孫 次 舟 本『 〓 海 花 』に つ い て


               神 田 一 三


 「ききめ」という業界用語がある。全集物などで、この1冊があれば全冊揃う、その1冊を指すらしい。
 私にとって孫次舟本『海花』が、やや、「ききめ」に近い。
 流布する3種類の『海花』30回本を説明して、呉小如はつぎのように言う。「2番目の本は1943年、孫次舟というものが大後方でこの本(注:『海花』のこと)を重印したことがある(第二種本子是一九四三年、有一個名叫孫次舟的在大後方把此書重印過一次)。この本には特色があって、『海花』およびその作家に関する相当多くの資料を収録している。欠点は、紙質があまりにも悪いことだ」(呉小如「説《海花》」『中国古典小説評論集』北京出版社1957.12,206頁)
 わざわざ原文をいれたのは、中国語そのものがそういう言い回しになっているからだ。もうひとつ、「孫次舟というもの」という表現から、孫次舟の経歴が不明だとわかる。
 上記の引用文は、後、「2番目の本は、1943年孫次舟が大後方で重印したもので(第二種本子是一九四三年孫次舟在大後方的重印本)……」と書き直される。(呉小如「説《海花》」『古典小説漫稿』上海古籍出版社1982.2、169頁)書き振りからすると、孫次舟についても何かわかったらしいが、その説明はない。
 鳥居久靖は、呉小如の記述に注目した。孫次舟本について、ひとつの仮説を提出している。「国内での存否を明らかにせぬが、このテキストは、すぐあとで述べる台北世界書局影印本の底本ではないかと察せられる」
 台北世界書局本が、「資料を多数、しかも雑然と附載する点」から、「孫の刊本は、10の真美善版そのままを模倣して組み、関係記事を捜集して仕あげたものと考えられる。かくて、世界書局本は孫本の本文・附録を、そのまま影印したとの疑念も起こるが、孫本を見る便宜のない今は、仮説にとどめるほかはない」と結論する(鳥居久靖「『海花』の版本」『天理大学学報』第39輯1962.12)。
 残念ながら、孫次舟本と台北世界書局本とは関係がない。台北世界書局本に収録されている冒鶴亭「海花人名索隠表」は、『古今』文史半月刊第51期(1944.7.16)に発表された。孫次舟本は、それより以前の1943年に発行されているのだ。孫次舟本が世界書局の底本となったとは考えられない。原本がないとしても、これくらいのことはすぐわかるはずだ。
 孫次舟本『海花』は、なるほど、印刷、紙質ともに悪い。にもかかわらず、といおうか、560頁のぶ厚さだ。別に目録を掲げておく。見れば、当時発表されていた重要論文のほとんどが収録されていることがわかる。台北世界書局本の比ではない。
 出版の意図は、彼の「出版声明」に明らかである。

    出版声明  次舟
  海花是清末独一無二的「風刺小説」。也是一部完全根拠史事而芸術化的小説。它在「文学史」上的価値、更有那由旧小説形式到新小説形式過渡時期的代表作的這一点。為了這、我們才把它加以整理、重興印行。
  海花的流行刊本、有初稿二十回本、和修改稿三十回本両種。那有「文学史」上的価値的是属初稿。修改本雖然加多了十回、但那是入民国後所続写的、対文壇上並無若何影響。固然前二十回也略加潤改、文詞更為調諧一些了。  我們的「批評」与「考証」、完全以初稿為対象。最初的計画只打算重印初稿二十回、純粋是一種学術上的整理。可是到「叙録」全部印好之後、乃感到也応当顧及一般人的閲覧、所以才改用三十回本、変更了初定的計画。
  現在本書已完全印妥了、「叙録」和「正文」似乎有点錯轍。然而這也無妨。因為我們有既想供給専家們的参考、又顧到一般人的閲覧的一種理由在也。  惟恐高明誤会、特申明其情由如此。

 孫次舟が修改稿三十回本よりも初稿二十回本を重視することに、私も賛成する。さらに私見を言えば、曾孟樸は『小説林』に25回までを続作しているから、清末小説の『海花』といえば、この25回までを含めた方がよい。
 孫次舟の出版計画も最初は言葉通り、初稿二十回本を重印することにあった。関連文章を網羅し、さらに修改稿三十回本も同時に印刷する。読者と研究者に便利なように、と考えたらしい。しかし、修改稿三十回本は版権の関係で収録出来ない、と言っている。ところが、出来たものを見ると、本文は初稿二十回本ではなく、修改稿三十回本の方である。上の「出版声明」では計画変更というだけだ。版権問題はどうなったのか、わからぬ。
 孫次舟が信念を持って初稿二十回本を復刻していれば、研究史上に大きな足跡を残すことになったであろう。どういういきさつがあったのか知らないが、まことに残念なことだ。孫次舟本『海花』は、流布する三十回本の単なる1種でしかなくなった。
 最後に、孫次舟の略歴を掲げておく。
 孫次舟 1908−x  山東即墨の人。北京中国学院国学系の卒業、かつて山東省立臨沂中学国文教員、山東省立図書館編輯員に任じ、其の著述は「章実斎年譜補正」、「 季子白盤年代新考」、「周人開国考」其他。(橋川時雄『中国文化界人物総鑑』中華法令編印舘1940.10.25。312-313頁)           ィ

【附記】孫次舟本『海花』は、樽本照雄氏からコピーを拝借しました。原本は天津図書館所蔵。ここに記して感謝します。
                           (かんだ かずみ)

            孫 次 舟 本『 海 花 』


表一 曾樸著 孫次舟叙録『海花』
奥付 重印海花 附叙録 中華民国三十二年三月出版
   著 者  曾 樸
   叙録者  孫次舟
   発行人  穆伯廷
   総経售処 復興書局・中西書局・東方書社

出版声明           次舟  曾孟樸的海花       趙景深
目録                 曾樸著海花之人物風刺   孫次舟
重印海花初稿序      孫次舟  海花考証         蒋瑞藻
曾孟樸先生年譜       曾虚白  海花人名索隠表     強作解人
読「曾孟樸先生年譜」    徐一士  海花戯本         阿 英
病夫日記          曾 樸  曾孟樸与賽金花       商鴻逵
修改後要説的幾句話     曾 樸  樊増祥前後彩雲曲並序    銭基博
「文学革命」時代銭玄同胡適      賽金花本事(附次舟識語)  商鴻逵
   対海花之批評    新青年  洪鈞墓誌銘         顧肇煕
追憶曾孟樸先生       胡 適  洪鈞列伝          清史稿
追悼曾孟樸先生       蔡元培  東亜病夫著述考略      方詩銘
清末之譴責小説−海花   魯 迅  正文
東亜病夫及其海花     阿 英  第一〜三十回
海花在晩清文学中之地位  阿 英