえば、それも違う。なんと、上海の新聞に公表されていた。しかも、日本で見いだされた。二重の驚きだ。現物のままの写真版で解約書を見ることができようとは、想像もしていなかった。とうの昔になくなっているものだと考えていただけに、ア然としたのが正直なところだ
★解約書は、商務印書館にとっては内部文書である。よほどのことがなければ、外部に示すことなどないだろう。それを広告として新聞に掲載せざるをえない事情があった。意外な事実だといえる。該社をとりまく状況がいかに危機的なものであったかがわかる
★解約書があるならば、両社の合弁が成立したときに結んだ文書も、将来、まさかと思う場所から出てこないとも限らない。そもそも、契約書の全文が明らかになっていない事実に注目すべきなのだ。創業にかかわった関係者の、それも後年になってのわずかな言及をくりかえし引用してすませているのが、研究の現状である
★合弁契約書には、なにが書かれているのか。解約書の書き方からすれば、両社の出資金の額、その支払い期日、役員の人数、権利の明記か。意外と簡単に記されているかもしれない
★契約書を見ることができれば、従来不明であった部分に光が当たるはずだ。文書存在の可能性が残っている、と考えるだけでもすこし元気がでてくる。その日がくることを期待せずに待っている。

●第28号 2005.12.1
★樽本著『清末小説研究論』は、清末小説研究資料叢書9として発行した。主として清末小説の研究について30年間に書いた文章を集めたものだ。関連する書影と図版をできるだけ収録した。発表当時の写真をそのまま再録したものもあるし、新しく掲げたばあいもある。その中のいくつかは、今になってみれば珍しいものになった
★たとえば、京都にある彙文堂だ。以前の2階建ての風情になつかしさを感じる人がいるだろう。内藤湖南が筆をふるった看板は、現在の移転新築したビルにも掲げてある。だが、以前の建物はなくなった
★たとえば、淮安にある劉鉄雲故居である。故居訪問記は、今にいたるまでほとんど唯一の紹介文ではなかろうか。かの場所を訪れた日本人がいるとは聞いたことがない。淮安そのものが地理的に訪問しにくい場所なのだ。劉鉄雲の墓にいたっては、当時、劉氏一族すら墓参が許可されなかったというから、きわめて貴重だということができよう
★なぜこの挿絵(368頁)なのか意味が分らないという質問があった。ピーター・ブリューゲルの絵(部分)だといえばわかっていただけるはずだ
★掲載誌の多くが少部数発行である。内部発行のものもあった。このたびの出版は、広く知ってもらういい機会だ。といっても発行部数はわずか150であるが
★季刊誌『清末小説から』は、現在、基本的にウェブサイトのみの公開になっている(ただし、論文の著者には紙媒体に印刷したものを贈呈する)。清末小説研究会のホームページから自由に印刷できる。インターネットを経由して海外においても閲覧印刷できるように配慮したためだ
★変えた理由のひとつは、お定まりの経費節減である。それよりも、個人で運営しているため印刷に労力と時間を取られるのがもっとつらい。学術出版には、手間ヒマがかかる。ご理解いただきたい。身軽になったぶん、発行はまだまだつづく

●第29号 2006.12.1
★本年、私が複数の著書を発行することになったのは、まったくの偶然である。『漢訳アラビアン・ナイト論集』は、出版を計画していた『清末翻訳小説論集』が流れた結果の産物だ。その一部であるアラビアン・ナイト関係の論文を引き抜いて1冊にした。ならば『漢訳ホームズ論集』も同様である。こちらは『漢訳コナン・ドイル論集』では大部になりすぎる。ホームズものだけを抽出して成った
★いずれも翻訳小説の分野に関わる。はっきりいって、キリというものがない。調査すべき作品は山のように存在している。私ひとりの力ではやりおえることなどできはしない。ならば、完成というものが存在しない『清末民初小説目録』はどうか。とりかかったのだからこちらも作業を継続するほかないだろう。そういう状態にあるのは、私は嫌いではない
★一方、全編漢語の『清末小説研究集稿』は、2年前に原稿はすでに完成していた。こちらもある事情で本年にずれ込んだというだけのこと。準備期間をいえば、最初に漢語で論文を書いた約20年前からのことになる。『集稿』については、印刷の関係で索引を収録する余裕がなかった。別に作成して公表することにする
★『集稿』の印刷に関する舞台裏をすこしご紹介しよう。漢語原稿は日本語エディタで書いた。これを漢字変換ソフトで簡体字になおす。最終的にはワードで読み込み図版を配置する。図版は、すべてスキャナを使用しデジタル化したものだ。PDFファイルでレイアウトを示す。つまり、それらの全ファイルをCDに焼いて原稿とともに中国の出版社へ送ったというわけ。中国の編集者とはインターネット経由のメールで連絡をする。それが中国で書籍になるのだから、時代も変わった。手書きの原稿をやりとりしていては時間がかかってしようがない
★だが、技術の進歩は、論文の水準とは何の関係もない。当たり前だのク

●第30号 2007.12.1
★罵り続けて80年以上になる。ほとんど世界中の研究者が林紓を批判している。林紓は原作の戯曲を小説にして翻訳した。これが理由だ。戯曲と小説の区別もつかないほどに愚昧である。そう罵倒するのだ。文学に対して貢献があったと林紓を称賛する研究者でも、彼が戯曲を小説化して漢訳した点については、例外なくそうだと認めている。しかし、それは間違っていた。林紓が勝手に小説化して翻訳したという事実そのものが存在しなかった
★私の想像を超えるといっていい。これほどまで大規模で長期間にわたった冤罪事件は研究史上珍しいのではあるまいか
★ということで、私の「林紓を罵る快楽」は、本号の掲載をもって連載を中断終了する。その理由は、原稿を完成させて『林紓冤罪事件簿』に収録したからだ。ご了解いただきたい
★林紓冤罪事件の探索は、林訳シェイクスピアからはじまった。林訳イプセンをへて奇妙な事実に直面することになる。五四事件直前における林紓の行動とそれについての評価だ。悪いのはすべて林紓の責任なのか。調べてみると、はじめは予想もしなかった地点にまで行き着いてしまった。それが「林紓を罵る快楽」の後半部分だ。林紓は、武力を背景にして文学革命派に立ちはだかったと批判されている。文学革命に反対した旧文人の代表者が林紓だという構造だ。だが、そのような林紓は、どこにもいない。今まで批判されてきた林紓は、その実、文学革命派がつくりあげた虚像にすぎなかった
★中国で書かれた現代文学史は、五四時期の林紓について批判を展開するのが基本である。なにしろ文学革命の反対者であり旧派の代表人物だ。魯迅は林紓をファシストだと嘲罵している。批判をするのが当然ということになる。日本、香港、台湾でも同様だ。日本で出版された中国文学史をあらためて点検したが、ほとんど例外はなかった。戯曲の小説化には触れず、翻訳の功績だけを記述するものはあるにはある。だが、基本的にその執筆の立場を文学革命派に置き、一方的に反対者林紓を見てきた。それ以外の説明がないのだからしかたがない。林紓が悪役になるのは当然ということだ
★一方、中国において新しい動きがないわけではない。林紓を再評価する。最近の書籍でいえば、張俊才『叩問現代的消息』(北京・中国社会科学出版社2006.12)、修訂本の『林紓評伝』(北京・中華書局2007.4)がある(これらを私が入手したのは2007年6月だ。前出『林紓冤罪事件簿』はすでに印刷にまわっており言及することができなかった)。五四時期の林紓をめぐる有名な風説がある。林は軍人の徐樹錚に北京大学を攻撃させようとした。また、国会議員に運動して蔡元培に圧力をかけた、などだ。張俊才は、それらが事実ではないことを説明している。張にかぎらず、少数かもしれないが、冷静に事実をたどっていけば、同じような結論になる
★このたび私が見つけた林訳シェイクスピア、林訳イプセンなどの冤罪事件をつけくわえる。これらをあわせて視野に入れるとすれば、近い将来、本格的な林紓再評価の動きが出てくるのは必然だろう
★とはいうものの、正直なところ私は期待していない。拙著『林紓冤罪事件簿』はたぶん中国では無視されるだろう。よくて「事情に詳しくない外国人が勝手なことを言っている」くらいのことだ。常套句が目に見えるような気がする
★日本語で書かれているのが理由のひとつ。だが、それよりも大きな問題が生じる。林紓とかかわった蔡元培、および林を批判した陳独秀、魯迅らについて同時に見なおさなければならない。さらには鄭振鐸にまで波及する。風聞を否定するだけでは林紓を再評価したことにはならないのだ。林紓個人ではおさまらなくなる。従来の評価は根底からくつがえる可能性がある。林紓が関係する部分について五四時期の文学史を大きく書きかえる必要がでてくる。現在の中国では問題を見なおすことは無理だろう。ゆえに、無視して放置せざるをえない
★それにしても、なぜいままで林紓が冤罪だということに研究者は気づかなかったのか。林の翻訳について説明する文献、特に欠陥を数えあげるばあいは例外のひとつもない。鄭振鐸は公平をよそおいながら林紓批判を展開した。研究者はそれをくり返すだけだ。私は不思議でしようがない。80年から90年という長期間にわたって誤った林紓批判が継続されたという事実は、なにを意味しているのか。これこそが検討に値する
★本誌は第30号をむかえた。だからといって特別の編集はしなかった。い

●第31号 2008.12.1
★林紓関係の文章を本誌に連載し始めたのは、2005年の第28号からだった。資料をできるかぎり掘りおこす。この方針にしたがって調べ始めた。論文のなかで言及された書籍は、実物を手元において検討する。いくつかの問題に気づく
★2006年に問題の核心部分が明らかになった。そのつど研究会のホームページに掲げ、『清末小説から』でも報告した。といっても、誰も見ていない可能性もある
★2007年5月、台湾の大学で話をする。林紓が冤罪であることを知ってもらう好機会だ。披露する気になった(樽本「林琴南冤獄――林訳莎士比亜和易卜生」台湾国立政治大学中国文学系『政大中文学報』第8期2007)。7月には『林紓冤罪事件簿』が印刷されてくる(奥付の発行日は2008.3.31。国会図書館から問い合わせがある。数字が間違っているのではないか、と)。同年10月には日本中国学会大会(名古屋大学)で報告した(それを紹介する文章がある。曹虹著、野村鮎子訳「日本中国学会第59回大会傍聴記」『日本中国学会便り』通巻第13号2008.4.20)
★その間、林紓をめぐるいくつかの課題について並行して調査をすすめていた。文学史の記述を追跡してわかったことがある。日本の研究論文は、いずれも五四時期の林紓を批判して一致している。中国の研究をそのまま引き写しているだけなのだ。例外がない。銭玄同、劉半農、陳独秀、鄭振鐸ら文学革命派によって実行された林紓批判の策略は、中国ばかりでなく日本の研究者をも巻き込んで大成功のうちに完遂された。80年から90年というのだから、私は、感嘆するばかり
★林紓冤罪事件簿第2集として『林紓研究論集』の刊行を予定している。「林訳チョーサー」「林訳ユゴー」「林訳「ハムレット」」「ラム版『シェイクスピア物語』最初の漢訳と林訳」「林訳シェイクスピア」「中国現代文学史における林紓の位置」「陳独秀の北京大学罷免」「林紓落魄伝説」など。来年

●第32号 2009.12.1
★本誌に掲載した「《盛京時報》近代小説簡目」は、題名通りの「簡目」だ。作品名、掲載年月日など主要項目のみが抽出してある。本体は『《盛京時報》近代小説叙録』といい、作品紹介を含んだ詳細なものだ。近く単行本で刊行されると聞く
★中国では現在、新聞小説研究の分野に注目が集まりつつある。過去においては想像もできなかった。阿英の「晩清小説目」が長年にわたって権威を持つ目録であったことを考えるとまさに新展開だということができる。阿英は単行本を主とし、雑誌から作品を少し採録した。新聞小説までは手が回っていない。当時、新聞をまとめて入手することは困難だったことが容易に推測できる。中国で新聞の影印、マイクロフィルム化が進んだのはここ20年くらいのことだろう。以前は、目録に収録したくても見ることのできない新聞ではどうしようもなかった
★資料が整備されてくれば研究も進むというわけ。私が日常に利用している工具書には、以下のものがある。陳大康『中国近代小説編年』(上海・華東師範大学出版社2002.12)、孟兆臣『中国近代小報史』(北京・社会科学文献出版社2005.10)。最近では、劉永文編『晩清小説目録』(上海古籍出版社2008)も刊行されている(書評を書いた。樽本「清末小説目録の最新成果――劉永文編『晩清小説目録』について」『東方』2009年5月号)
★新聞小説が研究対象になってあらたな問題が生じる。阿英が主張した「翻訳は創作よりも多い」に関係する。阿英は自分の所蔵する単行本を数えた。だからそういう結論になった。しかし、雑誌掲載の小説を含めれば、阿英の主張は成立しない。さらに今までは手つかずの新聞小説がこれに加わると、ますます阿英説は旗色が悪い。それよりも作品数を数えること自体が無意味な行為になるのだ
★重要なことのひとつは翻訳小説の中身を検討することだ。こんな翻訳小説があります、だけではすでにすまなく

●第33号 2010.12.1
★樽本「曾孟樸の初期翻訳(下)」は、紙幅の都合で次号に掲載(予定)します
★「清末民初小説目録」は現在どうなっているか、お知らせしよう。2002年、中国で刊行した新編増補版には、約19,000件を収録した。あれから不断に増補を続けている。複数の研究者が指摘してくださる。その結果、変化したのは、新聞掲載の小説を大幅に追加したことだ。研究環境がいくらか改善されたのがひとつ。新聞のマイクロフィルム化が進んだ。以前には閲覧不可能であった新聞が利用できる。ふたつ、ここに目をつける研究者も増えている。晩清小説目の先鞭をつけた阿英の視野からは見えなかった分野だ。中国の研究者が公表した新聞小説目録も利用させてもらった。そうして小説目録は、現在約4,800件の増加になった。問題は、これをどのように公開するかだ
★ネットを見ていて、ある中国のウェブサイトが目にとまった。私の斉魯書社版小説目録がスキャナで複写され自由に利用できるという。これには驚いた。なにしろ1千頁をこえる小説目録だ。スキャナで複写する労力を考えれば、実物を購入するほうが手間がかからないのではないか。ご苦労なことだ
★しかし、考えてみればウェブで使用するかたちが時代の趨勢であるようにも思う。紙に印刷して手触りを楽しむことはやめることができない。だが、専門家しか利用しない内容の書物であれば、最初から電字版として考えるのもひとつの方法だ。欧米では、学会誌を電字版に切り替えている実例がある。印刷費用を節約し発送の手間を削減するためだ。保存用の場所もとらない。CD-ROMは、少部数発行に最適だ
★本研究会でも基本的に電字版に切り替えた刊行物がある。季刊誌『清末小説から』だ。電字版であれば、頁数の制限を気にする必要はない。とはいいながら、本誌をすぐさま電字版にするという意味ではない。将来のかたちとしては可能性がある、というだけのこと

●第34号 2011.12.1
★2011年3月の東日本大震災により被災された皆様に、心よりお見舞い申しあげます
★「李伯元遺稿」は、本号をもって連載を完了する。少しだけ説明しよう。元本は、李錫奇『南亭回憶録』上下冊(私家版1998)だ。ご覧のように、すべてが手書きのままで複写印刷されている。上冊は錫奇の筆になる李伯元年表、伝略、および論評と称する短文多数で構成される。下冊には、李伯元の文章(主として『遊戯報』掲載のもの)、その他関連する文章を収録する。その全体をながめると、出版を予定していた原稿だとわかる。しかし、刊行されることはなかった。「文化大革命」をはさんだ時期だったからだろう。その後、原稿は親族が保管していた。1960年代の原稿を、1998年にそのまま複写刊行したということらしい。出版されるまでの約30年間に、李伯元研究は進んだ部分はある。だが、利用できる資料となると、ものによっては、あるいは以前の方が豊富だったかもしれない。本誌に転載したのは、今まで知られていない伯元の文章だ。それらを見ると、1960年代以前の中国では、清末の新聞などを見ることのできる可能性は今よりもあったということか。現在、『遊戯報』は、マイクロフィルムになった少数でしかない。それだけに、李錫奇が収集し筆写した文章は貴重な資料である。『南亭回憶録』そのものが少部数刊行の私家版だ。学術的価値があると考えている
★前号本欄で触れた「清末民初小説目録」は、第4版としてCD-ROM(1枚 非賣品)で発行した。新編増補版[第3版]が2002年の刊行だった。増補訂正という内容、電脳のソフトウェアという道具の両方が整うまでに9年が経過したということができる。編集刊行の裏話については、第4版問答(『清末小説から』第102、103号)をご覧ください。清末小説研究会ウェブサイトhttp://www.biwa.ne.jp/~tarumotにおいて公開している
★表示した刊行年月日よりも早B

●第35終刊号 2012.12.1
★研究環境が変化している。研究に便利か、役立つのか。いまさらいうまでもない。電脳機器を利用したウェブの集合体は、巨大なひとつの仮想図書館を形成しつつある
★問題を思いつき、証明するために必要な書籍、論文を求めて活動する。それが研究の基本である。今でもそう考えている。そこに変わりはない
★資料収集は自分の足を運ぶことで実現した。現在はそれなしで、つまり電字で読むことができるようになった部分がある。論文の引用文献に「電字版」と示したのがそれだ。加えて「複写版」と記したのは、その電字版を書籍のかたちに複製したもの。アメリカ系ウェブ書店に注文すれば、簡単に入手できる。資料の制約によって調査が進まなかった分野でも情況が違ってきている
★個人電脳発展の中期よりいくらか体験しているからこそ強く感じる。文書作成と印刷、加えて文献整理をほそぼそと続けていたのを思い出す。はじめからウェブを利用している人には、当たり前すぎて理解できないかもしれない
★だが、万能ではないのも事実だ。あるウェブサイトでは、資料を公開しているように見える。ところが、実際には利用上の制限をもうけていたりする。全部が全部、奉仕の精神で動いているわけではない。そういう部分が残ってはいるにしても、資料の検索と入手について、便利になりつつあるのは間違いない
★では、電脳を操作し各種ウェブサイトを見るだけで、研究上の発想がわいてくるのか。これはむつかしい。セイロンの3王子ではない。自分が歩く目の前に予期せぬ発想が落ちているとは思えない
★電脳化できる箇所と、それになじまない部分がどうしても残る。そこがすなわち個人の発想力が必要とされる場所にほかならない
★思わず長くなった。本第35号をもって年刊『清末小説』の刊行を終了する。これまで、かわらぬ支持と応援をしてくださった研究者、読者、印刷所に心から感謝します。