ワ ク ド キ 清 末 小 説


               沢 本 香 子


 であるからして、『繍像小説』の編者をめぐって日本中国両国間で行なわれていた論争は、傍観者でいるかぎり、結構な見物だった。編者問題が決着したかに見えたところで、又また思いもかけぬ展開を見せている。

1.はず押し
 『繍像小説』の編者は李伯元ではない。汪家熔が通説を否定してこう主張する根拠は、李伯元の友人呉〓人による証言がない、に代表される(汪家熔1982)。その他、李伯元と張元済の人間関係、李伯元の人間性等、いずれも消極的な情況証拠でしかない。

2.つっぱり
 『繍像小説』の編者が李伯元でなければ、誰なのか。そこんところをもう一歩つっこんで考えてみては……。汪家熔の論文を『出版史料』に転載する際、同誌の編者はそのような助言をしたのではなかろうか。それでは、と汪家熔が探しだしてきたのが夏穂卿(曾佑)である。張元済は夏穂卿の才能を買っていた、などとこれまた情況証拠を提出するのみだ(汪家熔1983)。

3.声援が飛ぶ
 ところが、汪家熔がはず押しを見せたところで、早速、声援が飛んだ。魏紹昌である。『繍像小説』でいったんボツにした「老残遊記」第11回原稿から、「文明小史」第59回は「北拳南革」をののしる部分を盗用している。魏紹昌は自分で発見したこの事実にこだわりながらも、李伯元の同時代人に『繍像小説』への言及がない、という汪家熔の主張をより重んじた(魏紹昌1984a)。

4.上手投げ
 汪家熔が主張する根拠が情況証拠でしかないのを見て取ったのが樽本照雄である。呉〓人の李伯元についての文章「「つまり、いわゆる「李伯元伝」(『月月小説』第3号光緒三十二年十一月)に『繍像小説』が見えないという事実を汪家熔は重視する。ところが、それがおかしいことは私でもすぐ気付く。該文に言及がないものは、李伯元とは関係ないのか。では、「李伯元伝」に見えない「海天鴻雪記」、「醒世縁弾詞」、「経国美談新戯」は李伯元の作品ではなくなる。資料の重要度は、おのずから異なる。呉〓人の発言は確かに貴重である。しかし、それよりも劉鉄雲と李伯元の盗用関係の方が、より重要だ。樽本照雄の、他人の原稿から盗用できるのは編者しかいない(樽本照雄1984)、という立論には、説得力がある。
 樽本照雄の論文は、1984年7月末、『光明日報』に投じられたという。それが掲載されるまで約1カ月かかっているのは、『光明日報』記者が鄭逸梅に事の真相を確認したためであろう(中村忠行1985にも同様の指摘がある)。鄭逸梅は「『繍像小説』の主編は李伯元である」とはいっているが(鄭逸梅1984)、新しい証拠を提示しているわけではない。やや肩すかしである。

5.つっぱりと上手投げの激突を見て声援が小さくなる
 汪家熔のはず押しまでは、そうだ、ヤレッ、と声をかけていた魏紹昌は、つっぱり(編者夏穂卿説)が出てくると、主観によって推論したもので、強引にすぎる、と声が湿ってくる(魏紹昌1984b、1985)。「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係にしても、なぜ李伯元はボツにした文章を再使用したか、など三つの問題が解決できないからそれだけを根拠にはできない、とする。回答不能という答えを約20年前に出してからは、思考が停止してしまったらしい。

6.桟敷席へアピール
 樽本照雄は、上手投げは決まった、とばかりに以上の経過を留学先の天津でまとめ『中国文芸研究会会報』に報告した(樽本照雄1985a)。編者という一点をめぐって話がかみ合っている。双方が噛み合った論争は、清末小説研究に人々の関心を引き付けるだろうと考えたのだろう。たしかに、私がこうして時評めいた文章を書いている。

7.けたぐり
 上手投げにされたかに見えた汪家熔は、驚くべきことに、李伯元が劉鉄雲を盗用したのではなく、その反対で、劉鉄雲が李伯元を盗用したのだと言いだす(汪家熔1984)。両者の主張がこれほどまで見事に真っ向から対立するのもめずらしい。
 汪家熔説の要点はみっつある。ひとつ、「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係を発見した魏紹昌は、自ら提出した三つの疑問に答えることができないといっている。それは問題そのものが成立しないことを意味する。つまり、「文明小史」が「老残遊記」を盗用したという問題は成立しないと言いたいらしい。ふたつ、劉鉄雲は「老残遊記」第11回を乙巳(1905)十月初三日に書きおえている。このとき78文字を加筆した。ところが、この78文字は、それより3カ月も前に発表されている「『文明小史』第59回に一字の変更もなくさがしあてることができる!」という。それが事実であれば、たしかに劉鉄雲が李伯元を盗用したことになる。みっつ、「老残遊記」と「文明小史」の同文部分には、「老残遊記」の方におかしな表現がある。汪家熔説の核心は、78文字問題だ。汪家熔は「!」をつけて、自信たっぷりだ。『光明日報』の編者が目をくらまされたのも無理はない。
 汪家熔の文章の終わりに彼が商務印書館に勤務していることが記してある。たいへん興味深い。『繍像小説』は商務印書館から発行されている。商務印書館に勤めていれば、汪家熔にとって資料を閲覧するのは簡単であろう。その彼にして李伯元が『繍像小説』の編者ではない直接証拠を出せないでいるのだ。

8.幻の切り返し
 汪家熔の不運は、劉鉄雲にまで首を突っ込んだことである。李伯元で留めておけばよいものを。劉鉄雲を引き合いにだして、樽本照雄が黙っているわけがない。案の定、樽本照雄は魏紹昌の提出した三つの疑問に答え、原文を対照した上で、78文字問題に関する汪家熔の指摘「「「『文明小史』第59回に一字の変更もなくさがしあてることができる」という事実は存在しないことを明らかにした。おまけに、太田辰夫1961を引いて、李伯元が劉鉄雲を盗用したのは「北拳南革」をののしる部分だけではなく、「這叫恃強拒捕的肘子。這叫臣心如水的湯」という文章表現も借用したことをつけくわえる。
 ただし、この反論は『光明日報』には掲載されなかった。ボツにされたのである。

9.行司、審査委員の物言い
 樽本照雄の反論を受け取った『光明日報』「文学遺産」編集者は困惑したであろう。まさか汪家熔が「!」つきで書いた文章がでたらめであったとは。そもそも、『光明日報』「文学遺産」欄で外国人を相手の論争など、それまでほとんどなかったのではあるまいか。引っ込みがつかなくなったとはこのことだ。編者は、論争中止を宣言する。新しい証拠を提出していない。これを理由とした。たとえていえば、小錦優勢を目のあたりにして、マワシがゆるんでもいないのにまったをかけ、試合を中止したようなものだ。わけがわからぬ。日本の相撲界では、このようなことは起こりえない。
 同時に掲載された木訥1985では、材料不足であるのに結論を急いではいけないと一般論めいた部分に、汪家熔批判を込めている。『繍像小説』に李伯元の名前がないというが、『新小説』にせよ、『小説林』にせよ、『月月小説』にせよ、本当の編者名は記載されていない。阿英、畢樹棠が根拠も明示せず李伯元が主編だと肯定しているというが、分かっていることは論拠を示さないのが中国学界の習慣だ、ともいう。道理で、典拠を明記しない論文が今でも書かれるはずだ。これも、もっと資料を、で結ぶ。たしかに、面子を重んじるお国柄がうかがわれる。

10.しょっきり
 行司、審査委員一体となって、もっと資料を出さんかいッ、とさけぶ一方で、その見本であるかのように許国良1985が資料を提出している。李伯元編者説をとなえるのは、鄭逸梅が1926年に書いた文章が最も早いものだと考証する。ただし、それが不十分であることがのちに証明される。

11.一人相撲
 樽本照雄は、反論をボツにされたのがよほど腹にすえかねたらしい。天津留学から帰国すると、やつぎばやに文章を発表し始めた。まず、ハガキ通信で、論争経過(樽本照雄1985b)、李伯元編者説は鄭逸梅よりもっと早いものがあるという資料探し(同c)、汪家熔の立論がうそであること(同d)を報じた。さらに、陶報癖「前清的小説雑誌」が『繍像小説』李伯元編者説の根であると詳細にのべ(同e)、幻の反論に日の目を見させる(同f)。中国語ではもどかしいのか、汪家熔批判を思いっきり日本語でくりひろげた(同h)。こういうしつこさが人に嫌われるのだが、どうやら本人はわかっていてやめ(られ)ないらしい。

12.横綱の土俵入り
 李伯元と劉鉄雲の盗用関係を、そんな次元で捉えるのはいかん、とマクラにふるのは中村忠行1985である。劉鉄雲は自己弁護のために「老残遊記」を書き、連夢青が「隣女語」でそれを援護し、李伯元は利用されたと怒る。この劉鉄雲と李伯元の確執説は中村忠行1984にさかのぼる。たしかに、老残は劉鉄雲自身を、金不磨も劉鉄雲をモデルにしてはいるだろう。しかし、それは現在だからわかるのだ。いくら劉鉄雲や連夢青が老残あるいは金不磨を活躍させようが、当時の読者で主人公と劉鉄雲をむすびつけることのできる者は、誰もいなかった。それでは、とうてい自己弁護や援護にはならない。劉鉄雲には、小説を宣伝の手段にするようなまどろっこしいことをせずとも、『天津日日新聞』という意見発表の場がすでにあるのだ。また、李伯元にしても、もし劉鉄雲の自己弁護が気にくわぬというなら、その時点で小説を没にすればすむこと。わざわざ改ざんすることもない。いやがらせ、しっぺがえしなどという確執説よりも、単に、太谷学派の思想を語る部分が迷信打破の編集方針にあわなかったと考えるほうがわかりよい。
 それはともかくとして、本論の「『繍像小説』は、全く原亮三郎個人の考えで創刊され、原自らの判断で廃刊された」というのには、吃驚した。こまかな事実をひろく拾い集めて、大胆に判断を下す、という腕のサエにはいつもながら感心する。慧眼という言葉は、こういう時に使わねば使い場所がない。
 『繍像小説』金港堂発行説を否定することは、かなりむつかしいのではあるまいか。汪家熔が『繍像小説』の編者は夏穂卿だと主張はしても直接証拠を提出できないところからもわかるように、商務印書館には資料がなさそうだ。
 ただ、細かいところで気にかかる点がある。中国商務印書館の実体が金港堂だとすれば、日本桜井彦一郎原著・金石、 嘉猷重訳『澳洲歴険記』(説部叢書第4集第6編 光緒三十二年四月首版)などは、当然、中国商務印書館とあってもいい。ところが、これには「上海商務印書館」とある。また、金港堂自身の告知では、商務印書館との合併後「以前の名称を継承して商務印書館と命名せり」といっている(『教育界』第3巻第7号明治37年4月3日)。中国商務印書館と改名したとは書いてない。いま少し材料が欲しい。

13.土俵崩壊
 『繍像小説』の発行は金港堂、編者は李伯元で決まりッ、となったかにみえた。ところが、『繍像小説』の刊行期間について、今まで考えられていたよりも遅く発行されていたのではないか、との新説が出てくる。一見、李伯元編者説とは関係がなさそうだ。ところが、展開された論を見ていくと、大いに関係がある。
 『繍像小説』の発行が遅延している、と言いだしたのは張純だ(張純の個人刊行物『晩清小説研究通信』は、その名称からわかるように樽本照雄の『清末小説研究会通信』に触発されて発行された)。作品に表現された事件に注目した。事件が発生した時点よりも作品の発表は、当然、おくれる。今まで考えられていた丙午(1906)年三月十五日よりもおそい丁未(1907)年に終刊したと結論する(張純1985a)。
 そうなれば、「老残遊記」を盗用した「文明小史」第59回は、李伯元が死去した後に発表されたことになる。故に、盗用したのは李伯元ではなく別人である、という結果に至るのは必然だろう(張純1985b)。
 樽本照雄が以前から『繍像小説』の刊行年月を気にしていたことはたしかだ。「繍像小説(一九〇三−〇六?)」と「?」をつけ加えるのを忘れていない(同人1983)。こういうところは慎重である。
 張純の本論が発表されるのを待って当否を検討したい、と言っていたが(樽本照雄1985g)、待てなかったらしい。独自に調査を行なっている。
 樽本照雄が、新聞と雑誌の出版広告を使用して下した結論は、光緒三十二年年末終刊説だ。張純の光緒三十三(1907)年終刊説とは、微妙に異なる。
 いずれにせよ、土俵は崩壊し、底無し沼が出現した。樽本照雄は他人から突き落しをくらうのがよほど嫌だったと見える。自ら土俵の破壊に手をかしたのだ。そうして、「李伯元と劉鉄雲の盗用関係2」が書かれた(樽本照雄1985j)。

14.さがりを取る
 細かく見ていくと、両者の盗用関係と言っても、「文明小史」が「老残遊記」から借用(樽本照雄も言うように、盗用という用語に負の意味を込めない。ここでは借用、流用、引用と同価値のものとして使用する)したのは第11回原稿「北拳南革」をののしる部分だけではない事がわかる。
 まず、「老残遊記」の原稿をボツにした人物がいる。次に、そのボツ原稿をダイジェストして『繍像小説』の「老残遊記」第10回の末尾にくっつけた人間がいる。おまけに、「老残遊記」に見える「ブタの足」「スープ」を「文明小史」に取り込んだ者がいる。ここまでは李伯元の生前に行なわれているから、李伯元がやったと考えるのが自然だ。最後に、李伯元の死後に発生した「北拳南革」の盗用は、欧陽鉅源のしわざという指摘は、さもありなんと思わせる。
 『繍像小説』発行遅延説によっても李伯元と劉鉄雲の盗用関係が、まったく成立しなくなるわけではなかった。また、欧陽鉅源は「老残遊記」の原稿をなぜ見ることができたのか。彼と李伯元の緊密な関係をぬきにしては考えられない。どうしても最後は李伯元にたどり着く。ゆえに、『繍像小説』の編者は李伯元とする根拠を「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係に求めても不合理ではない。樽本照雄は溺死を覚悟で底なし沼に跳びこんだが、意外や、水は膝までしかなかった、ということか。
 突っ張りに上手投げ、けたぐりと技の連続、最後は土俵そのものまで問題にするという、まことにワクワクドキドキする演物であった。さて、今後は、いかにあいなりますやら。くれぐれも観客を巻き込まぬよう、当事者どうしで力を尽くして過激に闘ってもらいたい。


★参 考 文 献
木 訥  1985  「学術争鳴和科学態度」「文学遺産」第671期 『光明日報』1985.1.22
太田辰夫 1961  「『文明小史』をめぐって」『神戸外大論叢』第12巻第3号 1961.8
汪家熔  1982 「商務印書館出版的半月刊「「《繍像小説》」『新聞研究資料』総12、1982.6
「「「  1983  「《繍像小説》及其編輯人」『出版史料』2、1983.12
「「「  1984  「劉鶚和李伯元誰抄襲誰?」「文学遺産」第660期『光明日報』1984.11.6
魏紹昌  1961  「李伯元与劉鉄雲的一段文字案」『光明日報』1961.3.25
「「「  1984a 「晩清雑誌《繍像小説》的編者問題」『文学報』1984.8.2
「「「  1984b 「《繍像小説》編者問題我見」「文学遺産」第658期『光明日報』1984.10.23
「「「  1985  「『繍像小説』の編者問題に関する若干の補充」『中国文芸研究会会報』第50期記念号1985.2.15(樽本照雄訳)
許国良  1985  「李伯元編《繍像小説》的最早史料」「文学遺産」第671期『光明日報』1985.1.22
張 純  1985a 「晩清小説研究通信」1985.4.17
「「「  1985b  同上1985.7.17
鄭逸梅  1984  「《繍像小説》主編為李伯元」「文学遺産」第653期『光明日報』1984.9.4
中村忠行 1984  「『隣女語』・『老残遊記』・『ガリヴァー旅行記』」『野草』第33号1984.2.10
「「「「 1985  「清末文学研究時評」『中国文芸研究会会報』第54号1985.7.30
樽本照雄 1983  「辞典・清末小説」『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20
「「「「 1984  「誰是《繍像小説》的編輯人」「文学遺産」第653期『光明日報』1984.9.4
「「「「 1985a 「『繍像小説』の編者は誰か」『中国文芸研究会会報』第50期記念号1985.2.15
「「「「 1985b 「論争中断」『清末小説研究会通信』第34号1985.3.1
「「「「 1985c 「『繍像小説』の編者をさがす」同上第35号1985.4.1
「「「「 1985d 「汪家熔の立論成立せず」同上第36号1985.5.1
「「「「 1985e 「『繍像小説』李伯元編者説の根」『中国文芸研究会会報』第52号1985.5.15
「「「「 1985f 「関於“李伯元与劉鉄雲的一段文字案”」『大阪経大論集』第165号1985.5.15
「「「「 1985g 「中国の情報ミニコミ紙『晩清小説研究通信』」『清末小説研究会通信』番外1、1985.5.15
「「「「 1985h 「劉鉄雲が李伯元を盗用したのか」『大阪経大論集』第166号1985.7.15
「「「「 1985i 「『繍像小説』の刊行時期」『中国文芸研究会会報』第55号1985.9.30
「「「「 1985j 「李伯元と劉鉄雲の盗用関係2」
                         (さわもと きょうこ)